夜明けまでのエトランゼ 24話
夜を走り抜けて、天馬は旧校舎に辿り着く。誰に見つかることもなくて、ほっとしながらいつものように窓から入ろうとしたところで、天馬の顔がこわばる。窓の鍵が閉まっていた。どうして?と思うけれど、考えてみれば当然かもしれない。
解体工事のため、最近は関係者がうろうろしている。今日は現地で調査する姿も見ているし、中を確認することもあるだろう。その際、窓の鍵が開いていることに気づいたら、防犯的な意味を含めて施錠するのは当然だった。
一成がいれば、すぐに察して中から開けてくれる。しかし、一成はいないのだ。正面入り口はもちろん施錠されているし、他に入れそうな場所が思いつかない。窓が開かなければ、教室へ入る術はないのだ。一体どうしたらいいのか、と呆然としていると視界の端で明かりが揺れた。懐中電灯だ。見回りは寮以外に旧校舎も対象になっているから、こちらに向かって来てもおかしくはなかった。椋たちの足止めにも限界はあるし、そもそも長時間引き留めることを想定していない。
このままでは見つかってしまうかもしれない。隠れる場所はあるかと周囲を見渡すけれど、天馬の体を隠すようなものは何もない。
懐中電灯の明かりが近づいてきて、天馬の顔色が変わる。汗が垂れる。どうしたらいい。見つかったら、確実に連れ戻される。怒られるだけならいい。しかし、しばらく外出が禁止になったら。部屋から出て行かないよう監視下に置かれることになったら。そんなことになったら、一成のために動けない。解体工事が始まるまで、もう時間がないのに――。どうすればいいかわからなくて、焦っている間にも懐中電灯の明かりは近づいてくる。こうなったら、一か八か飛び出して追いつかれないよう走って逃げるしかないのか。混乱しながら思っていた時だ。
ふいに、目の前の窓が動いた。がたがた音を立てた、と思うのと同時に窓がゆっくり開いていく。近くに立つ外灯の明かりが教室内に入り、かろうじて暗闇を追い払う。しかし、どこにも人影はいない。それなのに、窓が開いていく。
理由なんてわかっている。こんなことができるのは、一人しかない。言いようもない喜びに天馬は胸を震わせて、思わず窓を見つめる。しかし、背後まで迫った懐中電灯の明かりに我に返る。間一髪のところで、天馬は教室に転がり込んだ。
窓の下にしゃがみこんで、見回りをやり過ごす。通り過ぎたことを確認してから、立ち上がった天馬は教室を見渡した。外灯の明かりが入る部屋に、人影は一つもない。がらんとした空間が広がっているだけだ。それでも、自分を助けてくれたのは一成だし、確かにここにいるんだと天馬は思う。
「一成、いるんだろ。出てきてくれないか」
誰もいない教室に向かって、天馬は言う。一成が自分の意志で姿を消せることは知っている。サプライズだと言って驚かされた経験なら何度もしているのだ。恐らく一成は教室にいるけれど、姿を見せまいとしている。天馬が困っているからとっさに助けてくれただけだ。一成は人が困っている時に、見過ごせるような人間ではない。いつだってやさしくて、他人の心に寄り添おうとしてくれる人だから。
「なあ、一成。あの日何があったのか、思い出したんだろ?」
返事はないかもしれないと思いながら、天馬は言う。一成の反応はないとしても、きっと聞いてると思いながら並べていくのは、今まで調べたことやそこから導き出した結論だ。
三角が猫から聞いたこと。一成の両親から持ち物を見せてもらったこと。三角や椋たちから、今までの一成とのやり取りを聞いたこと。一成が消える直前に残した言葉。あの時の反応と表情。それら全てから導き出される結論は。
天馬は大きく深呼吸をすると、見えない一成に向けて言った。
