睫毛に揺れるシャイニードロップ
談話室に入ってきた一成を見た瞬間、すべきことを悟った。「おつピコ~」なんて笑いながら、軽快な口調で太一や咲也に声をかけている。キッチンから顔をのぞかせた臣が「何か食べるか?」と聞いているが、一成は「だいじょぶだよん♪」と首を振る。それらのやり取りを眺めていた天馬は、重々しく口を開く。
「一成」
「え、なになに?」
目をぱちくりと瞬かせて、笑みを浮かべたまま近寄ってくる。三日月形に細められた瞳、引き上げた口角。何か用事でもあるのか、と言いたげな雰囲気は軽やかだ。間違いようもなく漂う笑顔の気配に、舌打ちをしたくなる。天馬は問答無用で腕を掴んだ。
「どしたの、テンテン。何かあったカンジ?」
怪訝そうな、困惑めいた空気が一瞬混じったことに気づいて、天馬はわずかに表情を緩める。しかしそれも一瞬で、すぐに険しい顔に戻ると一成の腕を引いて足を踏み出す。談話室から出ていこうとしていることは、すぐにわかったらしい。
「なになに、テンテンってばどこ行くの~?」
茶化すような言葉だった。天馬はそれに答えず、振り向いて声をかけた。一成ではなく、談話室で作業をしている他のメンバーに向けて。
「幸」
「部屋は貸す」
被服の本を読んでいた幸は、顔を上げてきっぱりと言った。強いまなざしを天馬に向けて、怪訝そうな表情は一つもなく。そうすることが当然といった態度で。天馬はこくりとうなずき、そのまま「椋」と名前を呼ぶ。
「は、はい! あとで、何か温かいもの持っていくね!」
「頼んだ」
弾かれたように、ぴょこん、と背筋を伸ばして椋は言う。しかし、それは予想外の事態に戸惑っているのではなく、己の職務を全うしようという意志の現れだった。天馬は最後の一人を呼ぶ。
「三角」
「さんかくいっぱい持ってくね~」
のんびりとした調子で言うのは、ソファに腰かけた三角だ。「てんまにも、いっぱいさんかく持ってくね~。いい子、いい子~」と続くので、天馬はわずかに虚をつかれたような顔になる。まさかそんなことを言われるとは思っていなかった。しかし、すぐに笑みを浮かべると言った。
「よろしく頼む」
偽りのない本心で告げる。今ここで必要なものが何であるかは、よくわかっている。三角は違わず天馬の言葉を受け取ったようで、大きくうなずいた。「特別なさんかく、いっぱいだよ~」と言っているので、きっと選りすぐりの三角を持ってきてくれるのだろう。
「テンテン?」
困惑の色を一層深めながら、一成が名前を呼ぶ。今までのやり取りを含めて、一体どういうことなのか、と疑問符ばかりを浮かべている。天馬はそれに気づいていたが、何も答えず、一成の腕を引いて談話室を出て行った。
談話室に残された面々は、あっという間の出来事にただ圧倒されていた。天馬が一成を連れて行ったことも、他の夏組メンバーが当然のようにすべき行動を理解していたことも。
一体何なのか、と誰かが問おうと口を開こうとしたのかもしれない。しかし、その前に三角は部屋を出て行ってしまったし、椋はキッチンに立っている。幸も手伝いを申し出てキッチンへ向かうので、結局タイミングを逸してそのままうやむやになった。
*****
連れて行かれたのは、天馬と幸の部屋だった。ぐいぐいと腕を引かれた一成は、強制的にソファへと座らせられる。いささか乱暴とも言えるような強さだった。
「どしたの、テンテン」
至極もっともな質問のはずだった。帰ってきたら突然腕を掴まれて、問答無用で部屋に連れて来られたりしたら、きっと誰だってこうやって尋ねる。だから、当たり前の質問のはずだったのに。
「――本気で言ってるのか、お前」
斜め向かいに座った天馬から返ってきたのはそんな言葉で、一成は目を瞬かせるしかない。あれ、これ、オレの方が変なの。思っていると、いぶかしげな雰囲気を察したらしい天馬が、大きく息を吐き出す。呆れたような、重苦しい様子に、さっと血の気が引いた。
何か失態を犯してしまった? 気に障ることをしてしまった? それなら、せめて、軽口めいて答えるしかない。少しでも何でもない話にしてしまえるように。一成は、へらり、と気の抜けた笑みを浮かべて、口を開く。
「テンテン、」
何かあったの、とか。めっちゃ怖い顔してるじゃん、とか。そういうことを言おうとしたはずなのに、それより早く天馬が言った。強く、切り裂くような声音で、はっきりと。
