「過客来りて」ガイ:道端(70代・無職)
予定がずれ込んで、いつもより遅い時間に散歩へ出掛けた。仕事を辞めてから毎朝の散歩を日課としているが、どうしても外せない用事があったのだ。午前中に終えることができたので、帽子をかぶって外へ出た。うちのは「もう少し遅くにしたら」なんて言っていたが、そうするとさらに予定が狂ってしまう。
幸いよく晴れていた。いつものコースを辿り、いつもと違ってより明るい日差しを受ける街並みを歩いた。たまには時間を変えてみるのもいいものだと思いながら。
しかし、それも途中までだった。外へ出た時、日差しが強いと思ったし、取り巻く空気が暑いような気はした。ただ、まだ七月に入ったばかりだ。本格的に暑くなるのはもう少し先だろうし、これくらいなら問題はないと思ったのだ。少なくとも、今までこの時期日中に動き回って調子を悪くしたことはない。
だから、じっとりと熱い背中や息が上がってきたのも、夏らしさの一つととらえていた。暑い季節なんだから、これくらいは当たり前だ。これだけで日課を取りやめる必要はない。そう判断して歩いていたものの、だんだん足を動かすのが辛くなってきた。やたらと喉も渇いて、どうにも調子がおかしい。
もう少し歩けば、散歩コースの折り返しの公園だ。いつもそこで、ベンチに座って少し休憩する。そこまで行けば、水を飲むこともできる。だからもう少しだ、と自分を叱咤して歩いていた。路上で倒れるわけにはいかない、という意地で足を動かした。
しかし、公園は思ったよりも遠かった。見慣れた風景はまったく見えて来ず、これ以上歩くことはできないと思った。立ち止まると、頭がぼうっとする。気を抜くと倒れてしまいそうで、ふらふらしながら道の端に移動する。植え込みのある縁石の縁に腰掛けると、どっと疲労が押し寄せる気がした。
少し休もうと思った。しばらくここでじっとしていれば、動けるようになるはずだ。そう思って、縁石に座って息を整えていた時だ。
「もしや、具合が悪いのではないだろうか」
目の前に影が落ちた、と思ったらそんな声がした。視線を上げると、目の前に男が一人立っている。年齢はよくわからないが、こちらからすればまだ若い男だ。少し不思議な雰囲気が漂っている。その人間は、淡々とした調子で言う。
「足取りがおぼつかないように見えた。応答は可能だろうか。意識の消失、めまいや動悸、どこかに痛みがあるようなら、すぐに救急車を要請する必要がある」
真面目な顔で言って、スマートフォンを取り出した。今にも救急車を呼びそうな気配がして、慌てて口を開く。
「少し暑くて休んでただけですよ。散歩の途中だったんです。めまいがするとかどこかが痛いとか、そんなことはありません」
だから救急車を呼ぶ必要はない、という意味で言うと、目の前の人間は「ふむ」とつぶやく。それから、何かを考え込むような雰囲気を流したあと、真剣な顔で言った。
「今日は気温も上がる予報だ。現時点で平年より、二度近く高い。この状況で屋外での歩行となれば熱中症の疑いもある」
そう言うと、持っていた袋に手を入れた。うちのがスーパーへ行く時に使うマイバッグとかいうものに似ている。もしかしたら、買い物帰りなのかもしれない。ぼんやり袋を見つめていると、出てきたのはスポーツ飲料のペットボトルだった。
「よけいな世話かもしれないが、ひとまずこれを飲んでもらえるとありがたい。意識障害は起きておらず、めまいもないことから症状としては軽度だと思われるが、大事を取るべきだ」
真剣な表情は、どんな冗談でもないことがわかる。本気で「これを飲んでほしい」と思っているらしい。熱中症を疑うなら確かにスポーツ飲料は適当だ。ただ、ここで熱中症疑いの人間に出会うと思っていたわけではないだろうから、別の用途があって買ったペットボトルのはず。それをすんなり飲んでいいものか。