「三角の三角定規を見つけて、約束してた絵を描こうと思ったんだよな? だから、三角に渡す前に一成が持ってて、その時に三角定規が壊れたんじゃないか」
スケッチブックの描きかけの絵と、壊れた三角定規に天馬は思い至ったのだ。三角定規の絵を描いていた時に、猫が三角定規をくわえて現れるなんて、あまりにもタイミングが良すぎると思った。しかし、因果が逆ならば? そもそも一成が三角定規を持っていて、絵に描いていた。そこに猫が現れた。これなら自然だと思ったし、同時にそこで何が起きたのかも予想ができた。
動かせない事実として、三角定規は壊れていた。一成が見つけた時にすでに三角定規は壊れていた? 落下の衝撃で壊れたのかもしれない? 可能性はいくつも浮かんだけれど、一成のあの罪悪感を抱えた顔を思えば推測は成り立つ。
三角の宝物を一成はスケッチしていた。その時に何かがあって、三角定規を壊してしまったのなら。それなら、あんなに悲痛な謝罪の言葉に説明がつく。宝物を大切にする人間だ。相手の心を汲み取るのが上手い人間だ。どれほど大切なのかわかっているから、それを自分が壊したと思っているなら、罪悪感で押しつぶされてしまうことだって理解できる。
推測でしかないし、証拠はない。それでも、そこまで大きく間違ってはいないはずだと天馬は思っている。一成からの反応はないけれど、天馬は怯まず言葉を続ける。
「どうして目を覚まさないのかって、ずっと考えてた。家族と仲はいいし、三角ともやりたいことはいろいろあって約束だってしてただろ。現実に戻りたい気持ちはちゃんとあるはずなのに、どうしてって思ってた」
身体的な問題なのかもしれないけれど、一成の精神的なものに起因しているとしたら、理由がわからなかったのだ。現実から目を背けたくて見なかったふりをするような、そんな状況ではない。一成は家族から大事にされていて、三角という友達もいたのに。捨て去ってしまいたい現実があるわけではないのに。
「でも、自分への罰ならわかるんだ。三角の宝物を壊したから、このまま目を覚まさない方がいいなんて馬鹿なこと、お前なら考えそうだ。自分がこれから得られるもの、全部手放さなくちゃいけないって思うだろ」
三角が、宝物が返ってこないのは罰なんだと思っていたように。これから先の未来を差し出さなくては、三角の宝物を壊したことの罪は償えないなんて思っていたのかもしれない。一成はやさしい人間だ。誰かのために、自分が持っているものを差し出すことを厭わない。持っているものを何だって渡そうとするような人間だ。
だから、一成は自分が目覚めることに制御をかけていたんじゃないか、と天馬は思っていた。もしもそうなら、伝えたいことがある。届けたい言葉がある。どこに一成がいるのかはわからない。それでも、天馬の言葉を無視するような人間じゃないはずだ、と思いながら天馬は言う。真っ直ぐ強いまなざしで、希望や望みを握りしめるような表情で。
「だけど、そんなこと思う必要はないんだ。三角に聞いた。三角定規はもともと壊れてて、上手く補修はしてたけど割れやすくなってた。お前が壊したんじゃない。確かにきっかけにはなったのかもしれないが、一成は壊してないんだ」
確かに一成が何かの不注意をした可能性はあるから、百パーセント悪くないわけではない。それでも、もとから壊れていたというのは事実だ。少なくとも、未来の全てを差し出さなくたっていいはずだ。罪悪感は消せなくても、もっと軽くなっていい。
何より、三角本人がそんなことを望むはずがない。一成に何もかもを犠牲にしてほしいなんて、思うわけがない。深呼吸をして、天馬は言葉を続ける。
「なあ、一成。お前は自分を許せないかもしれないけど、三角がそんなこと思うはずがないだろ。お前が目覚めないことの方が、よっぽど悲しむ。一成が消えてほしいなんて、願うわけがない。お前の知ってる三角を思い浮かべろ」
