0センチの幸福




 一成がおススメのおやつを持参して、201号室を訪れた。幸は出かけているので、必然的に二人きりだ。他愛ない話の内容は、天馬の大学生活が中心だった。ついこの前、大学の入学式を終えて現在履修登録を行おう、という段階だからそれも自然な流れだろう。

「他の大学の履修登録ってこんな感じなんだねん」

 隣同士でソファに座った一成は、テーブルの上に広がった「履修の手引き」を興味深そうに読んでいる。天馬はその様子を眺めつつ、ゆっくりと口を開いた。

「大学でそんなに変わるか? 大体どこも同じような感じだって聞いたぞ」
「んー、オレたちは実習とか入るからかな? ちょっと単位計算の方法とか特殊なんだよねん」
「ああ……単位計算か……」

 若干天馬が遠い目をしているのは、最初に入学ガイダンスで履修登録内容を説明された時、あまりの意味のわからなさにうろたえたことを思い出しているからだ。
 ある程度登録すれば、システムが単位の計算をしてくれるとは聞いた。しかし、そもそも一体何を登録すればいいのかがわからないので、計算も何も、と思ったのだ。必修科目やら選択科目やら、一体どれをどんな組み合わせで選べばいいのか、と天馬は途方に暮れたものである。
 ただ、幸運なことに天馬には同じ大学に通う太一もいるし、何よりも綴・十座という心強い先輩がいた。主に先輩たちの手助けにより、大まかな履修登録の方法は理解することができたので、無事に登録はできそうだった。
 もっとも、最初の意味のわからなさが強烈に印象に残っているので、単位計算と言われると何だか身構えてしまう。
 一成はそんな天馬の反応に、面白そうに笑った。
 太一とともに、綴や十座からあれこれと履修登録について説明を受けている姿は一成も目撃している。高校生だった天馬が無事に大学生になったんだなぁ、と何だか感慨深くなってしまったものだ。本人に言うと「子ども扱いするな」と言われそうなので黙っているけれど。

「テンテン、どの授業取るか決めた? つづるんとかヒョードルにおススメ色々聞いたっしょ?」
「そうだな。学部関係なく取れる科目もあるらしいし、太一とも話はしてる」
「なるなる。専門とかはもっと色々あるだろうし――てか、絶対口コミまとめたサイトとかありそうだよねん」
「口コミ?」
「そそ。教授がどんな人でどういう授業やるとか、出席重視かテスト重視とかそういう情報投稿すんの」

 有志による管理が行われているし、何なら天美では春には印刷物として販売もしているらしい。美術大学ということでやたらと凝ったデザインのようで、一成も内容云々より表紙デザインに惹かれて購入するという。

「大学近くのお得なお店情報とかも載っけてくれるから面白いよん。あ、葉大じゃないけど口コミまとめたサイトって言ったら、こういう感じ」

 スマートフォンを操作していた一成が、嬉々とした調子で声を上げる。「見える?」と言って体ごと天馬のほうへ寄ってくると画面を差し出した。しかし、天馬はそれどころではなかった。
 元々隣同士で座っていたのだ。それがさらに距離を詰めるということは、わずかに空いていた隙間がなくなることを意味している。現状、一成は天馬の右肩に体を預けるような格好になっていて、距離が近いなんてものじゃなかった。
 視界に一成の髪の毛が揺れているし、何だかやたらといい匂いがするし、右側に全ての神経が集中してしまっている。

「一成」

 一体何を言えばいいかわからなくて、だけれどこのままではマズイ、という意識だけはあった。だから名前を呼んで、視線を向けるとばちりと目が合った。
 綺麗な緑色の瞳が天馬をとらえる。吸い込まれるようにしてその目を見つめた。近い距離だ。頬もくっつきそうな位置に一成がいる。あと少し、ほんの少しだけでもどちらかが相手のほうへ体を傾ければ、触れてしまいそうな。
 ごくり、と天馬がつばを飲み込んだ。緊張なのか、興奮なのか、自分でもわかってはいなかった。ただ、どくどくと心臓の音が頭を巡っている。それが聞こえたわけではないだろうけれど、一成がそっと口を開く。

