「夕間暮れの追憶」古市左京:街中のカラス




 仲間の鳴く声がする。そろそろねぐらに帰る頃だ。おれは返事をして、電柱から飛び立つ。羽を大きく広げて、風に乗った。おれが餌場にしている街が、少し小さくなる。ただ、おれたちの目は小さなものまでよく見えるようにできているから、問題はなかった。
 辺りを警戒しながら、街の様子を確認する。この時間、餌を出している人間は少ないし朝の巡回で大体の餌は取りつくしてしまった。だけど、ときどき思いがけず餌にありつけることもある。
 特に、この街は人間が多い。人間が増えれば増えるほど、その分食べ物が出てくる可能性が高くなる。外で物を食べる人間もいるし、落とした瞬間を見つけたらすぐに向かって、他に取られる前にかっさらう必要がある。
 スピードが勝負だからすぐ飛んでいけるよう、街の様子を観察していた。ただ、この時間はあまりものを食べている人間はいないようだった。街の道を走り回っているのは、人間の子供が多い。あいつらも、それぞれねぐらに帰るんだろう。
 人間の子供は、食べる量も少ないし大体大人が周りにいて、近づくと追い払われることが多い。だから、あまり近づきたくはない。一人だけの大人が一番いい。
 路地裏とか店の裏だとか、そういうところで、ぽつりと一人ですごしている大人。そういうのが一番いい。おれが近づいても追い払うこともしないし、ときどき食べ物を投げてよこすこともある。毎回そういうわけじゃないが、気まぐれだとしても餌にありつける機会は多い方がいい。
 この街には、そういう大人がときどきいる。人間は群れることを好むと聞いたし、実際街のあちこちには多くの人間が一緒になって行動している。ただ、その中で一人になることを選ぶ気まぐれの人間は、思ったよりいるらしい。
 ずいぶん長くこの街で暮らしていて、小さな餌場を知り尽くしたじいさんなんかは、よく言っていた。この街は、他と少し違う人間が集まっている。餌のためじゃなくて、もっと別のもの――「芝居」とかいうものを求めてやって来る人間がたくさんいるんだという。餌とかつがいとか、そういうものより、もっといいものらしい。
 じいさんは変なやつなので、「芝居」というものを知っていた。自分ではない誰かにや、他の生き物になったりするらしい。よくわからない。ただ、じいさんはそういう人間が多いから、気まぐれに餌をよこすんだと言っていた。他の生き物――つまり、人間から見たおれたちみたいなのを、仲間みたいに思うらしい。
「芝居」というものが、どんなものかはわからない。ただ、たくさんの人間が惹かれるというんだから、よっぽど魅力的なものなんだろう。おれにはわからないが、それのおかげで餌が増えるなら、正体なんかは知らなくてもよかった。
 飛びながら確認する街には、知っている顔もある。おれたちは、人の顔を覚えるのが結構得意だ。何かされたやつのことも忘れないし、代わりに餌をくれる人間の顔もしっかり覚えている。好意的な人間は、近づくだけで餌をくれたりするし、意外と人間を覚えるのは大事だった。
 おれが見つけたのは、大通りを歩いている金髪に眼鏡の人間だ。歩くたび黒い服が広がって、羽にも見える。
 あれは、おれが巣立って間もない頃、餌をあさっていた時に顔をあわせたことのある人間だ。追い回されたわけでもないし、餌をくれたわけでもない。それでも、おれはあの人間をよく覚えていた。
 巣立ちを迎えたおれは、懸命に餌にありつこうとしていた。ただ、まだいろんなことに慣れていなくて、上手く行かないことばかりだった。餌を見つけることも難しくて、いくら餌場を回っても、とっくに食べつくされたあとだった。見つけた餌も他のやつらにすぐ取られて、お腹が空いて仕方なかった。
