夜明けまでのエトランゼ 02話




 夜が過ぎれば、代わり映えしない朝が来る。寮生の大半が登校するピーク時間をずらして、天馬は学校へ向かった。同じ敷地内に寮があるから、登校時間が短く済むことだけは寮のいいところだな、と思いながら天馬はのろのろ歩く。
 慣れた道を進むと、旧校舎が見えてくる。この時間に一成は姿を現さないし、朝の光を受ける旧校舎は夜の様子とは何もかもが違って見えた。夜の間だけ話ができる一成。一緒に過ごした時間。まるで全てが朝日とともに拭い去られて、消えてしまったようだった。

「――皇くん?」

 ぼんやりしていると声を掛けられて、天馬はとっさに振り向く。おだやかな笑顔を浮かべた赤髪の人物――満開寮の寮長である佐久間咲也が立っていた。一つ年上で、いつでもにこにこしている人、という印象がある。
 どんな反応をすればいいかわからずにいると、咲也は天馬の隣に並んだ。そのまま歩き出すので、天馬も足を動かす。

「寮の生活は慣れたかな。本当なら誰かが同室になった方がいいんだけど、人数の関係で皇くんは一人になっちゃってごめんね」
「いえ」

 むしろ、一人部屋でありがたいと思っているので短く答えた。一人でなければ、さすがに窓から出入りはできない。

「談話室にはいつも誰かがいるから、用事がなくても来てみてね。みんなでゲームとかもしたりするんだ。あ、もちろん無理にじゃないけど」
「はい」

 慌てたように告げられた言葉に、天馬はうなずく。特に親交を深めるつもりはなかったし、時間があるなら旧校舎へ行きたかったので、談話室に用ができることはないだろうと天馬は思っている。咲也はあれこれと話を振ってくれるものの、天馬の方に話したいことはなかった。
 咲也も特に話術が上手いというわけではないのだろう。短い会話が繰り返されるけれど、話が弾むことはなかった。一生懸命なことは伝わるものの、それだけだ。取り立てて目を引くようなところもない。ぱっとしないし、なんでこの人が寮長なんだろうな、と思いながら天馬はただ道を歩く。

「隣の部屋だし、困ってることがあったらいつでも相談してほしいな」
「……ありがとうございます」

 心からといった様子の言葉に、さすがに天馬もそう答える。転入してきてからの天馬は、談話室に顔を出すわけでもなく、夕食後はすぐ部屋に戻る生活をしている。寮長だからなのか本人の人柄か。わからないけれど、咲也が天馬のことを気に掛けてくれている、ということはわかった。転校してきてから、何度か話しかけられていることからもそれはうかがえる。
 ただ、天馬自身別に悩んでいることがあるわけではない。強いて言うなら、どうにかして夜も寮を抜け出したいと思っているものの、寮長に相談できるわけがない。
 何となく気詰まりの空気を流したまま、二人は校舎へ辿り着く。二年生と三年生は下駄箱の場所が違うので、軽く会釈をして別れた。天馬は大きく息を吐き出した。
 こういう時、どんな風に何を話したらいいのか、よくわからないのだ。一成相手だったら、言葉に詰まることなんてないのに。口から気軽に言葉は飛び出して、同じテンポで答えが返ってくる。一緒に登校するのが一成だったらいいのに、と思いながら天馬は上履きを取り出した。





 必要最低限の会話だけを交わして、一日の授業が終わった。放課後になれば、あとは日没を待つだけだ。一旦寮に戻って、日が暮れる頃に旧校舎へ訪れるのがいつもの天馬の日課だった。しかし、今日は職員室に用があった。昨日一成に教えてもらった、古典のプリントを提出する必要がある。
 職員室に顔を出すと、古典担当の月岡紬を見つける。プリントを手渡すと、穏やかな笑顔で受け取ってくれた。

「うん、読解問題もしっかり解けるようになってるね」

 プリントにざっと目を通した紬は、にこにこ言う。転入直後に行われた中間考査では、あまり成績が芳しくなかった。結果が悔しくて勉強したこともあるし、一成という家庭教師を得たことも大きいだろう。一成に報告すれば「やったじゃん、テンテン」なんて笑ってくれるだろうな、と思う。「一成に教えてもらったからだ」と言えば、照れた顔で謙遜するだろうか。今日も一成と何を話そうか、とわくわくしながら考えていると紬は言葉を続ける。

「この分なら定期考査も大丈夫そうかな。必要があれば、事前の補習授業も可能なんだけど――。皇くんは寮生だよね。近くに旧校舎があるでしょう。あそこで放課後授業を……あ、だめか。もう使えないんだね」

 はっとした表情で紬がつぶやく。去年まで使っていたとは聞いているので、その感覚が抜けないのだろうと天馬は察する。四季崎学園は生徒数も多い。本校舎だけでは足りない分を補って、旧校舎が活用されていたことは想像に難くない。

