向日葵畑で待ち合わせ 後編



 失敗した。
 玄関の扉を開けると冷たい視線を向ける両親が立っていて、一成の血の気がざっと引く。一成が帰ったところで、誰も反応しないのが常だ。こんな風に玄関で帰宅を待ち構えているなんて、叱責される時しか思い当たらない。
 何がバレた? 講義をサボっていること? 最近帰りが遅いこと? 内緒でアルバイトをしていたこと? 本屋に行くと言って画材屋に出掛けたこと? それとも――。
 思考がぐるぐると回って、体が硬直する。思い当たることはたくさんある。一体どれを指しているのかわからないけれど、自分が失敗してしまったことだけは理解できた。

「こっちに来なさい」

 動けない一成にしびれを切らしたように、父親が腕を引いた。もつれるように玄関へ上がると、そのまま強い力でリビングまで連れていかれる。
 突き飛ばすようにソファへ放り出され、一成は目を白黒させるけれど。ソファの前のローテーブルに目が釘付けになる。そこには、一成が描いていた向日葵畑の絵があった。
 失敗した、と思った。
 天馬に贈る絵を描くのに、圧倒的に時間が足りなかった。昨日は一日大学で描き続けていたものの終わらなくて、こっそり自宅に絵を持ち返ったのだ。
 今日中にラストスパートを掛けて、明日には天馬のもとへ持っていくつもりだった。家族は一成に興味がないから、二、三日なら隠しておけると思った。それなのに。

「本屋に行くなんて言うのも嘘なのね。こんなもの買ってきて」

 とげとげしい声で言った母親は、一成の鞄から画材屋の袋を取り出していた。持っていた鞄は玄関に置いてきたと思ったけれど、しっかり回収して中身を確認していたらしい。
 袋から出てきたのは、白の水彩絵の具だ。もともと容量の少ないタイプを買ったこともあり、理想の色を作るためにあれこれと試した結果、思いの外早くになくなってしまった。白がないと絵が進まないので、画材屋へ買いに行った。
 ただ、素直に行き先を告げても許されるはずがないので、本屋に行くと嘘を吐いた。今日は父親も休みだったので、決してバレないよう慎重に言葉を選んで。それなのに一体どうして、と混乱するしかない。

「一成」

 低い声で名前を呼ばれて、一成は肩を震わせる。青ざめた顔で父親へ目を向けると、温度のないまなざしが一成をとらえた。体が強張る。
 一成は一度だって暴力をふるわれたことはない。だけれど、この目で見つめられると体がすくんでしまう。まなざし一つで、一成がどうにか立っていようとする意志だとか、そういうものを根こそぎ奪っていく。

「嘘を吐いているのはこれだけじゃないだろう」

 淡々としているけれど、奥底には強い感情が宿っている。ただ、それは単純な憤怒ではない。苛立ちや怒りに混じるのは、一成に対する強い失望だ。
 その事実を感じ取り、一成の心臓がどくどくと早鐘を打つ。
 失望された。期待なんかされてないのは知ってたけど。それでも、細い糸でどうにかつながっていた何かが、ぷつりと切れた。かろうじて残っていたものが、なくなってしまった。オレは失敗した。
 恐怖にも似たものが全身を覆って、唇が開かない。見捨てられる。要らないって思われる。
 何も言わない一成の態度は、反抗のあらわれだと思ったのかもしれない。父親は少し語気を強めて言った。

「勉強会へ行っている、なんて言っていたが全部嘘だということはわかっている」
「お姉ちゃんに聞いたのよ。あなたが言ってた先生、今は海外へ行っているそうじゃない。勉強会なんてしてる暇はないって聞いたわ」

 続いた母親の言葉に、一成はどうにか事態を理解する。
 告げ口だったらもっと早くに言っているだろうから、何の気なしに一成の勉強会について話をしたのだろう。その先生は今海外に行ってるはずだけど、なんて。単なる雑談程度の話だから、きっと姉は言ったことすら忘れている。
 恐らく姉の言葉から一成の嘘に気づいて、何をしているのかと情報を探るため一成の部屋に入ったのだろう。部屋中を探して、クローゼットに隠していた絵を見つけたのだ。衣替え用の段ボールの奥底に、画材一式と一緒に隠しておいたのに。

