うつくしい日に




 御影さんは、比較的すぐに戻ってきた。ガイさんが出したいと言っていたカクテルと共に。

「これ、オレも好きなカクテル。甘くて美味しいし――それに、今日の一成にぴったり」

 言いながら私たちの前に置かれたのは、カクテルグラスに注がれた白いカクテルだった。ジンをベースに、カカオホワイトリキュールと生クリームをシェイクしたカクテルで、デザートにぴったりだと言う。御影さんは唇にうっすら笑みを浮かべて告げる。

「名前はプリンセス・メアリー。メアリー王女の結婚記念に作られたカクテルで――祝福の証」

 それだけ言うと、御影さんはお辞儀をして部屋を出ていく。
 私といえば、今のは一体どういう意味なのか、と一成へ視線を向けたのだけれど。一成は目の前に置かれたカクテルを見つめて、きゅっと唇を結んでいた。御影さんの言葉の意味を、一成が理解していることを悟る。恐らくこれは、ガイさんや御影さんから一成へのメッセージなのだ。
 長い沈黙のようだった。しかし、実際はそれほどの時間は経っていなかったのかもしれない。一成は、カクテルに注いでいた視線をゆっくり外すと、意を決したように私へ目を向けた。
 笑顔はなかった。真剣な表情で、何かとても重大なことを口にするのだというまなざしで、一成は言った。

「――あのね、パピー。会ってほしい人がいるんだ」

 小さな声で落とされた言葉が耳に届く。同時に、御影さんの言葉の意味を理解する。
 祝福の証。結婚記念に作られたカクテル。恐らく彼らは、一成が結婚の話をするつもりだと事前に聞いていた。だからこそ、自分たちからの祝福という意味でこのカクテルを持ってきてくれたのだと悟る。

「そうか。一成にも、そんな相手がいたんだな」

 思わず唇をほころばせて、そう言う。
 仕事の話はよく聞いたけれど、そういった話はとんと耳に入ってこなかった。だからてっきり、将来を考えるような相手は特にいないと思っていたのだけれど。人目を気にする必要性のある職業ではあるので、そういうことは上手く隠していたのかもしれないな、と思う。一成は「うん」とうなずいて、言葉を重ねた。

「えっと、一緒に暮らそうって話になってて。一応、夏くらいには引っ越したいな~って言ってるんだけど」
「どの辺りに住むか、具体的には決めてるのか?」
「ううん。でも一応、都内の交通アクセスいいところがいいかな~って」
「そうか、いきなり海外に住むなんて言われなくて安心した」
「さすがにそれはしないって。たぶん」

 あはは、と明るく笑って一成は言うけれど。自分の息子ながら時々突拍子もないことをする子でもあるので、相手が海外に住んでいてそちらに住む、なんてことを言い出す可能性だってあった。もちろん、一成が決めたことなら応援するけれど、寂しいとは思ってしまう。

「どの辺がいいかな~っていうのは、これから色々物件見たりしようって言ってるとこ」

 そう言いながら、思い出したように一成はカクテルに手を伸ばした。そうだった、と私もカクテルグラスを傾ける。事前に聞いていた通り、クリーミーで甘口のカクテルだった。お菓子のような味わいがあって、御影さんの言う通りデザートにぴったりだ。
 一成も「お菓子みたいだねん」と笑っていて、屈託がないように見えるけれど。何だかその笑顔が少しだけぎこちなく思えた。ただの勘違いなのか、親としての直感なのか。
 わからないけれど、もう少し注意深くその表情を見つめようとしたところで、一成がこちらを見た。ばちり、と視線が合って、直感が正しかったことを悟った。
 一成は笑っている。だけれど、瞳はゆらゆら揺れ動いていて、今にも泣き出しそうだった。

