向日葵畑で待ち合わせ



 大学に行かないという選択肢は与えられていなかった。朝になれば、母親の車で大学に連れて行かれる。抵抗する気力もなくて、一成は言われるまま車に乗った。
 勝手なことができないよう、スマートフォンも財布も定期すら取り上げられている。持っているのは通学用の鞄だけで、帰るには母親の迎えを待つしかなかった。今日はカルチャースクールの日らしいので、一応時間は決められているものの、果たして時間通りに車が来るのかもわからない。
 のろのろとした足取りで、一成は車を降りた。
 正門前に車は止められないから、少しだけ距離はあるけれどたいした道のりではない。それなのに、何キロもあるような気がした。足が重くて、一歩進むだけでも意志の力が必要だった。
 天馬のために描いた絵はもうない。画材道具一式はもちろん捨てられていて、鞄の中の無地のノートも取り上げられた。絵にまつわるものは、もう何も残っていない。
 自分に求められているのは、ただ世間体のためだけに大学を卒業して、望まれた職業に就くことだけだ。それ以外は許されていないし、この道しか自分は知らない。だから何があっても大学に行かなくてはいけないし、講義だって受けなければいけない。

――そうだろうか、本当に?

 泥の道を進むように動いていた足が、ぴたりと止まる。
 昨日は絵を破られたショックが大きすぎて、上手く考えられなかった。今日だってまだ引きずっているから、明瞭な思考回路が戻ったとは言えない。それでも、わずかに頭は働き始めたのかもしれない。
 だってきっと、天馬なら、と思ったのだ。
 天馬なら、唯々諾々とこの状況に従うだろうか。決められた道を歩むことを良しとして、望んだものを手放すだろうか。そんなこと、するはずがない。
 どきん、と心臓が高く脈打った。それから、鼓動は収まることなく全身を駆け巡る。脈打つ拍動は、一成のよどんだ思考に強く響いた。近くで見てきた、あまりにもまばゆい光を思い出す。それと同時に、一成の心に浮かぶのはたった一つの感情だった。
 テンテンに会いたい。顔が見たい。声が聞きたい。テンテンに会いたい。
 思ったらもうだめだった。一成は数秒考えると、踵を返して大学とは反対の方向へ歩き出す。だってもう、これしか考えられない。このまま大学へ行ったって、どうせ話なんて一つも入らない。
 今の一成にとって大切なのは、いつものように講義を受けることではない。天馬に会う。それだけだ。体中を満たす衝動に導かれるように、一成は走り出す。




 ◆ ◆ ◆




 大学から徒歩で行ける範囲にギャラリーがあったことは幸いだった。いつもとは違う時間の来店にオーナーは多少驚きを浮かべたものの、何も言うことはない。慣れた様子で準備をして、扉を示してくれた。

 部屋に入ると、向日葵畑の油絵が立てかけられている。天馬の後ろ姿にくすりと笑みを浮かべて、目の前に立つ。
 少しばかりぼうっとしていると、いつものように景色が揺れる。瞬きをする間にあちらとこちらの世界がつながった。
 ゆっくりと振り向いた天馬が一成を見て、嬉しそうに笑った。
 ああ、またテンテンに会えた、一成の表情にも自然と笑みが広がった。向かい合って時間を確認すると、まだ日はまたいでなかった。合宿が終わるまでは、あと一日ある。
 天馬からは、ちゃんと夏組のみんなに謝罪ができたと聞いている。それをきっかけにして稽古の雰囲気は良くなったし、監督のアドバイス通り長所も伝えれば芝居にも変化が見られたと言う。
 きっと夏組の芝居は良くなっていく。天馬の舞台は大成功を収める。天馬の努力はきちんと実を結ぶだろう。そのお祝いとして、せめて自分の絵をきちんと贈りたかったのに。

「テンテン、あのね、ごめんね。オレ、テンテンに絵をあげられない」

 深刻にならないよう、笑顔を浮かべて告げたはずだった。しかし、それは上手く行かなかったのだろう。
 天馬の表情がさっと変わり、「一成、どうした?」と尋ねる。眉根を寄せて、心配そうな雰囲気を漂わせるから、オレはどんなひどい顔をしているんだろう、と一成は思う。

「ごめんね。テンテンが望んだものはちゃんとあげたかったのに。テンテンとの約束、守れなくてごめん」
「それはいい――いや、良くないが、おい。何があった。お前が約束破るなんてらしくないだろ」

 強い言葉で問いかけられて、一成はどんな答えを返せばいいかわからない。何をどんな風に言えば、天馬の心を痛めないだろうか。考えなくちゃいけないのに、唇からは勝手に言葉がこぼれ落ちる。

