向日葵畑で待ち合わせ 後編




 旅行鞄へ必要なものを詰めていく。持っていくものなんて、大してない。スマートフォンも財布も取り上げられているし、一成名義の通帳はあってもキャッシュカードは管理されている。
 少額だったおかげで見逃されたアルバイト代の残りと、洋服などの着替え、手になじんだ鉛筆やノートなどの筆記具を鞄に詰めれば、それで終わりだった。
 こっそり隠していた画集も見つかって処分されている。本棚に残っているのは、実用書の類くらいだろう。本を読むことは好きだったから、嫌な思い出があるわけではないけれど、全てを持っていくことはできない。
 どの本を持って行くかを考える時間も惜しくて、一成は結局どの本も持たずに部屋を出た。
 階段を勢いよく駆け下りるけれど、誰かが出てくることはない。父親は仕事、姉はロースクール。普段は家にいる母親が、カルチャースクールのために家を空けていたことは幸運だった。
 一成はリビングに入り、部屋で書いた置き手紙を目につくところに置いた。それから、いつもの靴を履いて、玄関の取っ手に手を掛けた。

 オレのところに来い、という言葉に一成はうなずいた。もっと熟慮するべきだ、慎重にならなくてはいけない。常識はそうささやいたけれど、一成に迷いはなかった。
 だって、どれだけ考えたって、思いを巡らせたって、同じ結論になる。そうすることが当然のように、ずっと前から決められていたように、一成はうなずいた。イエス以外の選択なんてなかった。
 天馬は「必要な物ならそろえてやる」とは言ったけれど、さすがに全部世話になるのはどうかと思ったし、愛用の筆記具だけは持っていきたかった。
 それに、何も言わずにいなくなれば事件を疑われるかもしれない。自分の意志で家を出たのだということさえわかれば、おおごとにはしないだろうという予想はついた。だから、少しだけ家に帰りたい、と言ったのだ。
 家に誰もいないことはわかっていたし、合鍵なら持っている。誰にも知られず、必要なものを持ち出すことはできるとわかっていた。
 天馬は少しだけ考えたあとうなずいて、「待ってる」と言ってくれたので、一成は急いで家まで戻ってきた。それから、嵐のように鞄へ荷物を放り込み、必要なことを書いた手紙を置いて、慌ただしく家を飛び出そうとしている。

 天馬が合宿所を離れるまでは、あと一日ある。だからそんなに慌てなくても、ちゃんと天馬に会えるはずだとは思うけれど、何が起きるかわからないから早く戻りたかった。
 何かの手違いで、キャンバスが閉ざされてしまうかもしれない。ギャラリーがなくなってしまうかもしれない。さっきのやり取りが最後になってしまうかもしれない。
 頭に浮かぶ可能性が怖くて、一成は逸る気持ちで玄関の扉を開けた。
 鍵を掛けて、玄関アプローチを走り抜ける。生まれた時から何度もくぐってきた門を通り、見慣れた道路に降り立った。そのまま一成は走り出す。
 一目散に前だけを見て、決して後ろは振り返らなかった。




 ◆ ◆ ◆




 ギャラリーへ飛び込んできた一成に、オーナーはわずかに目を丸くした。ただ、すぐに落ち着きを取り戻すと、ぜいぜい、と息を切らす一成を静かに見つめている。

「――あの、お金、ありがとうございました」

 どうにか息を整えた一成は、オーナーにお金を差し出す。さっき借りた電車賃だった。
 天馬の言葉を受けて家に戻ろうとしたところで、一成は気づいたのだ。ギャラリーから自宅までは電車の距離だ。しかし、一成は定期を持っていないしましてお金もない。
 歩いて帰れないわけではないけれど、相当時間がかかる。母親が帰ってくるかもしれないし、何よりもその間に何かあって、天馬とのつながりが途絶えてしまうのが怖い。
 できるだけ早く帰るためにはどうしたらいいのかと考えて、だめ元でオーナーにお金を貸してくれないかと聞いてみた。すると、あっさりうなずいてくれたのだ。
 おかげで、早く戻ってくることができた。心からの感謝の気持ちでお金を差し出すけれど、オーナーはゆるやかに首を振った。