「一成」

 名前を呼べば、それだけで一成は理解しただろう。私が笑顔のぎこちなさに気づいたことも、何か言いたいことがあるのだと悟ったことも。一成は手にしていたカクテルグラスをテーブルに戻すと、深く息を吐き出した。溜め息のように重苦しい。
 一成はゆっくりと口を開いた。だけれどすぐにつぐんでしまう。何かを言おうとしている。同時に、声に出すことをためらっている。言葉にすることを恐れるような素振りで、何かとても言いづらいことを口にするような表情で、一成は視線をさまよわせていた。
 私はただ、じっと待っている。急かすつもりはなかったし、一成が落ち着くまでいくらでも待つつもりだった。言いたいことがあるのなら、それがいつになっても構わないから、きちんと受け取りたかった。
 一成は、私のそんな気持ちを察したのだろうか。
 何度か深呼吸をしたあと、私のほうへ視線を向けた。ゆらゆらと揺れてはいるけれど、そこには確かに私が映っている。綺麗な緑色の瞳を見つめると、一成は言った。どうにか絞り出したような震える声で。叱られる前の子どもみたいな表情で。罪を告白するような響きで。

「――オレが会ってほしい人って、女の人じゃなくて……男なんだ」

 告げられた瞬間、驚かなかったと言えば嘘になる。会ってほしい人。一成が共に人生を歩く人として選んだ相手。女の人ではない。一成と同じ、男性。
 予想外の言葉ではあったから、思わず目をまたたかせた。しかし、同時に胸に広がったのは「なるほど」という納得だった。
 なるほど、だから一成はあんなに言いにくそうにしていたのか。まるで懺悔するみたいに絞り出したのか。確かに予想外の言葉だし、一般的に広く受け入れられているとは言えないから、一成がためらうことも理解できる。
 だからこそ、心から言った。一成がそんなことを思う必要はないのだ、と伝えたくて。

「そうか。一成が選んだ相手なら、素敵な人なんだろうな」

 嘘偽りのない本音だった。確かに相手が男性というのは驚いた。性別なんて些細なことだとは言わない。重要なポイントであることは違いないと思う。ただ、私にとって一番大事なことは、少なくとも性別ではなく、一成が心から望んだ相手であることだ。
 そして、親馬鹿かもしれないけれど、一成は人の本質を見る目を持っていると思う。そんな一成が選んだ相手なのだ。誠実に、一成を大事にしてくれる人なのだろう。
 一成は私の言葉に、大きく目をまたたかせた。私の顔をじっと見つめて、続く言葉がないことを確認したらしい。恐る恐る、といった調子で口を開く。

「え、と、パピー。その、何かないの? 男相手なんて認めないとか気持ち悪いとかショックとか……」

 一成に尋ねられて、逆に考え込んでしまった。認めないも何も、一成の選んだ相手を私が判断する話でもないだろう。それに、万一認めないと言ったところで一成の心が変わるとも思えない。
 嫌悪感に関しては、少なくとも今の私は特に何も感じていない、という事実があるだけだ。確かに驚いたけれど、ショックを受けるというほど動揺したわけでもなかった。ただ、純粋に事実として受け取っただけだった。だから、私は素直に思ったことを口にした。

「私にとって一番大事なのは、一成が幸せでいてくれることだ。確かに驚いたけれど、一成が一番幸せになれるのはこの人だ、と言える人に出会えたならそれが一番嬉しい。そういう相手なんだろう?」
「あ、うん。それはバッチリ。オレ宇宙一幸せになる自信はある」

 真顔で答えられたので、どうやらよっぽど相手のことが好きらしい、と思わず笑ってしまった。
 もちろん、親として心配なことはある。最近では同性愛に対しての認知も広まっているし、一つの形として認識され始めている。
 ただ、だからといって諸手を挙げて迎え入れられるわけでもないことは理解していた。一成が言うように、男同士であることを気持ち悪いと思う人はいるだろうし、いわれのないそしりを受けることもあるだろう。
 そういう道に進んでいくことを、全面的に肯定できるかと言えばもちろんノーだ。できるなら、一成には茨の道を歩んでほしくはない。できるなら、誰からも指を指されない道を歩いてほしい。
 確かに私は望んでいるし、それは男性を伴侶に選ぶこととは相容れない。だから反対する選択肢も存在はしているのだけれど。
 それを選ばないのは、一成が心から望んだものはこれだと言ってくれることが嬉しいからだ。たとえどんなに険しい道だとしても、選びたいのはこの道だと言ってくれることが、何よりも嬉しいからだ。

