Zero centimeter fighter




 天馬は部屋の時計に目を向ける。さっきから何度も確認しているけれど、一向に時間が進んでいない気がする。壊れているんじゃないかと疑ったけれど、電池はこの前替えたばかりだし、スマートフォンの時計も同じ時刻を表示しているから、単純に時間の進みを遅く感じているだけだ。
 そわそわした気持ちで、何度も時間を確認しているのはわけがある。一成から「15時ごろ部屋に行くねん!」と言われているからだ。おススメのおやつを持ってくから一緒にお茶しよ、とニコニコ笑っていた。時計は14時30分を指していて、約束まではまだ30分ほどあるけれど、どうにも落ち着いていられなかった。
 今日は夕飯要らないから、と言って幸は朝から出掛けている。つまり、201号室には天馬しかないわけで、そこに一成が訪れるということは部屋で二人きりになるということだ。
 恋人同士として交際を始めて、それなりに時間は経っている。デートにも出掛けているし、寮内で二人きりになるのは何も初めてではない。それでも、いざこれから二人きりで部屋で過ごすのだ、と思うと天馬の心臓は勝手に鼓動を速めるのだ。
 恐らくそれは、ようやく恋人らしく過ごすことができるようになったから、ということが関係しているのだろう、と天馬は思っている。
 二人が恋人同士になった経緯自体、まるでおとぎ話のような出来事の積み重ねだ。さらにその後にも、一成の心を傷つけるような事件が起きて、天馬や夏組、MANKAIカンパニーは懸命にその心を守ろうとした。
 落ち着いたころには天馬が本格的な受験シーズンに突入して、慌ただしい日々を送ることになった。とてもではないけれど、恋人としての時間をゆっくりと過ごすことはできなかったのだ。
 だけれど、天馬は無事に志望大学へ合格して、大学一年生としての生活をスタートし始めている。入学式も無事に終わり、履修登録を済ませれば本格的に大学生としての毎日が始まるのだ。私生活の変化はあれど、大きな事件が起きることもない。ようやく恋人らしいことができる日常がやってきたのだ。
 大学生活がどんなものなのか、天馬はまだピンとは来ていない。それでも、大いに期待していることはある。高校生よりは自由が利くはずなので、一成と過ごす時間を多く取れるだろうことが嬉しい。
 それに、一成と同じ「大学生」でいられることも天馬は嬉しかった。
 年上の恋人は時々自分を子ども扱いしてくるし、そこには「高校生だから」という視線が多分に含まれていたのだ。だけれど、天馬も一成と同じく大学生になったのだ。年齢が追いついたわけではないけれど、少なくとも高校生と大学生より、同じ位置に立っていられる。もっとちゃんと一成を守ってやれる。


 改めてその事実を意識した天馬は、気を引き締めないといけないな、と思う。
 ソファに座って、一成が来るのを今か今かと待っているけれど、二人きりになるからこそ気をつけなくてはいけないのだと、天馬は自分に言い聞かせている。
 真剣な顔で思い出しているのは、この前の春休みの出来事だ。
 最近オープンしたばかりのプラネタリウムでの雑誌撮影を終えたあと、一成とデートをした。プラネタリウム側の厚意で二人だけの時間を過ごすことができて、特別な思い出になったことは事実だし、きらきらとした一成の横顔は天馬の記憶にも大切に残っている。
 ただ、今の天馬が思い出しているのは、もっと別のシーンだ。一成が落としたスマートフォンを拾った。渡してやろうと体の向きを変えると、思いの外近い場所に一成の顔があってうろたえた。
 睫毛の一本までわかるような距離。緑色の瞳の輝きが天馬をとらえて離さない。流れる音楽も薄暗い室内も、全てが衝動を後押しするようで、天馬はほとんど無意識の内に一成へ手を伸ばした。
 何をしたいかなんてずっと知っていた。触れたい。一分の隙間もないくらい。抱きしめて、触れて、唇を重ねたい。猛り狂う衝動のまま、あの時天馬は一成にキスをしそうになっていた。
 危なかった、と険しい顔をした天馬は思う。一成のスマートフォンを持っていたことで我に返ったので、どうにかキスをすることは回避できたけれど、恐らくあれがなければうっかり唇を重ねていただろう。何度思い返しても危ないところだった、と天馬は思っている。
 ただ、それは芸能人皇天馬という外聞があるからだとか、外でキスをするなんて言語道断だとか、ましてや一成とキスをしたくないだとか、そういう理由ではなかった。
 理由は簡単で、非常に単純だった。一成とキスをしたいなんて、ずっと思っている。だけれど、唇を重ねたら最後、自分の衝動が抑えきれる自信がなかったのだ。

