0センチの幸福




 騒がしい談話室を抜け出して、天馬と一成はバルコニーから夜の街並みを眺めている。寒さの底を抜けたとは言え、まだ気温は低い。二人とも防寒具を着用しているものの、辺りの空気は突き刺すように冷たい。だけれど、二人きりで並んでいればそんなことは気にならなかった。

「テンテン、マジでおめでと!」

 夜にも負けない明るい笑顔で、一成が嬉しそうに声を掛ける。それから、「めっちゃ勉強頑張ってたもんねん! 絶対大丈夫だって思ってたけど、やっぱり合格発表見るまでドキドキしちった!」と言葉を続ける。今日までの日々を思い出すような、しみじみとした口調だった。

「まっすーもたいっちゃんも、全員無事に進学先決定して良かった~!」

 心からの喜びを乗せて一成が言う通り。今日は、太一と天馬の志望大学である葉星大学の合格発表日だったのだ。
 真澄はすでに芙蓉大学の合格を決めており、受験生の残りの二人である太一と天馬の合格発表を待つばかりとなっていた。結果として、二人とも合格が決まったため、談話室はちょっとしたパーティー状態になっている。

「卒業祝いも兼ねて、あとでまたお祝いするとか何とか言ってたな」
「楽しいことは何回あってもいいからねん!」

 カンパニーの受験生組が、全員無事に進路を決定したのだ。何ておめでたいことかと思うし、彼らが懸命に受験勉強に取り組んでいたことは誰だって知っている。何度だってお祝いしたいと思うのは当然だと一成は思っているし、めでたいことは何回あってもいいのだ。
 天馬は肩をすくめて「お前が楽しいならいいけどな」と笑った。

「主役の一人はテンテンだかんね~? めっちゃ頑張ってたんだから、主役の席にどーんと座ってもらわないとじゃん?」

 高校へ入学した当初、天馬は大学への進学を希望していなかった。恐らく、途中までは高校卒業後はそのまま役者への道へ進む予定だったはずだ。しかし、天馬は自身に訪れたいくつもの出会いを経て大学へ進学することを決めた。
 遅くになってからの進路決定だったこともあって、天馬は一般的な受験生よりも高いハードルを乗り越えなくてはならなかった。しかし、そこは皇天馬である。努力を厭わず懸命に勉強へ励み、今日無事にその努力は実を結んだのだ。
 天馬がどれだけ頑張ったのか、一成は近い場所で見ていたからよく知っている。だからこそ、持っている力の全てで天馬の労をねぎらいたかったし、いくらでもおめでとうと言いたかったのだ。

「一成にもずいぶん助けられたな。ありがとう。感謝してる」

 楽しそうに一成の言葉を受け取っていた天馬は、突然真面目な顔になるとそんなことを言う。一成は思わず目をまたたかせた。
 勉強自体は一成も得意な性分ではあるけれど、カンパニーには一成よりも教師役に相応しい人間はいくらでもいる。だから、天馬の受験勉強の役に立った記憶はなかったのだ。

「オレ全然何もしてないじゃん。テンテン的に一番お世話になったのはチカちょんっしょ?」
「ああ。千景さんには本当に世話になったから、あとでまたお礼はする。でも、お前だって色々オレのこと気にしてくれただろ。勉強に詰まってる時とか、息抜きさせてくれて助かった」

 そこまでわかりやすく顔に出しているつもりはなかった。だけれど、一成は元々他人の感情を読み取るのが上手いし、何よりも天馬が相手なのだ。他の人よりも天馬のことを見つめていることが多いから、些細な変化にもすぐ気がつく。
 やわらかく笑って「テンテン、ちょっと息抜きしよ」と言ってくれたことは、一度や二度ではなかった。

「疲れてる時に甘いもの持ってきてくれたり、ちょっと星でも見ようって連れ出してくれたりしただろ。いい気分転換になったし、一成が応援してくれてるって思ったらもう少し頑張ろうって思った」