「これは差し上げたものですので。お返しいただく必要はございません」
「でも、そんなわけには……。あの、いろいろ迷惑とか掛けちゃうかもしれないし……」

 後半はやや尻すぼみになってしまったのは、これからのことを考えたからだ。
 天馬のところに行く、ということはつまりこの世界から一成がいなくなることを示している。この部屋に入ってから、一成が出てくることはないのだ。オーナーが不審に思う可能性は高い。
 それに、万が一誰かが一成の足取りを追った場合、最終地点はこのギャラリーになってしまう。オーナーのことをわずらわせてしまうかもしれない。両親のことだから、世間体を気にして家出をしたなんてことは言わないし、警察にも届けないだろうから可能性は低いだろうけれど。
 どれだけ馬鹿げた話だとしても、せめてオーナーにはきちんと言わなくてはいけないのではないか、と一成は思った。あの絵の持ち主はオーナーなのだし、不思議な現象自体もまるで知らないわけではないかもしれないし。
 そう思って口を開きかけたところで、先に声を発したのはオーナーだった。

「あちらでは何かと入用でしょうから、餞別と思ってお受け取りください」

 ニコニコとした笑顔で言われて、一成はオーナーをまじまじと見つめた。あちらだとか餞別だとか、まるで一成がここからどこかへ旅立つことを知っているような物言いだったからだ。
 言葉を失っていると、オーナーはいっそう笑みを深めて言った。

「行きたいところに行くためのお手伝いができれば、本望でございますから」

 嬉しそうな言葉に、さすがに一成は察した。
 不思議なギャラリーだとは思っていたし、実際信じられないことが起こっている。知らないわけではないだろうと思ったけれど、そもそも全ての奇妙な出来事はオーナー由来なのかもしれない。

「それに、今日にはここを閉めて次の街へ向かう予定でございました。お気になさりませんよう」

 淡々とした調子の言葉は、言外に誰かが一成の足取りを辿ることは不可能だと告げている。万が一探ろうとしても、そもそもここには店がないからオーナーに辿り着くこともできない。だから、迷惑をかけられることもないとオーナーは言っている。
 一成は思わず笑みをこぼした。自分の心配なんて、きっと全部お見通しだったんだろうな、と思ったからだ。
 オーナーは一成の反応に満足そうにうなずいたあと、「それでは」と言った。声の調子を変えて、うやうやしい響きで。

「いつもの通り絵をご用意いたしました。どうぞ、いってらっしゃいませ」




 ◆ ◆ ◆




 油絵だったものが、たちまち現実へと変わっていく。あちらとこちらがつながって、天馬が駆け寄ってくるのと同時に一成は尋ねた。

「どれくらい経った感じ?」
「二十分程度だ。日はまたいでない」
「よかった~! さすがに当日だと何かギリすぎるじゃん?」

 茶化した口調で言うものの、一成は心底ほっとしていた。
 無事に天馬の世界とつながった。天馬のところへ行くのだと決めたのに、全てが幻のように消えてしまったら、と思うと怖かった。だけれど、今目の前にはちゃんと天馬がいる。絵の世界ではなく、間違いなく天馬がいるのだ。

「――本当にいいんだな」

 鞄を手にした一成の姿に、天馬は真剣な調子で尋ねた。
 一成のことを疑っていたわけではないけれど、「少しだけ家に帰りたい」と言われた時もう戻ってこない可能性は考えていた。
 なにせ、天馬は今までの全てを捨てろと言ったのだ。あの時はうなずいたとしても、冷静になった時にそんなことはできない、と思っても仕方がないと思った。
 しかし、一成は戻ってきた。鞄を携えて、全てを捨てる決意で。

「良くなかったら戻って来ないっしょ。まあ、ほら、日本語も通じるし、同じようなところもあるし平気じゃん? 時間の流れちょっと違ってるから、もしかしたらオレそっち行ったらめっちゃ年取ってるとかかもだけど」

 あはは、と笑い飛ばして言うけれど、いつもよりも口調が速い。恐らく不安があるのだろう、と天馬は思うしそれも当然だ。だから、天馬はいつものような声で、きっぱりと言った。

「言い出したのはオレだからな。何があっても責任は取ってやる」

 一成に「こっちへ来い」と言った時から決めていたことだ。何があってもどんなことがあっても、一成の味方でいる覚悟がなければ「来い」だなんて言う資格はない。
 だから、一成が決めたのなら同時に天馬だって決めたのだ。何があっても自分が責任を取ると。どんなことがあっても、一成の味方でいると。