「テンテン」

 かすれる声で呼ばれた名前とともに、吐息が届いて天馬の心臓が一際大きく脈打つ。舌が張りついたように動かない。戸惑いなのか混乱なのか、天馬が固まっていると一成が動いた。恐る恐るといった調子で手を伸ばすと、天馬の服のすそを掴んだのだ。それから、ぎゅっと自分のほうへ引き寄せる。
 瞬間、天馬の瞳に灯った熱を一成は見逃さなかった。
 パープルの瞳の奥にゆらゆらと炎が揺れて、普段と違う色をたたえている。自分だって同じ熱を持っているのだと一成は理解している。だからこそ、服を掴んだ。自分のほうへ引き寄せた意味だって、天馬ならわかってくれるはずだ。
 部屋には二人きりで、誰もいない。吐息さえ感じるほどの距離で、同じ熱を互いに宿している。今この瞬間が答えだと、あらゆる全てが告げていた。
 天馬はしばらくの間固まっていたけれど、ぎこちなく体を動かした。隣同士でくっついている一成に手を伸ばす。ゆっくりと両肩に手を置いた。一成がぱちり、とまばたきをする。
 その様子を見つめた天馬は、大きく息を吐き出すと一成の体を後ろへ押しやった。
 腕を伸ばして、自分から遠ざける。くっついていた体が離れて隙間ができる。それから、天馬自身もわずかに腰を動かして一成から距離を取った。さっきまで肩を並べて座っていたソファには不自然な空白ができている。
 それを認めた一成は数秒黙った。しかし、すぐに口を開くと天馬に向かって声を投げる。

「テンテン、ちょっといい?」

 いつもの笑顔は一切なかった。完全なる真顔で、声には軽やかさの欠片もない。普段の一成とはあまりにも違う様子に、天馬がびくりと怯えたような表情を浮かべるけれど、今の一成はそれに構っている場合ではなかった。
 ソファに乗り上げると天馬ににじり寄って、たった今開いた距離を詰める。天馬は戸惑った様子で「なんだよ、一成」と言うけれど、マズイ事態になっていることは理解しているのだろう。冷や汗を浮かべながら問われて、一成は真顔のまま言った。どこまでも真剣に、一切の冗談はなく。

「テンテン、オレとちゅーしたくないの?」

 言葉が耳に届いた瞬間、天馬が固まった。しかし一成はそれに構うことなく、さらに天馬に詰め寄る。普段の一成からは想像できないような、詰問めいた雰囲気で言葉を発する。

「今絶対ちゅーする雰囲気だったじゃん!?」

 部屋に二人きり、体を寄せ合う恋人同士だ。お互いの瞳に宿る熱は確かなもので、天馬だってその気になっていたはずなのに。天馬は触れるどころか一成の体を離して、あまつさえ距離を取ろうとしたのだ。どう考えても、キスするならここだ、という雰囲気だったにもかかわらず。

「テンテン、オレとちゅーしたくないわけ?」

 鋭い目つきのまま、一成は天馬に問いかける。天馬はいつの間にかソファの端まで追い詰められているし、普段は何だかんだで「仕方ないなぁ」と甘やかしてくれる一成も、今日ばかりは許してくれそうにない。
 うろたえていると、一成はさらに目つきを鋭くして「したいの? したくないの? どっち?」と畳みかけてくる。
 こんな時でも一成の目は綺麗だな、と場違いなことを考えて現実逃避しかけるけれど、答えない限り解放されないことくらいはわかっていた。同じくらいに、この問いに嘘を吐けないことも天馬はよくわかっていた。答えなんて一つきりだし、よもや「したくない」だなんて言ったら一成を悲しませる気がしたからだ。
 なので、ほとんどやけくそで叫ぶように答えるしかない。

「そんなの、したいに決まってるだろ!」

 吠えるように告げた瞬間、一成がにっこり笑った。今までの真顔が瞬時に消えて、いつもの見慣れた笑顔――よりも数倍いい笑顔で「おけまる!」と言う。何がオッケーなんだ、と天馬が思っていると一成が天馬の両肩に手を置く。え、と思ったのも一瞬で、綺麗な顔が近づいてくるので。

「待て、待て、一成、止まれ!!!」

 必死で叫び、両腕を突き出して一成の体を押しとどめる。天馬のほうが力はあるので、動きを止めること自体はそう難しいことではない。それに、何だかんだと言っても一成は一成だ。「止まれ」と言われてもむりやり突き進む、なんて行為を選ぶような人間ではないので、ぴたりと体の動きを止めた。
 肩に置いていた手も離すので、天馬はひとまずほっとしたのだけれど。次の瞬間顔を青ざめさせたのは、一成が悲しそうな顔で天馬を見つめていたからだ。

