楽園プレゼンテーション




「テンテンが手を出してくれない」

 カフェの奥まった席で、一成は重々しく言った。
 周囲に人がいないことを確認したあとで、やけに深刻そうな顔で口を開いたかと思えば、飛び出したのはそんな台詞である。すわどんな一大事だ、と身構えていた万里は、心から思った。面倒くさいことになる予感しかしねぇ。

「付き合ってもうすぐ一年なんだよねん。はじめてちゅーするまで結構長かったし、テンテンのペースもあるのかな?とは思うんだけど、そろそろ先に進みたいなって」

 一成は真顔で淡々と言葉を続けるけれど、向かいに座った万里は一成のおごりだというオリジナルコーヒーに意識を向けていた。
 産地からこだわったオリジナル配合の豆つってたな。帰りに買ってくか。ちょい高めの豆も結構扱ってるっぽいし、色々楽しめそうだな。
 思いながら、周囲へ視線を向ける。初めて来るカフェは、全体的に高級な雰囲気を漂わせている。カフェというよりレストランといった趣で、座席一つ一つが革張りの立派な椅子だし、空間も広く取られていた。
 落ち着いた時間と空間と共にコーヒーを提供する、というコンセプトであることは、ここに万里を誘った張本人である一成から聞いた。
 夏季休暇中でも大学に行く用事はある。それは万里だけの話ではなく一成も同様だったようで、二人は構内で顔を合わせた。ちょうど帰るところだ、と告げると「ちょっと寄り道してこ!」と言って連れてこられたのがこの店だった。
 多様な情報網を持つ一成なので、万里の知らないカフェに誘ってくれることはしばしばある。今回もその類かと思えば、「ここはオレのおごりだよん」と言われて、さらに「相談したいことがあるんだよねん」と続けたのだ。

 つらつらと、ここに至るまでの経緯に思いを馳せていたのは、端的に言って現実逃避だった。
 目の前のソファに座った一成は、真剣な顔で言葉を述べているけれど、その内容は別に聞きたくもない天馬と一成の進展具合である。
 曰く、初めてのキスは触れるだけの軽いものだったけれど、数をこなしていくうちに他のキスもできるようになった。他のキスというのはつまり、ディープキスだとかそういう類のものだ。ゆっくりとしたペースながら、着実に二人は段階を進めてきたのだろう。
 テンテン段々ちゅーも上手くなってるし、実践すると強いよねん、とか何とか言っているようだけれど聞き流した。別に知りたくない情報である。しかし、一成は構うことなく言葉を続けた。

「だから、結構いい雰囲気になることはあるんだけど、テンテンの理性が強すぎるんだよねん」

 険しい顔でつぶやかれた言葉に、万里は少し意外な気持ちになる。
 何も天馬が衝動のみで動く人物だとは思っていないけれど、天馬は比較的感情が表に出やすい。理性が強すぎる、という評価を受けることはあまりないだろう。
 どういうことだ、という気持ちで思わず一成へ視線を向ける。すると、一成は万里を真っ直ぐ見つめて口を開いた。

「二人で一緒に寝る時とか、ちゅーしよって言ったらしてくれるし、べろちゅーまでオッケーなのに、そのままテンテン寝ちゃうんだよねん。理性強すぎね?」

 そもそも二人で一緒に寝るってなんだよ、と万里は思った。夏組が一成のために添い寝をしてやっていたことは知っているけれど、現在の一成は至って健康で別に添い寝を必要とはしていない。
 まあ、恋人同士だから一緒に寝ても構わないのだろうけれど、どうやら天馬と一成の場合は文字通り「隣同士で睡眠を取る」以外の意味が発生しないらしい。一成としては何やら不本意そうだけれど。

