運命と呼ばない
※イベント「スカイギャラリー」のネタバレがあります
稽古の終わったレッスン室には、天馬と一成が残っている。夏組としての稽古は終わったものの、もう少し自主練習を続けるつもりだった。
夜もすっかり深まっており、窓の向こうには木々越しの星空が見える。監督は「あんまり遅くならないようにね」と二人へ言って、レッスン室をあとにしていた。他の夏組も、明日は用事があるということですでにここにはいない。
第九回公演に向けての稽古は、日に日に熱量を増している。一成の不調や天馬の準主演がなかなか決まらないなど、始まるまではすんなりと行かなかったけれど、いざ稽古に入ってしまえばそんな面影は一切ない。
一成は自分らしい芝居で全体をまとめて、天馬も一成を支えながら確かな実力を発揮している。二人の意気込みに引っ張られるように、夏組の芝居は日々成長を続けており、初日への期待は高まっていくばかりだ。
ただ、最高をいつだって更新していくのが夏組だ。今回の主演・準主演である二人も例外ではない。初日の幕が開く瞬間まで、高みを目指すつもりだからこそ、こうして自主練習を行っている。昨日より今日、今日より明日。一番の芝居を舞台の上で披露するためにできることは、何でもやりたかった。
「――やっぱ最後のシーンは、あんまり大げさな感じじゃない方がいいよねん」
気になるところを通したあと、一成は天馬に向かって言う。稽古を重ねれば重ねるほど、やりたいことはたくさん出てくる。このシーンはこうした方がいいんじゃないか、この台詞はこうやって表現したらどうか、この時の動作はこっちの方がいいだろうか。
いくつもの可能性を試して、どうすれば最高の芝居にできるかとあれこれ試行錯誤しているところだけれど、二人が今一番気にしているのは、物語の最後のシーンだった。
全ての真相が明かされ、天馬演じる白戸色波が心情を吐露する場面。受け止めるのは、一成演じる青海七海だ。二人のやり取りが物語全体を締める大事な個所だということは、天馬も一成もよくわかっていた。
「そうだな。白戸が感情的になる場面ではあるが、あまり大げさにしすぎると全体的に浮いて見える。テイストは保ったままの方がいい」
「だよねん。テンテンのお芝居、落ち着いてるのにめっちゃ心情出てるじゃん? だから、よけい印象的になる感じ!」
大げさな芝居ではないからこそ、白戸の気持ちが染み渡るように伝わるのだと一成は続ける。声高に叫ばずとも、白戸にとっての絵を描くことがどれほどまでに大きいものであるかを、天馬はしかと表現していた。
「さすがテンテン!」
明るい笑顔でそう言うと、天馬はまんざらでもなさそうに「まあな」と胸を張る。
劇中の白戸は、淡々としてどこか冷めた印象を抱かせるタイプだ。最後のシーンは、そのテイストを崩さず、それでいて内に秘めた感情を静かに爆発させるよう、丁寧に演じるよう気をつけていた。
一成がそれをきちんと受け取っていることは、返される青海の演技で実感していたけれど、あらためて言葉にされるのは悪くなかった。
ここは大事な個所だからと、雰囲気を変えながら念入りに確認を行った。仰々しく感情を表現するバージョンも演じてみたものの、全体にそぐわないというのが天馬の判断だ。一成も同じ結論だったことは、今の言葉から伝わった。
二人の方向性は一致している。それを確認するためにも、テイストを変えて何度も何度も、同じシーンを繰り返したことには意味があった。
ただ、ずっと精神を研ぎ澄ませ続けていたことも事実だ。ずいぶん根を詰めていたから、そろそろ集中力も散漫になってきていた。一段落ついた段階で休憩も必要だろうということは、何も言わずとも互いに理解している。
だからこその軽口だったし、水分補給をしながら自然とレッスン室の床に座った。無理をして体を壊しては元も子もないのだから、休憩時間をしっかり取ることも必要だ。
隣に並んでペットボトルを傾けつつ、二人は雑談を交わす。内容はここにいない夏組メンバーの芝居についてだ。「三角らしさがマッチした役だよな」とか「ゆっきー、むっくんに寄せるの上手いよねん」だとか。「椋も上手くリードしてる」とか「くもぴのインパクトすごいんだけど⁉」だとか、今回の舞台についての話は止まらない。