「オレとちゅーすんのいやなら、いやだって言っていいんだよ、テンテン」

 小さな笑みを浮かべてそんなことを言うので、天馬は反射で「いやなわけないだろ!」と返すけれど、一成は翳りのある笑みで言葉を続ける。

「無理しなくていいんだって。テンテン、ちょいちょいそういう雰囲気になってもちゅーしなかったっしょ。恥ずかしがり屋だし、外だからかな~って思ってたけどさ。ちゅーしたくないなら、無理しなくていいよ」

 ぽつぽつと落とされる言葉は、この前のプラネタリウムでの出来事や、天馬の合格発表日のことを指していた。それ以外にも、最近ではハグしようとしてしても「あとでな」と言われたり、近くに行こうとすると微妙に距離を取られたりしていることに、一成は気づいていた。
 そこから導き出される答えなんて、一つしか思い当たらなかったのだ。

「テンテンもさ、大学入っていっぱい色んな出会いあるっしょ。オレじゃなくてもいいんだって、思うのも仕方ないよねん。だから、オレと付き合うの無理って思ったらちゃんと振ってくんない? オレ、ちゃんと友達に戻るからさ」

 何かの覚悟をしたような笑顔で、一成は告げる。傷ついた心を隠して、全てを美しい笑顔に閉じ込めるような表情だ。真正面からそれを受け取った天馬は、自分の間違いを思い知らされる。何てことをしてしまったのか、と自分自身にはらわたが煮えくり返る。
 馬鹿なのかオレは。一成にこんな顔をさせてどうする。よりによってオレ自身が!

「違う。今さらこんなことを言っても信用されないかもしれないけど、違うんだ。お前が嫌になるなんて、そんなことあるわけない。オレが好きなのは、大事にしたいのは、一成だけだ」

 ソファの上に座った一成に向けて、懸命に天馬は告げる。自然と距離が近づいて、肩を掴んでいたのはほとんど無意識だった。一成ははぱちり、と目をまたたかせてから「無理してるんじゃなくて?」と尋ね返す。

「してるわけないだろ。一成のことが好きなんだ。今だって、この距離にいると心臓が持たないんじゃないかって心配になる……」

 我に返った天馬は、一成との距離がずいぶん近いことに気づいてそう言った。実際、心臓の鼓動はだいぶ速いので嘘ではなかった。一成は「マジで?」と不思議そうに言うので、天馬は一成の手を取って自分の胸に当てさせた。手のひら越しに、一成が近くにいるだけで騒ぐ鼓動を感じるはずだ。
 案の定、一成はどくどくと脈打つ心臓を感じ取ったらしい。通常よりもよっぽど速く体中を駆け巡る鼓動だ。一成は、びっくりしたような表情で天馬を見つめてつぶやく。

「――マジじゃん」
「だから言っただろ。一成が近くにいるだけで、毎回こんな感じだぞ」

 一成の誤解を解きたい。憂いを取り除きたい。天馬の頭にあるのはただそれだけだった。そのためにできることなら何だってする。何だって言う。
 自分の今までの行動を思い返してみれば、一成が不安に思うのももっともだとしか思えなくて、もはやどんなに格好悪いことだって、素直に告げるしかないのだと腹はくくっていた。

「え、じゃあなんで、ちゅーだめなの?」
「だめじゃない」

 一応そう答えるも、一成は不思議そうな表情を浮かべている。それもそうだろうと天馬は思う。今まで、そういう雰囲気になっても理性を叩き起こしてどうにかキスを回避してきたのだから、「天馬はキスをしたくない」と思うのも無理はない。
 天馬は大きく息を吐き出すと、ソファに座る一成を真っ直ぐ見つめた。全ては自分の行いが招いたことが原因なのだ。もはやどんな誤魔化しもできないし、してはいけない。覚悟を決めた天馬は、重々しく口を開く。

「まず、お前を不安にさせて悪い。そんなつもりはなかったけど、オレの態度を考えれば一成が不安になるのも当然だ。オレが悪い」

 心からの謝罪を込めて頭を下げると、一成が慌てた様子で「え、待ってテンテン!?」と騒いでいる。まさか謝られるとは思っていなかった、という様子だけれど、むしろ天馬としてはこれだけで足りるのだろうか、と思っている。