 言いながら、天馬はバルコニーから見える夜空に視線を向けた。
 勉強で疲弊している時を見計らった一成に誘われて、二人でここから星を見たことがある。「風邪引かないようにねん」と言って、ダウンジャケットにマフラー帽子耳当てにカイロと、これでもかと防寒具を身に着けさせられて、二人でバルコニーに出てきたのだ。
 あれがオリオン座のベテルギウスで、こっちがおおいぬ座のシリウス。それからこいぬ座のプロキオンで、冬の大三角形だよ、と笑っていた姿を天馬は覚えている。
 何かを抱きしめるような表情で、一つ一つの星を指し示す一成の瞳はきらきらと輝いていた。思い出していたものが何であるかを、天馬は恐らく正しく理解している。遠い宇宙のその果てに描くものを知っている。

「テンテンと星見てるの楽しかったよん。春の星座も一緒に見ようねん」
「そうだな。春っていうと、何の星座があるんだ」
「北斗七星がよく見えるようになるのは春だし――あ、あとふたご座もまだ見えるかも!」

 ニコニコと嬉しそうに言った一成は、「かに座もしし座もおとめ座も見えるから、夏組大集合だよん」と続けた。ふたご座が見える、と嬉しそうだったのは三角と天馬の星座だからだろう。それ以外にも、春には夏組メンバーの誕生星座が夜空に現れるらしい。
 その事実を語る一成は心底楽しそうで、取って置きの宝物を抱えているようだった。

「季節ごとに色んな星座見られるの楽しいし、いつか南半球の星座とかも見てみたいんだよねん。日本だと見えないからな~」
「ああ。確か、南十字星とかあったよな。ちょっと聞いたことある」
「そそ。他にも何個か南半球の星座あるけど、みなみのさんかく座とかあるよん!」
「三角が大喜びしそうな星座だな」
「だよね~!」

 しみじみとした口調で夏組が誇る三角星人に思いを馳せれば、一成が嬉しそうに答える。それ以外にもカメレオン座だとかとびうお座だとか、聞き慣れない星座があるようで、一成は楽しそうに教えてくれる。
 興味深く聞いていると、一成が小さく笑った。ピカピカと光る普段のものではなく、夜に灯るようなやわらかな笑みだった。

「テンテンが楽しそうに聞いてくれるの、すげー嬉しい。ありがとねん」

 受験勉強の息抜きに、と天馬をバルコニーへ連れ出した時も一成はこんな風に星座の話をしていた。受験内容とは何にも関わらないただの雑学でしかない。だけれど、天馬はその時も邪険に扱うことはなく、楽しそうに一成の話に耳を傾けてくれていた。その事実が、一成は嬉しかったのだ。
 ただ、言われた天馬は思わず驚きの表情を浮かべてしまう。単純に、興味深かったからそういう反応をしたまでなのに、まさか礼を言われるとは思っていなかったのだ。なので、天馬は素直に口を開く。

「知らないことを聞くのは楽しいからな。それに、一成の話なら正直何だって嬉しい」

 天馬の言葉に一成はますます笑みを深くした。それから、冗談めいた口調で「テンテンが喜んでくれるなら、オレめっちゃ頑張っちゃうよん!」と続けるけれどそれは至って純粋な一成の本心だった。

「マジでさ。オレいっぱい助けてもらっちゃったじゃん。テンテンめっちゃ忙しかったし大変だったから、力になれるなら何だってしたかったんだよ」

 少しだけ声のトーンを落として一成は言った。笑顔を浮かべてはいるけれどどこか陰るような表情をしているのは、天馬の思い違いではないだろう。一成が指す言葉の意味くらい、すぐにわかる。