 このままじゃだめだということはわかっていた。何も食べられないままじゃ、すぐに体が弱ってしまう。他のやつらに追い回されたらおしまいだ。どうにかして、餌にありつかないといけない。
 だからおれは、雨の日に餌を探しにでかけることにした。ちょっとくらいの雨なら、飛ぶことはできる。だけど、もっとたくさん雨が降っているとき、たいていのやつらは木陰とかで雨をよけているから、餌場を回ることはない。あんまり濡れると上手く飛べなくなるから、そうしているのはわかってる。つまり、雨が強く降る日は他のやつらがあんまり動き回らないから、おれも餌にありつけるかもしれないのだ。
 ただ、おれだってあんまり濡れたら上手く飛べない。それはそれですぐ逃げられないから、雨にはなるべく当たりたくない。どうすればいいか。おれは、屋根を使って移動することにした。
 屋根といっても、立派なやつじゃない。人間はそういう使い方はしてないような、ちょっとしたでっぱりだ。おれは人間より小さいから、そういうものでも充分屋根になる。
 だからおれは、たくさん雨が降る日に街を飛び回った。
 いくつめの店だったか。でっぱりの下を飛びながら、雨をよけていたおれは、路地裏に積まれたビニール袋に辿り着いた。透明な袋から見える赤っぽいものは肉の切れ端、白っぽいものはご飯、空になったマヨネーズもある。
 空腹のおれには、夢のような餌場だった。これならたらふく食べられる、とビニール袋をつつきにかかる。早く、早く、という気持ちだったから全然気づかなかった。建物から人間が出てくるなんて。
 外に出てきたのは、金髪に眼鏡の人間。目の下にあるのは黒子とかっていうやつだ。おれとの距離は近い。
 その頃のおれは、人間から餌をかすめ取ることもできなかったし、おこぼれをちょうだいすることもなかった。人間には追い回されるか、棒とかで叩かれるか、石を投げられるかくらいしかされたことがないから、距離を取るようにしていた。餌も満足に食べられないのだ。こんな状態で人間に何かされたら、それでおしまいだ。
 早く逃げるべきかとも思った。でも、ようやくありつけた餌をみすみす逃がしたくなかった。それに、今この餌を食べなかったら、どのみちおれは長くないとわかっていた。羽もぼろぼろだし、体だって全然大きくならない。おれは今、この餌を食べなくちゃいけない。
 そんな力は残っていないとわかっていた。でも、おれはこの人間に立ち向かわないといけない。そうしなければ、おれは生きられない。
 いつ人間が襲ってくるか、とじっと見ていた。でも、そいつは何もしない。おれのことを見てるから、気づいていないわけじゃない。なのに、おれを追い払うこともしないし、棒を振り回さないし、石も投げなかった。
 そいつは、大きく息を吐き出すと「決まりを守ってゴミを出せ、と何度言ったらわかるんだ」とか何とかぶつぶつ言った。それから、ビニール袋に止まったままのおれに言った。本当に、おれに向かって、おれを見て、言った。
「その様子じゃ、お前も食わなきゃなんねぇんだろう。そもそも、ゴミの出し方に問題があったのはこっちの落ち度だしな。だから今回はいいが――ただ、まあ、あまり散らかさないでくれるか」
 静かにそう言うと、ポケットから何かを取り出す。耳にあてると話し始めるから、電話とかいうやつだな、と思う。
 そいつはもう、おれを見ていなかった。だからおれは、またビニール袋をつつき始める。たぶん、邪魔はしないだろうと思ったから。なるべく静かに、なるべく小さな穴になるように。
 おれに話しかけたのは、特に意味なんてなかっただろうし、たぶん単なる気まぐれだと思う。だけど、おれはあの時の餌のおかげで、どうにか生き延びた。もしも追い払われたら、餌を取り上げられたら、たぶんあのまま、おれが誰かの餌になっていた。
 その時のことを覚えているから、あの金髪を見つけると何だか少しいい気分になるのだ。