「頭上げてってば! オレは全然気にしてないし、テンテンがオレのこと好きでいてくれるなら、全然いいよん」

 一成の言葉に頭を上げれば、やわらかくほほえんだ一成と目が合う。そのまなざしだけで、天馬の言葉を信じてくれたことはわかる。誰かに対して腹を立てることが不得手な人間だから、というよりも最初から天馬に対して怒っていたわけではないからだろう。

「一成が好きなんてのは当然だろ。ただ、お前を不安にせたのは事実なんだから、もうちょっとオレにしてほしいこととかないのか。もう少し罪滅ぼしくらいさせろ」

 一成のことなので、本気で別に何とも思っていないことはわかったけれど、天馬の気持ちとしては何かをしてやりたかった。このまま何でもない顔で終わりにするのではなく。一成は天馬の言葉に、しばらく宙を見つめてから口を開く。

「マジで。ええ……それじゃ、一ヶ月毎日オレにテンテンの自撮り送ってくんね?」
「別に構わないけどな。それ、何の意味があるんだ」
「オレが喜ぶよん」

 満面の笑みで答えられるけれど、果たして同じ寮にいて毎日顔を合わせるのに、自撮りなんて要るのだろうかと疑問ではあった。もっとも、一成が喜ぶならまあいいか、とすぐさま思い直したけれど。

「あ、自撮りと一緒にラブレターつきでも全然いいよん!」

 思いついた、という顔の一成は明らかに冗談を告げる響きをしていた。本気で求めているわけではなく、面白がっているだけだということはわかっていたのだけれど。
 一成が要らないものを口にするわけがないと思っていたし、不安にさせてしまったという事実の前では、できることならなんでもしてやりたかったので。

「わかった。お前のどんなところが好きかも書いて送る」

 真顔で答えると一成が「マジで!?」と素っ頓狂な声を上げる。冗談のはずが真正面から受け取られて驚いているのだろう。ただ、別に嫌がられているわけではないことはわかったので、天馬は心から言った。

「オレがしたくてするんだ。受け取ってくれ」

 真剣な顔で告げれば、一成が照れくさそうに笑ってうなずく。びっくりはしたけれど、拒否したいわけではないので天馬からの愛の言葉を聞けることは嬉しいのだろう。一成は天馬の言葉に、小さな笑みを浮かべるとしみじみとした口調でつぶやく。

「テンテン、マジでオレのこと大好きじゃん」
「そうだよ。知らなかったか」
「知ってたけど、今改めて思ったとこ!」

 ふわふわとした調子で言ってくれるので、天馬の心も同じように何だか夢見心地になる。こんな風に笑ってほしいのであって、不安にさせたいわけではなかったのだ。さっきまでの自分の行いを思い出して、内心で一人反省会を開いていると、一成は「だけどさ」と口を開く。

「余計に不思議なんだよねん。テンテン、なんでちゅーだめの? 何か理由あるっしょ」

 天馬が一成のことを心から大切に思ってくれていることを、一成はしかと確認した。だからこそ、単純に不思議だったのだろう。
 こんなにも大好きだと告げてくれる人なのに。キスをするような雰囲気になっても、まるで避けるように距離を取ろうとして体を遠ざける。何か特別な事情があるのではないか、と一成は推察したのだ。
 恐らく、自分にできることがあれば力になろうという決意さえしてくれているだろうと察して、天馬は何とも言えない気持ちになる。
 だけれど、天馬はもう覚悟をしたのだ。あんな風に悲しい顔をさせたくない。不安にさせて、傷ついた心を閉じ込めて笑ってほしくはない。どんなに格好悪いことだって、きちんと伝えると決めたのだ。だから、天馬は真っ直ぐ一成を見つめて口を開いた。

「キスするのがだめなわけじゃない。むしろ、一成とキスしたいとはずっと思ってた。だけど、その、自信がなかったんだよ……」

 きちんと伝えようと決めた。しかし、どうしたって羞恥心が襲ってきて天馬の言葉は尻すぼみになってしまうし、顔は真っ赤に染まっている。一成はそんな天馬の様子を気にする素振りもないけれど、ただ不思議そうに首をかしげている。自信って何の?と思っていることは明白だった。

「めっちゃロマンチックなシチュエーションじゃなきゃ!とか? それとも、何かキスのテクニックとかそういう系? オレ全然そういうの気にしないよん。テンテン相手なら、それでいいもん」

