アラカルト・キス




―Scene:1―

 距離を置く、とは言っても別に仲違いをするわけではない。隣同士に座らないだとか、距離感を考えるといった意味合いだけで、顔を見れば普通に会話はするし親密さは前と変わらないのだ。
 だから、一成の役作りに意味はあるのかと幸は思っていたのだけれど。

「うん、すごくいい感じになったと思うよ! 小さなところにまで神経が行き届いてるね」

 監督がそう言ったのは、クライマックスのキスシーンである。
 元々、一成自身が気にするほど慣れが出ていることはあまりない。
 本人が申告した通り、時々天馬に引きずられて素が出てしまうとは言っても、そうしょっちゅう起きるわけではなく、きちんと蒼生としての演技はできている、というのが周囲の見解だ。
 だからこそ、一成がわざわざ距離を置くといっても効果がないのではないか、と思っていたのに。
 一成の宣言後、数日経ってからの稽古では確かにキスシーンの雰囲気に変化があった。ものすごく大々的に、目を見張るほどの変化があったというわけではない。
 ただ、小さな所作――天馬が手を伸ばす仕草や、ためらいがちに動く一成の指先、そういった部分の雰囲気が違うのだ。
 触れてもいいのかという戸惑い、突然与えられた口づけへの混乱、今までにない距離感への困惑とそれでもにじみだす愛情。
 そういう諸々が、数日前よりも色濃く現れるようになっていたので、幸は内心で感心していた。へえ、一応効果はあったんだな、という意味で。
 ただ、純粋に距離を置いただけでこれだけ表現に差が出るものだろうか、という疑問はあった。だから、ふと思い立って幸は口を開いたのだ。

「役作りって、距離を置く以外に何かやってんの?」

 現在、稽古場では一成・椋・三角のシーンの稽古中だ。ただ、三角は到着が遅れているため代打で九門が代わりを務めている。
 次のシーンで合流するので、台本を確認している天馬に向けて幸が尋ねる。天馬は一つ瞬きをしたあと、幸に視線を向けた。

「距離を置くっていったって、せいぜいポンコツの隣に座らないとか、抱きつかないとか、部屋に行かないとかそれくらいでしょ」

 まだ確認したいことがあるだとか、考えたいことがあれば天馬はそう言う。しかし、それをせずに幸へ視線を向けたということは、雑談をする余裕はあると判断して、幸は言葉を続けた。
 一成は宣言した通り、天馬にはあまり近づかないようになった。ただ、それは普段から距離が近すぎるので、一般的な距離感になっただけとも言えるのだ。
 強いて言えば、まったく203号室を訪れないで101号室で過ごす時間が増えたな、というくらいだけれど、談話室には出てくるし、別に天馬の顔を見れば逃げ出すとかそういうことはしない。
 素直に「テンテン、何か飲む?」など声を掛けているし、傍から見れば以前と親密さは変わっていないのだ。
 まあ、以前の一成はといえばすぐに天馬に抱きつくし、寄り添うように隣に座るし、という状態だったのでその時と比べれば何かあったか?と思われるような事態ではあるのだけれど。

「まさか、パーソナルスペースがあのレベルじゃないと寂しいとかなわけ」

 冷ややかな目線で幸が言う。一成のあの、パーソナルスペースの概念を無視したような距離感ではない、というだけで寂しさを覚えているとしたらドン引きする、と顔に書いてあった。

「そんなわけないだろ」

 天馬が顔をしかめて答えれば、幸はあっさりと「まあ、それもそうか」とうなずいた。
 天馬としては、多少なりとも物足りなさがないわけではないけれど、さすがに「一成との距離が遠い」という理由だけで寂しさは募らせない。
 顔すら見られない、なんてこともしょっちゅうあったのだ。今のように、同じ屋根の下で毎日顔を見られて、自分の名前を呼ぶ声が聞くことができるのというのは、かなり恵まれた環境だという自覚はある。
 だから、単純に距離を置く、というだけならそこまでの効果はなかったかもしれない。
 もちろん、最高の舞台を作るために手は抜かないから、演技を組み立てて小さな所作にまで神経を使って演技はするけれど、ここまで短時間で監督まで満足するレベルに到達するのは難しかったかもしれない。

「それじゃ、他に何かやってんの?」

 最初と同じ質問が、再び幸から投げられる。天馬はわずかに息を吐き、さてどうしたものかと考える。
 距離を置く、と一成が宣言した。その意図を正しく受け取ったのは天馬だけで、他のメンバーは純粋にべたべたとくっつくことを止める、程度にしか思っていないだろう。
 というか、そうでなければ天馬が羞恥でしばらく立ち直れない。何せ、一成の「距離を置く」とはつまり、「キスをしない」宣言なのだから。