 触れたい、とずっと天馬は思っている。
 最初の内は、一成が生きていることを確かめたかった。棺の中の冷たさを覚えているからこそ、確かな温みに触れたかった。抱きしめれば、腕の中に感じる鼓動や回された腕の力強さ、鼻先をくすぐる髪の毛、ふわりと漂う香りが体中を満たして、一成が生きているのだと泣きたいような幸福を感じていた。
 それからしばらくは、ただ一成の命を確かめたいだとか、安心させてやりたいだとか、そういう気持ちで手を伸ばしていたのだ。本格的に受験シーズンに入ったころには、不安や疲労を溶かすように一成が触れてくれるので、ただ満たされた気持ちでその手を受け入れていた。
 しかし、である。一成と過ごす日々が重なっていくにつれて、天馬は自分の変化を感じていた。
 一成は元々スキンシップの多い人間である。加えて恋人同士ともなればすぐに体を寄せてくるし、ハグだなんだと言って密着してくる。一成の存在を体中で感じることができるので、もちろん嫌なわけがないし、むしろ心から嬉しいと思っていたのだけれど。
 「テンテン!」と飛び込んでくる一成の体を抱きとめた時、襟元から見える鎖骨に心臓がドキリと鳴る。作業するために髪の毛を結んだ時に見えた、白いうなじに顔が熱くなる。抱きしめた時に引き寄せた細い腰に、触れ合う胸に、そこはかとなく漂ういい香りにくらくらと眩暈がする。
 それまでは、ただ幸福な気持ちで抱きとめていた全てが、匂い立つような色気をまとっているように感じられて、天馬はさすがに自覚した。――オレは一成に欲情している。
 カンパニーにおいて、天馬は比較的子どもっぽいと思われることが多い。騙されやすく素直なので、純粋だという評価をされがちなのだ。
 ただ、長年芸能界に身を置いている人間なので、妙に耳年増なところもあった。天馬はあまり縁がないとは言え、色恋関係の噂には事欠かない環境というわけで、それなりに知識もある。なので、一成に向かう欲求が何であるかを、天馬はすぐに理解した。
 一成が抱きついてくる度、これだけじゃ足りないと思う。体中全部、どこもかしこも触りたい。全身全て、一つの隙間もなく触ってキスをしたい。
 一成がカンパニーの誰かと笑っているのをほほえましいと思う一方で、オレだけが知ってる一成を見たい、と思う。他の誰も知らない顔を見たい。オレだけに見せる顔が見たい。
 日々膨らんでいく欲求は、次第に明確な形になっていく。
 抱きしめて、キスをして、指先から爪先まで、全身に隈なく触れたい。体中全部で一成を感じたい。オレだけしか知らない顔をしてほしい。オレを求めて、オレだけを欲しいと言って、オレの手で一成すら知らない顔をさせたい。
 降り積もっていく欲求に、次第に具体的になっていく全てに、天馬は観念するように思ったのだ。オレは一成を抱きたいのだ、と。
 一成は天馬にとっての特別な一人で、大切な恋人だ。だから、一成に触れたいだとか抱きたいという欲求自体は自然なことだと思った。なので、比較的素直にその欲求は受け入れたのだけれど、天馬はそこで気づく。果たして男同士で、一体何をどうすればいいのか。
 男女間のあれこれであれば、天馬も知識として知っていた。だけれど、男同士の場合はまったく見当がつかなかったのだ。ただ、今の天馬は現実的な問題として、可及的速やかに具体的な情報が欲しかった。
 とは言え、さすがに誰かに聞くという選択肢を取れるほど天馬は開き直れなかった。
 カンパニーのメンバーの内、詳細を知っていそうな人物もいなくはなかったけれど、天馬が尋ねようものなら誰を念頭に置いているのか即刻バレる。一成だって嫌だろうし、天馬だってそこまで全てを開示して生きたいわけではない。というか普通に恥ずかしい。
 なので、天馬は順当に自分で調べることにした。幸い自分のスマートフォンは持っているので手段はある。
 最初の内は、どんな単語で検索をかければいいのかもわからなかったし、辿り着いたサイトでも書いてあることがわからなくてうろたえたりもした。知りたい内容が内容なだけに、時々際どいサイトに行きあたることもあって、そんな時は大いに慌てた。
 万が一カンパニーのメンバーに見られそうになったら、スマートフォンを叩き壊すしかないと悲愴な決意を抱えつつ、それでも目的を決めたら完遂するのが天馬である。わたわたしながらではあるものの、時間を見つけては情報収集にいそしんだのだ。
 結果として、大まかではあるものの欲しかった情報を集めることはできたのだけれど。一通りを調べた天馬は、難しい顔をするしかなかった。
 自分の欲求は理解している。一成を抱きたい。つまりは、一成に自分を受け入れてほしいということだ。しかし、具体的な行為の内容を知れば知るほど明らかになるのは、受け入れる側の負担の大きさだった。
 恐らく一成は、天馬が望めばうなずいてくれる。だからこそ、天馬は「だめだ」と思った。一成を傷つけたくない。一成の負担になるような行為をしたくない。オレの欲で抱いて、一成を泣かせることなんかしたくない。
 それは天馬にとって強固な決意だった。
 天馬はずっと覚えているのだ。訪れなかった過去で一成が死んでしまった。あの、世界の何もかもが崩れていくような瞬間は、絶望と呼ぶことすら生ぬるい。棺の中で眠る一成の姿。二度と開かないまぶた。永遠に笑ってくれない。世界のどこにも一成がいない。
 その過去は回避されて、今一成は生きていてくれる。だけれど、犯人に襲われたという事実は決して覆らない。暗い路地裏で血を流して、恐怖に震えていた。痛みにうめきながら、それでも天馬のことを想っていてくれた。
 一成が理不尽に傷つけられた現実は、ただ事実として存在しているのだと天馬は知っている。一成は何一つ悪くない。それなのに、確かな痛みを与えられて暴力で蹂躙されて、血まみれの夜に囚われた。記憶を取り戻した一成は、夜に怯えて眠れない日々を過ごした。
 やさしくて、誰かの痛みすら自分のもののように抱えてくれる。美しいものを見つけて、どんなに暗い場所でも明かりを掲げて立っていてくれる。そんな一成が、謂れのない暴力で傷つけられて、何度も苦しんだのだ。
 だからもう、これ以上一つだって傷つけたくない。泣かせたくない。負担を強いたくない。笑ってほしい。思う限りの全てで大事にしたい。ただ真っ直ぐと思っているからこそ、天馬の心は決まってしまった。
 オレだけの勝手な欲で一成を抱いて、傷つけることなんかしたくない。