「一成が心から大切に思う人とこれからの人生を歩けるなら、それが一番嬉しいんだ」

 共に人生を歩く。それは、一成だけでは成し得ない結論だ。一成が大切だと思うのと同じ気持ちを相手が返してくれたのなら、そうして共に人生を歩むと決めたのなら。
 確かに一般的ではない形だとしても、それは彼にとって最上の幸福であることに違いない。それを嬉しいと思うのは、私にとって当然のことだった。
 一成は私の言葉に、大きく息を吐き出した。それから、しみじみとした口調で言った。

「は~、オレめっちゃ身構えてたんだけど。認められないとか、縁切るとか言われたらどうしよ~って。パピーがそんなこと言うわけないって思ってたけどさ」

 そう言って、カクテルに口をつけると「甘くて美味しいねん」と笑う。私はその横顔に「飲みすぎないようにな」と注意をしてから、言葉を重ねた。

「むしろ、あっさりしすぎて不安になってないか。あんまり簡単に言うから、本心でそう思ってるとは思えないとか」
「あはは、だいじょぶだよん。パピーが適当にこの場面だけで嘘吐いてるとか思ってないし、パピーならきっとそう言ってくれるだろうなって思ってたし!」

 だから平気だよ、と笑って言うので「ならよかった」とうなずく。「ママには私から話しておいたほうがいいか?」と言えば、「頼んじゃっていい?」と返ってきたので、今度それとなく話しておこうと思う。

「……マミーもおんなじこと言ってくれるよねん」

 少しずつカクテルに口をつける一成が、ぽつりとこぼした。同じこと、というのは私と同じ結論に達するだろう、ということを指しているのだろう。恐らくその予想は正しい。
 おっとりとしているように見えて、芯の強い人だ。一成の結婚相手が男性だということに驚きはしても、のんびりと「息子が増えるわね」と喜びそうな気がする。
 だから「そうだな」と答えると、「だよね~」と一成が笑った。心底楽しそうな、くすぐったそうな笑みに。見えたのだけれど。
 どこかに違和感がある気がして、一成の横顔をじっと見つめる。いつもの通り、楽しそうな軽快な表情。視線に気づいた一成が「パピー?」と言って首をかしげる。それもやはりいつも通りで、明るい雰囲気だ。だからきっと私の勘違いだろう、と思ってもよかった。
 だけれど、さっきの直感が未だに何かを訴えているような気がした。一成の笑顔。とても上手に笑顔が作れる、私の大事な、やさしい子。心配をかけまいと、当たり前のように笑っていられる子。

「一成、何か言いたいことがあるんじゃないか」

 勘違いなのか、直感なのか。わからなくてそう声を掛ける。すると、一瞬。真っ直ぐ見つめた一成の瞳の奥で、影が揺らいだ。
 それで充分だった。たった一瞬を見つけられる私でよかった。ずっと一成を見ていたからこそ、気づける自分でよかった。

「言ってごらん。大丈夫だから」

 恐らく、これから先一成の憂いは、彼が選んだ相手と分かち合っていくものだろう。だけれど、今はまだ親として、一成の憂いを共に抱えていたいと思った。まだここで、親としてできることがあるならば。

「……パピー……」

 言葉を落とした一成は、失敗した笑顔を顔に貼りつけていた。笑おうとして、だけれど上手く行かなくて、それでもどうにか笑顔でいなくちゃと自分に課すような。
 私はそっと手を伸ばして、一成の頭を撫でる。彼が小さい頃そうしていたように、ゆっくりと。