「ごめん、ごめんね、テンテン。オレがもっと上手くできればよかったんだ。オレがもっと上手く隠しておけば見つからなかったのに」

 胸を満たす後悔が、そのまま声になっていた。もっと上手くできたら、もっと考えて行動すれば。そしたらちゃんと、絵を贈れたのに。
 これから再び絵を描くとしても、圧倒的に時間が足りない。満足いくものは、到底完成させられないだろう。オレが失敗したせいでテンテンの望みを叶えられない。
 ローテーブルの絵を目にした時の感覚や、引き裂かれた紙片を思い出すと、体から力が抜けていって一成は上手く立っていられない。思わずその場に座り込むと、天馬が「一成!?」と慌てた声で名前を呼ぶ。大丈夫だよ、平気だよって言わなくちゃ。ちゃんと立たなくちゃ。
 思うけれど力は入らないままだ。それでも、このままではいけないという思いだけは確かで、一成は口を開く。
 笑顔のようなものを浮かべて、せめてきちんと説明しなければと声を形にしていく。ただ、何をどんな風に組み立てればいいかなんてわからなかった。

「嘘吐いてたの、バレちゃったんだ。勉強会なんてやってないって。あ、でもここのことは言ってないから安心してね。テンテンのことは誰にも言ってないよ」

 迂闊に天馬のことを口にしたら、きっとギャラリーに迷惑がかかる。何より天馬に害が及んでしまう可能性はゼロにしたかった。だから一成は、何を聞かれてもギャラリーのことだけは話さなかった。話したところで信じてくれるわけがないこともわかっていたけれど。
 天馬はその言葉に「一成……」とつぶやく。何かを言いたげな表情を浮かべるけれど、結局形になることはなかった。一成は気づくことなく、ただ唇から言葉を吐き出す。

「オレが何してたかって、調べたかったんだと思う。部屋中探したみたいで、描いてた絵も見つかっちゃったんだ」

 画材道具と共に見つかった絵は、両親にとって一成の裏切りの証拠だった。
 東大にも入れなかった落ちこぼれ。かけた時間と手間と金を無駄にした子供は、持ちうる力を全て使って償いをしなくてはならないのに。その時間で馬鹿げたことをしているなんて、許されざる行為だった。

「だから、オレの絵、だめになっちゃった」

 引き裂かれて、ばらばらになった。ぐしゃぐしゃに握りつぶされて、ゴミになってしまった。思いの全てを込めて描いた絵は、完成することなく失われた。天馬の望みを叶えることができない。

「ごめんね、テンテン。オレがもっとちゃんとしてたら――」
「謝るな」

 貼りつけた笑みで謝罪を向ける一成に、天馬は強い声で言った。一成は思わず目を瞬かせて、天馬の顔を見つめる。それくらい強い声だった。
 天馬はと言えば、揺るぎない光を宿した目を一成へ向けるけれど、何だかそれは泣き出しそうだった。

「謝る必要はない。一番辛いのは、お前だろ」

 一成へ視線を合わせるように、しゃがみこんだ天馬は言う。「絵がだめになった」と言う一成は具体的なことを告げなかったけれど。今まで聞いた話から、天馬はおおよそ推察していた。
 一成の両親は、一成が絵を描くことを快く思わないどころか、憎んでいるようにさえ感じられた。そうでなければ、心を込めて描いた絵に見向きもせず、どうしてそんな無駄なことをするのかと叱責することはないだろう。
 一成の見るもの、美しいと感じる瞬間、それを絵に描くことは望んだ未来を妨げるものだと信じて疑わないのだ。
 だからきっと今回も、一成の絵を見つけた両親は当たり前の顔で処分した。中学生の時、描き溜めた絵は目の前でゴミ袋に詰められた、と言っていたのだ。もしかしたら、目の前で破り捨てられてそのまま廃棄されたのかもしれない。一成の両親ならそれくらいやるに違いない、と思えた。
 天馬の言葉に、一成は戸惑うように視線を動かした。震える唇から、弱々しく声がこぼれる。

「でも、オレ……」
「お前は辛いって言っていい」

 まだ何かを言おうとする一成に、天馬はきっぱりと返す。
 一成は普段明るい笑顔を浮かべることに長けているくせに、自分のことを自然と下に置く。だから、自分の辛さを軽く見積もるのだ。こんなのは大した傷じゃないと、自分のものは傷じゃないと、血を流しながら。

「テンテン……」

 何を言えばいいかわからなくて、一成はただ天馬の名前を呼ぶ。
 だって、辛いなんて。自分は恵まれた環境に生きているのに。衣食住の心配をすることなく、勉強へ専念できる環境が与えられているのに。両親の望んだ通りに生きられない自分には、当然の結末なのに。
 脳裏に浮かぶのは、リビングで対峙した両親の姿だ。真っ二つに引き裂かれた絵。千切れた向日葵畑。破られるのも捨てられるのも当たり前だった。