次第にそれは自分たちの演技についての話になり、お互いの役に思うことをあれこれと述べていく。冗談めいた言葉を口にすることが多い一成も、青海について語る姿は落ち着いていて、本来持っている理知的な面を垣間見させた。
静かな夜にふさわしい、しんとした声。ゆったりとした口調は、ただ丁寧な響きをしている。心の内側をそっと掬いあげるような、やわらかく包み込むような。そんな響きの声をしているからだろうか。
じっと一成の言葉を聞いていた天馬は、ほとんど無意識で口を開く。考えるより早く、天馬の唇からは自然と声がこぼれた。
「なあ、一成。絵を辞めようと思ったことはあるか?」
発した問いは、するりと口になじんだ。きっとずっと思っていたのだ。だから、心の奥にあったものが、一成の声に導かれるようにして形になっていた。まるで、今ここで言葉になるのが前から決められていたように。
そう思う天馬は、自身の問いに驚きはしなかった。むしろ、これは尋ねるべくして口に出たものだと思っていた。だから、天馬は強い瞳で一成を見つめた。返ってくる言葉を、何一つ取りこぼすまいとするように。
一成は天馬の問いに、大きく目を瞬かせた。ただ、すぐにまなざしは真剣なものに変わる。これは天馬の単なる思いつきではないと察したのだ。心の底から真剣に尋ねられたなら、同じくらいにきちんと返したいと一成は思っている。答える言葉は、すぐに思い浮かんだ。
「テンテンは、お芝居を辞めようと思ったことある?」
問いかけに質問を返すのは、答えとしては適当ではないだろう。それでも、一成は確信していた。これが答えだ。これがぴったりだ。だってテンテンの質問は、つまりこういうことだ。
天馬は一瞬だけぱちりとまばたきしたけれど、それは戸惑いの類ではなかった。一成の言葉を受け止めると、すぐに答える。
「ないな」
「だよね~」
思った通りの答えに、一成はしみじみとこぼした。
「絵を描くのを辞めようと思ったことはあるか」という問いは、天馬にとって「芝居を辞めようと思ったことはあるか」と尋ねるのと同じ意味だ。わかっていたから、返ってくる答えは知っていた。疑いなく思えた。二人とも、そんなこと一度だって思ったことはない。
天馬がどうしてこんなことを聞いたのか、一成とて理解している。頭に浮かんでいるのは、「スカイギャラリー」で天馬が演じる白戸色波だ。
ギャラリー見習いの白戸は、終盤で贋作の作者であることが明かされる。当初はあくまで絵を扱う人間で、画家としての顔を見せない。しかし、最後になって判明するのは、絵を描くことへの複雑な心境だ。白戸が贋作を描いた理由。東雲の名前を騙ったわけ。全ては、白戸が絵を辞めるための行動だった。
天馬は白戸と違って、絵を描いてきた人間ではない。しかし、分野は違えど同じく表現者であることには変わりなかった。だからこそ、自身に引きつけて白戸を解釈しようとして、ふと立ち止まってしまったのだ。
絵の道を諦めて、絵を辞めようとした白戸に対して、天馬は今まで芝居を辞めようと思ったことがなかった。苦しいことも辛いことも後悔を抱えたこともあったけれど、一度だって辞めようなんて思わなかった。白戸とは同じく表現者という立場でありながら、決定的に違っている。
だからまだ、白戸のことをつかみきれていないんじゃないか、と天馬は思っている。一成に質問したのも、何かきっかけが欲しいと思ったからだろう。
もっとも、それは一成から答えを欲してのことではないと、一成も察していた。だってきっと、天馬は理解している。一成も自分と同じく、表現することを辞めようと思ったことはないのだと。わかっていても聞いたのは、主演という立場であり、青海七海という人間から見た白戸色波について、話を聞きたいと思ったからに他ならない。
白戸をもっと掘り下げたい、という天馬の気持ちは一成もよくわかる。自分ではない誰かになるには、付け焼刃の理解ではとうてい及ばない。取ってつけたような演技は簡単に観客に見抜かれて、薄っぺらな存在として目に映るだけだろう。確かにそこにいるのだと、生きた年月を感じさせるためには、深い場所まで潜り込むように役を理解する必要がある。
一成演じる青海にとっても、白戸という役は重要だ。主演と準主演という立場であり、終盤の白戸とのやり取りは青海七海という人間を象徴するシーンでもある。白戸の人間性を知ることは、青海がどんな風に白戸と関わっていくかにもつながり、ひいては青海の役作りにも活きてくるはずだ。