「……パピー、オレ、」

 何かを言おうとして、喉の奥で言葉がつぶれる。慌てる必要はないと、一成の頭の上で手のひらをゆっくり行き来させる。一成は唇を結んで、何かを耐えるような表情で私の手を受け入れていた。
 それからどれくらい経ったのか。一成はどうにか呼吸を落ち着かせた。手を離すと、一成はゆらゆらと揺れる視線で私を見つめて、口を開いた。小さな声を落とす。

「オレ、本当に怖かったんだ。パピーはきっと否定しない、認めてくれるって思ってた。だけど、もしかしたら気持ち悪いって思われるかもしれない。もしかしたらショックを受けて悲しませちゃうかもしれないって、思ってた」

 だから、と一成は言う。
 だから、パピーが当たり前みたいに認めてくれて、本当に嬉しかったんだ。

 それは喜びの言葉のはずだった。だけれど、たった今一成から落ちた声は、絶望的な響きが宿っていた。どうしてなのか、わからなくて混乱する。嬉しいと言ってくれた一成の言葉は本心だろう。それなのに、私の言葉を受け取った一成は、同時に深い悲しみを抱えていた。

「オレは本当に大事にされてるんだって思った。パピーにもマミーにも、いっぱい大切にされて、めちゃくちゃ大事にされてるんだって、思った。オレの幸せを本当に心の底から祈って、願ってくれてるんだって」

 そうだ、と私は思う。その通りだよ一成、と言う。
 一成とふたば。私の人生で、一番大切なもの。私の宝物と言ったら、間違いなくこの二人だ。たとえ人と違う道を歩くとしたって、心から望むものを選んでくれることが嬉しい。何があっても味方になるのだと、二人が生まれた時に決めた。
 それを全部受け取ってくれた。大事で大切で仕方がないという気持ちを受け取ってくれた一成が、なぜこんなにも苦しそうなのか。わからなくて、ただ私は一成を見つめている。
 一成は、泣き出しそうに眉を寄せて言った。あえぐような、何かにすがりつくような声で。握りしめた罪を差し出すような口調で。間違いなく懺悔を口にする響きで。

「普通の幸せをあげられなくて、ごめん」

 そう言った一成は、堰を切ったように言葉をあふれさせた。

 ごめん、パピー。オレは、普通の会社員にもなれなかったし、普通に結婚することも、子どもを作ることもできない。お嫁さんを紹介することもできないし、孫の顔だって見せられない。パピーは絶対やさしいおじいちゃんになる。孫ができたらめちゃくちゃかわいがってくれる。子どもの顔を見ながら、オレに似てるとか奥さんに似てるとか、そんな話しながらお酒を飲むとか、そういう未来があったかもしれない。普通の、何てことない幸せがあったはずなんだよ。

「だけど、オレは全部あげられない」

 そう言う一成は、濡れた瞳で私を見つめていた。
 一成が選んだ相手は同性だ。女性であれば、当然のように親戚にも紹介したけれど、同性となれば紹介する相手を選ぶことになるだろう。それに、二人の間に子どもができることはない。
 養子をもらうという選択肢もあるし、異性の夫婦だからといって必ずしも子どもができるとは限らない。だけれど、一成が言いたいのは恐らくそういうことではない。
 絶対に私にはできないこと。一成がどうしてもできないこと。一成の血を引く孫とは絶対に会えない。その事実を指している。

「ごめん、パピー。いっぱい愛してくれたのに。たくさん、たくさん、大事にして、大切にしてもらったのに。オレは、一個も返せないんだ」

 一成の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれていった。子どものように泣きながら、一成が言う。

 大事にしてくれた。大切にしてくれた。愛されていると知っている。だから、同じように返したいのに。オレは、パピーたちにもらったものを返せないんだ。

 目の前で泣き続ける一成は、心から言っていた。
 一成は家族をとても大事に思っている。だからこそ言うのだ。両親がいて、その間に子どもが生まれる。その形を自分が選べないことが苦しいのだと。
 それだけが家族の形ではないと、一成とて理解しているはずだ。だけれど。両親――私たちが作った形と同じものを作れない、その事実がどうしても一成を苦しめる。大好きだと、大事だと知っているからこそ。