******************

 MANKAI寮で人目を忍ぶのは、意外と難しくない。
 さすがに長時間となれば困難だけれど、ちょっとした隙を見計らうのであれば、案外どうにかなる。
 使っていない部屋があるということもそうだし、所々死角になるスペースもある。何より、付き合いの長い団員たち相手なので、行動パターンを読むことが可能だった。
 つまり、人が来ない時間帯や場所を把握することができる。加えて、現在寮内で暮らしている人数は最盛期に比べてずいぶん少ない。注意する人数が少ないということは、その分簡単に人目を忍べるのだ。

「――オレら、やってること昔から変わんないね」

 天馬の唇が離れてから、一成が面白そうにつぶやく。二階の倉庫前で、隠れてキスをしたあとだ。監督の部屋は近いけれど、今日は朝食当番ですでに起き出していることは知っていた。

「謎のスキルは上がったな」

 苦笑を浮かべて天馬がうなずく。
 付き合い始めた当初は、二人とも寮に住んでいた。さらに、今より大人数の団員たちが暮らしていたので、恋人同士としての触れ合いを行うには必然的に、どこならば死角になりうるか、団員たちの動向把握といったスキルが磨かれていった。
 結果として、時間帯によって寮のどの辺りに人気がなくなるか、といった情報を蓄積していったし、団員のスケジュールについては寮内でもわりと詳しくなった。
 加えて、呼ばれる名前だとか送られる視線で、キスがしたいのか抱きしめたいのか、相手がどんな欲求を持っているのか察することはできるようになっていた。

「てか、別にここまで隠れなくてもいいんだけどね~」

 天馬の腕の中に収まった一成がつぶやく。「まあな」と返す通り、二人はすでにカンパニーのメンバーには人生を共に歩むことを宣言している。
 元々察していた人たちが多いとは言え、今までは一応公には言っていなかったので隠してはいたものの、今はもうその必要がない。わかっているのだけれど。

「まあ、でも、あんまり大っぴらにするものでもないだろ」

 確かに、恋人に触れたいという欲求はある。
 許されるなら思い立てばすぐにでも手を伸ばしたいのは事実だけれど、やはり大勢が起居する場所で人目もはばからずそういった行為に及ぶのはどうか、という頭くらいあるのだ。
 一成は一つ瞬きをすると、近くにある天馬の顔をまじまじと見つめて言う。

「オレ、テンテンのそういう真面目なとこ好き」

 とろけるような笑みを浮かべると、一成の顔が近づいてくる。一瞬だけ触れ合うような、ささやかなキスを落としてすぐに離れた。

「そういう真面目なテンテンと、朝からこういうことしてんのちょっと興奮するよねん」

 さらりと言ってのけられられる言葉に、天馬は絶句して目の前の顔を見つめる。何かを言ってやりたかったけれど、どんな言葉も上手く交わされそうだった。
 一成はイタズラっぽい笑みを浮かべていて、天馬の動揺を楽しんでいるようだった。

「――お前な」

 しかめっ面をしたままどうにかそれだけ言葉を吐き出す。一成は心底面白そうに「めんご~」と言っているけれど謝罪の気持ちは微塵も感じられない。
 完全に楽しんでいる、ということだけは理解できた天馬は一瞬の内に行動を起こした。
 腕の中に囲い込んだ一成の腰を、ぐい、と引き寄せる。体が密着するのと同時に、頬を手のひらで包み込んで口づけを落とした。触れるだけの軽いものではなく、明確な欲望をはらんだキスだった。
 天馬は開いた唇から舌をねじこんで、整った歯列をなぞる。くぐもった声が耳に甘かった。
 縮こまった舌に刺激を与えてやれば、やわらかく溶けてゆく。貪るように互いの舌がからみあう。
 その感触に酔いしれながら、口内を好きに堪能する。唾液を交換し合うような長い口づけを愉しんだあと、ようやく天馬は唇を離した。
 一成の唇からは熱い吐息が漏れる。それから、耳まで赤く染めながら呆然としたようにつぶやいた。

「て、てんてん、朝からちょっと激しい……」
「興奮するって言ったのはお前だろ」

 言い訳のようにそう言えば、「それはまあそうだけど」と赤い耳のままで一成が答える。
 嫌がっているわけではなく、ただ照れているだけだということはわかっていたけれど、さすがにやりすぎたかもしれない、とは思って天馬は少し焦る。しかし。

「やっぱり、隠れてないとだめかもねん。こういうテンテン、他に見せたくないもん」

 顔を見られたくないのか、天馬の胸にそっと額を押しつけた一成がぽつりと言葉を落とす。照れくさそうな響きには、どこか甘さを伴っていた。
 どくり、と天馬の心臓が大きく脈打つ。やりすぎたと思ったのが間違いだったことはわかって安心はしたけれど、告げられた言葉の熱に頭がやられてしまいそうだった。