いつでもおだやかでやさしい人間だった。確かに不思議なところはあるけれど、人を呪ったり不幸を願ったりする人間じゃないことは、短い付き合いでもわかる。長く友達として過ごしてきた一成が、わからないはずがないのだ。だからもう、目覚めないという罰を与えなくていい。完全に罪悪感が消えないとしても、償うのなら目覚めた後の現実でいいはずだ。
願いながら言うけれど、反応はなかった。暗い教室が目の前に広がるだけで、一成からの答えはない。三角からの事実を伝えて、罪悪感を減らしたらきっと何かしら反応があるはずだと思ったのに。目が覚めるときっかけになるんじゃないかと思ったのに。これも効果がないのか、と天馬の表情が陰る。
しかし、すぐに瞳には力強い光が宿った。できることは何でもやる。間違っても、失敗しても、もう一度立ち上がれば終わりじゃないんだ。今のオレにできることをすると決めたのだ。なりふり構っていられない。今のオレの素直な気持ちを言葉にするんだ。
「頼む、一成。ここにいるんだよな? オレを助けてくれたんだよな? 頼むから、出てきてくれないか。会いたいんだ。お前の顔が見たい。一成に会いたいんだ」
切実な響きで、天馬は言う。本当はもっと上手い言葉を形にしようと思った。しかし、一度口にしたら、もうだめだった。今まで会えなかった分の気持ちがあふれて、もう止まらなかった。手紙にも書いた言葉が、口をついて出てくる。
「お前と会って、毎日に色がついた気がしたんだ。つまらなかった毎日が楽しくなった。お前がいるから、明日も楽しみになった。何でもない話ができて嬉しかった。オレの贈ったものを喜んでくれるのがくすぐったくて、だけどすごく嬉しかったんだ」
何の期待もしないで入った学校だった。クラスにもなじめなかったけれど、卒業までの辛抱だ。淡々と日々をこなせばいいと思っていた。しかし、一成と出会って何もかもは意味を変えた。どんな些細なことでも、一成は天馬の話を嬉しそうに聞いてくれた。何でもない話が楽しかった。天馬の気持ちに寄り添って、本音も心からの言葉もやさしく受け入れてくれた。
「誕生日を祝ってくれてありがとな。あの絵、大切にしまってある。いつだって、一成はオレの気持ちを大事にしてくれた。寄り添って、抱きしめてくれた。本当に嬉しかったんだ。一成と過ごす時間が大切で、他の何にも代えられなかった。あんなにきれいで、輝いてたのは、隣に一成がいたからだ。お前がいるだけで、どうしようもなく幸せだった」
思い出す。教室で二人、手を取り合って踊った。あんなにもきれいで、まばゆい時間を天馬は知らない。何もかもがきらきら輝いていた。二人でいるだけで、こんなにも全てが美しいのだと知った。こんな風に思える人は、一成が初めてだった。夜でさえも光に満ちている。二人一緒なら、何だってこんな風にきらきらと光を弾く。
一成がいなくなってから、何度だって思い出した。何度だって思った。手紙にも書いた。心からの願いがあふれて言葉になる。
「会いたい。一成に会いたいんだ」
祈りのように、願いのように、全身全霊を掛けた言葉だった。心がそのまま声になる。天馬の内側からほとばしる想いが形になる。声の抑揚が、震える唇が、あえぐような表情が、熱望を宿した瞳が、天馬の本気を訴える。これが願いだ。これが望みだ。嘘もごまかしも一切ない。ただ真っ直ぐ、射抜く強さを持った言葉が教室に落ちる。
その瞬間だった。前方で空気が動いたような気配がした。天馬がはっとして視線を向けると、泣きそうな顔の一成が立っている。
思わず駆け寄った天馬は、何か声をかけようと口を開く。しかし、先に声を発したのは一成だった。くしゃりと顔をゆがめて、一成は言った。