逡巡していると、目の前の人間は「ああ」と何かを納得したようにうなずいた。
「これは怪しいものではない。さっき購入したもので、未開封だ。心配であればレシートも提出しよう」
知らない人間から渡された飲み物を飲むことを警戒しているのでは、と思ったらしい。そういうわけじゃなかったんだが。ただ、この若い男は別に気を悪くしたということもなく、むしろ当然といった顔で続けた。
「身分を明かしていなかったな。俺はガイと言う。この近くでバーを経営している。開店準備のため買い出しへ行って、帰る途中であなたを見つけた」
何の疑問もないという顔で、名前と職業、ここまでの経緯を説明する。こうまで言われて断るのも気が引けるし、喉が渇いていたのは事実だ。だから、差し出されたペットボトルを受け取った。
水分補給をしたおかげか、体が動くようになってきた。感謝を伝えて、ペットボトルの代金を払おうとする。しかし、当の本人は「必要ない」と首を振る。自分が好きでやったことだから、支払いは要らないのだという。
そういうわけには行くまい、とこちらが断固言い張れば最終的にはあちらが折れた。とはいっても、代金を受け取ったわけではなく、「それなら、店に来てくれないだろうか」と言うのだ。それくらいならお安い御用だ、とうなずくと「では、少し移動する」なんて言って、最終的に開店前のバーへ行くことになった。
「――それにしても、バーなんて初めて来ましたよ」
まだ薄暗い店内をぐるりと見渡してつぶやく。若い男――ガイさんは、落ち着いた笑みを浮かべて「それは光栄だ」と答えた。
道中で話を聞いたところ、いくら水分補給したところで、太陽の下にずっといるのでは再び熱中症になる恐れがある、と考えたらしい。だから、冷房の効いた場所でしばらく涼む必要があると判断した。適当な場所として思い浮かんだのが自分の店だったらしい。
開店前の店に最初こそ落ち着かなかったものの、ドリンクを飲んでいる内に、何だかリラックスしてきた。店の雰囲気がいいことにくわえて、ずいぶん話を聞くのが上手い人だ、ということもあるだろう。
特別親しみやすいというわけではない。異国情緒も漂っているし、背の高さもあってどちらかと言えば近寄りがたいと感じるかもしれない。しかし、聞き上手ということもあって、何でもないことを話している内にすっかりくつろいだ気分になっていた。気安く「ガイさん」と呼び掛けるのも、至って自然に思えるくらいだ。
「居酒屋はよく行ってましたが――七十年生きてても、初めてのことがあるとは思いませんでしたね」
しみじみつぶやくと、ガイさんは「いくつになっても、新しい出会いは心が躍るものだ」とうなずいている。ザフラという国から日本にやって来て、バーを開いている人間が言うと説得力がある。
ガイさんはこっちの話を聞きつつ、自分の話もしていたから、大体の経緯は把握していた。長くザフラで暮らしてきたけれど、縁あって日本へやって来てバーを開いているのだ。いろいろ苦労もあっただろうに、そんな気配は微塵もない。それどころか、常に落ち着いていておだやかな調子を崩すことはないのだ。
「飲み物もいろいろありがとうございます。今度は、ちゃんと客として来ますよ」
スポーツドリンクで作ったノンアルコールカクテルを示して、そう言う。結局、これも「サービスだ」と言われて代金は受け取ってもらっていない。今日はずっと、世話になってばかりだ。
ガイさんは「そう言ってもらえるのは嬉しいが、無理をさせたいわけではない」なんて言う。だから、笑って答えた。
「ガイさんの酒を飲んでみたいし、ザフラ料理というのにも興味がありますから」
何も恩を返すためだけじゃない。話を聞いているうちに、ザフラ料理とやらを食べてみたくなったのだ。だから今度は、うちのも連れて店へ来ることにしようと思いつつ、そう言った。するとガイさんは一瞬黙ってから、今までで一番明るい笑顔でうなずいた。