「……一成」

 思わず唇からこぼれた名前は、冗談みたいな熱をはらむ。一成もそれは理解したのだろう。びくり、と肩を震わせる。
 恐る恐る、といった調子で胸から顔を起こした一成の瞳には、間違いようのない熱が宿っていた。
 その熱に導かれるようにして、再び二人の距離が近づこうとしたところで。誰かが階段を上がってくる音がして、反射的に二人は体を離した。

「――テンテン、オレ先に行ってるからねん!」

 一成の行動は素早かった。するりと天馬の腕の中から抜け出すと、いつも通りの顔を貼りつけて階段のほうへ向かっていく。
 すぐに「カントクちゃん、おはよー!」という声が聞こえてきて、どうやら立ち話に興じているらしい。
 その様子を聞く天馬は、大きく息を吐き出した。
 危なかった。自分たちの関係は、MANKAIカンパニーのメンバーに公言しているから、万一恋人らしい場面を目撃されても問題はない。
 羞恥とか規範精神とか、そういうものは別問題として存在はするけれど、関係性が露見する心配というのはない。ただ、さすがにキス以上のものを目撃されたら問題にはなるだろう。それはそうだ。
 いや、さすがにあそこでなだれこみはしないくらいの理性はある、と天馬は思う。
 あるけれど、もはや雰囲気の時点でアウトのような気がする、と思う程度にさっきは危なかった。
 真っ赤に染まった耳のあざやかさ、欲をはらんだ瞳、触れずともわかるくらいに熱を持った体。目の前の一成の全ては、あまりにも天馬の情欲をあおりたてる。

(――見せられるかよ)

 天馬の姿を見せたくない、なんてかわいいことを言っていたけれど、天馬からすればあんなに煽情的な一成を他の誰にも見せたくない。
 元々、寮内で大っぴらに触れ合うこと自体に抵抗はあるけれど、やはり遵守しなくては、と思いを新たにする。
 ただ、一方では離れてしまった熱を恋しく感じるのも事実だ。
 朝は何かと慌ただしいから、さすがに触れる時間は取れないだろう。二人とも昼間は撮影やら取材やらと仕事が入っているので、次に顔を合わせられるのは帰宅後になる。
 そのまま稽古に入るので、二人の時間を取るのは難しい。
 それでも、どこかで時間を見つけて一成に触れたかった。一成も同じ気持ちでいる、というのは天馬にとって当然の事実だったので、タイミングさえあえば応えてくれるだろうという確信はあった。
 やっぱり同じ寮に住んでいるのはありがたいな、と天馬は思う。
 人目を忍ぶ必要性はあるけれど、同じ屋根の下で過ごしている限り、毎日その熱に触れられるのだから。

******************


「――別に、大したことじゃない」

 それなりに長い沈黙のあと、天馬はどうにかそれだけ言った。
 さすがに事の次第を説明する気はない。というか、説明したが最後幸にはブリザードのような視線を向けられるに違いない、と天馬は思う。
 毎日キスをしていたけれど、それを止めたら所作に初々しさが出るようになりました、だなんて。
 もちろん、演技における解釈が深まったことも一因ではあるだろう。
 ただ、天馬も感じているのは毎日交わしていたキスがなくなったことで、いざ一成を前にした時に新鮮な気持ちになっているという事実だった。
 どんな風に触れていたのか、どうすれば喜ぶのかを忘れてしまったわけではない。
 それでも、久しぶりにその唇に触れるという事実は、みずみずしい衝動をもたらした。知らない何かを知ろうとするような、新しい扉を開いてゆくような。
 そういう類の感情が、いっそう演技に説得力を持たせているはずだった。
 だから、一成の提案自体は成功だったと言わざるを得ない。ただ、多少の気がかりはあるけれど。

