hurts, hurts, fly away!
【side:天馬】
天馬は時々、一成に台本の読み合わせに付き合ってほしいと声を掛ける。一成は明るい笑顔で「りょっす!」とうなずくし、自然な調子で「ちょっと出てくんね」と202号室に集まった夏組へ告げるのだ。
明確な決め事があるわけではない。けれど、読み合わせが行われるのは毎回201号室だった。気づいたら自然とそうなっていて、夏組のメンバーもそんな時は快く一成を送り出すのだ。
目の届かないところへ行ってしまうのは心配だけれど、天馬が一緒なら問題はないだろうと思っている。それに、二人が恋人同士であることは夏組も充分知っている。
MANKAIカンパニーのメンバーに正式な報告はしていないものの、夏組は二人の気持ちが通じ合うところを見ているのだ。
お互いが抱く特別な気持ちを何より強く理解しているからこそ、たまには恋人同士として過ごす時間も必要だろうと思っている。
大概において一成は夏組と一緒にいるため、二人きりの時間がほとんどないことも知っているので。
天馬からの読み合わせの誘いは、恐らく恋人同士としての語らいの時間でもあるのだろう。夏組はそう考えているので、201号室へ向かう二人をほほえましい気持ちで見送るのだ。
201号室に入る時、一成は少し緊張する。気がかりがあるとかそういうことではなく、どんな顔をしていればいいのか未だにわからないからだ。
幸は202号室にいるし、必然的に二人きりになる。普段の天馬は、基本的に夏組の一員として一成を扱うし、一成だって当然同じように接している。
だけれど、事情を知る夏組の前では何だか雰囲気がやわらかくなるし、二人きりになるともはや普段の比ではないくらいに甘やかそうとしてくる。
嫌だとか困るだとか、そういうことは一切ない。照れてしまうし、どんな顔をすればいいかわからないけれど、真っ直ぐと向けられる愛情が嬉しい。
ただ、あまりにも色々ストレートなので、心臓が忙しいし普段の自分ではいられなくなってしまうので落ち着かないのだ。天馬はそれすら何だか嬉しそうだけれど。
「えっと、テンテンは今度いつオフ取れそうな感じ? みんなでデザートビュッフェ行きたいねって、むっくんと話してるんだけど!」
共用スペースのソファに座った一成は、明るい調子で隣の天馬に尋ねる。
最初に部屋を訪れた時斜め向かいに座ろうとしたところ、天馬に当然のように隣を示されて以来、ここが一成の定位置だった。腕が触れる距離なので、毎回何だかドキドキする。
「ああ。その辺は井川に確認してるから、あとで連絡が来ると思う。だけど、あれは椋とお前にって渡したんだ。別にオレたちはいいんだぞ」
「えー、でも、みんなで行ったほうが楽しいじゃん!? ケーキだけでもめちゃんこ種類あったし、カスタードクリームのショートケーキとかテンテン絶対好きだと思うよん」
キラキラとした笑顔で言うのは、先日椋と訪れたデザートビュッフェの話だ。それはもう大量の写真を撮ってきて、夏組に一枚ずつ説明していた一成と椋は「次は夏組全員で行こう」と言っていた。
そうすることが当然みたいな顔で、二人はそれぞれにおススメのデザートやら食事メニューの写真を見せていた。
そうやって、六人でいようとすることの意味を天馬は――夏組はよく知っている。
いなくなってしまったたった一人。六人の夏組は永遠に失われて、二度と戻ることはないと思っていた。
だけれど奇跡のような出来事が起こって、今こうして夏組は六人でいられる。六人でどこにだって行ける。何だってできるのだ。
「あ、でも、デザートビュッフェじゃなくてランチ系のビュッフェとかでもいいかもねん。もうちょっと食事系多めのとことか!」
それは恐らく、甘いものがあまり得意ではない九門を念頭に置いての言葉なのだろう、と天馬は察する。
今回二人が訪れたデザートビュッフェには食事系メニューもあったけれど、もう少しランチ主体のほうがいいかもしれない、と思っているのだ。