「笑うな」
真剣な目をしていた。怖いくらいに真っ直ぐとしていた。怒っているようにも不機嫌なようにも見えた。だけれど違うのだとわかっていた。一成には、そこに宿るのが痛いくらいのひたむきさだとわかっていた。
「――なに、言ってるの、テンテン」
どうにか声を絞り出し、それだけ言う。口元にはまだ笑いの欠片が残っているけれど、気を抜いたら簡単に消えてしまいそうだった。
一成はぎゅっと拳を握りしめて、天馬へ視線を向ける。
「笑うな、とか、ワケわかんないよ」
どうしてそんなことを言うのか、とぎりぎり保っている笑顔の残りで尋ねる。天馬は険しい顔をしたまま、「だから」と続けた。
「そんな泣きそうな顔で、笑うな」
真っ直ぐと放たれた言葉が、届いた瞬間。ぼろり、と。何かが崩れたのがわかった。
どうにか保っていた均衡が、ぎりぎりの所で支えていたものたちが、跡形もなく崩れていく。残されていたはずの笑顔が、貼りつけていた感情が剥がれ落ちていく。
「なん、で、てんてん……」
笑おうとした。いつもの自分みたいに、テンション高く、「何それどゆこと」なんて笑い話にしてしまいたかった。だけれど、出来なかった。
口からこぼれた声は弱々しく、今にも消えてしまいそうだった。喉が潰れてしまったような気がした。声が上手く出ない。渦巻く言葉だけが頭を埋め尽くしている。
なんで。どうして。ねえ、てんてん、なんで。
「そんな、こと」
言ってるの、と続けようとした言葉がひしゃげた。同時に視界が揺れて、瞬く間に目の前の天馬がにじんでいく。何で、どうして、混乱した一成は自分がどんな顔をしているのかもわからない。笑っているだろうか。いつもみたいにちゃんとオレは笑えている?
「一成」
ゆらゆらと揺れる視界の向こうで、天馬が名前を呼んだ。どんな顔をしているのかはわからない。強い声だけが響く。一成は、笑おうとしたはずだった。唇を上げて、いつもみたいに、笑おうと思った。
「無理に笑うな」
届いた声が、やわらかかった。さっきまでの強さではなく、どこか弱々しささえ感じるような色をしていた。どんな顔をしているのかはわからない。
だけれど、たぶん、と一成は思った。
真剣な顔で、ちょっとだけ困ったみたいに、だけれどきちんとオレを見ている。戸惑っているかもしれないけど、呆れてはない。どうしたらいいと思っているかもしれないけど、拒絶してるわけじゃない。きっと、テンテンは、真っ直ぐオレを見ている。
「ちゃんと泣け」
命令口調だったけれど、どうしようもなくやさしい響きをしていた。普段の天馬からは想像がつかないくらい、どこまでもやわらかかった。にじむ視界で、ぼろぼろと崩れていく世界で、やっと一成は理解する。この頬を伝っていくものは、あふれてこぼれていくものは、オレの涙だ。
「――っ」
事態を把握した途端、一層涙がぽろぽろと落ちて行き、一成は戸惑う。
ぱたぱた、と雫が手の甲に落ちて冷える。何かを言おうと思ったのに、喉が潰れてしまったように声が上手く出ない。戸惑いを浮かべたまま、ただ流れていく涙をそのままにしているしか出来なかった。
次々と雫が落ちていく。目の端から盛り上がり、見る間に大きくなると、滑らかに頬を伝っていく。澄んだ緑色の瞳から、ただ静かに。音もなく、はらはらと落下していく。
一成は何も言わなかった。声を上げることもなく、泣き喚くこともなく、ただ静かに丸い雫を瞳からこぼし続けている。
しばらくの間、天馬はその様子を見つめていることしか出来なかった。何かに耐えるように、声を殺して泣く様子を。睫毛の先に引っかかる、きらきらとした雫を。
そうして沈黙を保っていた天馬だったが、突然思い出したように立ち上がる。
「――一成」
洗ったばかりのハンカチを持ってくると、身じろぎもせずただ涙を流す一成に投げてよこした。わずかの躊躇いの後で、からかいを含んだような言葉とともに。
「泣くの、下手だな」
「……それは、初めて、言われた、かも」
ハンカチを受け取った一成は、ぐす、と鼻を鳴らしながら、か細い声で答える。へらり、と笑ってはいなかった。困惑を浮かべたままの言葉だったので、天馬は満足そうにうなずき、座り直す。そうだ。そういう顔をすればいいのだ。
「妙な笑顔で帰ってくるくらいなら、そうやって泣きながら帰って来いよ」