「ゆっきーがいない時とか、むっくんがいない時とか、二人きりになるじゃん? 今日は帰ってこない日だって時は教えてくれるから、ならお泊りしよってなるんだよねん」

 夏組は基本的に、天馬と一成に対しては協力体制である。なので、二人きりになれる時間があればその旨を伝えてくれるようで、結果としてそのままどちらかの部屋に泊まって朝まで過ごすことがあるという。
 二人が恋人として交際していることは、カンパニーの人間なら全員知っている。だからと言って、おおっぴらに人目も構わずいちゃつくような二人ではないので、必然的に二人になった時だけ恋人としての触れ合いが発生するようだ。
 つまり、部屋に二人きりというのは、大手を振って恋人同士の時間を過ごせることを意味している。それはお互いにわかっているようで、二人になればいつにも増してスキンシップを取っているらしい。
 一成曰く、人目のないところならテンテンもいっぱいちゅーしてくれるんだよねん、なので、色々キスもしているのだろう。それは一緒に寝る時にも適用されるらしい。
 あまり広くはないベッドだ。必然的にそれはもう密着することになるし、じゃれあうようなキスを繰り返している内に、次第に口づけが深くなっていくこともある。
 部屋には自分たち以外誰もいない。隙間もないくらいに恋人とくっついて、単なるスキンシップを越えたキスを交わす。深くつながりあおうとするような、明らかな欲を持った口づけ。恐らく二人には間違いようのない熱が灯っているのに。

「『変なことはしないから安心しろ』ってそのまま寝るんだけど、オレはその変なことをしてほしいんだよね!?」

 いっそ悲痛なまでの声で叫ばれて、万里は若干たじろいだ。あまりにも一成の声が切実だったというのと、詳細な状況を聞いて天馬の理性の強さを認識したからだ。
 恋人と密着してベッドに寝ているだけでも、人によっては理性が試される状況だ。深い口づけを交わして相手もその気になっている、なんて全力でGOサインが出ているし、雰囲気も相当艶めいているだろう。にもかかかわらず、天馬は何もしないで寝るのである。何の他意もなく文字通りの意味で。

「――天馬の理性やべぇな」
「でしょ!? まあ、さすがにオレも最後までしてほしいとは言わないけど、でももうちょっと触ってくれてもよくねって」

 真剣な表情の一成の言葉に、冗談の響きは一切なかった。かといって、憤懣やるかたないといった雰囲気でもなく、天馬の態度自体に納得はしているらしい。
 その様子に、万里はいささか不思議な気持ちになる。てっきり、まったく手を出してこない天馬に「どういうことなのか」と憤っているのかと思ったのだけれど、そうでもないらしい。
 元来一成は察しのいい人間である。今も、万里が浮かべたわずかな疑問を拾い上げたようで、一成はゆっくり口を開いた。今までの真剣な顔から一転して、やわらかな笑顔を浮かべて。

「テンテンが何もしないのはさ、オレのこと大事にしてるからっていうのはわかってるんだよねん」

 遠くを見つめるようなまなざしは、恐らく天馬のことを思い浮かべているのだろう。瞳に宿るのはまぎれもない愛おしさで、ここにはいない恋人のことを思っている。一成はゆっくりと、きらきらと光が散るような声で続ける。

「オレが傷ついたり痛い思いをしたりするのが嫌だから何もしないだけで、テンテンはオレのこと、大好きなのは知ってるよん」

 告げる一成の言葉には揺るぎのない確信が含まれていた。もしかしたら天馬は、本当は自分のことが好きじゃないのかもしれない、なんて疑いは微塵もない。
 天馬の愛を疑っていないのだということが如実にわかって、それなら何の問題があるのか、と万里は思うのだけれど。一成はわずかに声を小さくして言った。さっきまでのまばゆさは影を潜めて、深刻な表情で。

「でも、テンテンのストッパー強固すぎるんだよねん。セッツァー、テンテンと何かえっちな話とかしないの? どうしたらテンテンのストッパー外せると思う?」

 心底困った、という顔で一成は尋ねる。冗談やからかいの雰囲気は一切なく、一成が真剣であることは万里もよくわかっている。「相談がある」と言われた時点から、一成が至って真面目に言っていること自体は疑っていないのだ。
 しかしである。相思相愛の恋人同士。相手が手を出してくれない。その理由は、自分を大切にしてくれている結果だから。悩み相談という体を取ってはいるけれど、つまりはお互いがお互いのことがどれだけ大好きなのかという内容で、一般的にこれは惚気の類である。
 正直、さっさと帰りたいと万里は思った。心底面倒くさくて仕方ないし、「知るか」と言って帰ってもいいような気がした。
 悩んでいるのはわかるけれど、別にお互いの間に決定的な齟齬があるわけでもない。二人とも相手のことを心底大切に思い合っていることは事実なのだし、放っておいても勝手にいい所に収まるだろうという気もしていた。

