「dreamy, dreamy, drink」雪白東:Bar(20代・会社員)




 初めてお酒を飲んだ時は、全然美味しいと思わなかった。場所の雰囲気とか、お酒が飲める年齢になったんだなぁとか、そういうので何だか特別な気持ちにはなったけれど、それだけだ。味が美味しいなんて特に思わなかった。
 ただ、お酒の席は楽しかったからよく参加していた。どうやらアルコールには強い性質だったこともあって、お酒を飲む機会が増えていく。すると、ある時からお酒をちゃんと美味しく感じるようになった。苦味の中にある旨味やコクだとか、そういうのがちゃんとわかるようになったのだ。
 そこからは簡単だった。もとからお酒を飲むこと自体好きだったのだ。カクテルにビール、ワインやシャンパンから始まって、日本酒や焼酎、ウイスキーなど、いろんな種類のお酒を飲むようになっていった。
 家で飲むより外で飲む方が好きだったから、週末には行きつけの店を訪れることが多かったのだけれど。もっと別のお酒も楽しみたいな、と新しい店を開拓することにした。果たしてどんな店がいいか――と考えた時、思った。そうだ、バーに行ってみよう。
 今までは、食事とお酒が合うと評判の店を訪れることが多かった。ただ、どうせ開拓するならもっとお酒を中心とした店がいい。美味しい食事ももちろん魅力的だけれど、今は純粋にお酒を楽しみたい。
 それなりにお酒との付き合いは長いけれど、バーには行ったことがなかった。存在は当然知っていたものの、何だか敷居も高かったし、そこまでお酒を美味しいと思っていなかったから、特に行きたいとも思わなかったのだ。でも、今は違う。今ならバーという場所で、お酒を楽しむことができるような気がした。
 そういうわけで、今日初めてバーを訪れる。いくつかバーをピックアップして、雰囲気や評判を調べて決めたのは、半地下にある落ち着いた店だ。
 繁華街とは離れた通りの、さらに路地裏という立地なので、なかなかわかりにくい。スマートフォンを片手に、何度かぐるぐる辺りをうろついて、「ここかな?」という場所に辿り着いた。
 よく見れば小さな看板が出ているものの、知らなければ見過ごしてしまいそうだ。ビルの一角が煉瓦の壁になっており、地下へと続く階段には飴色のランプが灯っている。物語の世界へ誘われるような、そういう雰囲気だ。
 スマートフォンの地図と現在地を、何度か見比べる。看板の店名も合ってるし、ここで間違いはないはず。階段を下っていけばいいのだと、頭ではわかっていたのだけれど。
 初めての場所を訪れるのは、何だか緊張する。外からではどんな店なのかわからないことや、バーという場所で粗相をしないだろうか、なんてことが今になって気に掛かる。店を調べている時は、そんなこと全然考えなかったのに。
 いい大人なんだから、もっと落ち着いて堂々とすればいいと頭では思う。悪いことをするわけじゃないし、客として訪れるなんて、正当な行動なんだから。ただ、同じくらいに思ってもいた。大人になって、新しいことをするのはずいぶん久しぶりだから、きっとこうして緊張してしまうのだ、と。
 なかなか一歩が踏み出せなくて、階段の前でたたずんでいる。せっかくここまで来たのに、たった一歩が嘘のように重かった。まさかこのまま帰るつもりはないし、どうにか自分を奮い立たせないと。そう思っていたら、後ろから声が響いた。
「どうしたの?」
 やわらかな声に、反射的に振り返る。思わず目を見張ったのは、そこにいたのがあまりにも美しい人だったから。
 月の光を弾くような白い肌に、つややかな髪。一つに結ばれて垂れ落ちる髪は、まるで光の束のよう。浮かんだ笑みははかなげで、独特の雰囲気がある。美術品がそのまま動き出してしまったんじゃないか、なんて馬鹿なことを本気で思ってしまうような人だった。
「何か困りごとかな。ボクで役に立てるなら――」
