神様には誓わない




 人生でこんなに緊張したことはないかもしれない、と天馬は思っている。
 芝居を始める前の緊張感とは種類が違う。カンパニーへ入る前に感じた舞台への恐れや、新しい場所へ飛び込む時の身が竦むような気持ちとも違うのだ。
 だって今日は、人生で一度だけの日だ。これから先の人生を共に歩むのだと、今日まで彼を慈しんで育ててくれた人へ、結婚の挨拶をしに行く。

「マジでさ、そんなに緊張しなくってだいじょぶだかんね!」

 コインパーキングに車を停めて、一成の自宅へ向かう道すがら。軽やかな調子で一成は声を掛けるし、それは心からのものだろう。

「パピーもマミーもふたばも、テンテンのことはよく知ってるし! 相手がテンテンだってことも、ちゃんと言ってあるから平気だって!」

 元気づけるように言って、ばしばし背中を叩く。それから、ちょっとだけ声を潜めて「マイリトルシスターには言ってないけど」と続く。

「――その、大丈夫なのか。オレがいきなり行って」

 緊張は未だ消えないものの、かろうじてそう尋ねた。
 一成の妹が自分のファンであることは天馬も知っている。一成曰く「オレのマイリトルシスターはシャイだから」、天馬と鉢合わせるとどうにも挙動がおかしくなることも。
 なので、三好家を訪れる時は事前連絡が必須になったのだ。天馬の顔を見た瞬間、へたり込んでその場から動けなくなる場面に直面していれば、おおげさでも何でもなく必要な措置であることくらいはわかっていた。

「パピーとマミーがちゃんと説明しておいてくれると思うよん! それに、テンテンのこと嫌いなわけじゃないし。むしろ大ファンだからそうなるって感じで、お兄ちゃんとしてはちょっとジェラっちゃうんだよね~」

 呑気な顔で言うけれど、冗談ではないことも天馬は察している。
 一成は年の離れた妹のことを殊の外かわいがっており、天馬にもしょっちゅう話を聞かせてくる。だから、意図せず天馬は一成の妹にもそれなりに詳しくなっているくらいだ。本人はそんなこと露とも知らないだろうけれど。
 なので、自分ではなく天馬のファンである、という事実に複雑な気持ちを抱えていることは知っていた。
 不快だとかではなく、「テンテンのファンになっちゃう気持ちはわかるよ」と素直に言ってはいるものの、嫉妬していることは事実だった。

「でも、ふたばはいい子だかんね! ちゃんとテンテンのこと、お出迎えしてくれると思うよ。たぶんだけど!」
「それならいいんだけどな。ちゃんと一成の家族に挨拶したいんだ。お前を大事にしてくれた人たちに」

 自分の言葉で、落ち着き始めていた心臓が再び走り出したことを天馬は察した。薄れていた緊張感がよみがえる。だけれど、それも当然だと天馬は思う。だって今から自分は、一成の大事な人へ会いに行く。
 家族から愛されて、慈しまれて、大切に大切に、宝物みたいに抱きしめられて今日までを生きてきた。そんな彼と共に歩いていくのだと誓った。
 だから、ちゃんと言いたかった。
 これから先の一成の人生にはオレが寄り添うのだと。オレの人生全てで、一成を大事にしていくのだと。だからどうか、安心してほしいと。あなたたちの愛した人を任せるに足る人間なのだと、ちゃんと示したかった。
 世界で一番大事な人を形作ってくれた人たちに、これから先の決意を告げるのだ。緊張しないはずがない。両親と妹。一成の大事な人たちに、オレの心全部できちんと伝えるのだ。
 ひっそりと決意を固めていると、一成がつぶやく。風に溶けてゆくような、小さな声。それでも、天馬の耳にはちゃんと届く。

「――テンテンはカッコイイなぁ」

 ぽつり、と言った一成はさらに続けた。そうやってちゃんと挨拶したいって言ってくれるとこ、すげー好き。
 ささやかな声だけれど、確かに耳に届く。ここが路上でなければ、今すぐ一成を抱きしめるのに、と天馬の心は否応なくかき乱される。
 昼下がりの閑静な住宅街には、二人以外の人はいない。だけれど二人の仕事のことを考えれば、今ここで手を伸ばしてはいけないことくらい、わかっていた。

「――そういうのは、二人の時に言ってくれ」

 かろうじてそれだけ絞り出すと、一成は楽しそうに「りょっす!」なんて言っている。それから「外だとちゅーできないもんね?」とイタズラっぽい笑顔で続けるので、天馬は心から「そうだよ」と答えた。