Pinkish Days




 唇がゆっくり離れた瞬間、一成が口を開いた。

「めんご~、今のところもう一回やっていい?」

 軽い口調ではあるものの、表情は真剣だ。立ち稽古として動きの確認をしている最中なのだから、違和感があればストップをかけることも当然だし、試行錯誤を重ねることも想定内だ。
 相手役の天馬も「オレももう一回試したい」と言っているし、それを見守る監督も同じ気持ちだった。恐らく、二人とも指摘されるべき内容は理解しているはずだ。

「ちょっと台詞に意識持って行きすぎてたかも! ついつい、テンテンの腰に手回しちった」

 難しい顔で一成は言い、ぶつぶつと「初めてキスされるんだから、蒼生は絶対びっくりして固まるよね~」と続けるので、監督はうなずいた。そう、彼女が違和感を覚えたのもその点だった。
 ストリートACTを元にした、夏組全員集合公演。クライマックスは、一成演じる蒼生と、天馬演じる遼一郎が初めてキスを交わすシーンだ。
 作中において、遼一郎は誰相手にも唇へのキスはしないと明言されているから、クライマックスでその意味がよりいっそう大きくなる。
 そして、二人が交わす初めてのキスなので初々しさが求められるわけなのだけれど、いかんせんそこは実際恋人歴が長い二人である。
 交際を始めてからそれなりの年月を重ねているため、二人にとってキスというのはわりと日常茶飯事だった。
 ただ、そこはさすがにプロなのでちゃんと演じてはいるのだけれど、時々「慣れ」が出てしまう瞬間があった。たとえば今、天馬がキスをした時に自然と腰に回る手だとか。
 何度もキスを交わし合った恋人同士としてはうなずけるけれど、初めてのキスにしてはあまりにも手慣れている雰囲気が出すぎており、それを自覚しているからこそ一成はストップをかけたのだ。

「ああ。遼一郎にとっても初めてのキスだからな。もう少しためらいを持っているほうが特別感は出る。ただ、性格から考えるとだからこそ強引に出るほうがらしい気もするし……監督、どう思う?」
「そうだね。今日の雰囲気だと、遼一郎は尻込みすると却って強気になる感じだと思う。それなら、強引のほうがいいかもしれないけど、天馬くんも全体を見ながら役作りをしてる途中だよね。だから、まだ決定はしなくていいと思うけど……両方試してみたらどうかな」

 役の設定としては強引にキスをするほうが納得はできるけれど、特別さは足りない。わかっているからこそ、どちらがいいかと天馬は尋ねた。
 考え込みながら監督が提案すれば天馬はあっさりと「そうだな」とうなずくので、二パターンを演じ分けるつもりだろう。

「一成くんも蒼生の反応をちゃんと意識した上で、天馬くんの二パターンに応えてみて。他の四人も何か気づいたことがあったら意見を言ってね」

 このシーンは、一成と天馬にだけスポットライトがあたる。二人芝居のような趣があるので、夏組の四人は演技を続けながらも見守る形となるのだ。
 だから、演者というより単純に客観的な意見をお願いできるだろう、という考えだった。
 四人からは了解の答えが返ってきて、特に気負っている様子はなかった。
 稽古が始まる前までは、「二人のキスシーンなんてドキドキしちゃうね」だとか「何回キスシーン見せられるんだか」だとか言っていたし、一成自身も「みんなの前でキスシーン練習するのはずいね!?」と言っていた。
 なので、最初はぎこちない空気になる可能性もある、と監督は少し思っていた。
 天馬と一成が実際の恋人同士だということを知っているから、舞台上で恋人を演じることに戸惑いが発生して、気恥ずかしさも生まれるかもしれない、と。
 しかし、蓋を開けてみればそんな様子は一切なかった。
 夏組は演技の一環としてキスシーンを受け入れていたし、一成もそこは吹っ切ってきたのか、特に恥ずかしがることなくキスシーンに臨んでいる。
 役者としての彼らへの信頼は間違っていなかったな、と監督は嬉しく思ったものである。