 真顔で告げられた言葉は、一成からの紛れもない好意を伝えていた。そんな風に言ってくれることが嬉しいし、実際一成は天馬が相手ならばきっとどんなキスだって受け入れてくれる。
 わかっているから、恥ずかしくて仕方なかった。こんな風に言ってくれる大事な人だ。大切にしたいと心から思っている。だからこそのためらいなのだと、天馬は何よりも理解している。
 天馬は一成へ視線を向ける。
 不思議そうな顔で天馬の答えを待つ姿は、何だかいつもよりも幼く見えてかわいらしいと思う。だけれど、そんな一成に灯る熱を、浮かぶ色を天馬は知っている。
 普段の明るさではなく、妖艶とも言える雰囲気をたたえるのだ。それにどれほど心をかき乱されたか。今だって思い出すと何だか妙な気持ちになってしまう自分を自覚しながら、天馬は口を開いた。
 どれだけ格好悪くても、恥ずかしくても、一成にはきちんと伝えるのだ。天馬は真っ赤な顔で、一成に言った。いい雰囲気になっても頑なにキスをしなかったのは、その理由は。

「止まらなくなったらどうしようかと思ってたんだ」

 告げた瞬間、一成が面食らったような表情を浮かべた。声には出さずとも、顔に思いっきり「は?」と書いてある。それはそうだろうな、と思った天馬はここまで来たら全てを話すしかない、と言葉を続けた。

「キスをしたらその先だってしたくなるだろ。正直に言う。オレは一成を抱きたい。キスなんてしたら、そのままお前のこと押し倒すんじゃないかって、ちゃんと止められるかどうか自信がなかった」

 だから避けるみたいになって悪い、と天馬は言う。ぼそぼそと、一成からのスキンシップに対して及び腰になっていたのも同じ理由だ、と続いて、言葉の意味を理解した一成は固まった。

 待って。今なんかものすごい爆弾発言してないテンテン!?

 天馬の言葉が脳まで到達するのと同時に、一成の心臓はものすごい速さで鼓動を刻み始めるし、顔は林檎のように真っ赤だった。笑顔なのか何なのかよくわからない表情を浮かべたまま、ただ固まっているしかできない。しかし、思考だけは目まぐるしく動いていた。

 だって、キスの先って。オレのこと抱きたいって。テンテン、そんなこと考えてたとか思わないじゃん!? え、待って、待って。オレのこと抱きたいの? マジで!? オレ相手にちゃんとそういうこと思ってるの!?

 盛大に混乱しながらも、一成の心に満ちていくのは紛れもない喜びだった。
 恋人同士としての付き合いを始めて、これから先の人生を共に歩むのだと誓い合った。だけれど、一成の知る限り天馬の恋愛指向は基本的に異性だったはずなので、果たして自分相手にそういうことを想像するのだろうか、と心配だったのだ。
 だけれど、今天馬は「一成を抱きたい」と言った。その欲が自分に向けられていた、という事実に一成は震えるような喜びを感じていた。

「オレの勝手で一成を不安にさせて悪かった。ただ、これだけは確かだ。一成とキスしたくないわけじゃないし、いつでもお前には触りたい」

 羞恥に顔を染めたまま、天馬はきっぱりと告げた。
 特別な事情があるのではないか、なんて一成は思っていてくれたようだけれど。つまりは自分の性欲の問題で理性が心もとない、なんて話なのだ。それを告げるのは心底恥ずかしかったけれど、黙ったままでいるほうが一成のことを心配させるだけだ、ということは身をもって実感した。
 だから、恥ずかしくても本音は隠さないと決めたのだ。キスをしたいと思うことも、触れたいという欲求も。

「だから、一成。触っていいか」

 できる限りのやさしい声で、天馬は尋ねる。キスがしたいとか触れたいだとか、そういう気持ちを隠すことで一成が不安に思うのなら、天馬は自分の心に素直になることにした。
 ただ、傷つけたいわけではないから、細心の注意を払うことだけは忘れない。一成は真っ赤な顔のまま、ぎこちないながらもうなずいてくれた。天馬は小さく笑みを浮かべると、そっと手を伸ばした。頬に触れる。
 手のひらから伝わるのは、温もりよりももっと確かな熱だ。何度もこうして、一成が生きていることを確かめるようにこの体温に触れてきた。だけれど、今伸ばした手は、ここで感じるこの熱は違う意味を持っている。