「――はは、テンテンってばカッコイイ~」

 いつもの笑み似て、だけれどどこか泣きそうな表情で一成は言う。それから、深呼吸をすると一歩足を踏み出した。
 キャンバスを挟んで向かい合う天馬のもとへ、一歩ずつ近づく。等身大の姿見のように切り取られた、夏の世界。一成は境界線の手前で立ち止まった。
 ゆるやかに風が流れて、熱い空気が一成の頬を撫でた。十二月の今感じるはずのない、夏の気配。
 天馬のいる世界が、絶対的にこことは違う事実を伝えている。真正面の天馬をじっと見つめると、天馬は無言で手を差し出した。
 この手を取って、キャンバスの境界線を越えれば、一成はあちらの世界へ辿り着く。
 ドキドキと鳴る心臓の音を聞く一成は、これがオレの答えだ、と思う。自分で決めた。自分で選んだ。今まで何一つ決めたことのなかった、オレの答え。
 理性は馬鹿げた選択だと言っている。これまでの人生を全部捨て去るなんて。天馬しか一成を知ることのない世界へ行くだなんて。絵の中の世界で生きようとするなんて。常識的に考えれば、馬鹿みたいな選択をしていることはわかっている。
 もしかしたら、いつか自分の選択を後悔する日が来るかもしれない。そう思うと、血の気が引くような気がした。落ち着かなくて、胸がざわついて、何もかもから逃げ出したくなる。
 自分で決めて自分の道を進むことは、こんなに怖い。決められた道はきっと安全だ。言われたルートを進んだら、何も考えなくていい。間違うこともきっとない。
 わかっていたけれど、それでも一成の答えは変わらない。間違いでも、正しくなくても、いつか後悔するとしても、それでもいいんだ。
 向日葵畑にたたずむ天馬を見つめた。あざやかなオレンジ色の髪に、見とれるほど整った顔。強い光を宿す、紫色の瞳の美しさ。太陽よりも強く輝くまばゆさで笑う人。
 オレの心を受け取って、まるごと認めて受け入れた。オレの居場所を作ってくれた。オレの居場所はそこだった。震えるような心で、一成は思っている。
 オレの一生全部、この一瞬のためでいい。
 間違ってても正しくなくても、今日だけが全てでいい。これから先の未来が、たとえ全部後悔だらけの日々だったとしても、この瞬間が全てでいい。だって。

――テンテンに出会うため、この手を取るためにオレの人生全部があったんだ。

 揺るぎのない答えを確かめた一成は、差し出された手を握った。大きくてがっしりとした感触、確かな温みが伝わる。
 天馬は強く握り返すのと同時に勢いよく手を引き、一成は呼応するように足を踏み出す。
 今までずっと、向き合う二人の間にあった線。四角く切り取られたキャンバス。あちらとこちらを隔てていた境界線を越えて、一成は向日葵畑へ降り立った。

 その瞬間、周囲をぶわりと熱気が包んだ。土の匂いがしている。蝉の鳴く声がする。太陽の光が容赦なく照りつけ、じりじりと肌を焼く。確かな夏の気配に、一成は思わず言った。

「夏じゃん!」
「夏だよ」

 つないだ手をそっと離すと、天馬は苦笑を浮かべて言う。
 十二月からやって来た一成からすれば不思議な話だろうけれど、天馬はずっとここにいたから当たり前のことでしかない。力強い太陽も、熱をはらんだ空気も、うるさいほどの蝉の声も、全てはずっとここにあったものだ。
 一成は「あっつ~」と言いながら、ぱたぱたと襟元から空気を送る。少しだけ考えたあと、上に着ていた服を脱ぎ、長袖Tシャツ一枚になって腕をまくっている。確かに、冬の出で立ちではあまりにも暑すぎる。
 一成は興味深そうに周囲を見渡すと、しみじみとした調子で言う。

「うわ、マジで絵と一緒だ。絵の中じゃん」
「絵の中じゃない。これが現実なんだよ」

 重々しい響きで、天馬は答えた。だって一成はこちらの世界を選んだ。つまり、これから先一成が生きるのはこの場所なのだから、ここが一成の現実だ。
 一成は天馬の言葉に、少しだけ黙ったあと笑みを浮かべた。いつもの明るい笑顔ではなく、やわらかな光を宿して。どこかくすぐったそうに「そだね」と言う。

「テンテンのいる場所が、オレの現実だもんね」

 照れたような調子で、わずかにまなじりを染めて言うものだから天馬の心はざわざわと落ち着かない。ただ、それは決して嫌なものではない。胸の奥をくすぐるような、どこか甘さを感じさせる類のものだった。