「オレ、テンテンにそんなこと言ってもらえる人間じゃないよ」
ひきつれたような声で言った一成は、眉を寄せて天馬を見つめる。「どういう意味だ」と尋ねると、揺れるまなざしのまま一成は口を開く。懺悔にも似た響きで言葉を絞り出していく。
三角と顔を合わせて、一成は全てを思い出していた。
三角の宝物である三角定規を、旧校舎で見つけた。返さなくちゃと思ったけれど、せっかくだからサプライズで絵と一緒にプレゼントしようと考えて、一旦持ち帰った。いつものように美術室でスケッチしていたのだ。よく見ようと思って持ち上げた時、手が滑ってしまった。机の上に落ち、跳ね返って床に落ちる。慌てて拾い上げた時には二つに割れていて、一成の顔から一気に血の気が引いた。
壊してしまった。三角の宝物が二つに割れてしまった。大事な宝物。「じーちゃんにもらったんだ」と嬉しそうに笑って手のひらで包み込んでいた。嬉しそうに笑っていた。三角の宝物を、壊してしまった。
焦った一成は、ひとまずどうにか修復できないか、と必要な道具を取りに寮へ戻ったのだ。接着剤やセロテープを持って返ってくると、美術室には猫が入ってきていた。
机の上にある割れた三角定規を器用にくわえて、窓から出ていくところだった。このまま持って帰られたらまずい、と思って猫を追いかける。三階から四階に上がってしまったから、手すりを足場にして手を伸ばす。もう少しで手が届きそうだった。にぼしを持っているから、気を引こうとすれば猫が近づいてきた。ふんふん、顔を近づけて匂いを嗅いでいる。口を開けた瞬間、割れた三角定規の片方が手のひらに落ちてきた。このままちゃんと掴まないと、と思って変に力が入ったのだろうか。三角定規の片割れを握った一成は、バランスを崩してそのまま中庭に落下したのだ。
天馬の推測が正しいことを認めた一成は、ほとんど泣いているような状態で、ひしゃげた言葉を続けた。
「すみーの宝物を壊したオレは、このまま消えた方がいいんじゃないかって思った。きっとすみーは許してくれるから、オレは自分で自分を罰しなきゃって……」
そこまで言って、一成は言いよどむ。しかし、大きく深呼吸をしたあと、ぐしゃぐしゃになった顔で言う。
「……でも、本当は怖かっただけなんだ。すみーはやさしいから許してくれるけど、心の底ではオレにがっかりするかもしれない。オレに失望して、オレのこと嫌いになるかもしれない。いくら謝っても、オレのしたことは消えないから、目を覚ましたくなかったんだ」
三角への罪悪感はあった。しかし、それが最大の理由ではなかった。現実と対峙することが怖くて、現実から目を背け続けていたくて、一成の気持ちは目を覚ますことを拒んでいた。三角のために罰を与えるためじゃない。自分の罪を直視したくなかったのだ。だから、天馬が言ってくれたような自己犠牲の精神じゃなくて、自分勝手なワガママだ、と一成は懺悔するように言った。
どんな言葉を返せばいいかわからなくて、天馬はただ一成を見つめているしかできない。一成は涙に濡れた目を天馬に向けると、唇にうっすら笑みを刻んで言った。
「オレも、テンテンと一緒にいられることが嬉しかった。一人ぼっちのオレをテンテンが見つけてくれた。テンテンがいると思ったら、一人で過ごす夜も怖くなかったよ。今日もただ時間が過ぎていくだけで、何も変わらないままオレはどうなっちゃうんだろうって思ってたけど。またテンテンと会えると思ったら、明日が楽しみになったんだ」
天馬が告げた言葉へ答えるように、一成は言う。さらに、手紙も読んだのだと続けて、書かれた言葉を思い出すように目を細める。