談話室に一成が入ってきた時、笑顔を貼りつけているのだとわかった。いつもの表情によく似て、だけれどまるで違っている。あれは違う。あんなのは笑顔じゃない。
一成はもっと、心底楽しそうに笑える。世界中の楽しいことを集めたみたいに、どこまでも真っ直ぐと明るく笑えるのに。帰ってきた一成の笑顔は強張った作りものだった。
「何があったのかは知らないけどな。悲しいなら泣けよ」
作り笑顔を浮かべる必要なんてないのだ。悲しみを押し殺して、涙なんてなかったことにして。そうして笑わなくちゃいけない理由は、一つだってない。ここでは一成に笑顔でいることなんて、誰も課してはいないのだ。
「無理して笑わなくていい」
嘘の笑顔を貼りつけた一成を見た時、胸がざわめいた。そんな風に笑わなくていい、と思った。だからここまで連れて来た。彼はきっと、大勢のいる場所で泣くことを決して良しとはしないから。それならこの場所で、二人きりになったここで、ちゃんと泣いてほしかった。
「どうせ上手に笑えてないんだ」
くるくると表情を変えるのが一成という人間だ。明るく馬鹿みたいに笑っていると思えば、些細なことに大袈裟に反応する。嬉しいことがあれば手放しで喜び、リアクションも大きい。
それなのに、こんな風に泣くのだ。まるで、泣き方なんて知らないみたいに。どうやって泣いたらいいのかわからなくて、ただこぼれる涙をそのままにすることしか出来ないみたいに。
泣き喚いたらいいのに、と天馬は思った。
大袈裟に他人を褒める時みたいに、何でもないことを宝物のように語るみたいに。感情全部を出し尽くすみたいに、思い切り声を上げて泣いたらいいのに。そうしたらきっと、もっと簡単に慰めてやれるのに。椋が読んでいた少女漫画に出てくるような甘い言葉だって、きっとかけられるのに。
一成は決してそうしない。声もなく、ただ静かに涙をこぼしているだけだ。身動きもせず、存在まるごと消し去ろうとするみたいに。泣いていることを隠すみたいに、酷い罪を犯してしまったみたいに。
天馬には、それがもどかしくてたまらなかった。泣き方を教わらなかった子どものように見えて、どうしようもなく胸が苦しかった。それでも。
天馬は真っ直ぐと一成へ視線を向ける。ソファに小さく座り、ただ涙を流し続けている姿には、いつもの面影など欠片もない。明るい笑顔も、軽快な調子などどこにもなく、涙だけが頬を伝っている。その様子を見つめた天馬は深呼吸をして、心からの言葉を取り出す。
「下手くそでいいから泣いてくれよ」
これはただの祈りで願望でしかない。
あんな風に、嘘の笑顔を貼りつけるくらいなら。よく出来た偽物の笑顔を浮かべるくらいなら。たとえどんなにもどかしくても、苦しくても、胸が潰れそうになっても。
それでも泣いてくれた方がずっといい。心を殺さないで、涙を飲み込まないで、どんなに下手くそだっていいから泣いてほしかった。
「――てんてん」
小さくつぶやいた一成の声は、細くて弱い。それでも、確かに己の名前を呼んだ。だから、天馬は「何だ」と聞き返す。出来る限りのやさしさを詰めて、自分の知る一番やわらかい声で。
一成はきっと、天馬の心を余す所なく受け取ったのだ。紡がれる祈りも願いも、何もかも。だから、しばらくの沈黙の後、照れくさそうに言う。
「すっげえかっこいいね」
へへ、と一成が笑った。頬を染めて、少し困った風情で。
それはよく出来た笑顔ではなく、心がいっぱいになって思わずあふれたような笑みだった。奥底からにじみだしたものが笑顔の形になったのだとわかるような、そういう笑みだ。天馬は一成の言葉に、ゆっくりと答えを返す。
「当然だろ」
皇天馬だぞ、と言ってやれば「さっすが!」と茶化すように笑うから。決して嘘ではなく、心底楽しそうに笑うから。天馬は内心でほっとして、目の前の一成を見ていた。
*****
しばらくの間、一成はぐすぐすと鼻を鳴らしていたけれど、次第に落ち着きを取り戻していった。呼吸も平静になり、涙の気配が遠くなる。そろそろ大丈夫だろうか、と天馬が思っていると、突然。ふと思い出した、という調子で「あー……」と声を上げた。
「――てか、これ全部みんなにバレてるカンジ?」
オレめっちゃ頑張って普通の顔してたのにー! と天を仰ぐ一成は、すっかりいつもの調子を取り戻していた。まだ涙は残っているし、鼻や目も赤いけれど、普段の一成の様子に近い。立ち直りの早いヤツだな、と苦笑しつつ、天馬は一応答えてやる。
