夜明けまでのエトランゼ 25話




 離れがたくて、二人は床に座って寄り添っている。外からは見えない位置だから、見咎められる心配はない。ただ、天馬は時間が来たら寮に帰らなくてはいけない。わかっていても、どうしてもそばにいたかった。少しずつ空は白んできて、夜明けが近づいてることはわかっていても、どちらも帰るとは言わなかった。
 お互いに触れ合うことはできないので、手を重ねたところで空を切るだけ。もたれかかることもできないし、髪の毛をかきあげることもできなかった。それでも隣で座っている。
 辺りはただしんとしていて、二人以外の気配はない。夜でも朝でもない時間帯に身を浸しながら、天馬と一成はぽつぽつと会話を交わしていた。しかし、時間が時間だ。すでに夜明けも近く、天馬はほぼ徹夜状態なので眠気が忍び寄っていた。次第に言葉は少なくなり、まどろみながらうとうとし始める。
 すると、一成がそっと天馬に手を伸ばした。ゆったりと頭を撫でる。もちろん感触はないものの、気配を感じることはできる。天馬は目を開けて「どうした?」と尋ねた。一成はゆるやかに笑うと、そっと言葉こぼす。

「テンテンの髪の毛ってどんな感じかなぁと思って」

 感触はないとわかっていても、隣で眠る天馬に思わず手を伸ばした。ほとんど衝動に近い気持ちなのだろう。一成はやわらかさに熱を宿して、さらに言葉を続けた。

「テンテンの手って大きいし、どんな感触かなぁって思ったし、ぎゅってしたいなぁとか、筋肉ありそうだしがっしりしてるのかなぁって思ってたとこ」

 そう言いながら、一成は天馬をじっと見つめる。隣同士で時間を過ごしていた。無防備な天馬を横にして、一成の中では願いが育っていったのだろう。隠すことなく、一成は言った。射抜くようなまなざしに切実さを宿して、心からこぼれる声を形にする。

「テンテンにちゃんと触りたい」

 突然の言葉に天馬は目を瞬かせる。ただ、すぐに「そうだな。オレもちゃんと一成に触りたい」と答えた。天馬だって同じ気持ちだった。
 今まで長い時間を共に過ごしてきたけれど、一度だって触れ合ったことはない。幽霊の一成に触れることは、どうしたってできなかった。いくら手を重ねたところで、抱きしめたところで、体は簡単にすり抜けてしまう。肉体を持たない一成とは、どうしたって触れ合うことができないのだ。
 その事実を天馬も一成もよくわかっている。どれだけ願ったところで、どれだけ欲したところで、肉体のない一成は天馬の体を感じることができないし、天馬は一成の温もりを永遠に知ることはない。今までだってずっと理解していた。しかし今、隣同士で寄り添って、離れたくないと心を分かち合ったからこそ。今までよりもっと近くにいるからこそ、その隔たりがあまりにも痛かった。
 一成は泣きそうに目を細めて、床に投げ出された天馬の手のひらに自分の手を重ねる。しかし、一成の手は天馬の手をすり抜けて床に当たった。二つの手は決して触れ合わない。手は重なることなく、お互い通り抜けるだけだ。確かにここに、目の前にいるのに。一成の手は、存在は、なかったように消えてしまう。同じ場所に生きていないのだ、という現実をまざまざと思い知らされる。
 触れ合わない手のひら。決して重ならない二つの手。床に落ちた自分の手を見つめて、一成は心からといった調子で言葉をこぼす。

「――テンテンと、ちゃんと手をつなぎたいなぁ」

 あまりにも切実で、祈るような響きに天馬の胸は締め付けられる。叶えられない願いであることはわかっていた。それでも同じ気持ちだと言いたくて、天馬は一成の手を握った。空をつかむだけで、感触はない。すり抜けてしまうから、天馬はただ拳を握っているだけでしかない。しかし、一成は天馬の行動の意味を理解している。
 同じように、一成もぎゅっと天馬の手を握り返した。体温も感触もない。それぞれが、ただ拳を握っているだけにしか見えないのはわかっている。しかし二人で手をつないでいるのだ。たとえどれだけ不格好で、感触も温もりも何一つ分かち合うことはできなくても。ただつながりたいという気持ちだけが本当だった。
 空はすでに白み始めていて、教室も少しずつ明るくなってきていた。そろそろ早朝の活動を始める人間もいる頃合いだ。二人は感触のないまま手をつないで、ただ寄り添っていた。帰らなければいけないとわかっていても、どうしたって離れがたい。何もかもが動き出す前の世界はおだやかで、このまま時間が止まってしまえばいいなんて、二人して思っていた時だ。
 突然、教室にスマートフォンの着信音が鳴り響いた。数秒間が空いたものの、はっとした顔で取り出した天馬は、着信が一成の父親であることを確認して顔色を変えた。一成に何かがあったに違いない。慌てて通話ボタンを押すと、一成の容態が急変したと連絡があったという。
 これから病院に向かう、という言葉に天馬ははっとした顔で一成を見る。通話はスピーカーになっていたから声は聞こえているはずで、ショックを受けているんじゃないかと思ったのだ。しかし、一成は思いの外冷静だった。落ち着いた表情で「そっか。時間切れなのかな」とつぶやく。どういうことかと問い返そうとして、天馬は息を飲んだ。重ねた指先が光に包まれ始めていて、すでに輪郭はなくなっていた。
 天馬はうろたえながらも、通話中であることを思い出す。どうにか「病院に行きます」とだけ絞り出して電話を切る。病院に行かなくてはと立ち上がり、一成に向かって「一成も一緒に行けないか。お前がいればどうにかなるんじゃないか」と言った。容態が急変したと聞いて、天馬は混乱していた。何をすればいい。どうすればいい。思った天馬の目の前には、一成本人がいるのだ。これ以上心強い相手はいないんじゃないか、と思わず懇願したのだ。しかし、一成は静かに首を振る。

「ここから出ていけないっていうか――たぶん、もう、時間がないんだ」

 そう言ってやわらかく笑うと、一成も立ち上がる。膝から下はすでになく、指先と同じように光に包まれている。まるで、光とともに崩れていくような光景に天馬は狼狽する。一体どうして。何が起きているのか。
 天馬の混乱を、一成は察していた。全てを包み込むような、やさしい笑みを浮かべると「テンテン」と言って天馬に近づく。天馬の目の前。大きな瞳が輝く様子が、はっきりと見て取れる距離。きらきらとまばゆい。いつだって明るい、緑色の瞳に「一成だ」と天馬は思う。揺らいでいたまなざしは定まり、真っ直ぐ一成を見つめる。一成は笑った。

「もしかしたら最後かもしれないから――これだけ許してね」

 そう言うと、そっと顔を近づける。まつげがぶつかりそうだ、と思った次の瞬間、天馬の唇に一成の唇が重なった。
 体温も感触もない口付け。天馬が目をしばたたかせる間に、一成が離れた。笑顔を浮かべる一成の輪郭が、光に溶けていく。白んだ空に太陽が姿を現す。天馬が何かを言おうと口を開くのと同時に、さあっと教室に光が入る。夜が明ける。
 まばたきした次の瞬間。一成の姿は、もうなかった。