天馬は手紙に思いの丈を書いていた。二人で過ごした時間がどれほど楽しかったのか。天馬にとっての大切な思い出なのか。もう一度一成に会いたいとどれだけ心から思っているか。必死に並べた言葉を、一成は受け取っていた。天馬からの手紙が嬉しくて、何度も読み返したのだと言ってから、一成は続ける。天馬を見つめて、悲しそうなまなざしで、自分の罪を握りしめる響きで。
「だけどオレは、テンテンが思うような人間じゃない。現実のオレはもっと卑怯で、ずるくて、自分勝手だ」
現実を見たくなくて、逃げ出したくてずっと目を覚ますことを拒んでいただけなのだと、全てを思い出した一成は理解してしまった。だから、一成はずっと天馬から逃げていたのだと言った。
三角との再会から記憶を取り戻したショックで、姿は一旦消えたけれど、次の日には戻っていた。しかし、自分のずるさを突きつけられた一成は天馬に会いたくなかった。だから、天馬が校舎に現れたら姿を消して隠れていた。近くにいたら会いたくなってしまうと、なるべく別の部屋へ逃げていた。
ただ、思い出の詰まった教室を離れたくなくて、天馬がいない時には戻っていた。絵を描きたくて机の中は見ていたから、手紙にはもちろん気づいた。見なかったふりをしなくちゃと思っても、天馬の気持ちを知りたいという欲望には抗えなくて封を開けてしまった。
一成は真っ直ぐ天馬を見つめると、笑みを浮かべて言った。まばゆさを宿すものでもなければ、やわらかく抱きしめるものでもない。どこまでも透き通った、美しくて寂しい笑顔で告げる。
「幽霊のオレなら、テンテンの中ではきれいなままでいられる。今のオレだけ覚えててくれればいんだ。それならオレは、ずっとテンテンの中できれいな思い出でいられるでしょ?」
笑っているのに嗚咽を漏らしているような表情だと、天馬は思った。痛々しいほど、一成の気持ちは伝わってきた。卑怯でずるい自分を、一成は天馬に見られたくなかった。三角のために気高い自己犠牲をしようとしたのだと。本当は怖くて逃げ出しただけの臆病者だとも知らずに。何も覚えていない、きれいなままの自分を天馬には覚えていてほしいと願っている。だから一成は、天馬の前から姿を消した。
理解するのと同時に、天馬の唇からはうわごとのように声が漏れる。
「――違う」
一成の気持ちも望みもわからないわけじゃない。だけど、うなずきたくなかった。きれいなままの自分を覚えていてほしいと、いくら一成が願ったって。きれいな思い出でいたいなんて、そんなのは嫌だ。突き動かされるまま、あふれる気持ちで天馬は口を開く。
「一成が好きだ。好きなんだ」
思わず口をついて出た言葉。脈絡はないのかもしれない。しかし、今自分が伝えるべきはこの言葉なのだと、天馬は直感で理解した。だから、目の前の一成向けて天馬は言う。
「友達って意味だけじゃない。一成が特別で、誰より一番大切にしたい。一成が好きだ」
夜でも輝きを失わない瞳で、天馬は切実に告げる。心を取り出して全部一成に見せるような気持で。
「どんな一成だって、オレはお前のそばにいる。オレの気持ちを舐めるなよ。現実の一成がどれだけ卑怯でずるくたって、そんなことで諦めるか。それくらいで諦められるなら、こんなに必死で走り回っていない。オレはいつだって、どんな一成だって、お前のそばにいたいんだ」
ずるいだとか卑怯だとか、ワガママだとか。そんなことだけで諦められるような、簡単な気持ちではなかった。だって一成は、天馬にとっての特別だ。世界中のたった一人だ。一成は思い出にしてほしいなんて言うけれど、うなずきたくなかった。
きれいなままでいたいのかもしれない。現実はもっと汚くてずるい場面だって見えるかもしれない。それでも、きれいな過去だけを後生大事に抱えて生きていくなんて嫌だった。
一成の目はゆらゆら揺れている。天馬の言葉に戸惑っているし、恐らく簡単にはうなずけないのだろう。しかし、否定されているわけではない。その事実に勇気づけられるように、天馬は言葉を重ねる。唇に笑みを浮かべて、力強く、軽やかに。
