夜明けまでのエトランゼ 12話
誰もが寝静まった深夜、天馬は寮を抜け出した。旧校舎の窓に手を掛けると、難なく開く。本来であれば施錠されているはずだけれど、一成が開けてくれてからは基本的にそのままだ。訪れる人もいないので、鍵が開いていることには誰も気づかない。
「一成?」
そういえば姿が見えないな、と思いながら天馬は慣れた動作で教室に入る。
いつも通り、門限までは椋たちとここで時間を過ごした。協力の甲斐あって、三角に会えたことは報告している。ただ、一成に会うことに迷っているから少し説得してみる、と告げていた。
その時に、天馬は一成の机にこっそりメモを残していた。一成お気に入りの机で、ポストのように使われていると聞いていたからだ。適宜チェックしているらしいから見ているはずだ。またあとで来る、と書いておいたからどこかへ行ってるということはないはずだが――と辺りを見回すと、突然視界が遮られた。
「わっ!」
「うわっ!?」
感触は一つもない。しかし、手のひらに視界を覆われているのだと気づいて、天馬はとっさに声を上げる。ただ、手の主が誰かなんて考える必要もなかった。
「いきなり何するんだよ」
「びっくりした~? いやー、幽霊だからガチで消えられるのサプライズ向きだよね」
手のひらが外されるのと同時に振り向くと、ニヤニヤ笑みを浮かべる一成が立っていた。天馬が訪れることを察して、驚かそうと姿を消していたようだ。自分の意志で消えられることは知っているし、たびたびこうしてサプライズを仕掛けられていた。最近はなかったからすっかり油断していたのだ。
一成は天馬の反応に満足そうにうなずいたあと、表情を変えた。からかうような雰囲気ではなく、真剣な面差しで口を開く。
「絵は今描いてるんだけど、説明とか聞いていい感じ?」
そう言って、一成はスケッチブックを示す。天馬はうなずいて、いつも通り教室の床に座った。ここなら、天馬の姿は外から見えないので、落ち着いて話ができる。
天馬が残した手紙には、一旦帰ってからまた深夜に訪れることともう一つ。「三角のために絵を描いてほしい」と書いたのだ。一成は不審に思いながらも、天馬の言葉を受け入れてくれたのだろう。ただ、説明を求めるのも道理だった。
天馬は一つ深呼吸をした。三角の言葉は天馬に向けてこぼされたものだ。センシティブな話題でもあるから、椋たちへおおっぴらに言うことではないだろうと全員の前で詳細を語ることは避けた。しかし、それだけではなかった。一成へ伝えるには、一対一の方がいいと思ったのだ。事情を説明するとしたら、必然的に一成の事故について話さなくてはならない。もしかしたら辛いことを思い出させるんじゃないか、と天馬は心配だった。一成の負担になってしまうことを恐れたのだ。
だから、天馬は慎重に言葉を選びながら三角から聞いた話を伝える。一成の心を波立たせないよう、三角の抱くやさしさを損なわないよう、細心の注意を払いながら一通りを説明した。
「すみーのせいじゃないのにね」
事故の詳細や三角の後悔、それを取り除くために絵を描いてほしいこと。取り乱すこともなく、思いの外しっかりとした調子で全てを聞き終えた一成は、静かに言った。唇には小さな笑みが刻まれて、ただしんとした雰囲気をまとっていた。
天馬から伝えられた話で、一成の記憶が戻ったわけではない。だから三角の言葉が正しいのかどうかは、一成にもわからない。しかし、一つだけ確かに言えることがあった。
もしも三角の言葉が事実だったとしても、三角が気に病む必要はない。三角の宝物を探そうとしたのは一成の意志だろうし、追いかけて落ちたのだって一成が自分で決めた行動の結果だ。三角に強要されたわけでもないし、三角のせいだなんて思う必要は一つだってないのに。三角はきっとすごくやさしくて友達思いなのだと思い知る。覚えていない。だけれど、心のどこかが告げている。
「オレはきっと、すみーに笑っててほしかったんだと思う」