「九門もだいぶ見られるものが増えたみたいだし、そのお祝いを兼ねるのもいいかもしれないな。今度『なんて素敵にピカレスク』見るんだろ?」
「そそ! くもぴ、アクションシーンありの映画もさ、最後まで見られたんだよねん! ってことは、ピカレスクも行けんじゃね?って!」
弾んだ声で一成は言う。
九門が暴力を連想させる作品が見られないことは、天馬はもちろんMANKAIカンパニーのメンバーは全員知っている。
それを克服するために努力していることも、その一端に一成が関わっていることも。だから、真っ直ぐと一成を見つめて天馬は告げる。
「ああ。九門も十座さんも、お前もよく頑張ってたからな。きっと大丈夫だと思う」
『なんて素敵にピカレスク』は九門が大好きな舞台だ。十座演じるランスキーは、たたずまいや信念の全てが格好良いいのだと力説していた。
そんな舞台を見られないことが、九門には辛かった。だけれど、少しずつ前に進んで壁を乗り越えてきた。きっと今度は、ちゃんと最後まで舞台を見られるはずだ。
「オレは大したことしてないよん。くもぴとヒョードルが頑張ったからだよ」
天馬の言葉を受け止めた一成は、ゆるやかに首を振る。
映像作品と現実を結びつけて心を痛める九門のために、それは全部作り物なのだとわかってもらおうと、実際の作品を撮ってみる、ということを提案したのは一成だ。
それ以降少しずつ、九門には見られる映像作品が増えたのは事実だけれど、それは自分の成果ではなくあくまで九門たちの努力の賜物だと一成は思っている。ほんの少しだけでも力になれたならもちろん嬉しいけれど。
「ゆっきーも、すみーも、むっくんもさ。みんなが頑張ってくれたからだよ」
天馬の別荘から帰ってきて以降、夏組の調子はおかしくなったと思われている。一連の通り魔事件の影響と考えられており、それは間違いではない。
ただ、MANKAIカンパニーの彼らは天馬が襲われたことで一成の事件のショックが呼び起こされたと考えているけれど、事実は少し違う。
夏組だけが知っている。誰に話してもきっと信じてはもらえない。
それでもたった一つの事実として、夏組は一成が死んだ過去を知っている。世界のどこを探したって二度と会えない。三好一成が死んだ現実を、夏組は確かに生きていた。
その記憶を根底に持つからこそ、夏組は精神のバランスを崩してしまった。
だからこその不調だとわかっていたから、一成が手助けをするのは当然だった。誰一人一成のせいだなんて思っていないことはわかっていたし、実際一成の責任は一つだってない。
それでも自分がいなくなったことで心が悲鳴を上げて壊れてしまいそうなら、何だってやりたかった。持っているものは全部差し出して、自分のできること全てで助けになりたかった。
そして、夏組のみんなは奮い立って努力をして、不調を乗り越えてくれたのだ。
幸は再び裁縫を始めた。ハサミを手にして布を裁ち、針と糸で幸の世界を作り上げる。
三角はきちんと役から戻ってくるようになった。嬉しそうに毎日ストリートACTへ出掛けては、斑鳩三角として帰ってくるのだ。
椋はどんな扉も開けられる。色んな部屋を訪れては臆することなく扉を開き、部屋の住人と心の弾む時間を過ごしている。
それは全部当人たちの努力の成果で、自分が成したことなんて何もないと一成は思っている。だってこんなのは全部、当たり前のことなのだから。
天馬は一成の言葉に、やさしいまなざしを浮かべる。それは、普段の夏組リーダーとしての顔とはずいぶん違っている。
先頭に立って駆け出すような力強さではなく、目の前にいるたった一人に向けられる愛おしさだ。
一成は真っ直ぐと向けられるそれに、自分の心臓が走り出す音を聞く。
ここにいる天馬は、俳優皇天馬でもなければ夏組リーダーでもない。ただの皇天馬であり、一成に心を傾けるたった一人の恋人だ。
「一成が言いたいこともわかってる。だけど、お前の努力とか頑張りとか、そういうのをなかったことにしないでくれ。少なくともオレの前でだけは」