 一成が気にしているのは、通り魔事件を目撃したことに端を発した数々の出来事だ。
 大学の帰りに通り魔事件を目撃した一成は、犯人によって襲われた。結果として大事に至らずに済んだものの、緊急手術が行われてしばらく入院していた。
 そのあとも、夏組全員で天馬の別荘で彗星を見に行こうとした際、犯人が別荘を襲撃するという事件が起きている。MANKAIカンパニーや世間一般の認識としてはそれが正しい事実だし、間違いようのない現実だ。
 しかし、夏組だけは知っている。
 一成は通り魔事件の犯人に襲われて命を落とした。6人だった夏組は一人が欠けて5人になり、一成は世界のどこからもいなくなってしまった。
 だけれど、奇跡とも呼べる出来事が起きたのだ。過去の一成に電話がつながり、夏組が懸命に働きかけた結果として一成の死は回避された。だからこそ、今もこうして変わらずに生きていてくれる。
 起こった奇跡を噛み締めて、夏組は日々を過ごしていた。一成を一度失ったという傷を抱えながら、それすら克服して新しい毎日を刻んでいくはずだった。しかし、ある日突然一成は己自身が死んだ記憶を取り戻す。
 自分が死んだ――殺された記憶はあまりにも残酷で、死の瞬間を連想させるものに一成は恐慌を来たすようになったのだ。夜の暗さや、揺れる木々の音は鮮明に自分が殺された瞬間を呼び起こす。
 血まみれの夜に囚われて恐怖に震える一成のため、夏組やカンパニーは持てる力の全てで一成を守って、大丈夫だと伝え続けた。夏組が手を握って、怖さも痛みも全てを分かち合うことで、今の一成は安寧を取り戻している。
 一成が気にしているのは、恐慌を来たすようになった時期が天馬の受験期に重なっていたからだ。天馬は学業をこなしながら役者としての仕事を行い、芝居の研さんも欠かさない。そこに受験勉強が入った上、一成の件にまで向き合ってくれた。
 一成を守るためにできることをしようと、持てるものの全てを傾けてくれた。それを痛いほどに理解しているから、天馬の負担になってしまったと思っているのだろう。

 確かに、勉強の時間が少なくなったことは事実だ。しかし、千景をはじめとしたMANKAIカンパニーの家庭教師たちは、事情を理解して効率のいい勉強方法を考えてくれた。天馬自身も短い時間を上手く使っていたし、そういうことが得意な性質だ。
 だから、天馬の負担になってしまったなんて思わなくていいのに、というのが天馬の意見だ。だから、その気持ちを込めて天馬は強い口調で告げた。

「むしろ、お前がそう思うだろうなって思って、余計頑張る気にはなった」

 一成が気にするだろう、ということくらいは天馬とて理解していた。
 元々他人の負担になることを避ける人間だ。一成のせいではないと頭ではわかっていても、事実として勉強の時間が削られたと認識してしまえば、どうしたって気に病むのだ。一成とはそういう人間で、心根のやさしい人物だと天馬はよくわかっている。
 だからこそ受験勉強に気合いが入ったのも事実だった。もちろん最初から落ちる気で臨むわけがないので、合格する気ではいたけれど、絶対に受からなければ一成が落ち込んで悲しい顔をするに違いないと思えば、いっそう勉強にも身が入ったのだ。

「万が一落ちたりしたら、お前のせいじゃないのにお前が気に病むだろ」

 天馬は一成に、どんな悲しい顔もしてほしくないのだ。今ここで生きていてくれることを事実として理解していても、一成を失ったあの日々は記憶に刻まれ続けている。
 棺の中で眠っていた姿を覚えている。二度とまぶたを開くことなく、ただ横たわる姿。名前を呼んでも答えてくれない。二度と一緒に舞台に立てない。未来に一成がいない。もう二度と笑ってくれない。
 その現実を確かに生きた天馬は、奇跡の果てに生きていてくれる一成に、二度と悲しい顔をしてほしくなかった。いつだって笑顔でいてくれるなら、そのためにできることなら何だってするのだと決めている。

「――さすがダーリン、かっこいいねん」

 冗談めいた響きだったけれど、天馬を真っ直ぐ見つめる瞳にはあふれだす愛おしさが宿っている。天馬の心からの決意を、しかと受け取ってくれたのだろう。
 くすぐったい気持ちで「まあな」と答えれば、一成は楽しそうに笑い声を弾けさせる。そんな風に笑ってくれることが嬉しくて、天馬は隣に立つ一成を見つめている。
 ただ、じっと視線を向けていると鼻が赤くなっていることに気づいた。寒さのせいであることはすぐにわかったので、そういえばずいぶん長い間外にいるな、と思う。