「だってオレ、出来損ないなんだよ。失敗作なんだ。絵なんか描いちゃだめだった。だって」

 ひくり、と喉が震えた。昨日の光景がまざまざとよみがえる。
 きっと本当はずっと前から知っていたことに、明確な形が与えられた。両親も姉も、一成も気づいていた。望まれてなんかいなかった。要らなかった。最初から間違っていた。

「オレは生まれてきちゃいけなかったんだ」

 言葉とともに視界が崩れて、一成の頬を涙が伝っていく。
 泣く資格なんてないのに。悲しむ権利なんてないのに。そういうのは全部、望まれて生まれてきた人だけに許されているのに。
 頭ではそう思うのに、涙は止まらなかった。あとからあとからこぼれて、天馬の顔すら見えなかった。だから、天馬が何を考えているのか一成にはわからなかったのだけれど。

「一成」

 名前を呼ばれた、と思うのと同時に強い力で右肩を掴まれる。ぱちり、と瞬きをするとそっと触れる指先が一成の涙をぬぐっていった。視界が晴れる。
 天馬は、怖いくらいに強い目で一成を見ていた。怒っているのではないかと思えるけれど、これは天馬の真剣さなのだと一成は理解していた。
 思わずその目を見つめれば、天馬も視線を逸らすことはない。近い距離でまなざしが混じり合い、一成は少しばかり落ち着きを取り戻す。
 それと同時に、現在の状況を理解する。右肩には天馬の手があり、さっき涙をぬぐっていったのは天馬の指先だ。天馬の手はキャンバスの境界を飛び越えて、一成の世界で一成に触れている。
 物の行き来ができることはわかっていたものの、何かが壊れてしまうことが怖くて、お互い触れずにいたけれど。たった今境界は溶けたのだ。
 天馬が触れているという事実に、一成は落ち着かない気持ちになる。天馬も似たような空気を流しているので、とっさに手を伸ばしたのだろうということを一成は察した。
 やさしい人だ。泣いている一成にいてもたってもいられなかったのかもしれない。だからこうして触れてくれたけれど、あらためて現状を確認して戸惑っているのだろうと思った。
 ただ、天馬は何やら考え込むような空気を流したあとで、深呼吸をした。迷いの空気は消えている。一成の瞳を射抜くように見つめて言った。

「一成が出来損ないのわけあるか。お前はオレと読み合わせができてるし、いい芝居をすることだってある。このオレが認めてるんだ。失敗作なんて言うな」

 強い声で、天馬は一成の言葉を否定する。出来損ないだ、失敗作だと言う一成にうなずいてやるものか、という強い意志で。

「オレはお前の絵が好きだ。言っただろ。一成の絵をもっと見たいって。お前の目に映る世界をもっと見たいんだって。そんな絵を描けるお前が、出来損ないのもんか」

 一成の絵を見て心を動かされたのは、紛れもない事実だ。本格的に絵を学んだわけではないと言っていたけれど、スケッチブックに描かれる絵はどれも特徴をよくとらえていて、単純に上手い絵だと天馬は思った。
 何より、一成の見つめるまなざしが現れているようで、心が躍ったのだ。一成はこんな風に周りを見ているんだな、と思えることが嬉しかったし、それを感じさせるのは一成の絵に魅力があるということに他ならない。
 一成は決して無能な人間ではない。確かに光る才能を持っており、適切に伸ばしてやればきっとめきめきと頭角を現す。それは、長い間芸能界に身を置いていた天馬にとっての直感でもあった。だからそれを伝えたのだけれど。
 ゆらゆらと揺れる瞳で天馬を見つめる一成の姿に、天馬は「違う」と思った。
 一成に才能があることは間違いないと思う。ひいき目だとかではなく、純粋な事実として稀有な才があるはずだ。だけれど、伝えるべきことはこれじゃない、と天馬は思った。

「――お前と過ごす時間が楽しかった」

 もう片方の手も一成の肩に置いて、天馬は言った。どこまでも強いまなざしで、どうか届くようにと願いながら。
 思い出すのは、不思議な邂逅を果たしてからの時間だ。キャンバスを境界にして向かい合って、いろいろな話をした。くだらないことから真面目な話まで、普段なら口にしない言葉もするりと形にできたのは、きっと一成だったからだ。
 一成は人の話を聞くのが上手かった。思っていることを丁寧に掬いあげて、自分の心にそっと抱える。大事に抱きしめて受け取って飲み込んで、心ごと返してくれる。
 居心地がよかった。やさしい言葉が、明るい笑顔が、やわらかなまなざしが、自分に向けられる全てが、この上もなく大事だった。