言った天馬は、そっと腕を伸ばす。隣に座る一成へ向き合うと、やさしく頬に触れた。するりと撫でてから一成の手を引いて、腕の中に抱きしめる。
二人きりになった時、天馬はよく一成を抱きしめる。
愛おしさの発露であることは理解しているけれど、同じくらいに一成の存在を確かめたいのだということもわかっていた。
一成が死んだという事実を知っているからこそ、間違いなくここで生きているのだと全身で感じたいと願っている。
一成は、そっと天馬の背中に腕を回す。がっしりとした天馬の体を、包み込むようにして抱きしめ返す。
ここにいるよと伝えたかったし、安心してほしいと言いたかった。天馬は一成を抱く腕に力を込めて、ささやくように言葉を落とす。
「一成。お前はちゃんと頑張ってただろ。オレは知ってる。だからせめて、オレだけはお前によくやったって言わせてくれ」
祈るような、切実な響き。一成は抱きしめられたまま、小さな笑い声をこぼした。
よくやったって言いたいだなんて。そんなこと、テンテンが願うことなんかじゃないのに。オレのほうからねだったっておかしくない言葉なのに。テンテンは自分に言わせてくれなんて願うのだ。本当に、テンテンはやさしいな。
「――うん。テンテンに言ってもらえたら、嬉しい」
天馬の背中に回した腕に力を込めて、一成は答える。
明るい声で、茶化した響きで告げるつもりだった。だけれど、唇から落ちた言葉は思ったよりも弱々しくて、一成はドキリとする。
自分の声がまるで泣きそうに揺らいでいて、天馬に余計な心配を掛けてしまうんじゃないかと思ったからだ。しかし、答える天馬の声は力強かった。
「ああ、いくらだって言ってやる。お前はよくやった。絶対に悲しい顔を見せないって決めて、その通りに行動した。ずっと笑顔でいたのは、間違いなくお前の努力だ。だから、ちゃんと胸を張ってろ」
凛とした言葉は、真っ直ぐと一成の努力をたたえている。その事実に、一成の顔は泣きそうに歪んだ。
特別なことをしたとは思っていないし、自分の行動はみんな当たり前でしかない。だけれど、天馬は言ってくれるのだ。
笑顔でいようとしたこと、悲しい顔は見せまいとしたこと、そういう全てを強さなのだと言って、心からたたえてくれるのだ。
うん、とうなずく一成の声はゆらゆらと揺れている。
だけれど、それでもいいと天馬は思ってくれる。天馬ならそうしてくれる。だってずっと、天馬は一成の心に寄り添おうとしてくれたのだから。
◆◆
夏組の不調を共に乗り越えると決めた一成は、同時にもう一つの決意を固めていた。
自分の死が原因で、心のバランスを崩してしまった夏組の彼ら。大切な人たちに残った傷に自分が関わっているという事実は、一成の心に暗く濃い影を落とした。
申し訳ないと思ったし、どうにかするための行動は自分の義務だと思った。彼らの不調を目の当たりにする度、一成の心は嵐の海の小船のように揺れた。
罪悪感に打ちひしがれて、許しを請いたいと思ったことも一度や二度ではない。
だけれど、それをしないと一成は決めた。
だってもしも、一成が悲しい顔をして許してほしいと言ったなら、夏組の誰もが心を痛める。一成のせいだなんて欠片も思っていないから、一生懸命首を振ってくれるし、一成が気に病む必要はないと言ってくれる。
わかっていたから、一成はいつだって笑顔でいると決めたのだ。
どれだけ苦しくても、申し訳ないと思っても。夏組のみんなは聡いから気づいてしまうかもしれないけれど、それでも、悲しい顔はしないと決めた。
バランスを崩した心をこれ以上波立たせたくはなかったし、自分が原因でついてしまう傷なんてこれ以上増やしたくなかった。一成が悲しい顔をして、みんなの心を痛ませることなんて絶対したくなかった。
だから一成は、色んな感情を飲み込んで笑うことを決めたのだ。それは一成にとって慣れたことでもあったから、そう難しい行為ではない。実際上手くやれていたはずだ。
天馬に「読み合わせに付き合ってほしい」と最初に言われた時もそうだ。