だから自分が言うことなんて決まっている、と一成は思う。隣に座った天馬をじっと見つめてから、笑みを浮かべて口を開く。
「白戸は、絵を描くのがほんとに好きなんだなって思うよ」
青海七海の役作りをしながら、一成は出てくる画家たち一人一人について思いを馳せた。三角演じる東雲明星。椋が演じる萌黄若葉。幸が演じる山吹黄金。九門演じる桜田桃太。そして、天馬演じる白戸色波。五人の画家はそれぞれ個性的で、魅力にあふれている。その中で、白戸から感じたのは絵に対する強い想いだ。
もちろん、他の画家たちの気持ちが劣っていると思っているわけではない。ただ、絵筆を握ることにためらいがなかった他のメンバーと、白戸は決定的に違っている。
「白戸の絵に対する情熱は本物だと思う」
一成の言葉を受け止めて、天馬がぽつりと答える。五人の中で、唯一他とは違う白戸の境遇。絵を辞めようと思った。だからこそ全ての行動があった。ただ、それは絵に対する気持ちがなかったからではない。それどころか、絵が好きで衰えることのない情熱があったからこそだと、二人ともわかっていた。
あまりにも強烈で、なくすことも手放してしまうこともできない。内に秘めた熱は静かに体の中で育ち続けて、思いがけない形であふれだした。決して真っ当な形ではなかったけれど、あれは白戸の想いが行き場を失くして、屈折した結果なのだろう。
「強すぎる感情があったからこその行動なんだろうな」
「うん。生半可な気持ちだったらさ、贋作描くとかしないよねん」
静かな調子で言い合う二人は、白戸についての解釈を重ねる。脚本で明かされることはない、白戸の生い立ちや境遇。単なるあてずっぽうではなく、物語の中から浮かび上がる姿を積み重ねて、白戸色波という人間を知っていく。
「根底にあるのは恐らく、絵を描くことを肯定されなかったことじゃないかと思う」
しばらく言葉を交わしたあと、真剣な顔で天馬が言う。白戸の絵に対する情熱は本物だろう。しかし、白戸は絵を辞めようとしていた。その理由について、仮説として考えていたもの。
「はっきりと明言されたわけじゃないが、美大に進学できなかったっていうのは、結構大きい気がする」
「だよねん。経済的な事情って言ってたけど、あの時点で絵を描くことを否定されたって思ったのかも」
「東雲に対してもうらやましいって言ってたしな」
「その辺が原因で美術部辞めたのかな~」
一成も答えを返し、天馬の仮説にうなずいた。あれだけの情熱があるにもかかわらず、白戸は絵を諦めようとしたのだ。その理由として、「絵を描くことを肯定されなかった」というのは大きいのだろうと思えた。
「コンクールとかでも、思うような結果が出なかったのかもしれないな」
決して脚本には描かれていない。それでも、確かにあったはずの白戸の足跡を辿っていくような気持ちで、天馬は言う。自分と同じくらいの年齢の青年。絵を描くことが好きで、圧倒的な情熱を持って、それなのに絵を手放そうとしていた。
「東雲にも自分より上手いとは言われてたし、決して腕が悪いわけじゃない。ただ、賞だとかコンクールには相性もあるし、実績はあまりなかった可能性がある」
新進気鋭の画家として評判の東雲の贋作として、鑑賞に堪えるだけの作品を描き上げたのだ。実力は確かにあると思っていい。しかし、それが日の目を見るかどうかは別問題なのだ。才能あふれる世界で生きてきた天馬は、痛いほど実感している。確かな実力を持っているのに、運やチャンスに恵まれず芝居の世界から消えていった人間なんて、天馬は山のように見てきた。だから、才能があっても評価されることのない可能性は、充分考えられた。
「画家として名前が出てるなら、青海も知ってると思うんだよねん。そんな感じ全然なかったし、あんまり賞とかは取ってなかったのかも」
青海七海については、一成も役作りを進めている最中だ。青海は画家たちとは違った方向で絵に対する情熱があるし、絵を描く人間の力になりたいと心底思っている。そんな青海であれば、もし白戸の絵が評価されているなら名前を知っていただろうし、そうであれば画家として接する顔があるだろうと思えた。
しかし、青海は常に助手として白戸と接している。何か事情があるのかもしれないと思って黙っていた、という可能性もゼロではないだろうけれど、白戸の名前が知られてはいないと考えた方が自然だ。