ぽつり、と一成は言った。自分の行動の理由ははっきりと思い出せない。しかし、天馬の言葉から三角の人となりを知って、予想はできた。三角と過ごす時間が楽しくて、三角のことが大切だった。だから宝物を返したくて、ちゃんと三角の手に渡したくて無茶をしたんじゃないか、と一成は言った。天馬はその言葉に、「ああ、そうだと思う」とうなずいた。天馬の知る一成なら、きっとそうするのだ。
「すみーは何にも悪くないよって伝えなくちゃね」
やわらかな笑みを浮かべると、一成はスケッチブックを開いた。描きかけの線香花火の絵が現れる。一成は楽しげに「夏っぽいことしたいよね~って思って」と言ってスケッチブックに向かうので、天馬はその横顔をずっと見ている。
一成は真剣なまなざしで、スケッチブックと向き合う。ときどき思案を浮かべつつ、色鉛筆を持ち替えてはスケッチブックに線香花火を描き出していくのだ。最初こそ一成は「そんなに見られると照れるな~」と笑っていたけれど、集中していくにつれ視線も気にならなくなったのだろう。いつもの明るい笑顔はなく、挑むように強い目をして絵を描く。
夜の中、ひそやかに咲く花のような線香花火だ。黄色やオレンジが夜闇に散って、夏の風情を漂わせる。夜は黒一色ではなく、藍色や青も混じった濃淡で描かれてあざやかさを感じさせた。
何もなかった白い画用紙の上に、線香花火が現れていく様子はまるで魔法のようだった。一成の白い指先が躍り、夏の夜が現れていく。線香花火の光が目前で弾けるようだ。まるで今、一成と隣同士で花火をしているような。夜に灯る明かりが目の前に現れるようで、天馬は魅入られたように一成が絵を描く姿を見ていた。
少しずつ完成していく様子を見守っていると、何だか夢の中のような気持になってくる。実際、ずいぶん遅い時間帯ということもあるのだろう。次第に眠気が忍び寄ってきて、天馬はあくびをかみ殺す。すると、一成が口を開いた。どうやら一段落ついたらしい。
「テンテン、眠い?」
「――少しな」
嘘を吐いても仕方ないと、天馬は素直に答える。眠気によって意識がおぼろげになっていることもあるのだろう。一成が色鉛筆を置いたことを確認すると、ふっと緊張がゆるんだような気がした。大きなあくびとともに、天馬は目をこする。本格的に眠くなってきていた。
「待って、テンテン、さすがにここで寝たらまずいっしょ」
慌てたように言うのは、もっともな話だろう。寮を抜け出しているのだから、ここで眠ってしまっては問題なのだ。天馬はあくびをしながらスマートフォンを取り出すと時間を確認する。午前二時はとっくに回っていたものの、夜はまだ深いとわかって「朝まではまだある」と答えた。
もう少し猶予があることを知った天馬は、多少仮眠しても問題ないんじゃないか、という気になってくる。壁に背をもたれかけさせると、本格的にまぶたが重くなってきた。つい目と閉じると、一成が焦ったように「待って待って、寝ないでテンテン」と声を掛ける。本来なら揺さぶって起こしたいところなのだろうけれど、天馬に触れられない一成には無理な話だ。
「そうだ、テンテン、ちょっと体動かそ! 眠気覚めるかも!」
一成の必死な声に、天馬は無理やりまぶたを開けた。切羽詰まったような顔をさせたいわけじゃなかったし、確かにここで眠ってしまうのはまずいな、と思い直す。うっかり起きられないと朝帰りである。だから、一成の言葉に「それもそうだな」とうなずく。
ただ、体を動かすと言っても何をすればいいかわからない。「ストレッチとか?」「動画探すか」と言って、二人で天馬のスマートフォンをのぞきこんだ。「ラジオ体操とかいいんじゃね」と言って、あれこれ動画を探していると、天馬の目は一つのサムネイルに向かった。至って地味な動画で、ただ曲名が書かれているだけ。特に目を引くものではないけれど、天馬には思い出深いものだった。
「これ、小学生の時踊ったな」