「オレはオレの家族が好きだよ。だから、おんなじように家族を作れたらよかったのに。パピーたちのくれたものは間違いじゃなかったよって、言えたらよかったのに。同じ幸せを選べなかった」

 泣きながら、ひどい罪を犯したみたいに言葉を落とす一成。その言葉を一つずつ拾い上げた私は、そうか、と思う。
 何よりも大事だった、これから先もずっと大切な、私の宝物。彼はひどくやさしい心を持ったまま、こうして成長した。だから一成は、私たちが作った家族と同じものを自分が作れないことを、まるで何かの罪のように思ってしまう。
 それは恐らく、私たちが一成にあげられたもの――両親がいて子どもがいる、「普通の形」を否定しているように思えてしまうからだ。
 やさしい子だ。一成は、同じ道を選べないこと、ひいては同じ幸福を選べないことに罪悪感を覚えている。
「普通の形」を選ぶことで連綿と続いてゆくはずだった血縁を途絶えさせてしまうこと。「普通の形」を作ることで、両親から受け継いだものを肯定すること。そういう全てができない自分が、何よりも許せないのだ。
 大好きだから。大事だから。愛されていたと知っているから。同じくらいに、もしかしたらそれ以上に、大事だと大切だと愛を返したいと望む一成にとって、私たちが作ってきた「幸せ」を否定するように思えるそれは、罪を犯すのと同義語なのかもしれない。

「一成」

 名前を呼ぶと、一成が怯えたようにこちらを見つめる。緑色の瞳は溶けてしまうんじゃないかというくらい涙に濡れていた。
 子どもの頃でさえ、あまり泣くことのない子だった。それでも、時折涙を流すことはあった。その頃とあまり変わらない泣き顔に、ほっとするような懐かしいような気持ちになりながら、私は言う。心からの言葉を、できるかぎりのやさしい声で。

「一成が何を選んでも、私たちのことを否定したとは思わないよ。それに何よりも、一成の人生で私たちの人生を肯定しなくていいんだ」

 一成の罪悪感は、私たちの人生――「普通の形」を選んで生きてきたことを否定するように思ってしまうことから来ている。
 同じ形を作ることは、それだけで今まで歩んできた道は間違いじゃなかったと告げるような力強さを持っているのだろう。
 子どもとして生まれて、大人になり、子どもが生まれて親になる。それはとても正しい形なのだろうし、同じ道を歩くことは、きっと何もかもが間違いではなかったという肯定になるのかもしれない。
 だけれど、それを選ばないことが、罪になるなんて思ってほしくはなかった。

「確かに私たちは、一成の幸せを願っている。だけどそれは、私たちと同じように、同じ形で幸せになってほしいわけじゃない。だから、同じものを選べないことを悪いことだと思わなくていいんだ」

 幸せになってほしいと心から願っている。だけれどそれは、同じ道を歩いてほしいという願いではなかった。確かに、知らない道は何があるかもわからないから不安にもなってしまう。よく知った道であるなら与えられる助言も多くあるし、助けになることもできるかもしれない。
 ただ、それは幸せのための必須条件ではない。私と同じ形を選んでほしいわけでもないし、私と同じように幸せになってほしいわけでもない。