「バレてるのはうちの――夏組の人間だけだろ。他は恐らくわかってない」
談話室に入ってきた一成を見た瞬間、事情を察したのは夏組の人間だけだろう。真っ先に行動を起こした天馬に、不可思議な視線を向けなかったのは彼らだけだったのだから。
一成はその言葉に意味のない声を上げてうめく。全員にバレていなかったことは喜ばしいが、夏組には駄々漏れだったことが恥ずかしいらしい。
「もー、マジ何でバレんの! テンテンたち以外、誰も気づかなかったのに!」
顔をハンカチで覆いながら、足をバタつかせてうめく。
大学の人間も談話室にいた他のメンバーもきっと誰一人気づかなかった。だから、夏組のみんなだって上手く誤魔化せると思ったのに、結果はこうだ。当たり前みたいに、泣き出しそうなことに気づくなんて、とんだ予想外だった。
「オレたちを騙そうなんて、百年早いってことだ」
天馬は一成の言葉に、尊大な態度で答える。何事もなかったような顔で、裏側に涙を押し殺して笑うなんて無理なのだと理解すればいいと思いながら。泣き出すのをこらえているんだってわかってしまうのだと、身に沁みて知ればいいと思いながら。
「精々しっかり慰められるんだな」
しばらくすれば、椋や三角、恐らく幸もこの部屋を訪れるだろう、と予想しながら天馬は告げる。
椋は温かい飲み物を持って、「かずくん、大丈夫?」と言うだろう。三角は選りすぐりの三角を持ってきて、「かず、元気出して~」と大事な三角を手渡してくれる。幸は「ついでに来ただけだから」なんて言いながら、一成の話をきちんと聞いてくれる。
恐らく一成も、大よそ同じ予想をしたのだろう。ハンカチを取り、真顔でつぶやく。
「……無理、恥ずかしすぎ」
「観念しろ」
重めのトーンで吐き出された言葉に、天馬は軽快に言葉を返す。そうやって、ぐだぐだに甘やかされて慰められてしまえばいいのだ。明るくてよく笑う、泣くのが下手な目の前の人間は。慰められるのに慣れていない、笑っている方がよっぽど簡単だ、なんて人間は。
思っていると、一成が突然ぱっと顔を上げて言う。
「じゃあ、テンテンにもめっちゃ慰めてもらお!」
真顔で何事かを考えていたと思えば、放たれたのはそんな言葉だ。どうやら開き直ったらしい。「よろピコ☆」と告げる一成は、満面の笑みを浮かべていた。
「天下の皇天馬だし? ちょーカッコイイ慰め方してくれるっしょ?」
もうマジテンテンかっこいい! 抱いて! ってなるやつな! と続く言葉は、天馬にとって挑戦状と同義語だった。そこまで言われたら、中途半端なことは出来まい。恐らく一成はそれをわかっているし、天馬とて挑発に乗せられていることは重々承知していたのだけれど。
「覚悟しろよ、一成」
「もち!」
楽しそうな、よし来い! と言わんばかりの様子に思わず笑みがこぼれる。同時に、皇天馬の本領発揮で慰めてやる、と決意を固める。そのためのあれこれを算段していると、ドアがノックされた。椋たちが来たのだろうと、返事をしようとしたのだけれど。
「あ、テンテン、ハンカチありがと♪」
助かったよん、と言いながら一成が立ち上がってハンカチを手渡すので、声をかけるのが遅れた。その一瞬だった。影が落ちた、と思った次の瞬間、唇にやわらかいものが触れる。
咄嗟のことに反応出来ず固まっている間に、唇が離れていく。至近距離にあった一成の顔が遠ざかる。綺麗な顔だ、と場違いに思っていると、ばっちり決まったウィンクを寄越して言った。
「続きは後でね♪」
悪戯っぽくそれだけ告げると、「今開けるよん」と扉の方へ歩いていく。天馬はソファに崩れ落ちながら、一成の後ろ姿を見ているしか出来ない。
呆然としている間に、一成が扉を開けた。予想通りのメンバーだったようで、お盆を持った椋と付き添ってきた幸、三角の姿が見える。
「天馬くん、みんなの分も持って来たんです。だからここでお茶を――ってどうしたの!?」
真っ赤な顔で動けない天馬を見つけた椋が叫ぶので、「何でもない」と必死で言い募るしかなかったのだけれど。それを見ている一成が照れくさそうに、だけれどやわらかく笑っているから。まあいいか、なんて思ってしまうのは、きっと惚れた弱みなのだろう。
END
泣くのが下手な一成の話
ACT1時点で書いたので、九門くんはいません。九門くんはリラックスグッズとか気分転換になりそうなもの持ってきてくれそう