「いえ、そういうわけでは……!」
 ボクという言葉にもしかして男の人なのかな、とぼんやり思ってから、慌てて首を振る。この美人の前に性別なんて些細なことだし、手を煩わせるにもいかない。目の前の人の雰囲気に呑まれるように、ぼうっとしたまま、気づけばここまでの経緯を語っていた。
「そうなんだね。それならちょうどよかったな。ボクも、このバーに用があったんだ」
 目の前の美人はそう言うと、にっこり笑った。思わず見惚れてしまうような雰囲気がある。
 それから、当たり前のような顔で「それじゃあ、行こうか」と言って足を踏み出す。つられるように足が動いて、気づけば一歩階段を下っている。何だかすでに酔っているような気持ちで、美人のあとに続いた。

 その美人は、どうやらバーの常連らしい。慣れた様子でマスターと言葉を交わし、自然な調子で私のことを紹介する。「初めて訪れるバーにこの店を選ぶなんて、目が利くね」とほほえむ表情は、驚くほどきれいだった。
 夢見心地で話をして、最初の一杯を頼む流れになった。ただ、具体的に飲みたいお酒があるわけではないので、困ってしまった。すると、その様子を察したらしい。隣に座っていた美人が「そんなにかしこまらなくても大丈夫だよ」と言って、にっこり笑った。うっとりするような微笑。
「今の気分を素直に伝えれば、マスターがぴったりのお酒を用意してくれる。それとも、ボクのおすすめなんてどうかな?」
 優美な笑みから一転して、子供みたいなイタズラっぽい笑みだった。そんな風に笑うんだな、とドキドキしているとマスターは落ち着いた調子で同意を返す。注文されたお酒を出すだけではなく、その時の気分や望みからふさわしいお酒を提供するのもバーの役目なのだ、とおだやかな笑顔で言う。
 それから隣の美人を示して、彼もずいぶんな目利きなのだと続けた。バーとは出会いの場でもある。これも何かの縁だと思って、彼の提案を聞いてみるもの一興かもしれませんね、なんて言われたら、答えはほとんど出ているようなものだ。
 この人がいなければ、たぶんなかなかお店にだって入れなかった。もっとも、あれはたまたま通りかかっただけで、単なる偶然でしかないことはわかっている。でも、その偶然にもっと別の意味を持たせてみてもいいんじゃないか、と思った。だから、どんなお酒をすすめられるのかぜひ聞いてみたかった。
 ただ、単なる冗談で言っただけかもしれない。本当におすすめを聞いたら、迷惑なのでは、と思ったのだけれど。艶然とほほえむその人は、私の視線と沈黙を的確に受け取っていた。
「選ばせてもらえるなんて光栄だな。それじゃあ、キミの話を聞かせてくれる?」
 しっとりとした雰囲気でそう言われて、好きなお酒や飲み物を答える。さらに、大変聞き上手なものだから、気づけば個人的なこともあれこれ話していた。静かな笑みを浮かべて、興味深そうに一通りを聞いたあと、その人は楽しそうに口を開く。
「そうだな。キミはとてもすてきな人だから、ホワイト・レディなんて似合うかもしれないね。とても清楚で、気品があるお酒なんだ」
 ジンをベースにしたカクテルで、その名の通り透き通った白が美しいのだと言う。上品な雰囲気がぴったりだよ、と笑顔で言うのでドキドキしてしまう。ただ、度数がそれなりだというのが気がかりだ、と言うので私は「お酒なら強いので大丈夫だと思います」と答える。事実として、ウイスキーとかテキーラとか、その他強いと言われるお酒は何度も飲んでいるけれど、ひどく酔ったことはない。
 だけれど、美しいその人は、私の言葉に静かに首を振った。艶めいた微笑を唇にたたえて、とっておきの秘密を口にするような雰囲気で言う。
「初めての相手と飲む時は、強いお酒を選んだらだめ。それは、もっと親密になった時に取っておいてね」
 ふふ、と笑みが浮かぶのと同時に、辺りにふわりと花の香りが漂ったような気がした。