「一成には、一成だけの幸せを見つけてほしい。これが自分の幸せだと一成が心から言ってくれるなら、それが一番嬉しいんだよ」

 誰かと同じ形の幸せでなくて構わない。私と同じ幸せでなくて充分だ。ただ願うのは、一成が心から幸せだと言ってくれることだけだ。

「――でも、パピー……」

 涙に濡れた瞳で私を見つめる一成は、ぽつりと言葉を落とす。だけど、オレ、もらったものを一個も返せないまんまだよ。

 普通の幸せをあげることも。同じ形を選ぶことも。今までの人生を肯定することも。続いてきたものを受け継ぐことも。何一つできないのに、と一成が言う。

「パピーとマミーは、オレのこと、いっぱい大事にしてくれて、大切にしてくれた。たくさん愛してくれた。それなのに、もらったものを一個も返せないなんて、やだよ」

 震える声でそう言う一成に、思わず笑みが浮かぶ。やさしくて、他人のことによく気がついて、時々妙に頑固なこの子らしい言葉だな、と思いながらゆっくりと口を開く。

「お返しなら充分もらっているよ、一成」

 心から言えば、一成が「え」と言って目をしばたたかせる。睫毛に引っかかった涙がぽろりとこぼれて頬を滑っていった。その様子を見つめながら、私は静かに言葉を続ける。もらったものを一個も返せないなんて。そんなことはないのに。

「一成が生まれた日の話をしようか」

 そう言うと、一成は不思議そうな顔をした。いきなり何の話だろう、と思ったのかもしれない。だけれど、一成は人の話をよく聞く子だ。耳を傾けることをよく知っているから、ただ黙って私の話を聞いてくれる。私は記憶を取り出しながら言葉を紡ぐ。

「陣痛が始まったと連絡が来た時、パパはまだ仕事中でね。どうにか仕事を終わらせて、タクシーに飛び乗ったんだ」

 病院に着いた私は、分娩室の前でソワソワと落ち着きなく過ごしていた。今では立ち合い出産も当たり前だけれど、当時はあまり一般的でなかった。ベンチに座ったり立ち上がったりと、できることは何もないと知りながら、それでもじっとしていられなかった。

「あれほど時間を長く感じたのは、一成が生まれた時とふたばが生まれた時くらいだ。もちろん、パパよりもよっぽどママのほうが大変だったし、いくら感謝してもし足りない。パパなんて、ただ祈っているだけだったけれど、ママは本当に頑張ってくれた。ありがとうなんて言葉じゃ足りないくらい感謝してるんだ」

 心から言えば、一成はこくりとうなずいた。私の言葉をきちんと受け取ってくれていることを確認して、言葉を続ける。

「とても長い時間、ママは頑張ってくれた。そうして、一成が生まれたんだ」

 分娩室から、赤ちゃんの泣き声が聞こえた。驚くくらいによく響く声に思わず固まっていると、しばらくして助産師さんが出てきて言ったのだ。「三好さん、元気な男の子が生まれましたよ」と。
 あの時の気持ちをどんな言葉で表したらいいのか、今でもまだよくわからない。
 生まれてきたくれたことへの感謝。これから先、何からも守っていこうという決意。大事で大切な宝物なのだという直感。喜びと、責任の大きさと、祝福を受けたような感動。色んな感情が渦巻いて、あふれだしそうだった。

「分娩室を出たあとで、ようやくママと一成に会えたんだ。一成はすごく小さくて触るのもすごく怖かった。でも、口や手を動かしたりしていて、本当に生きてるんだなって嬉しかったよ」

 当時のことを思い出して語れば、一成が少し照れくさそうな表情を浮かべる。あの時あんなに小さくて、簡単に壊れてしまいそうだった子がこんなに大きくなって、目の前にいてくれること。大事な人と生きていこうとしていること。その事実を噛み締めながら、私はそっと言葉を紡ぐ。

「それからパパは、一旦家に帰ったんだ。陣痛が始まった時はまだ夜中だったけど、帰る頃にはちょうど日の出の少し前くらいでね。少しずつ、空が明るくなっていく中病院を出たんだ」

 西のほうはまだ薄青く、小さな星が出ていた。だけれど、東側からは太陽の光が少しずつにじみだしていて、見上げた空は息を呑むほど美しかった。夜と朝のあわいを歩きながら、私は思っていた。

「世界はこんなに美しかったのか、と思ったよ」

 見上げる空はもちろん、アスファルトの道路も、空を走る電線も、街路樹の葉っぱも、淡く光る自動販売機も。頬を撫でる風も、どこからか漂う土の匂いも、熱さの潜む空気も、何もかも。
 目に映るもの、取り巻く全てが今までと違う意味を持っているように思えた。