「もしも補習授業が必要そうなら声を掛けてくれるかな。場所は空き教室を調整してみるね。旧校舎が使えないと不便だなぁ」

 後半は単なる紬の独り言なのだろう。天馬に向けられた言葉ではなかったので、もう用事はないだろうと判断する。ぺこり、と頭を下げてその場を離れようとする。しかし、続いて聞こえた声に体をこわばらせた。

「まあ、夏休みには解体するわけですし。解体済めば建て替えだから、それまでの我慢でしょ」
「そうですね。夏休み中にどこまで工事できるのかな……」

 紬が答えを返したのは、隣に座っている数学教師の茅ヶ崎至だった。モデルのように整った顔をしていて、クラスの女子生徒が騒いでいることを天馬ですら知っている人間だ。ただ、そんなことはどうでもよかった。今、何て言った? 解体するって言わなかったか?

「――あの。旧校舎、解体するんですか」

 聞き間違いかもしれない。旧校舎のことじゃないかもしれない。思って尋ねると、紬と至は少しだけ意外そうな表情を流したあと、こくりとうなずいた。詳細は学校の掲示板に張り出されており、隠すことではないらしい。

「そうだね。閉鎖したまま放置していると安全面に不安がある。去年までは部室棟みたいな使われ方もしてたけど、今は誰も使ってないからね。長期休みでちょうどいいから、夏休み中に旧校舎は解体することになってるよ」

 至は淡々とした調子で答えてから、首をかしげる。「皇くん、転入生だよね。旧校舎って使う機会あった?」というのは、もっともな疑問だろう。
 天馬は「いえ」と首を振るけれど、ほとんど声は聞こえていなかった。頭に浮かぶのは、もちろん一成の顔だ。旧校舎にいる、天馬にしか見えない存在。他の場所に行くことはできず、ただ旧校舎の中だけで夜を過ごす。旧校舎がなくなったら、一成はどうなってしまうんだろう。





 いつものように、旧校舎を訪れる。姿が見えないよう、窓のある壁に背中を預けて座る。隣に座った一成は、ぴかぴかした笑顔で言った。

「テンテン、何か描いてほしいものある? リクエスト受付中だよん!」

 一成はスケッチブックを開いて掲げる。片側には真っ白のページが広がり、もう片側にはよく晴れた青空とどこまでも続く向日葵の絵。天馬が贈った色鉛筆で活き活きと描かれている。
 自分のことはほとんど忘れてしまっても、絵を描くことは体が覚えているのだろう。天馬が帰ってからの時間、一成は絵を描いて過ごしている。天馬から借りた本を見ながら、世界的有名な名画を模写したり、夏ならではということで海の絵、聞いたことがあるといって想像のナイトプールなど、スケッチブックには様々な作品が並んでいるのだ。

「行ってみたいところ、食べたいもの、何でも言ってねん。絵の中なら、テンテンのお願い何だって叶えてあげられるから!」

 嬉しそうに、にこにこと一成は言う。天馬の願いを叶えられることが、天馬を喜ばせることが楽しくて仕方ないと、顔いっぱいに書いてある。その笑顔を見つめる天馬は、一成はずっと笑っていてくれたな、と思っている。
 最初は、へらへら笑ってばかりの人間だと思っていた。何も考えておらず、能天気に頭を空っぽしているだけの人間だと。しかし、会話を交わして時間を共に過ごすにつれ、それは違うのだと理解していった。
 一成は天馬の心に踏み込んだり、傷つけたりするような言動は決してしなかった。それどころか、そっと心に寄り添って天馬の気持ちを常に汲み取っていてくれた。望んだことやしてほしいことを魔法みたいにすくいあげて、気づかないほどさりげなく手渡す。
 そんなことが何度も続き、天馬は理解した。一成がいつでも笑顔でいてくれるのは、何も考えていないからじゃない。悲しい顔をすれば天馬が傷つくことを知っているから、いつだって笑顔でいることを選んだのだ。
 それは紛れもなく一成の強さであり、聡明さの表れだ。天馬はそんな一成を心から尊敬しているし、同時に一成がただ純粋に笑ってくれる瞬間が好きだった。何かを決意しての笑顔ではない。ただ、天馬と一緒に過ごす時間が楽しいのだと心から笑ってくれると、天馬の気持ちも踊るように弾んだのだ。
 二人でいるのは居心地がよかった。一成がいれば、夜の旧校舎だって怖くなかった。辺りを覆う暗闇だって、二人だけの秘密のベールのようにさえ思えたのだ。
 どんな時も、一成は一番近くで天馬の気持ちを受け取ってくれた。つまらない毎日も、気乗りのしない学校のことも、一成は楽しそうに聞いてくれる。「今日はどんな感じだった?」ときらきらした笑顔で尋ねてくれるから、味気ない日々さえ何だか色づいていくように思えたのだ。
 一成がいなければ、天馬の日々は無味乾燥のつまらない毎日だっただろう。ただ機械的に日常をこなすだけの、どんな意味もない時間。しかし、現実は違う。一成と出会ったことで、天馬の日々はこんなにもきらきらと輝いていると思える。
 どれだけ多くのものをもらっているのか、天馬にはわからない。何かしてやりたくて、スケッチブックや色鉛筆を贈ったけれど、天馬が想像した以上に一成が喜んでくれて、それだけで何倍もお返しをもらった気分になっていた。だから天馬は、一成にもらってばかりで何かを返してやれている気がまったくしない。少しずつ、一成を喜ばせる瞬間を増やしていこうかと天馬はぼんやり思っていたのだけれど。
 放課後、職員室で聞いた話がずっと頭に残っている。夏休みに、旧校舎は解体される。新しく建て替えられるのだ。そうなったら、一成は一体どうなってしまうのか。一成は旧校舎から出ることができないのだ。このまま旧校舎が取り壊されてしまったら、一成の居場所はなくなってしまう。