「お前を大事にしたいんだ」

 真っ直ぐと一成の瞳を見つめながら、天馬は告げる。きらきらとした輝きを放つ美しい瞳。天馬にとっては世界で一番美しい色だ。どんな宝石も、満天の星空も敵うことはない。

「不安にさせたくないし、安心させてやりたいって思ってる。そのオレが、お前に悲しい顔をさせるなんて馬鹿みたいだし、悪かったって思ってる」

 心からの謝罪を再度告げれば、一成はやわらかな声で答えた。冗談めいた響きで、だけれど心からの喜びをたたえる響きで。

「だいじょぶだよん。テンテンがオレのこと大好きって理由だってわかったし」
「――ああ、そうだよ。一成のことが好きで好きで仕方ない。だからお前に触りたいし、キスがしたい」

 自身の心を取り出して見せるような気持ちで、天馬は言った。一成はくすぐったそうな微笑を浮かべていて、ありのままの全てを抱きとめてくれているようだ。その事実に、天馬の胸にはひたすらの愛おしさがあふれていく。

「一成、お前にキスしていいか」

 かすれた声で尋ねた。触れたい。近づきたい。距離なんか全てなくして、一成のことを感じたい。ほとばしる熱は潜むことなく声に乗って、一成の元まで届く。一成はほんの少し目を伏せて、睫毛を震わせてから答えた。まぶたを上げて、天馬の好きな緑色の瞳で、きらきらとしたまなざしを向けて。

「いいよ。テンテンならいいよ」

 答えを聞いた瞬間、衝動的に口づけてしまいたいと思う。だけれど、傷つけたくはないのだ。まだ理性はきちんと息をしていた。天馬は大きく深呼吸をすると、ゆっくりと顔を近づけていく。心臓の音が、有り得ないほどの音を立てている。
 キスシーンなら何度だって演じてきた。どんな手順を辿ればいいかなんて、教科書よりもよく知っている。だけれど、一成の唇に触れるのは初めてだ。天馬が心から愛おしいと思う相手にキスをするのは、初めてだった。
 二人の距離が近づいていく。互いの吐息を感じている。一成が目を閉じた。震える睫毛が、染まった頬が、桃色の唇が、何もかもあざやかだ。高鳴る心臓の音は、どちらのものなのかわからない。天馬はやさしく頬に触れたまま、導かれるように一成へと顔を寄せていく。あと少し、ほんの少し。
 永遠のような数秒のあと、二人の距離はゼロになる。
 触れるだけの、軽いキスだった。唇にやわらかな感触を残したかと思うと、すぐに離れてしまったので一成はぱっと目を開く。あまりにも短い一瞬だったので、もしかして夢かと思ったのだけれど。
 目の前の天馬は真っ赤な顔で一成を見つめているし、慌てたように距離を取るので、一成は理解した。現実だ。テンテンがこんな反応するってことは、夢じゃない。今オレ、テンテンとキスしたんだ。
 改めてそう思うと、一成の顔にも熱が集まっていく。触れたい。キスをしたい。それは天馬だけの欲求ではなく、一成の望みでもあったのだ。それが叶ったこと、天馬が触れてくれたこと。それら全てが嬉しくて、一成の心は浮き立った。
 それに、天馬が距離を取った理由だってわかっているから、胸には愛おしさがあふれていく。

「テンテン、ちゃんと理性働いたじゃん?」

 茶化した響きで言うのは、天馬が何だかやたらと恥ずかしがっていたからだ。それは一成を求めてくれたことの証なのだから恥ずかしいと思うことはない、と一成は思っているので、冗談にしてしまおうと思った。一成と距離を取った天馬は、ぼそりと答える。

「今回はな」

 耳も顔も首も真っ赤に染めた天馬が、ぶっきらぼうにも聞こえる口調で言う。その言葉の意味するところを一成は正しく理解したので、同じように顔が赤くなるのは仕方ない。
 今回は、と天馬は言った。つまりそれは、次もあるということで、テンテンはまたオレとちゅーしてくれるわけで。
 一成も真っ赤になって黙ってしまうから、部屋にはぎこちない沈黙が流れた。ソファに座る二人は微妙な距離が空いているので、ともすればぎくしゃくしているようにも見えるけれど。
 一成はこの距離が、一成を大事にしたいという天馬の気持ちであることを理解していたし、天馬は一成がきちんとわかっていてくれていることを疑っていなかった。
 それに何よりも、今ここで開いた距離はいずれゼロになる日が来る。それはきっと、遠くはない未来なのだと、二人は知っていた。




END