「――それじゃ、クライマックスシーン、天馬くんの台詞からスタートします!」

 一声かけると、それぞれが自分の立ち位置を確認する。準備が整ったことを確認してスタートの合図を送れば、天馬が口を開いた。



◆◆◆


 稽古は順調に進んでいる。
 元々、夏組の彼らが演じたストリートACTが元になっていることから、役作りと大まかな流れが頭に入っていることは大きかった。
 加えて、今回は夏組の意気込みが違う。どんな公演であっても、絶対に成功させる、最高の舞台を作り上げる、というやる気で満ちている夏組だけれど、今回に限っては、前提条件が異なるのだから仕方ない。
 天馬のゴシップ記事に端を発した騒動がきっかけなのだ。
 ストリートACTとゲリラ告知で、ゴシップ記事はなかったことになったし、天馬と一成の関係性についても上手いこと誤魔化した。二人が悪意にさらされることも、心無い言葉に傷つけられることも避けられた。
 だけれど、それは今回の公演を成功させることで成し遂げられるものだと夏組は全員理解していた。ここでもしも中途半端な舞台を見せれば、あらぬ噂が再びささやかれるかもしれない。
 あれだけの大騒ぎをして告知をしたくせにこんな舞台だなんて――と思われれば、あのゲリラ告知は何だったのか、もしかして他の意味があったのではないか、と疑念を生む可能性だってある。
 引き起こした大騒動に見合う舞台であることは、夏組にとっての絶対条件だった。
 だからこそ、夏組全員はいつもよりも相当気合いを入れて稽古に臨んでいた。いつもが手を抜いているというわけではなく、今回に関しては、いつにも増した並々ならぬ思い入れと気迫があったのだ。
 移動時間すら惜しいので、全員MANKAI寮に起居して仕事も寮から出勤している。
 帰宅後はすぐ練習に入るし、休憩時間や食事中も日替わりネタやアドリブシーンの打ち合わせについて余念がない。仕事中と寝ている時以外のほとんど全てが夏組公演にあてられているのだ。

 そういうわけで、休憩中も台本とにらめっこしながら話し合いが行われるのもいつもの光景だった。

「二幕の二場は持ち時間全員体に叩き込んでおけ。ただ、タイムキーパーは幸、九門、お前らだからな」
「わかってる」
「うん! 幸、ここのところ今ちょっと確認しよ」

 アドリブ進行のみのワンシーンは、最終到着地点を共有していればどうにかできる、というのが夏組の総意だ。ただ、無限に時間があるわけではないので、持ち時間内に収めなければならない。
 そのためには、時間を管理する役目が必要で今回は幸と九門がそれに該当している。要所でそれとなく、現在地点を周囲へ伝える役目だ。

「あ、三角さん、日替わりネタのところなんですけど、初日と二日目のマチネで交換しても大丈夫ですか?」
「どこどこ~?」
「猫さんの話は二日目のほうがいいかなと思うんです」

 今回の公演は四公演しかないものの、全公演配信が決定されている。
 恐らく全てを視聴するファンも多いだろうということ、加えて夏組らしさを存分に発揮したいというわけで、日替わりネタは随所に仕込まれている。
 組み合わせを変えてそれぞれ二つ以上のシーンで日替わりネタがあるのだ。

「テンテン、キスシーンのところちょっといい?」
「ああ、なんだ」

 各自が自分の疑問を相手と確認をしている中、一成は台本をめくって天馬を呼んだ。さっきからずっと考えていたことがあったので、クライマックスシーンを示して言う。天馬が台本をのぞきこむ。

「ちゃんと意識してできてるから平気だと思うんだけど、やっぱりたまに、やばいな~って時があるんだよね」

 一成とて、舞台経験は何度も積んでいるし、そう簡単に自分の演技を崩すことはない。実際、さっきも天馬の演技に対してきちんと「蒼生」としての反応ができていた。
 ただ、それでも不安を覚える瞬間はないでもなかった。

「オレの実力不足って話なんだけど……テンテンの雰囲気に引き込まれて、オレがうっかりときめいて素に近くなっちゃうんだよね~マジでごめん」

 さらりと告げられた言葉に天馬は面食らう。
 本人は申し訳なさそうな顔をしているし、実際謝罪を向けられているけれど、言っている内容はちょっとした愛の告白である。恋人が自分にときめいている、という事実を知らされれば、天馬の心は嫌でも弾む。
 ただ、一成の言葉の意味も理解はできた。
 舞台に上がっている最中、役者は余計なことなど考えない。だから、実際に恋人である天馬と恋人役を演じるとしても、それはあくまでも別人であって三好一成ではない人生を演じ切る。
 それができるからこそのプロだし、役者を名乗っている。
 それでも、実力の差とでもいうべきか。天馬の本気を真正面から受け取った一成は、引きずられそうになる瞬間があるのだと告げる。だからこそ一成は申し訳なさそうな顔をしたのだろう。