そういえば、という気持ちでつぶやく。日本ではあまり有名ではないものの、アメリカではポピュラーなワルツだ。一成が「え、なにそれどゆこと!?」と食いついてきた。眠気もあって思考もおぼろげな天馬は、素直に答える。一成に隠し事をする気もなかった。
「オレが通ってた学校は、小学生でもワルツのダンスパーティーがあったんだよ。女子を誘ってエスコートしなくちゃいけないんだが、当然オレはそんな相手もいないし、そもそも英語が通じるかわからなかった」
憂鬱で仕方なくて学校がなくなればいいと何度も思った。両親は忙しくて相談もできないし、頼りになる相手は他にいなかった。どうせなら学校をさぼってしまおうか、と思ったけれどそこは天馬である。ここで逃げ出してたまるか、と奮起したのである。
馬鹿にされるのが悔しくて、英語は勉強していた。ただ、会話することがほぼないので、上達しているかどうかも判然としなかった。それに、どうせダンスも何もできないと思われているのはわかっていた。だからそれなら、度肝を抜いてやろうと決意したのだ。
「練習用のダンスは動画で上がってたしな。完璧に踊れるようにしたし、エスコートの方法も映画やドラマ見て勉強した。当日はかなり緊張したが、堂々と踊り切れたしその日の一番に贈られる賞も取ったな」
当時のことを思い出しながら、天馬は言った。この一件から全ては自分でどうにかする、という精神が身に着いたのだろうと天馬は思っている。誰にも頼らなくても、結果は出せることを学んだのだ。堂々とした振る舞いが大事なのだということも体感したし、この辺りから度胸がついたという自負もある。
一成は天馬の言葉に「テンテン、すごいね。めっちゃがんばったじゃん!」と努力をたたえる。異国の地で、天馬は必死だった。その時近くにいられなかったけれど、一成はまるで小学生時代の天馬を前にしたように、手放しで天馬の努力を褒めるのだ。天馬が頑張っていたこと、その事実を何かとても尊いことのように。
そんな風に言われることが嬉しくて、天馬はくすぐったい気持ちになる。全てが今につながっているし、決して無駄だとは思っていないけれど。あらためて一成に言われると、小学生の頃の自分が報われたような気持ちになったのだ。
「てか、小学生でダンスパーティーあるのさすがアメリカって感じだし、踊るテンテン見たいんだけど! ねね、ちょっと踊ってみてよ!」
「だいぶ昔だから覚えてない」
「聞いたら思い出すかもよ!」
ぱっと華やぐ笑みを浮かべた一成は、言うが早いか、天馬のスマートフォンを操作する。サムネイルをタップすると、昔さんざん聞いた曲が流れ出す。久しく聞いていなかったのに、耳にしたとたん当時の光景が目の前に浮かんでくる気がした。
「ほらほら、テンテン! 曲始まったよ」
言いながら一成は立ち上がって、天馬に手を差し出した。断る理由はいくらでもあったし、踊る必要なんて一つもない。わかっていたけれど、天馬は自然と一成に手を伸ばした。わくわくした調子につられたのかもしれないし、あんまり嬉しそうにきらきら目を輝かせるものだから、一成の気持ちに応えたかったのかもしれない。
いくら手を重ねても、実際に触れることはできない。わかっていても、手を重ねたまま二人は教室の後ろに移動する。明るい曲調が密やかな教室に流れて、一成は楽しげに口を開く。
「テンテン、これどういうステップ?」
「だから覚えてないって言っただろ」
一成に引っ張られるように、天馬の声も弾んでいる。昔さんざん練習したとは言っても、パーティー以後は一度も踊っていないのだ。記憶がよみがえることはなく、音楽に合わせて体を動かすくらいしかできない。
それは一成だって同じだ。「こんな感じ?」と笑って尋ねれば、「好きにしろ」と天馬も楽しそうに言い返す。二人は向かい合ったまま、触れられない手を取り合った。正式なダンスの仕方はまるでわからない。どこかで見たような記憶をもとにして、音楽に合わせて同じように体を動かす。シンクロした動きに一成がころころと笑い声をあげて、天馬も白い歯をこぼす。