 別に相談に乗るのが嫌だというわけではない。
 一成はいつもテンションが高くてうざ絡みしてくることも多々あれど、何だかんだで年上として頼りになることは知っている。作品に対しても真摯だし、頭の回転が速いので話をするのも楽しい。
 天馬とは感性が似通っているところも多いので、純粋に話が合って面白い。年のわりにピュアだけれど時々妙にシビアなところもあり、人間としても興味深いと思っているし、一緒に過ごす時間は素直に好きだった。二人とも、年齢は違えど万里にとっては大切な友人である。
 そもそも、MANKAIカンパニーの一員として共に舞台を作り上げてきた仲間だ。同じ屋根の下で、起居を共にしながら多くの時間を過ごして、数えきれないほどの大切な記憶を一緒に作ってきた。そんな彼らの力になれることであれば、力になってやりたいと思っている。
 ただ、それとこれとは別に、友人同士の性事情を知りたいかと言えば、万里の場合全力でノーだった。別にそんなことは教えてくれなくていい。
 二人が付き合っていること自体は察していたので、恋人として交際しているという報告に驚くことはなかった。一連の事件で、天馬が一成をどれだけ大切に思っているかはよくわかったし、一成にとって天馬の存在がどれだけ大きいものなのかも感じていた。
 だから、同じように特別な思いを抱きあった二人が手を取り、これから先の人生を共に歩むのだと告げられた時に感じたのは純粋な喜びだった。
 一緒にいることが幸せなのだと思い合う二人の前に、同性同士という事実は些細なことだし、二人のこれからをカンパニーのメンバーは全員心から祝福している。
 それに、万里たちは一成や夏組に起きた酷い現実を知っている。
 一成が通り魔事件の目撃者になったことに端を発する出来事は、彼らに深い傷を残したのだ。謂れのない暴力にさらされ、心を傷つけられて、精神の安定を欠いた姿を知っている。夜に怯えて恐慌を来たし、穏やかな眠りも奪われた。
 一成や夏組に襲いかかった現実の残酷さを知っているからこそ、よりいっそう思うのだ。
 彼らに起きた出来事を跳ね返すくらい、呆れるほど幸せになってほしい。これでもかというくらい、幸せにならなきゃいけない。そのためにできることがあるなら、いくらだって力になってやりたいという気持ちは、一つだって嘘ではない。
 しかし、である。
 だからってどうして、悩みというよりほとんど惚気を聞かされなければならないのか。しかも、二人の関係の進展具合まで教えてくる始末である。
 一成は至って真剣だけれど、万里としては遠い目になってしまうのも仕方ないだろう、と思う。俺は一体何を聞かされてるんだ。

「そろそろ先に進みたいのに、テンテンの理性強すぎるんだよねん。何かいいストッパーの外し方セッツァーなら知ってるかと思って」

 一成とて、天馬のペースがあるならそれを守りたいとは思っているらしい。実際、ゆっくりだとしても少しずつ段階を踏んでステップアップしてきたので、いつか天馬もその気になってくれるだろう、と待っていたのだ。そうでなければ、恐らくもっと早い段階で動いていたのだろう。
 だけれど、あまりにも天馬の理性は強固だった。このままではとても先には進めそうにない、と悟ったからこそ、一成は万里にアドバイスを求めたのだ。
 万里と天馬は連れだって出かけることもよくあるし、仲が良いことはカンパニーのメンバーなら誰でも知っている。その関係で、何か天馬の理性を緩められそうなアドバイスはないか、と聞いているのだ。
 ただ、万里は正直「お前の存在だろ」以外の感想がないので、素直に答えた。

「押し倒せばいいんじゃね」
「確かに、そしたらえっちしてくれるかもしれないけど! でも、ちゃんとテンテンの意志尊重したいじゃん」

 万里の答えは想定内、みたいな返事だったので「やっぱり考えてたんだな」と思った。ただ、一成としてはその選択肢はあまり上位には来ていないようだった。一成は真剣な顔で言葉を続ける。

「テンテンやさしいかんね。オレがそこまでしたら、ちゃんとえっちしてくれるかもしれないけど。でも、そういうことするとテンテンあとで気に病みそうなんだもん。ちゃんと合意の上で、テンテンの意志でしたいの!」