「てか、オレ別に変わってないよね!? 実は年取ってたりとかする!? 浦島太郎現象的な!」

 一転して騒がしい雰囲気で一成が言うので、天馬は「別に変わってないぞ」と答える。境界線を越えた瞬間年取ったらどうしよう、と一成は心配していたようだけれど、見た目に変化はなかった。
 ただ、何だか心配してるらしいのであとで健康診断でも受けさせるべきか、なんて天馬は思っていた。

「よかった~。にしても、あらためて見るとすげー怪しいね」

 ほっと胸を撫で下ろした一成が言ったのは、目の前の油絵だ。後ろに支えでもあるのか、キャンバスは向日葵畑の中に自立している。
 実寸大で描かれるのは、クリーム色の壁と象牙色の床に囲まれて、一組の椅子と机があるだけの空間。見慣れたギャラリーの一室が油絵になっている、ということも不思議ではある。ただ根本的に、こんな所に一枚絵があること自体、怪しいことこの上なかった。

「テンテンさ、マジでよく話しかけたよね。オレだったら絶対ためらうんだけど」

 ただの絵でも充分怪しいのに、さらにその絵が現実に変化したとなれば、見なかったことにして現場を離れる可能性が高い、と一成は思う。それが天馬は近づいて自分から話しかけてきたのだ。

「さすがテンテン、そういうところ勇気あるよねん」
「……」

 心からの賞賛を込めて言えば、妙な沈黙が流れた。「ん?」と思っていると、天馬は何かを考える素振りで口を開いた。

「……絵の段階で、こいつは何考えてんだろうなって思ったんだよ。だから、話が聞けるなら聞いてみたいと思って話しかけた」
「なる~。まあ、何かわりと意味深っぽい構図だしねん」

 シンプルな部屋に、青年が一人で座っている絵だ。向日葵畑がメインに見える天馬の絵と違って、どちらかと言えば一成がメインに見えるのだろう。だから、その絵の人間が何を考えているのかと思って天馬は声を掛けたらしい。
 そんなにオレって何考えてるかわかんない感じに描いてあったのかな、と一成は思うけれど。実際にその絵を見たわけではないから、よくわからなかった。
 もう少し絵について聞いてみようかな、と思っていると、それより早く天馬が口を開く。強い口調で、きっぱりと告げる。

「一成、合宿所に戻るぞ。ひとまず、お前のことを監督や夏組に言わないといけない」
「おけまる! うわ、めっちゃ緊張してきた。オレ上手くやれるかな!?」

 話にだけは聞いていた夏組や監督と顔を合わせる、ということに気づいて一成は何だか緊張してくる。その反応に天馬は「お前なら大丈夫だ」と笑った。心からそう思って疑っていないとわかる、真っ直ぐとした笑みだった。
 それを見ているだけで、一成の心はすっと落ち着きを取り戻す。天馬が何より信じてくれるなら、きっと大丈夫だと思えたからだ。
 こくりと一成がうなずけば、天馬はもう一度「心配するな」と言ってから、スマートフォンを取り出した。地図アプリを起動して、合宿所までのルート案内を開始させる様子に、一成はふとした疑問で口を開く。

「テンテン、毎回ナビ使ってんの? 合宿所までの道めっちゃ複雑とか?」
「……念には念を入れてるだけだ」

 ぼそり、と答える天馬は決まり悪げだった。加えて、アプリに表示されている地図を見れば合宿所までの道が特別入り組んでいるということはない。一成であれば、一度通れば覚えてしまうに違いなかった。
 なので、もしかして、と思って一成は尋ねた。

「テンテン方向音痴……?」
「違う! ときどき地図と違う方向に出るだけだ!」
「それを方向音痴って言うんじゃないかな~」

 からからと笑いながら言うと、天馬は不服そうな雰囲気を流すけれど。楽しそうな一成の様子に釣られたのか、結局笑みを浮かべている。
 二人は何でもない話しながら、合宿所へ向かって歩き出した。向日葵畑の中を隣同士で進む背中は次第に小さくなり、やがては見えなくなる。

 人の気配が消えた向日葵畑に、風がそよぐ。太陽の光を浴びて燦然と咲き誇る、大輪の花たち。それに紛れるように置かれている一枚のキャンバス。
 ギャラリーの一室を描いた絵は、しばらくの間太陽の光を受けてから、役目を終えたようにゆっくりと消えていった。











END

一成のいない世界の天馬と、MANKAIカンパニーのない世界の一成が出会う話
世界を捨てる話でもあるので、これは広義の駆け落ち