「舞台では絶対そういうの出さないようにするし! てか、出しちゃだめっしょ」

 三好一成としての人生が役に深みを与えるならいざ知らず、単純に素の一成が舞台で顔を出すなど言語道断だ。言葉にしなくとも、そう思っていることくらいはすぐにわかった。

「――まあ、役を演じる上で役を憑依させるパターンもあるけどな」

 その場合はどちらかといえば、天馬と恋人同士という事実はプラスに作用するはずだ、と天馬は思う。オフの場面でも恋人であることは、舞台上の二人にも説得力を与える。
 ただ、一成がそういったタイプの役者ではないこともわかっていた。彼は理知的に役を分析し、バックボーンを含めた行動原理を見つけだすことに長けているのだ。

「オレがそっちのタイプじゃないこともわかってるっしょ、テンテンは。だから、ちょっとしばらく、テンテンと距離置いていい?」
「は!?」

 どうしてそうなった、と思いの外大きな声が出た。休憩中の夏組が思わず視線を向けるくらいの声量だ。一成は困ったような笑みで言葉を続ける。

「放っとくとオレたち、すぐ距離近くなるじゃん。でも、蒼生と遼一郎はむしろずっと距離遠いままっしょ。だから、役作り的な意味も含めて、テンテンとは離れておこうかな~みたいな?」

 そういう役作りをしなくとも、蒼生を演じることはできると一成は思っているし、夏組も監督も同意見だ。
 ただ、万が一だとかもしかして、という可能性を排除できるならそうするに越したことはない、と一成は考えた。

「そしたらほら、キスシーンの初々しさに説得力出るかも?」

 一転してイタズラっぽい笑みを浮かべた一成の言わんとすることを、天馬は重々理解していた。理解してしまったので思わず言葉に詰まる。
 一成は一人暮らしの天馬の家を訪れることはよくあったけれど、ここ最近ではお互い忙しかったのでその機会もなかった。
 そんな中、久しぶりに全員がMANKAI寮で起居するという現状は、つまり常に同じ屋根の下に恋人がいるわけで。
 今までの積み重ねから、何となく寮内で大っぴらに触れ合うことはしていないけれど、誰も見ていない場所であればキスの一つや二つはしていた。
 というかまあ、二人とも長年の経験から人目を避けるのはやたら上手くなっていたので、毎日何だかんだでキスはしている。そういう意味での「距離を置く」だということを、天馬は理解してしまった。

「――まあ、確かに二人とも放っとくと距離近いよね」
「仲が良くていいことだと思うな」

 天馬と一成のやり取りを聞いていた幸が言えば、椋がニコニコと答える。
 九門が楽しそうに「食事の時、いっつも隣同士だもんね!」というのは純粋な事実を述べただけだし、「ふたりは仲良し~いつも一緒~」と続いた三角もただ感想を口にしただけだろう。
 意識しているのか無意識なのか、どちらにせよ天馬と一成の距離が近いのは事実だった。恐らくそれは、遼一郎と蒼生では見られない距離感であることも。

「そういうわけだから、オレちょっとしばらくテンテンと距離取りまーす!」

 宣言すると、一成が軽やかに立ち上がる。隣同士で、額が触れ合いそうな距離で台本をのぞきこんでいたわけで、確かに改めて意識すると二人の距離は大変近い。
 その辺りが出ないように演じることはできるとしても、やはりここは万全な態勢で臨みたい、という一成の意図を感じ取った天馬の答えは一つしかない。

「わかったよ」

 しぶしぶうなずけば、一成は面白そうな笑顔で幸の隣へ座り直す。それから、大きな口を開けて笑いながら言った。

「寂しくても泣かないでねん☆」
「泣くかよ」

 反射的にまぜっかえしたところで、丁度よく監督が戻ってくる。休憩時間が終わったことを察してめいめいが立ち上がり、夏組は再び稽古へと戻っていく。