夜に沈んだ景色が、車窓の向こうを流れていく。最初の内は、住宅地の明かりが見えていたけれど次第になくなり、今では時折申し訳程度に外灯が現れるだけだ。もっともそれもすぐに去っていき、窓の向こうは墨を流し込んだような夜に覆われてしまう。見える景色はほとんど変わらず、規則的な振動だけが時間の流れを示しているような気がした。
単調なリズムは子守歌めいていて、頭がぼんやりしてくる。一成がゆるく頭を振ると、隣に座った天馬が小さく言った。
「眠いなら寝ていいぞ」
いい時間だしな、と続く言葉の通り、本来ならとっくに寮へ帰っている時間帯だった。今までの二人ならきっと、今頃は自分の部屋でくつろいでいるかベッドに入っている頃だろう。
「――ダイジョブだよん」
明るい笑みを浮かべて、一成は答える。手の中のスマホへちらりと視線を向けるが、操作することはなく、天馬を真っ直ぐ見つめて続ける。
「寝ちゃったら勿体ないっしょ?」
いつものように、軽い空気をまとった口調は、からかいを含んでいるようにも見えた。だけれど、それはフリをしているだけなのだと、天馬にはよくわかっている。一成も、天馬が理解していることなんて痛いほどに知っていた。それでも一成は、至って明るく、茶化すように言う。
「せっかくテンテンと二人きりなのに!」
言った一成は、周囲へ視線を向ける。そこにはただがらんとした車内が広がっているだけで、二人のほかに乗客はいなかった。何でもない平日、都内からいくつか路線を乗り継いで辿り着いた、地方路線だ。利用客はあまり多くないようで、他の車両にも人はまばらだった。
「オレたちだけの貸し切りじゃん?」
ちょーレアじゃん! とテンション高く言う一成だけれど、スマホを起動させることはなかった。いつもならすぐに写真を撮り、インステにアップしているのに、そうしなかった。天馬は理由を聞かなかった。
「まあ、確かにレアだよな」
「でしょでしょ!」
天馬の言葉に一成は心底嬉しそうに笑った。尻尾でも振り出すんじゃないかというくらい、溢れんばかりの喜びをたたえていたので、天馬は反射的に手を伸ばした。隣に座る一成の、空いたままの左手に自分の手のひらをそっと重ねる。
「テンテンってばだいたーん」
一瞬驚いたような気配を流したものの、すぐに一成は破顔した。それから、至って自然な動作でぎゅっと天馬の手を握り返す。躊躇い一つない、当たり前のような素振りで。
「誰もいないんだから別にいいだろ」
ぶっきらぼうに言い放ちながらも、耳が少し赤いのは自覚していた。誰も見ていないのは確かだけれど、いささか気恥ずかしいのも事実だったからだ。一成は「そだね」とやわらかく答えた。
「テンテンとオレだけだね」
静かな声だった。天馬は一成を見る。一成も同じように天馬を見つめ返して、二人の視線が重なり合う。言葉はなくても、思っていることはきっと同じだと思えた。二人きりだ。誰もいない場所で、たった二人だ。
何かの答えの代わりのように、天馬は握った手に力を込めた。この手を決して離すまいという決意そのもののような強さだった。
言いたいことは、きっといくらでもあったのだ。伝えたいことも、口にすべき言葉もたくさんあった。だけれど、もしも声に出したら何かが終わってしまうような気がして、何一つ形にはならなかった。
「……一成」
言えない言葉の代わりのように、天馬は名前を呼ぶ。何一つ形にはならなくても、それでも伝わるものはあるはずだ。だって二人でここにいる。間違いなくここで、隣同士で体温を分け合って座っている。それだけは確かだ。それだけが確かなら、今はもうそれで充分のような気がした。
「――テンテン」
小さくてやわらかな声は、いつもの一成らしくない。だけれど、天馬はこんな風に穏やかに自分の名前を呼ぶ一成の声を、とても好ましく思っていた。心細げに、だけれどどこかにしなやかさを潜ませたその声がどんなに美しいかなんて、きっと本人は知らないのだろう。
天馬は昼間のことを思い出して、あの時もそうだった、と思う。あの時の一成もこんな声で言ったのだ。都内に用事があって、偶々予定の合った天馬と一成で電車のホームに立っている時。丁度電車が出てしまった後で、少し待たなくてはいけなかった。隣同士でホームに立っていた天馬は、横でスマホをいじる一成をぼんやり見つめていた。日差しが強かった。きらきらとした輝きが散っていてまぶしかった。そのまばゆさを見つめていた天馬は、突き動かされるように、ぽろりと言葉をこぼしていた。
一成、オレと逃げてくれないか。
あまりにも唐突な言葉だ。何を言っているのかと笑われても、いっそ不審がられても文句は言えなかった。それなのに、一成は言ったのだ。一瞬だけ目を見張った後で、やわらかな光をにじませた笑顔を浮かべて。天馬の知る、一等好きな声をして。――いいよ、テンテン。一緒に逃げよう。
馬鹿なことをしているのはわかっていた。天馬は一応変装もしているけれど、完璧なものではない。隠しおおせることは出来ないだろう。準備だって何一つしていないし、まだ子どもだと言っていい二人には、出来ないことが多すぎる。だからこのまま逃げていくなんて不可能で、馬鹿なことをしているのは充分に承知していた。
それでもきっと、今だけは。夜を行く電車の中、つないだ手の温もりがあれば充分だった。それだけでよかった。これだけあれば、どこへだって行けるような気がした。
(このまま二人、夜の果てまで)
END
てんかずワンライ「電車」
電車といえば駆け落ちだろと思った結果の産物