「何もできなくたっていい。どんな能力だってない一成でいい。オレはただ、お前と過ごすのが好きだった。楽しかったよな。くだらない話も真面目な話もした。ずっとこの時間が続けばいいって思ってた」

 一成はずっと、努力しなければ自分の居場所はないと信じていた。彼の家族はそう言い聞かせて、努力し続けることを強いたからだ。勉強だけではなく、周囲に気を配って正解を出し続けることを、幼い一成に覚え込ませた。
 だからこそ、天馬は言いたかった。戸惑うような一成の両肩を強くつかむ。

「ただの三好一成と過ごす時間が好きなんだ」

 何の能力もなくてよかった。読み合わせができるとか絵が描けるとか、それは確かに一成の得難い資質で賞賛するポイントではあるけれど。そんなものがなくたって、天馬は一成と過ごす時間を心地いいと思っただろう。
 それなのに、一成は自分のことを出来損ないだと失敗作だと言う。彼の両親からかけられた呪いは強固で、一成にとっての当然の事実なのだ。
 それを天馬はもどかしいと思うし、許したくなんかなかった。自分を否定する言葉を、二度と口にしてほしくなかった。

「お前がいたらいいのにって、何回も思ったんだ。合宿所で、お前がここにいたらって。お前と舞台に立てたらって、夏組に一成がいたらって――」

 そこまで言ったところで、天馬は口をつぐんだ。不思議そうに首をかしげる一成。その様子をじっと見つめる。
 アラジン役にぴったりだということもあるけれど、天馬は純粋に一成と芝居がしてみたかった。幸や椋、三角と天馬の演技に一成が加わった時、どんな変化が訪れるのかを知りたかった。見たこともないような新しい世界が開けるんじゃないか、という予感があったのだ。
 しかし、一成が生きるのは自分たちの世界ではない。同じ場所では生きられないから、その望みは決して叶わない。この時間が終われば、別れ別れになるしかない。そう思っていたのに。
 生まれてきちゃいけなかった、と一成は言う。心を傾けて描いた絵を否定されて、大事にしていたものを壊されて、努力をふみにじられて、辛いという言葉すら奪われて。一成は、自分が生まれたことは間違いだったと言う。
 あの言葉を聞いた瞬間、天馬を襲ったのは紛れもない怒りだった。一成がここにいたらいい、と願う自分の言葉にあの時の感情を天馬は思い出している。
 別々の世界に生きているから、同じ場所では生きられない。だからオレたちは別の道を歩かなくてはならない。一成は一成の世界で生きなくてはならない。それが当然の結論で、覆るはずのない事実だと思っていた。だけれど。
 天馬の胸には一つの決意が宿り、同時に体中を駆け巡る熱を感じている。燃え盛る炎を形にするように、天馬は言った。

「一成、オレのところに来い」

 両肩を強くつかんで、決然とした調子で言った。だって一成は、生まれてきちゃいけなかったなんて言う。別々の世界で生きるのだと思った。そうしなければならないと。だけれど、一成のいる世界が一成を大事にしてやれないなら。あんな言葉を言わせるなら。

 オレが代わりに大事にしてやるから、一成を寄越せ。

 喧嘩を売るような気持ちで思った天馬は、ほとんど衝動で言葉を続ける。

「お前一人くらい、いくらだって養ってやる。それくらいの稼ぎはあるからな。だから、そこで生きてるのが辛いなら、もしもお前に覚悟があるなら、こっちに来い」

 きっぱりと告げられた言葉に、一成はぽかんとした表情で天馬を見つめるしかできない。あまりにも予想外すぎて、涙はとっくに引っ込んでいた。
 何も言えず、ただまじまじと天馬を見ている。冗談を言うような人間ではないから、これは至って純粋な天馬の本心だということはわかった。ただ、あまりにも思いがけない展開に、何を言えばいいかわからない。
 一成の大きな瞳でじっと見つめられて、天馬もようやく冷静になってきたらしい。自分がとんでもないことを言った、という自覚が芽生えてきたようで、じわじわと耳が赤くなる。
 両肩をつかんでいた手をそっと離す。それから、小さな声で「嫌ならいい」とつぶやくので。

「え、あ、そうじゃなくて!」

 ようやく我に返った一成は、慌てて言う。戸惑ってはいたけれど、それは予想外すぎる言葉だったからであって、決して嫌だったわけではない。むしろ、嫌だというよりも。

「あの、えっと、ちょっとだけ待っててくれない?」

 うかがうように言う一成は、どうしようもなく高鳴る胸の鼓動を感じている。