「大学にも確認を取ったら、そもそも外部から人を招いた勉強会なんてしていないじゃないの。こんな嘘を吐いて、あなた何を考えてるの。恥ずかしい」

 叩きつけるような言葉に、一成はかろうじて「ごめんなさい」とこぼした。嘘を吐いていたのは事実だから、謝るしかない。小さな声はかすれて震えていた。

「嘘まで吐いて一体何をしてたんだ。どうせロクなことじゃないんだろう」

 冷淡な父親の声。ぎゅっと拳を握りしめて、一成はもう一度「ごめんなさい」と言った。
 嘘を吐いた。絵を描いた。許されない行為だ。両親への裏切りだ。オレはひどい間違いを犯した。罪悪感に押しつぶされそうになりながら、一成は何度も「ごめんなさい」と言葉を吐き出し続けた。
 すると、父親が大きな溜め息を吐いた。うなだれていた一成が顔を上げると、父親はちらり、と絵に視線を向けると言葉を吐き捨てる。

「嘘を吐いただけじゃなく、こんなものを隠れて描いているとは。どうして絵なんか描いてるんだ」

 心底理解できない、といった表情だった。無知蒙昧で浅はかな、ひどく劣った存在への蔑みがありありと浮かんでいる。
 実際、両親にとって絵を描く人間なんて理解できないのだ。何の役にも立たないものに、時間と労力をかけるなんて愚かな行為でしかないから。

「芙蓉大にしか行けなかったんだ。絵なんか描いてる時間があるなら、もっと勉強ができるだろう。少しはお姉ちゃんを見習いなさい」

 優秀な成績で東大に合格し、現在はロースクールに通う姉。両親の望んだ道を順調に歩き続ける。いつだって一成より優秀で、何だってできる人だった。
 一成はそんな姉を尊敬していたし、自慢にも思っていた。だけれど、成長するにつれ自分と姉の差を思い知ることになる。決して姉のようにはなれない。姉と同じ道は歩けない。懸命にあとを追おうと思ったけれど、どうしたってできないものがあると思い知らされた。
 それでも、努力しなくてはならなかった。両親に許されているのはこの道だけだから、何もかもを捨てて同じ道を歩かなくてはいけなかった。

「あなたは昔からそう。勉強を教えているのに、落書きばっかりして。美術の成績が良くて何の役に立つっていうの」

 苛立ちをあらわにした言葉に、一成の頭に思い浮かぶのは図工の授業だ。写生大会で近くの公園を訪れた。大きなクスノキを画用紙いっぱいに描いた。
 緑にも濃淡があることを知り、いろんな色を混ぜてたくさんの緑で目の前の風景を描いた。担任は「よく見てるね」と褒めてくれたし、一成の絵は金賞に選ばれた。
 その頃は、姉との違いが段々と顕著になっていた時だった。金賞をもらったのだと言えば、喜んでくれるかも、褒めてくれるかも。期待した一成を待っていたのは「そんなものに時間を使うなんて!」という叱責だった。
 あの絵はどうなったんだっけ、とぼんやり一成は思った。絵を描くことがどれほど罪深い行為か、という母親の言葉は上手く耳に入らない。ちゃんと聞かなくちゃいけないと思っているのに。

「三好家の人間なら、こんなものは要らないだろう」

 母親の話は一段落したのか、重々しく父親が口を開いた。こんなもの、と言って手を伸ばしたのは一成の絵だ。
 全体の着色は終わっているけれど、細かい部分はこれからさらに色を重ねるつもりだった。
 くっきりとした青空に、あざやかな向日葵。あの油絵には遠く及ばなくても、夏の光を含んだ景色を描いた。天馬と過ごした、全ての時間をそっと仕舞いこんだ。
 この絵を見れば、きっと自分との時間を思い出してくれると信じて。
 父親は未完成の絵を手に取る。ちらりと一瞬だけ視線を向けた後、真ん中から引き裂いた。そのまま、さらに細かく向日葵畑が千切れていく様子を、一成は見つめていた。
 ああ、そうだ。金賞を取った絵も破られて捨てられたんだっけ。ぼんやりと一成は思い出す。中学の時もそうだった。
 芙蓉中学から芙蓉高校への内部進学に必要なだけの成績は、充分に取っていた。だから少し油断して、絵を描くことに没頭した。結果、いつもは一位しか取っていない試験順位が少し下がってしまい、両親にひどく怒られた。
 東大へ入るのに、一位以外は許されない。お姉ちゃんは一位しか取っていなかった。絵なんか描いているからだ。
 絵の道具はみんな没収されて、描き溜めた絵は目の前でゴミ袋に詰められた。