天馬が台本を覚えられず、上手く芝居ができなくなっていたことは聞いている。不調を共に乗り越えるという一成の決意を天馬は知っているから、手助けを一成に頼んでくれたのだろうと思った。
だから、決意の通りに明るい笑顔で一成は応じた。
天馬が芝居にかける情熱はよく知っている。努力家で、どこまでも高みを目指す天馬はいつだって演技に真摯だ。
そんな天馬が芝居をできなくなるなんて、そこに自分が関わっているなんて、一成にとってはひどい悪夢だ。だけれど、苦しいのは天馬のほうで、自分が辛い顔をしてはいけないと思った。
だから一成は笑顔で天馬の言葉にうなずいて、201号室を訪れたのだけれど。
隣に座るよう促されて、近い距離に緊張しながらも一成は口を開いた。テーブルの上に置かれた台本を示して「この前、テンテンが番宣でバラエティ出てたやつじゃん?」と軽い口調で言う。
読み合わせを始める前の、ちょっとした雑談だ。天馬のことだから何でもない話をしてから、すぐ読み合わせに入るだろうと思った。
しかし、その予想は裏切られる。天馬は台本を手に取らず、真っ直ぐ一成へ視線を向けると言ったのだ。
「一成。お前――無理してないか」
視線そのものが意志を持つような、強いまなざし。しかし、奥底に宿るのがどこまでも純粋な心配であることを一成は察する。
天馬は心から、一成のことを気に掛けてくれている。辛い思いをしていないか。苦しくはないか。傷ついていないか。無理をしていないか。
いつもの通りに笑えばいいと思った。一つだって苦しくないと、辛いことなんか何もない。罪悪感も申し訳なさも飲み込んで笑えばいいとわかっていたのに。
「オレはお前を大事にしたいんだ。頼むから、隠さないでくれ。オレにお前を、大切にさせてくれ」
言った天馬が、そっと一成の両手を握るから。あんまり真剣に、それなのに天馬のほうが何だか泣きそうな顔で言うから。
ずるいよテンテン、と一成は思った。そんな風に懇願するみたいに言うなんて。一成の素直な心を取り出すことが、天馬の望みみたいに言うなんて。
「お前のことを、オレにちゃんと守らせてくれ」
両手を握り締めた天馬は告げる。
辛いことも苦しいことも、一成が抱えるものなら何だって聞かせてほしいと、心からの願いを口にする。
何でもないと言えばいい。オレなら平気だと無理なんてしてないと言えばいい。
わかっていたのに、同時に一成は悟っていた。理性ではなく、心がとっくに答えを出していた。
だってこれは天馬の心からの願いで望みだ。
誰に言ったってきっと信じてはもらえない。だけれど、一成は未来の夏組と話をした。一ヶ月先の世界を生きる天馬は、誰より強く願っていた。
一成のことを守りたい。一成を助けに走りたい。どんな時だって、真っ直ぐと願っていたことを知っているから。今、目の前で告げる天馬がどれほど真剣に言っているのかも、一成はよくわかっていた。
「テンテン……」
つぶやいた声は小さくて、泣き出しそうに揺れていた。
それは、天馬の気持ちがあまりにも真っ直ぐで、心の奥まですとんと届いたからだ。どうにか立っていなくてはと、張りつめていたものへ触れるには充分だった。
天馬は一成の声に答えるように、握った手に力を込める。温もりが、一成の両手を包み込む手のひらが、一成のやわらかな心の奥に触れるみたいだった。
一成はこの温もりを信じるのだと、とっくに決めている。何よりも、天馬ならば弱さも苦しみもみっともないところも全部見せてもいいのだと、知っていた。だから、言葉は唇からこぼれ落ちた。
「――みんながこのままだったら、どうしよう」
一成はずっと怖かった。夏組の不調に気づいて、天馬に詳しい話を聞いた時からずっと。
誰一人一成のことを責めないことはわかっている。事実として一成の責任ではないことくらい、一成だってわかっている。
それでもずっと怖かった。
一成の死をきっかけにして、心のバランスを崩した。それぞれが傷を抱えて、少しずつおかしくなってしまった。