 いささか強い言葉で言い切られて、まあ確かに、と万里は納得する。
 大事にし過ぎて手を出せない、なんて天馬なのだ。いくら一成に押し倒されたからという建前があるとしても、「踏みとどまるべきだったんじゃないか」なんて悩みそうな気はした。
 一成が望んでるんだから別にいいだろ、と万里は思うけれど、天馬は妙なところで真面目である。ちゃんと天馬の意志のもとで前に進まなければ、妙な後悔が残ってしまうのかもしれない。
 その辺はさすが一成というべきか、よくわかってるよな、と素直に感心した。夏組ゆえか、一成の性質か、恋人としての直感か。まあ全部だろうな、と思っていると、一成はふっと視線を下げた。さっきまでの力強さが消えて、どこか弱々しく言葉をこぼす。

「それに、えっちしたいって積極的に思ってるのオレだけかもしれないじゃん……」

 小さな声だった。一成にしては珍しく歯切れが悪く、ぼそぼそと言葉がこぼれ落ちていく。
 天馬に欲を向けられていることは知っているし、本人からも「抱きたい」とは言われている。だけれど、今まで散々いい雰囲気になっても、天馬は一切触れてこなかった。その事実が、どうしても引っかかる。
 天馬の気持ちを疑ってはいないから、大好きでいてくれることは知っている。ただ、具体的な行為への欲求が薄くなっていることだって考えられる。
 天馬からの欲求を直接聞いてから、だいぶ時間が経っているということも関係している。
 最初の内は、天馬も一成との性行為を積極的に考えてくれていたはずだ。だけれど、時間が経つにつれ、一成との性的な接触はなくても構わないという結論に至った可能性もあるのではないか、と思ったのだ。
 艶めいた雰囲気になっても、一成が誘いをかけても、いつも穏やかに「何もしないから安心しろ」と言って笑ってくれることから考えて。
 物憂げな雰囲気に、万里はしばし目をまたたかせる。これはわりと深刻に悩んでいるのかもしれない、と思ったからだ。
 一成が「押し倒す」という選択肢を上位に置いていないのは、天馬の意志云々が大きいのだろう。ただ、万が一天馬があまり乗り気ではない反応をしたら、と思ってためらっていることも無関係ではないはずだ。
 天馬は一成の気持ちを汲んで、事には及んでくれるかもしれない。だけれど、それは天馬の気遣いの結果だったらどうしよう、という一抹の不安が拭えない。
 この点に関しては惚気云々ではなく、純粋な悩みという様相だ。まあ、それでも万里からすれば取り越し苦労だろ、としか思えないのだけれど、少なくとも惚気よりは深刻そうだ。
 万里が思わずまじまじと一成を見つめると、視線を上げた一成と目が合う。

「テンテンがオレのこと大好きなのはわかってるんだけどねん。いっぱいちゅーしてくれるし、ハグもめっちゃしてくれるし、大切にされてるなーって思うもん」

 どんな迷いもない目をして、はっきりと一成は言う。
 えっちしたいって思ってるかどうかはちょっと自信ないけど、オレのことテンテンめっちゃ大好きだかんね、という言葉はこの世の真実を語るようだった。
 いっそ照れながら言ってくれるならまだ可愛げもあるし、茶化そうという気にもなる。しかし、一成は万有引力の存在でも語るような素振りで言うのだ。
 テンテンはオレのことが大好き。めちゃくちゃ大事にしてくれる。オレもテンテン大好き。
 真顔で告げられる言葉に、万里は思う。結局惚気じゃねぇか。
 しかも、段々程度が酷くなっている気がして思わず遠い目になる。
 一成は「まずはストッパー外すところから始めたいんだけど、どうしたらいいかな?」と言っていて、あれこれ言葉を並べている。ひとまずストッパーを外してからでないと、意志の確認もできないということらしいけれど、何かもう勝手にやってほしかった。
 一成はそんな万里に当然気づいたのだろう。

「セッツァー、聞いてる!?」
「聞いてる聞いてる。帰っていいか」
「おごった分くらい話聞いて!」

 代金払うから帰りてぇ……と万里は思うけれど。元来面倒見のいい人間で、一成が真剣に悩んでいること自体はわかっていたので、とりあえずこれを飲み終わるまでは聞いてやるか、と思い直した。