「なあ、やりたいことならたくさんあるだろ。コンビニ寄り道したいって言ってたし、夏祭りにも行きたいんだよな。旅行もいいし、海やナイトプールも行きたいって言ってたか。ああ、おにぎり持ってピクニックに行くんだよな。ファミレスのパフェもドリンクバーも試すし、イチゴのかき氷の食べ比べもやろう。おしゃれして出かけたいって言っていたし、オレの洋服見てくれるんだよな。それに――夏は花火もやるんだろ」
今まで二人で交わした会話を思い出しながらそう言えば、一成がはっとした表情を浮かべる。天馬が一成の望みを余さず受け取っていることを、一成の望みを同じように大事にしていることを、これから先の未来の話をしていることを、感じ取ったのかもしれない。
ああ、そうだ、と天馬は思う。そうだよ、一成。オレの望みは、一成と会えたなら言いたいことは。確かな思いを胸に抱いて、天馬は一成に言う。
「オレはお前と現実を生きたい。きれいな思い出が欲しくて、お前といたいわけじゃない。ワガママもずるいところも見せてくれ。オレはいろんな一成が知りたい。きれいな一成だけが欲しいわけじゃないんだ」
きっぱりと言った天馬は、真っ直ぐ一成を見つめた。旧校舎で過ごした日々は、どれもがきれいできらきらと輝いていた。どこにも行けないし、誰にも姿が見えない。だからこそ、誰からも干渉を受けることはなくて、この場所に守られていたのかもしれない。ここでなら、確かにきれいな思い出だけで全ては完結できるのかもしれない。
現実はもっと辛くて苦しいこともあるだろう。怯んでしまうことも、逃げ出したくなることも、たくさんあるだろう。旧校舎を出て二人で過ごす時間が増えれば、衝突することだってあるかもしれない。何もかもが上手く行くとは限らないだろう。それでも、天馬の望みは一つだけだった。
「ここにいるだけじゃできないことをしよう。夜だけじゃない、朝を一緒に過ごそう。不安ならそばにいてやる。怖いなら手だってつないでやる。なあ、一成。オレはお前が好きなんだ」
目の前の一成を見つめて、きっぱりと言う。望んだことは一つだけ。気持ちが向かう先は一人だけ。他の誰かじゃだめだった。たった一人を選ぶなら、この世界の特別は一成だけだと知っていた。
「だから一成、お前と生きる未来をオレにくれ」
力強く、天馬は告げた。堂々とした態度で、夜でも光を放つような笑みを浮かべて。
夜が明けたら、一成は消えてしまう。だからこそ、天馬はその先を望んだ。同じ世界を生きていない、夜明けまでの刹那的な存在ではなく。朝になっても姿の消えない、同じ世界で一緒に生きていく一成が欲しいのだ。夜を超えて朝を迎える、二人で生きる未来が欲しいのだ。
真っ直ぐ届けられる言葉に、一成は泣き笑いのような表情を浮かべる。これが揺るぎない天馬の本心であることを理解したのだろう。今までずっと天馬と過ごしてきた一成が、理解できないはずがないのだ。どれほど真っ直ぐ心から、真摯な気持ちで告げられた言葉かなんて。
天馬は揺るぎない視線で、一成の答えを待っていた。いつだって、一成は天馬の心に寄り添って本音を受け取ってくれた。だから今、この言葉だって届く。心の全てを取り出して告げた天馬に、ただ真っ直ぐと返してくれる。
一成は息を吐き出した。視線はうろうろと下をさまよい、表情はためらいを浮かべている。しかし、一成は数度大きく深呼吸をすると、ゆっくり顔を上げる。天馬を見つめるのと同時に、唇から声がこぼれる。
「――テンテンってば、男前だなぁ」
冗談めいた響きで、泣き出しそうに目を細めて。それでいて、何よりやわらかな微笑を浮かべて。一成は、天馬の言葉にこくりとうなずいた。