以前に比べればずいぶん良くなったとは聞いている。だけれど、完全に元通りになったわけではない。その事実が、一成には怖くてたまらない。
「このまま、前みたいに戻れなかったらどうしよう。オレが死んじゃったせいで、このままみんな傷ついたまんまだったらどうしよう」
夏組の彼らが、自分に起きた出来事を克服しようとしていることは一成だってわかっている。きっと大丈夫だと思っているし、そのためにできることは何だってやろうと決めている。
だけれど、奥底でどうしたって思ってしまう。もしもこのまま、乗り越えることができなかったら。もしもこのまま克服できず、以前とは同じ生活には戻れなかったら。
「オレのせいで、みんながこのままだったらどうしよう」
泣きそうに顔を歪めて、一成は声を落とす。
それを聞く天馬の胸は苦しくてつぶれそうだった。だって何一つ、一成のせいじゃない。それどころか、一成は完全な被害者でどう考えたって罪悪感を持つ必要なんかない。
それでも、自分がきっかけだと知っている一成にとってこの結論は当然なのだ。
自分のせいじゃないことくらいわかっていても、それでも己のことを苛んでしまうのが、痛ましいほどにやさしい、天馬の恋人だった。
大丈夫だと言ってやればいいのかもしれない。お前のせいじゃないと、何度だって言い聞かせればいいのかもしれない。
実際、そうやって声を掛ければ一成は安心してくれるだろうと天馬は思う。だけれど、心の奥底に届くのはもっと別の言葉のような気がした。
こんな時どんな言葉をかければいいのか、とっさに思いつかない自分が天馬は嫌になる。
もっと相応しい言葉を、一成が望むものを、すぐに取り出してやりたい。一成の心を簡単に軽くしてしまえるような、魔法みたいな言葉を一成にあげたい。だけれど天馬にはそれができないとわかっていた。
「一成」
だから、天馬は名前を呼んで、包み込んだ両手ごと自分のほうへ引き寄せた。そのまま、ぎゅう、と一成を抱きしめる。
何を言えばいいかわからない。どんな言葉が有効かわからない。それならせめて、たった一つ確かなこの体で伝えようと思った。
「怖くていい。不安ならそう言え。どうしようもなくなったら、オレのところに来い」
何ができるかわからない。だけれど、一成のことだからきっと何もかもを笑顔に閉じ込めて、何でもない顔をしようとすることだけはわかった。
だって一成は、実際その通りに過ごしていた。不安なんか一つも見せないで、それぞれの不調に向き合っていた。
天馬はかろうじて小さな違和感を覚えたけれど、一成は自分の心を笑顔に押し込めてしまうのが得意だ。不安も恐怖もみんな、上手な笑顔に隠してしまう。
そうやって笑っていようとすることは一成の強さで、得難い資質だとも思っている。だけれど、少なくとも自分の前でだけは無理に笑わなくていいと伝えたかった。
「お前のことだから、笑顔でいようって決めたらそうできる。それは一成の強さだし、お前の決意を蔑ろにするつもりはない。だけど、もしも怖くて仕方なくなったら、不安でどうしようもなくなったら、オレがお前の話を聞いてやる」
きっと一成は、全てを飲み込んで笑えるのだ。だけれど、少なくとも自分の前でだけはそんなことをする必要はない。
心からの思いを込めて天馬は一成を抱きしめる腕に力を込める。一成の努力を、決意を尊重してやりたい。同時に、倒れそうなら恐ろしいなら、全部受け止めてやる。
全ての思いを込めて抱きしめると、恐る恐るといった調子で、背中に腕が回されるのを感じた。一成は、ささやくように声を落とす。
「――ほんとに、いいの、テンテン」
弱音を吐いても。怖いと言っても。オレのせいで、みんな傷ついたのに。オレが怖いって言ってもいいの。
何かを確かめるような、許しを請うみたいな響き。そんな風に言う必要は一つだってないのに、心やさしい恋人はうかがうように尋ねるのだ。
「オレが言うんだ。いいに決まってるだろ」
きっぱりと、傲慢とも言えるほどの強さで言い切る。