「一成が生まれた、それだけで世界が美しく思えたんだ。一成がこの世界に生きている。ただそれだけで、私を取り巻く世界は美しいものに変わったんだ」

 それまで、周囲のものに対して特別マイナス感情を持っていたわけではなかった。それなのに、一成が生まれたこと、ただその事実が何もかもを新しく生まれ変わらせた。大切な、宝物みたいなあの子が生きているのなら。この世界は、なんて美しいのだろうと心から思えたのだ。

「何も良いことだけが起きるわけじゃない。もちろん、嫌になることも投げ出したくなることもある。だけれど、それでも私が取り巻く世界に愛想をも尽かさず、それどころか美しいものだと思えるのは、一成とふたばがいるからだ」

 真っ直ぐと、一成を見つめて告げる。一成は、つややかな瞳で私へ視線を向けてくれている。心を丸ごと取り出せたらいいのに、と思いながら私は言う。

「お返しなら、一成が生まれた瞬間に一生分もらっているよ。目に映るものを、こんなにも美しいと、大切だと心から思わせてくれた。お前が生まれた瞬間から、私にとって世界は驚くくらい美しいものになった。それが私の人生をどれほど豊かで、彩りにあふれたものにしてくれたか」

 何も返せないと一成は言う。だけれど、一成が生まれた瞬間から、世界は意味を変えたのだ。こんなにも美しい場所だと私に思わせてくれたのだ。

「一成はもうすでに、一生分のお返しを私にくれたよ」

 だから、何も返せないなんて思う必要はないのだ。一成は私の言葉に、何かを言おうとして口を開いた。だけれど言葉にならなくて、戸惑うような表情を浮かべて唇を閉じた。
 私はそっと、一成に手を伸ばす。ゆっくりと頭を撫でて告げる。これから先、この子に触れて安心を与えるのは私の役目ではなくなるのだろうな、と思いながら。

「だから一成、私たちに何かを返そうと思わなくていい。私たちは充分受け取っているから、私たちのことは何も心配しなくていい」

 やさしい子だ。当然のように周りの人のことを考えてくれるから、私たち家族のことだっていつも気にしてくれている。だからこそ、一成は自分の幸せに他人のことを当たり前のように入れてしまう。それは確かにやさしさで、彼の美点ではあるのだけれど。今だけは、これだけは言いたかった。
 やわらかな髪の毛を撫でる。小さな頃にそうしていたように。今ではすっかり大人になった、それでも大事な私の息子に。

「自分のためだけに幸せになりなさい、一成」

 他の誰かのことを考えるのではなく。家族や友人のことだって考えなくていい。それはきっと一成にとっては難しいことなのだけれど、それでも。他の誰かのためではなく、もちろん私たち家族のためではなく、ただ自分自身のためだけに幸せになってほしかった。
 言葉が届いた途端、一成の目から涙があふれてこぼれていった。あとからあとから、ぽろぽろと流れ落ちていく。決して声を出さないその泣き方は、昔から変わらない。小さな一成をあやすような気持ちで、ただその頭を撫でている。

 どれくらいそうしていただろうか。一成は声も出さず涙をこぼしていたけれど、次第に落ち着きを取り戻していった。もう大丈夫だろう、と手を離せば一成が照れくさそうに視線を向けた。

「めっちゃ泣いちった」
「たまには泣くとすっきりするぞ」
「あー、それはそうかも~」

 言いながらティッシュを取り出して鼻をかむ様子は、だいぶいつも通りだった。恐らく、一成は私の言葉を咀嚼して受け取ってくれたのだろう。どことなく清々しい顔をしていた。

「――パピー、ほんとありがとねん。やっぱりオレ、パピーの子どもでよかった~!」
「子どもにそう言われるのは、親として本当にありがたい話だ。私のほうこそ、一成の父親でいられて嬉しいと思っているよ」