「これだからお前は出来損ないなんだ。絵なんか描いてどうしようもない」

 びりびりに破かれた絵がローテーブルに散っている。一成はただそれを見つめている。青空と向日葵。夏の空気。何もかもが輝く風景。全てがみんな、千切れてしまった。

「お前にどれだけ投資したと思ってるんだ。家庭教師もつけて塾にも行かせた。それなのに、お前は全てを無駄にしたんだ。失敗作の自覚があるなら、こんなものを描けるはずがない」

 こんなもの、と言って千切れた紙片をぐしゃりとつぶした。思い描けばそれだけで心に光が満ちるような。まばゆい景色が、目の前で握りつぶされる。

「本当よ。お姉ちゃんは何も言わなくたって成果を出したわ。あなたはどうしてちゃんとできないの。こんなことなら、お姉ちゃん一人だけで充分だったじゃない」

 はあ、と大きな溜め息と共に母親がこぼした。それは本当に心の底から、という声だった。憎しみだとか嫌悪だとかは一切なくて、ただの事実をこぼす声。
 聞いてはいけないと思った。耳に入れてはいけない。いつだって取り出せる、あの向日葵畑に心を向けようと思った。だけれど、それは少しだけ遅かった。母親の言葉が、一成の耳に届く。

「あなたなんて、生まなきゃよかったわ」

 落ち着いた声だった。嫌悪すらなかった。憎悪すらなかった。一成に向けられるものは何一つなくて、ただ後悔するだけの言葉に、何かがぽきん、と折れる音がした。

 そうか、と思った。見捨てられる。要らないって言われる。そう思っていたけれど、本当は違った。最初から、オレは要らなかったんだ。生まれてきたことが間違いだったんだ。
 全ての景色が遠ざかる気がした。自分がどこに座っているのかもよくわからない。見慣れたリビングも、両親の顔も、何もかもが遠くにあって、ただ思い出すものは、青空と向日葵畑だった。
 ギャラリーの扉を開ければ、いつだってそこにいてくれた。一成を出迎えてくれた。向日葵畑で、太陽よりもまぶしく笑う人。
 テンテン、と名前を呼んだ。
 たった数日分の時間を一緒に過ごしてきただけだ。十九年の何分の一だろう。わかっていても、思い出すものは今までの人生で一番に輝いている。
 だって、テンテンは笑ってくれた。オレの絵を見て、すごいなって言ってくれた。一枚ずつ、どんな気持ちで描いたかを聞いてくれた。一つだって蔑ろにせず、興味深そうに相槌を打って「面白いな」なんて言って。
 そうして、お前の絵がもっと見たいと、お前の見てる世界はきれいだと。一成の絵が好きだと言ってくれた。
 天馬はどこまでも真っ直ぐと、一成の世界を大事にしてくれた。見ているもの、感じたもの、心が動いた瞬間。一成を形作る世界を丸ごと全部受け入れて笑ってくれた。

(一成と舞台に立ってみたいな)

 天馬の言葉を、表情を思い出す。やさしい声で、にじみだすような光で言ってくれたことを、一成はずっと覚えている。
 だって天馬は、天馬の大事な場所に一成がいてくれたらいいと言ってくれた。一成の世界を受け入れただけではなく、天馬の世界にだって一成の居場所を作ってくれた。
 その事実に、一成は心で呼びかける。目の前にはいない。同じ世界にすら生きていない。それでもきっと答えてくれる。一成の心を受け止めてくれる人に向かって。
 オレもさ、テンテンと舞台に立ってみたい。アラジンとして、夏組のみんなと一緒にあの物語を演じたい。ねえ、テンテン、そこにオレの居場所はあるのかなぁ。
 天馬の笑顔を思い浮かべる。紫色の美しい瞳を、「一成」と呼ぶ声を、二人で過ごした時間を思い出す。たった一つ、それだけしか知らないみたいに。握りしめるみたいに、すがりつくみたいに、一成はそっと心で声をこぼす。
 両親の望みすら叶えられない。望まれてなんかいなかった。本当は生まれてきてはいけなかった。何もかもが間違いだった。それでも。

 そこならオレは、生きていてもいいのかなぁ。