「――テンテン、どしたの。何かあった?」

 へらり、と気の抜けた笑みを浮かべて一成が尋ねる。スケッチブックを閉じて、うかがうような視線を天馬に向けている。深刻にならないよう、それでも最大限の気遣いをにじませて一成は笑いかける。他人の心の動きを察することに長けているのだ。天馬の様子がおかしいことくらい、一成はすぐ気づいたのだろう。
 天馬は一成の顔をじっと見つめた。旧校舎にしか現れない幽霊。一成は夜にだけ、この場所にしか存在しない。他の場所や他の時間では、一成に会うことができない。一成の存在と密接に関わるのが旧校舎だ。そんな場所がなくなることは、一体何を意味するのか。

「……なあ、一成の心残りってなんだ」

 強い瞳で一成を見つめたまま、天馬は尋ねる。幽霊としてここに残っているのは、何か理由があるはずだ。本来であれば、人間は死んだあとこの世に残ることはない。現状は決して自然な形ではないし、このねじれは、いずれ解かなくてはならないものだということは理解していた。
 それに、一成は楽しいことや人と話すことが好きな人間だ。幽霊として永遠に夜の世界に留めておくのが、正しい判断だとは思えなかった。だからいずれ一成と別れなければならないとはわかっていたけれど、それはもっと遠い日のことだと思っていたのに。
 突然訪れた旧校舎の解体という事態に、天馬は思ったのだ。居場所がなくなったら一体何が起きるかわからない。そのまま一成が消えてしまう可能性は高い。だからそれなら、できることをしてやりたかった。
 心残りをなくしたら、一成は成仏していなくなってしまうのかもしれない。積極的に別れを選びたいわけではなかったけれど、このまま旧校舎が解体されるのを待っていても、望んだ結末が訪れれるとは思えない。理不尽に何もかもが消えてしまうのなら、自分から動いた方がいい。一成も納得できる形で、きちんと送り出してやりたい。一成からもらってばかりのオレにできるのは、その手伝いをすることくらいなんじゃないだろうか。
 一成は天馬の言葉に、不思議そうに目を瞬かせる。いきなり何を言っているのか、と思ったのかもしれないし、その戸惑いはもっともだ。天馬は大きく深呼吸すると、解体工事の話を告げた。

「何が起きるかわからないだろ。不本意に唐突に消える可能性だってある。それなら、一成の心残りを解消した方がいいと思った。上手く行ったら、旧校舎から解放されるかもしれない。そしたら、どこへだって行ける」

 消えてしまう可能性なんて、一成だって気づいているだろう。だからあえて、それ以外の選択肢も示した。もしかしたら、消えるのではなくこの場所の戒めが解かれるかもしれない。そうしたら、旧校舎以外の場所に行ける。好きな所に、望んだ所に行けるようになる。
 一成は天馬の言葉をじっと聞いていた。いつもの笑顔ではなく、真剣に考えこんでいる。天馬はただ唇を結んで、一成の答えを待っていた。

「……心残りかはわからないんだけど」

 長い沈黙のあと、一成が口を開く。大きな目で天馬を見つめると、ゆっくり言葉を吐き出す。夜に染み入るような声で、ひそやかに。

「ほとんど覚えてないことばっかりで、一個だけ忘れなかった。たぶん、ずっと心に残ってたからだ。どこの誰かもわからないし、ヒントなんて全然ない」

 そこで一成は一旦言葉を切る。言いよどんで唇を閉じるけれど、意を決したように天馬を見つめると言った。力強く、凛とした響き。

「さんかくの友達に会いたい」

 自分の名前以外ほとんど覚えていない。一成の記憶の中に、唯一残っていたもの。心残りというほど明確ではないのかもしれない。それでも、ただ一つ残っているならきっと意味はある。だからこそ、一成は望むのだ。
 受け取った天馬は、力強い笑みを浮かべると「必ず会わせてやる」とうなずいた。