 心から言うと、一成がにこにこと嬉しそうに笑ってから小さな声を落とした。罪悪感ではなかった。だけれど、寂しそうな声。

「……そういうの、オレはたぶん知らないまんま一生過ごすんだろうなぁ。パピーに、『こういう気持ちなんだねん』って言えたらよかったけど」

 少し困ったような微笑を浮かべてから、「あ、別に悪いと思ってるわけじゃなくて、ただの事実確認的なやつね!」と続いた。私は苦笑を乗せて答えた。

「同じ形で幸せになってほしいわけじゃないと言っただろう。確かに一成は、私の感じた幸せを知らないで過ごすかもしれない。だけどお前はこの先、私の知らないたくさんの幸せを知って生きていくんだ」

 同じものを知ることはないかもしれない。だけれど、その分、一成は私の知らない幸せと共に生きていく。それはきっと寂しいことではなく、とても素敵なことのはずだ。一成は私の言葉に目をまたたかせたあと、じわじわと笑みを広げた。

「うん、そうだよねん。パピーの知らない幸せも、オレがいっぱい知ってたらさ、きっとその分、幸せの数も増えるもんね!?」

 明るい表情でそう言う一成は、心底嬉しそうだ。そういう風に笑っていてほしいと思う。私が知らない幸せだってたくさん抱えて、そうしてずっと生きていってほしいと願う。
 思いながら、少し冗談めいた口調で言う。

「ああ。その点は問題ないだろう。なんせ一成は、宇宙一幸せになる自信があるんだから」
「そうそう! マジでオレのダーリン宇宙一カッコイイからね!」

 きっぱり言うので笑ってしまう。心からそう思える相手がいるのだ。それが幸せでなくて一体なんだと言うのだろう。たとえそれが同性だったとしても、一成が心からそう言える相手と出会えたことが、嬉しくて仕方がないのだ。

「相手に会うのが楽しみだな。どんな人なんだ? ああ、そうだ。顔合わせの日付も決めないといけないな」

 そういえば、そもそもはそういう話だったと思い出す。具体的にはいつくらいがいいのだろう。何だかいざ日程を決めるとなると、話が現実的になってきて緊張するな、と思う。場所は家がいいのか、それともどこかのお店がいいのだろうか。
 思いつつ一成へ視線を向けると、何かを思い出した、という顔をしていた。一体どうしたのか、という意味で名前を呼ぶと、一成はへらりと笑って言った。

「あのね、パピー、その、会ってほしい人っていうか、オレの相手なんだけど」
「ああ、どうした」
「その、ねー、パピーもよく知ってる人っていうか、その――テンテン、なんだよね」

 照れ笑いとともに告げられた言葉。テンテン。聞き慣れた名前だ。一成の口からよく出てくるので、不思議な愛称にもすっかり慣れてしまった。その名前は、つまり。

「……天馬くん?」

 MANKAIカンパニー所属。夏組リーダー。一成とも仲が良い。彼の顔を見ない日はないくらいの、日本でも屈指の俳優。皇天馬。

「天馬くん!?」

 一成の言葉を理解した瞬間、思わず叫んだ。一成は頬を染めながらも、至って楽しそうにうなずく。

「そそ。オレらの頼れるリーダーで、夏組所属の皇天馬だよん☆」

 楽しそうな一成の言葉を聞きながら、胸には実に様々な感情が浮かんでは消えていく。
 まさか相手が天馬くんだとは思わなかった。一体いつからの付き合いなのだろう。だから今まで交際の話が出てこなかったのかもしれない。スキャンダルになってしまうから。確かに天馬くんは誠実な人だろう。それにしてもまさか天馬くんとは。

「――びっくりした?」
「今までで一番びっくりしたかもしれない」

 素直にそう答えると、一成が大きな口を開けて笑った。心底楽しそうで、これ以上ないくらい嬉しそうな笑顔だ。つられるように笑顔になりながら、心からの言葉を落とす。

「お前たちの話を聞くのが楽しみだ」

 本心からそう思う。どんな話を聞かせてくれるかはわからない。だけれど、一つだけ確かなことがある。人生を共に過ごすと決めた二人の口から語られるのは、これ以上ないほどの幸せに彩られた話に違いない。








END