一成は天馬の耳元で小さく笑うと、「さっすが~」と続けた。
それから、やわらかな響きで「ありがとね、テンテン」と言うと背中に回した腕にぎゅっと力を込めた。それが一成の何よりの答えだと、天馬はよく知っている。
それから一成は、「読み合わせ」として201号室を訪れた際、時折不安をこぼすようになった。
ゆっきーと一緒にピンクッションを作ってる。針を持つとやっぱり苦しそうな顔をするのが辛い。このまま進めていいのかわからないけど、たぶん立ち止まるほうが嫌だって言うと思う。
すみーとストリートACTに行ってるけど、役から抜けるまでの時間に変化がない。ちゃんと戻って来れるように、もっとたくさんストリートACTしたほうがいいのかな。
今度くもぴとアクションシーンの動画を撮ろうと思う。だけど、無理させちゃって悪化したらと思うと怖い。
むっくんに、スタンプカードを作りたい。きっと力になると思うんだ。だけど、みんなの協力が要るしこんなこと勝手に始めたら迷惑かも。
笑顔一つなくこぼされる言葉を、天馬はいつも聞いてやる。
一成は聡い人間だから、客観的な答えは案外すぐに出せる。天馬に話している時点で、すでに結論を出していることだってある。
だけれど、一成の心が追いつくまでにはもう少し時間がかかるのだ。わかっているから、天馬は話を聞いてやる。怖くて、不安で、心細そうな一成の言葉が確かに心に追いつくまで。
そうすれば、一成は最後に落ち着いた表情で「ありがとねん、テンテン」と言うのだ。
自分の心をきちんと整理して、大事な夏組の前でまた笑えるように。悲しい顔をして、大切な彼らをもう一度傷つけないように。
それは天馬にとって、何よりも美しくて誰よりも強い、一成の決意の証だった。
◆◆
一成の頭をやさしく撫でてから、天馬はゆっくりと体を離した。
腕の中の一成は、頬を赤く染めて照れている。一成はスキンシップが多めの人間で、ハグだなんだとしょっちゅう抱きついてくるくせに、天馬に抱きしめられるのはどうにも照れるらしい。
天馬のことを特別に思っている証明とも言えるし、純粋に一成の反応が可愛いので、照れる顔を見るのが天馬はわりと好きだった。
名残惜しいな、と思いつつも腕を解く。一成は赤い顔のまま、それでもいつも通りの笑顔を浮かべて「あ、読み合わせするんだよねん!」と言ってテーブルへ視線を向ける。
天馬はその言葉に答えるようにして、台本を手に取った。現在放映中の連続ドラマで、天馬は主人公の幼馴染を演じていた。
「ああ。ちょっと付き合ってくれ」
「おけまるだよん!」
一成へ台本を手渡せば、朗らかな笑顔とともに答えが返る。さらに、「9」と記された表紙を見て「九話目か~! あの転校生の子どうなるのか、気になるところで終わってたよねん」とコメントを加えた。
一成は天馬の出演ドラマには大概目を通しているので、内容はきっちり把握している。
「てか、オレ放映前に内容知ってるけどいいの?」
そういえば、という顔で一成は尋ねる。今回のドラマはミステリー要素も多いため、事前に情報を知っていていいのだろうか、と思ったのだ。天馬はあっさり答えた。
「一成なら無暗に漏らしたりしないからいいだろ。むしろ、お前こそ先に知ることになるけど平気なのか?」
今さらだけれど、ネタバレを気にするタイプだったら大問題だ。公式関係者からネタバレを食らっているわけで、ミステリーの醍醐味は一切ない。一成は明るい笑顔で答えた。
「ミステリー系一緒に考えるのも楽しいけどねん。でも、今回はテンテンの役に立てるほうが嬉しいし! つっても、オレ全然役に立ってないけど!」
一成は何度か天馬から「読み合わせに付き合ってほしい」と言われている。
天馬は一成の死によって台本が覚えられなくなり、芝居に支障が出たと聞いている。だから、ちゃんと台本が覚えられているか確認したいという意味なのだろうと思ったのだけれど。
何回か読み合わせに付き合った結果、一成はすぐに気づいた。テンテン、めっちゃ普通に台本覚えられてね?