「――ふうん」

 幸は、天馬の言葉にそれだけ言った。納得したわけではない、ということがありありとわかるような口調だった。
 確かに、大したことではないと言っているだけで内容について言及しているわけではないのだから、それも当然だろう。
 ただ、天馬とて馬鹿正直に全てを話すわけにはいかないので、これ以上何かを言うつもりはなかった。
 深く突っ込まれたが最後、上手く追及を交わせる自信もなかったので、とりあえず天馬は幸から視線を外す。自然と目が向くのは、稽古中の三人だ。
 動きの確認をしながら、時々立ち止まっては場面を進行させている。それぞれが、持てるもの以上を注ぎ込むのだという熱意でもって臨んでいるから、稽古の度にレベルが上がっていくのを実感する。
 だから、稽古中の演技を見ていることは確かに勉強になる。
 ただ、天馬の目は自然と一人に吸い寄せられる。さっきまで思い出していたものがものだけに、どうしても己の恋人に目が向かってしまうのだ。
 さっきまでその唇に触れていた。しかし、それはあくまでも演技上の話であってプライベートでは一切触れていない。
 別に避けられているわけではないから、いつも通り名前は呼ばれるし笑顔だって見せてくれる。だけれど、同じ屋根の下で過ごしているにもかかわらず、最後に触れたのはキスシーンの稽古中の時だけだ。
 抱きしめたい。指先をからめたい。鼓動を感じたい。やわらかな唇に触れたい。
 まったく顔を合わせない時だってそんな風に思ったけれど、今身の内で暴れ回る衝動はその時よりもっと強い。
 なにせ、実際にその存在はずっと近くにいるのに、触れ合えないのだ。どうせなら、まったく姿が見えないほうがまだ耐えられたかもしれない。
 元々一成は距離感が近いので、普段なら意味もなくひっついてくるのに、今はそれすらないのだ。だから余計に、触れたい気持ちに拍車がかかる。
 いつもみたいに笑ってくれて、愛おしそうなまなざしだって向けられるのに、触れることだけできないから。
 天馬は無言で、台詞を紡ぐ唇を見つめている。その唇のやわらかさ、歯並び、舌先の甘さだって全部知っているのに、ずっとそれを感じていない。
 一成の役作りの提案は恐らく正しくて、初めてキスを交わす初々しさを充分に表現する手助けになっている。
 ただ、天馬の気がかりはあまりに長いこと触れていないと、衝動が強く出てしまうのではないか、ということだ。
 さすがにそこはプロなので、衝動のまま抱きしめたり口づけを送ったりなんてことはしない。だけれど、奥底からあふれでる全てをなぎ倒すような衝動は、演技に乗ってしまう可能性がある。
 天馬は一成を見つめながら、じっと考え込んでいた。
 むしろ、その衝動は遼一郎の焦燥に近いのか? 触れたいと思い続けて、拒絶され続けているなら、一成に向かう衝動は遼一郎に重なる部分がまったくないわけじゃない。
 無意識の内に自分の唇に触れていたことに気づいて、そっと指先を離す。視線は一成に向けられたままだ。その様子をじっと見ていた幸は、何かを察したように声を発する。

「とりあえず、寮で盛ったら軽蔑するから」
「誰が盛るか」

 反射で言い返すけれど、若干怪しい時がなかったわけではない自覚はある。ただ、肯定でもすればそれこそ幸からの視線が厳しいものになることだけは間違いないので、返答はこの一択だ。

「――いや、ちょっと待って。お前、気づいて……」

 幸の言葉の意味を咀嚼し直した天馬が慌てたように口を開く。くすぶっている衝動に気づいたような言葉だったのだからそれもそうだろう。幸は案外落ち着いた調子で答えた。

「ポンコツの様子見ればわかるでしょ。一成のこと見すぎ。まあ、公演期間終わるまではお預け頑張れば」

 そう言った幸は、ひらひらと手をふって投げやりなエールを送る。天馬は言葉に詰まるものの、少し意外でもあった。
 てっきり幸にばれたら、冷たい視線を向けられると思っていたのだ。しかし実際は、呆れた顔はされたもののそれだけだった。

「……お前、意外とあっさりしてるんだな」

 てっきりもっと辛辣なことを言われると思った、と続ければ幸が片眉を上げて言う。

「言ってほしいなら言うけど」
「そういうわけじゃない」

 幸のことだ。天馬の心をえぐる言葉など、いくらだって口にできるだろう。しかし、今回はそれを選ばなかったどころか、投げやりながらもエールを送ってくれたのだ。

「――実際ちゃんと演技に反映されてるっていうのもあるし。それに、我慢してるのは偉いんじゃないの」

 普段、天馬と一成が一緒にいられる時間を多く取れていないことは幸だって知っている。
 お互い忙しいのだから仕方ないと二人は理解しているので、取り立てて不満を言うこともないけれど、一緒にいたいと願っていることなんて言われずともわかる。
 そんな時に、同じ屋根の下で過ごすことができるという状況になったのだ。触れ合う時間を多く取れるはずだった。
 しかし、結局役作りのために二人は距離を取ることにした。そこには、「恋人同士の触れ合い」も含まれているらしい、と今回幸は察した。
 手を伸ばして触れ合いたいと望む人がそばにいながら、そうしないことを選んだのだ。
 さすがにそれだけで精神的に堪える、なんてことを言う二人ではないと知っているけれど。
 それでも、最高の舞台のために自分の気持ちを押さえて過ごしていることは事実なのだから、応援くらいはしてもいいだろうと幸は思ったのだ。

「まあ、我慢できなくなって何かやらかしたら軽蔑するけど」

 さすがにそれはないだろうと思いつつ、軽い口調でそう告げる。嫌そうな顔をする天馬に少しだけ笑って、「そろそろ出番だって、ポンコツ」と声を掛けた。