一成の言葉にうなずきを返した天馬は、少しだけ考え込むような表情を浮かべる。そのままの調子で、さらに言葉を継ぐ。
「腕は確かだと思うから、子どもの頃はコンクールでも常連だったのかもしれないが」
「うん。でも、そのまま順調って人だけじゃないからねん」
「だろうな。むしろ、それの方がよけいに自分の絵が否定されたと感じるかもしれない」
天才だと神童だと小さな頃にもてはやされても、大人になって同じ評価を受け続けることは難しい。天馬はそれを痛いほどに知っているし、自分がそうなった可能性だってあったのだと理解している。
努力は決して怠らなかったし、運も味方した。境遇的に有利だったということも確かだけれど、それでも子ども時代の評価をそのままに成長していけるとは限らない。絵と芝居という違いはあっても、その厳しさは変わらないだろう。
天馬の言葉を聞く一成は、少し目を伏せて「そうだね」とうなずく。一成はあまりコンクールの類に積極的に作品を出すタイプではなかった。ただ、美大の友人たちから聞いた話はいくつもある。
美大に在籍する人間のほとんどは、幼い頃から「絵が上手い」と言われている。子ども時代はそれこそ多くの賞を獲得していた、なんてことはよくある。神童だ天才だともてはやされたこともあるだろう。同年代であれば、よく同じコンクールで見るな、と名前を覚えることもあるらしい。
そうやって、賞を取るのが常連の子どもだったとしても、そのまま成長していく人間の方が珍しい。成長するにつれて、賞と縁遠くなっていくのはよくある話だ。いくつも獲得していた最優秀の賞が入賞や佳作と下のランクへ変わり、ついには賞もなくなっていく。それは決して珍しい話ではなかったのだと、友人たちは言っていた。
そこで描くことを辞めなかったから、美大で共に絵を学ぶことができているけれど。友人たちの話を聞いた時から、一成は理解していた。
少しずつ変化していく賞は、自分の評価が下がっていくことを否応なく突きつける。自分の価値がこぼれ落ちていくような、自分自身に大きなバツ印をつけられるような感覚。そういうものを味わい続けて、ついには絵を諦めた人はきっといるのだ。
そういう人と美大で会うことはできない。だから一成は直接対峙したことがないだけで、少しずつ毒が蓄積されていくように、小さな亀裂が入っていくように、ある日突然何もかもが壊れてしまった人はいる。
もしかしたら、白戸もそうだったのかもしれない、と一成は思う。天馬だって同じように考えているのだろう。強い目をして、天馬は言う。
「結果が出なければ、経済的に難しいとなったらよけいに美大進学だって諦めないといけないしな」
もしも確かな結果が残っていたなら、周囲の誰かは背中を押してくれたかもしれない。サポートの道だってあったかもしれない。白戸も美大進学に将来性を見出したかもしれない。だけれど、全てはそうならなかったのだ。白戸の親は美大進学に反対したし、白戸自身も就職を選んだ。それが確かな事実だった。
「評価が芳しくないこと。周囲からの反対。こういうことが重なって、白戸は絵を描くことを否定されてると感じてたんじゃないかと思う」
真っ直ぐ前を見つめたまま紡がれる言葉を、一成は聞いている。脚本を何度も読み込んで、白戸について考え続けた天馬の思う解釈。白戸の心の内を探り続けて導き出した答え。
「絵を描くことを許されないと感じて、だけど絵を描き続けたいと思っていたからこそ、絵を描くのを辞める絵が必要だった」
静かな声で、それでいて奥底に強い意志を宿して天馬は言う。絵に対する情熱と、絵の道を諦めて、絵を辞めるという決断。二つの間をつなぐものが何であるか、天馬は考え続けていた。
そうして辿り着いたものを、こうして一成と共有しようとしている。主演と準主演という立場だからこそという意味もあるのだろうけれど、きっとそれだけではない。
「――それが、オレたちとの違いだよねん」
しんとした声で答えれば、天馬はゆっくり一成へ目を向けた。ぱちりと視線がぶつかる。天馬は意外そうな表情をしていなかった。一成はくすりと笑みを浮かべる。
天馬は、一成が自分と似ていることを理解している。だからこそ、今回の公演における重大なキーパーソンである白戸のことを、二人でもっと深く知ろうとしている。そのために、自分たちとの違いはどこかとあえて口にしたのだ。
天馬は強いまなざしのまま、一成の言葉に「ああ」とうなずいた。