「寒くないか」

 言いながら頬へ手を伸ばすと、予想していたよりもずいぶん冷たい。思わず顔をしかめてしまったのは、風邪を引くかもしれないと思ったからだ。一成はちょっとだけ困ったように笑ったあと、「テンテンの手あったかいねん」と続けた。
 天馬の憂いには気づいたのだろうけれど、まだ中には戻りたくないのかもしれない。談話室でみんなと過ごすのも充分楽しくて心が躍る。だけれど二人きりになりたくて部屋を抜け出したのだ。まだ談話室に戻るには早いと思っているのかもしれないし、天馬とて同じ気持ちだ。
 だから、一成がもう片方の手を引き寄せた時も天馬はなすがままになっていた。二人きりでいたいと願うことも、一成に触れることも、全ては天馬の望みでもあるのだから。

「――めっちゃあったかい」
「お前が冷たすぎるんだ」

 天馬の手を引き寄せた一成は、自身の頬に導いた。必然的に、天馬の両手は一成の頬を包む形になる。天馬の手はあたたかいので、冷たかった両頬はゆるゆると温みに満ちていった。一成は嬉しそうに「あったまるねん」と言っているし、天馬は「ならよかったけどな」と返した。
 温かくなったらそのまま手を離してもいいのかもしれない。だけれど天馬はそうしなかったし、一成も天馬がそうしないとわかっているのだろう。両頬を包み込んだままの体勢で、二人は見つめ合っている。
 ずいぶんと近い距離だ。吐息すらも感じ取れるような、鼻先が触れてしまいそうな位置に互いの顔がある。パープルの瞳が、緑の瞳が、それぞれの輝きを放って相手の心に降り積もる。
 天馬も一成も何も言わなかった。遠くから響く笑い声は、談話室のものだろうか。それ以外に音はせず、辺りはすっかり静まり返っている。心臓の音がやけに頭に響いているのは、恐らく二人とも同じだ。天馬は緊張した面持ちで一成を見つめているし、一成も何かを予感して胸を高鳴らせている。
 二人は恋人としての時間をゆっくりと重ねてきた。一成自身スキンシップの多い人間だし、手を握ったり抱きしめたりといった触れ合いは比較的多い。だけれど、唇を重ねたことはまだなかった。いつかその日が来るだろうと思いながらも、決定的な瞬間が訪れることなく今日までを過ごしてきたのだ。
 だけれど、今二人は近い距離で見つめ合っている。呼吸すらも感じ取れるほどの、もう少しだけ踏み込めば触れることができるくらいの。互いの心臓の音が聞こえてしまいそうな距離だ。
 どれくらいの時間が経ったのか。一成はゆっくりと目を閉じた。触れる手のひらを、天馬の熱を、全身で感じ取るように。長い睫毛と共に、まぶたが幕を下ろすように緑の瞳を隠す。
 それを見つめる天馬は、しばらくの間両頬を包み込んだまま固まっていた。道路を車が走る音が聞こえる。楽しそうな笑い声がかすかに届く。ひそやかに過ぎていく夜の中、二人ともただじっとしていたのだけれど。

「――寒いだろ。部屋に戻るぞ」

 どうにか体を動かした天馬は、包み込んでいた両頬から手のひらを引きはがす。そのまま、一成の体をぎゅっと抱きしめるとすぐに離れてそう言った。
 ぱちり、と目を開けた一成の視界にはきびすを返した天馬の背中が飛び込むので、「もしかして何かしちゃったのかも」と不安に襲われる。しかし、天馬はそれを察したのだろう。

「行くぞ、一成」

 振り返ると一成の手をぎゅっと握って、バルコニーの扉を開けるので。つないだ手の強さとあたたかさにほっとしながら、一成はそっと思う。残念だけど、テンテン結構ピュアだからねん、まだ時期じゃなかったのかも。