感触のない手を重ねたまま体を離したかと思えば、引き合うように近づく。一成がくるりと回って、天馬は面白そうに受け止める。再び向かい合うと、体を重ねてそろいのステップを踏んだ。
夜の教室で二人は踊る。外の明かりが入るとは言っても、全てを照らすには足りない。そこかしこに暗闇は潜んでいるし、ダンスだって見様見真似の不格好なものだ。それでも、天馬も一成もまばゆい笑みを浮かべていた。どんなめちゃくちゃなダンスでも、重厚な音楽がかかっていなくても、ほとんど暗闇に覆われた旧校舎だったとしても。二人で向かい合って、お互いの手を取っているだけで充分だった。どれだけきらびやかな場所だって、今この時間には敵わない。二人で一緒にいる、ただそれだけで何もかもがきらきら輝くのだと知っている。
向かい合って手を重ねて、二人は踊る。軽やかな曲に合わせて体を動かし、ステップを踏む。夜の教室が光で満たされていく。こぼれだす笑みを浮かべながら、天馬と一成は互いを見つめて、宝石のようなきらめきを全身で感じていた。
一曲が終わったところで、二人は動きを止めた。重ねていた手を離すと、顔を見合わせる。数秒の沈黙が流れたあと、弾けるように笑いだした。
「何だ今の。めちゃくちゃすぎるだろ」
「オリジナルダンスじゃん?」
「もう二度とできる気がしない」
「それな~」
軽口を叩き合って、また二人は笑った。胸が躍って、気分が高揚している。胸が弾んで仕方ない。ほんの些細な時間でしかないのに、全身が喜びを訴える。楽しい。嬉しい。この時間が大切だ。一緒にいたら、こんなにも楽しい。
何も言わなくても、お互い同じ気持ちでいることはわかっていた。他の誰でもない、目の前の相手だから真夜中でさえこんなにも全てがまばゆいのだ。
二人は息を整えて、再び床に座った。立ったままでいると、窓から天馬の姿が見えてしまう可能性があるから、という理由だけれど。座った方がもっと距離が近くなるとわかっていたからかもしれない。
大きく深呼吸をすると、一成は天馬へ視線を向けた。やわらかく目を細めて、ほほえみの浮かぶ唇で言った。
「このまま、朝までいられたらいいのにね」
夜が明ければ一成は消えてしまう。わかっているから、もっと先まで一緒にいられたらいいのに、と一成は言うのだ。朝までいられたら。昼も天馬と過ごせたら。想像した一成は、明るい調子で言葉を並べる。
「テンテンがすみーに持って行ったおにぎり、オレも食べてみたいな。めっちゃ種類あるんでしょ? 選ぶの楽しそうだし……そうだ、そのままピクニックにも行きたい!」
わくわくした顔で言った一成は、天馬とやりたいことはいくらでもあるのだと、嬉々とした表情で指折り数え上げる。
「テンテンと出かけるならばっちりおしゃれしたい! テンテンかっこいいから、似合う服選びたいんだよねん。オレが選んだ服試着してほしいし、絶対なんだって似合うっしょ。テンテンにもオレの服選んでほしいな~。テンテンは和服だって似合うと思うし、一緒に浴衣で夏祭り行きたいよねん」
瞳を輝かせて告げる一成は、その光景を思い描いているのだろう。夜だけではなく、旧校舎だけではなく、どこへだって行けるとしたら。天馬と一緒に過ごしたい時間がこんなにあるのだという言葉に、天馬は口を開く。
「もうすぐ叶うだろ」
楽しそうに言う一成に向けて、天馬は力強く答えた。一成は一瞬目を丸くしたものの、すぐに意味を理解したのだろう。三角に会って心残りが消えたなら、きっと一成は目を覚ます。だからあともう少しだと、天馬は言うのだ。
「そだね」
そっとほほ笑んだ一成は、天馬の言葉にうなずいた。ほとんど何も覚えてないけれど、ずっと心に引っかかっていた人に会えるなら、きっとそれが目覚めるきっかけだ、と思えたのだろう。
ここから動けない一成に、三角が会いにきてくれたら、きっと朝にだって行ける。