天馬も一成も、今まで絵や芝居を否定されたことがない。思うように結果が出なかったことはもちろんあるし、苦し思いをしたことも後悔を抱いたこともある。決して、何もかもが順風満帆というわけでもない。
たとえば天馬は舞台に上がれなかった経験が最たるものだったし、芝居を酷評されたこともある。一成も本気で絵と向き合うことから逃げ出して厳しい言葉を掛けられたこともあるし、常にいい評価だけを受けてきたわけではない。それでも、芝居や絵を選ぶことを許されない、なんてことは一度だってなかった。
「オレが芝居するのは当たり前だって、大体の人間は思ってたからな。むしろ、芝居の道に入らなかったら、そっちの方がいろいろ言われたと思う」
一成の方を見ながら淡々と告げるのは、天馬の特殊な家庭環境に基づくものだ。
高名な役者を両親に持ち、二歳の頃から子役として活動している。芸能人のサラブレッドとして生きてきたのが、皇天馬という人間だ。芝居の道に進むのは当たり前とも言える環境で、両親もそれを自然と受け止めている。周囲の人間だって同じだから、芝居することを否定されるなんて選択肢は、最初からなかったようなものだろう。
「オレはいつでも、家族みんなでサポートしてくれたんだよねん。高校の時は、周りに絵描いてるってことあんまり言えなかったけど……絵を描き始めた時から、パピーもマミーもふたばも、ずっとオレが絵描くこと応援してくれてる」
天馬の視線を真っ直ぐ受け止めて、一成も続けた。
勉強ばかりだった一成が突然絵を描き始めた時。父親はスケッチブックをプレゼントしてくれて、すぐに使い切ってしまいそうだと困る一成に、ページは埋めるためにあるのだと言ってくれた。母親も一成の描いた絵をいつでも嬉しそうに見ていて、妹のふたばは一成の絵が好きだと言ってくれた。
いつだって、家族は一成の味方だった。どんな賞が取れなくたって、誰からも評価されなくたって、家族は変わらず応援してくれるだろう、と当たり前のように思える。
「――それに、美大にだって行けてる」
少しだけ困ったような笑みで、一成は言葉を重ねた。
美大の学費は、一般的な私立大学に比べてもずいぶん高額だ。入学後に掛かる費用も相当なものだし、いくら一成がアルバイトでそれなりに稼いでいるとは言っても、自分で学費を捻出しているわけではない。しかし、一成の両親は「お金のことは気にしなくていい」とおだやかに言ってくれたし、実際その通りだった。
それがどれだけありがたいことなのか、美大に進学してから何度だって感じてきた。
「恵まれてるよねん」
眉を下げたままこぼされた言葉。笑みは浮かんでいるけれど、裏側に潜むものを天馬は察している。両親への限りない感謝と尊敬。それから、自分でつかみ取ったわけではない境遇である、という自覚。
一成は物事をフラットに見られる人間で、誰かの環境を卑下することもねたむこともない。どんな境遇も優劣があるとは思っていないから、あるがまま受け取って等しく扱うことができる。自分自身の環境自体も素直に受け入れているはずだ。
ただ、苦労をしないでいられることは、自分の努力の成果ではない、という自覚をきちんと持っている。きっと誰かにとっては、自分の環境はうらやまれるものであることもわかっている。だから、手放しで享受し切ることができないのだ。いたって自然に、自分以外の誰かのことを考えられる人間だからこそ。
浮かんだ笑みにいつもの明るさはない。翳りのある雰囲気に、天馬は口を開いた。唇には力強い笑みを浮かべて、からかうような軽口めいた響きで言う。
「確かに白戸に敬遠されそうだよな、お前」
そんな風に笑う必要はない、と天馬は思っている。恵まれた環境であることは間違いないけれど、あたかも自分の手柄のようにひけらかしたり、傲慢になったりしているわけではない。一成がそんな人間ではないとわかっているし、大体相手は天馬なのだ。
夏組の一人として、何度だって心を丸ごと受け取り合ってきた。堂々と自分の境遇に胸を張っていいと、誰だって言う。夏組の前で変に遠慮する必要がないことくらい、一成だって理解しているはずなのだ。
だから天馬は、冗談に似せた調子で言う。いつも一成がそうしているみたいに、雰囲気を明るくするように。
「白戸からすれば、むかついて仕方ないんじゃないか」
脚本に記された白戸の台詞を思い出しながら、そう続けた。