これオレが付き合う意味特にないんじゃないかな、と一成は思った。
思ったけれど、正直天馬と二人きりになれることは嬉しかったし、一成にはわからない何らかの理由があるのかもしれないし、と思って頼まれれば応えるようにしていた。
ただ、役に立っている気はまったくしない。
「テンテン、ちゃんと台本覚えられてるし芝居もできてるっしょ」
「まあな。ただ、お前がいなくなってからは本当に覚えられなかった。どうやって芝居をすればいいのかもわからなかった」
今までは当たり前のようにできていた全てができなくなったことは事実だ。他の夏組と同じように、一成の死は確実に天馬の心に影を落として、何もかもをおかしくさせていた。
「でも、お前が信じてくれた。一成がオレなら――皇天馬ならできるって、信じてくれた」
思い出すのは、洋館で聞いた一成の言葉だ。
部屋まで逃げ込んだけれど、犯人は扉の前までやってきていた。そんな中で、一成は「三分だけどうにかして」と言った。
天馬のもとに駆けつけるまでの時間だということは、今ならわかるけれど当時は一体どういうことなのかと思った。
あの時一成は言ったのだ。つながった電話の向こうで、どうしたらいいのかと困惑する天馬に向けて、天馬ならできると。
「他の誰でもないお前が、確かに生きてオレを信じてくれた。オレの名前を呼んで、オレならできるって信じてくれた。だから、また芝居ができるようになったんだ」
閉じられた回路が開かれていく。靄がかかっていたような視界が、一気にクリアになる。あの瞬間を天馬は覚えている。
一成が生きて自分の名前を呼んで、真っ直ぐと信じてくれた。その事実が天馬の背中を押して、錆びついていた何もかもに息を吹き込んだ。だから天馬は、再び芝居をできるようになった。
一成は天馬の言葉に「そんな大層なことしてないよん」と笑うけれど。天馬からすれば、一成が生きていてくれていること、名前を呼んで信じてくれることは、何よりも強い力になったのだ。
それはきっと、今も変わらない。天馬は真っ直ぐと一成を見つめて、ゆっくりと口を開く。
「一成がちゃんとここにいるって、一緒に芝居ができるって、何回だって確認したいんだよ」
心から天馬は告げる。台本は覚えられるし演技だってちゃんとできるようになった。それでも、一成がいてほしいと思うのだ。
いなくなってしまった大事な人。誰よりも大切な、たった一人。一緒に新しい世界を作ってきた一成が目の前にいて、また芝居ができるのだという事実を、何度だって確認したかった。
一成は目を細めて「うん」とうなずく。それは、天馬の心をしかと受け取った証拠なのだろう。一成は、あふれだしそうな喜びをたたえて、言葉を続けた。
「オレもテンテンと一緒に芝居できるのめっちゃ嬉しいし――それに、二人になれるから読み合わせに呼ばれるの楽しみにしてたんだよねん」
恥ずかしそうに、だけれど弾む心を隠しもせずに、一成は言う。
天馬と芝居ができる、その事実はもちろん嬉しい。だけれどもう一つ一成の心を浮き立たせるものがあるのだと、一成ははっきりと言葉にした。
心を全部取り出すみたいに、大切な気持ちを真っ直ぐと告げてくれる天馬には、隠すことなく伝えたかったのだ。
天馬はその言葉に、一瞬だけ驚いたような顔をした。だけれどすぐに顔中に笑みを咲かせて言う。
「ああ。オレもお前と二人になれるのが嬉しい」
夏組全員で過ごす時間だって大切だ。だけれど、恋人としての時間がほしいと思う時もある。そんな時に「読み合わせに付き合ってほしい」と言えば、夏組は察して二人きりにしてくれるのだ。
「みんなには感謝だよねん」
「まあな。あいつらには色々気を遣わせてるとは思う」
夏組の顔を思い出しながら、二人はあれこれと言葉を交わし合う。
一成と一緒にいたい、という気持ちは夏組全員が持っている。だけれど、天馬と一成が恋人同士であることを知っているから、こんな風に二人きりの時間を設けてくれる。
それは間違いなく彼らのやさしさだし、一成と天馬に向けられる愛情だろう。
真っ直ぐと届けられる、夏組の気持ち。確かに受け取った二人の視線が重なって、同じ思いを伝えあう。
もう少しだけ、あと少しだけ、二人の時間を過ごしたい。わかっているから、台本はまだしばらくは閉じられたままだ。
END