 自分の心に宿った決意を、天馬はもう一度なぞった。時計は進んで、15時が近づいてきている。一成のことだから、早めに部屋を訪れる可能性はある。きっと近くに座ってくれるし、それ自体は嬉しいと思う。だけれど、同時にきちんと自分を制御する必要がある、ということも天馬は自覚している。
 一成に負担を強いることはしたくないと、天馬は一成との性的なあれこれを望まないことに決めた。
 ただ、決意したところで欲求がなくなるわけではない。むしろ日に日にそれは強くなっている気さえした。
 だからこそ、自分を制御しなくてはならない。もしもキスでもしてしまったら。一成に触れて、その唇の感触を知ってしまったら。その先を望む自分自身を抑えきれるのか、天馬には自信がなかった。
 今まで天馬は自分のことを、己を律することができる人間だと思っていた。役者として生きるということは、激情すらも飼い馴らす必要がある。感情のままに動いては、芸能界で生きていくことなどできないだろう。単純で素直と言われようとも、自分自身を制御するスキルは持っているのだ。
 だけれど、一成に対してはどうもそれが上手く行かない。あふれだす愛おしさは、簡単に天馬の体を突き動かしてすぐに行動に結びついてしまうのだ。一成は嬉しそうに笑ってくれるけれど、今回ばかりはそういうわけにもいかなかった。
 キスでもしようものなら、好きだと思う気持ちがあふれて、そのまま押し倒してしまう可能性だって否定できない。もはや天馬は、一成に関する自分の理性を信用していなかった。こんなことを思うのは、今までの人生で天馬も初めてだ。
 あいつは本当に、オレに初めてを連れてくるよな、と天馬は思う。
 ぼやくような、呆れるような言葉だけれど、天馬の唇には隠しきれない笑みが浮かんでいた。結局のところ、一成からもらうたくさんの初めては、何だって天馬にとっての喜びになるのだ。
 大きく息を吐き出した天馬は、もう一度時計へ視線を向ける。15時まであと少し。そわそわしながら、天馬は一成が来るのを待っている。



END