「カレーパンの王子様」碓氷真澄:パン屋店員(10代・学生)
パンの焼き上がる匂いは、幸せの匂いだと思う。悲しかったり腹が立ったりしていても、焼き立てのパンを前にすればそんな気持ちは大体消し飛んでしまう。
パリッとしたバゲットを割る時の感触や、そこから立ち昇るかすかな甘い匂い。バターたっぷりのクロワッサンに、スタンダードな食パン。どんなパンだって、焼き立ての香りに包まれると、それだけで幸せな気持ちになれる。私は昔からパンが好きだった。
朝ご飯は白米が多くて、パンがレアだったということもあるかもしれない。もちろん白米だって好きだし、炊き立てご飯のおいしさは格別だ。ただ、家ではほとんど食べられなかったから、よけいにパンへの憧れが募ったのは確かだと思う。
おかげで、大学進学を機に一人暮らしを始めてから毎朝パン生活がスタートした。大学に行きたくない日だって当然あるけど、朝にはパンが食べられる……と思えばどうにかベッドから這い出すことには成功したから、パンの効果はすごい。たぶん私にだけやたら効力を発揮する魔法だ。
毎朝、どんなパンを食べようかと考えれば起床時間が少し楽しみになる。食パンはいくらでもアレンジができるので、可能性は無限大。乗せるものを変えるだけで、同じ食パンがまるで違った味わいになる。
オーソドックスにハムとチーズもいいし、実は意外としょうゆだって合う。食事系だけじゃなくて、アイスクリームを乗せたりバナナを乗せたり、スイーツ系だってお手の物。手軽に気軽にいろんな味を楽しめる。
そういうわけで、いろんなパン屋を巡るのも趣味の一つになっていた。だからまあ、当然と言えば当然の流れだったのかもしれない。大学生活が落ち着いていざバイトを始めるという段階で、バイト先にパン屋を選んだのは。
パン屋の情報だけはいっぱい持っていたので、立地やら何やらを加味して、バイトに応募。無事に採用されて今に至る。基本的に平日は夕方から、休日は朝からというシフト。住宅地にある店なので駅ナカや駅前とは違って、比較的のんびりしている。
ただ、近くに芙蓉大学というそれなりに大きな大学があるので、平日昼時は結構混む。私はその時間ほぼ入ったことがないからあまり知らないけど、なかなか大変らしい。もっとも、芙蓉大学は頭がいい大学だからなのか、落ち着いた学生が多いみたいでそこまで大騒ぎとかにはならないという。うちの大学だと、学部によっては大惨事になるかもしれないのに。さすが芙蓉大学。
一番混むのは平日の昼食時ではあるけど、夕方もそれなりにお客さんは来る。夕食というより明日の朝用って感じの人とか、あとは例の芙蓉大学の学生が小腹を満たすためにやって来る。なので、最後に焼き立てが並ぶのは大体この時間だった。
焼き立てパンが出来上がり、店に並べる。この瞬間が、バイトをしていて一番幸せかもしれない。パンを並べるのにも気合が入るし、お客さんのもとに無事に旅立っていけばいいなと思う。
焼き立てパンは威力があるので、わりとすぐにパンはなくなってしまう。順調に売れていって何よりだ。残ったパンを確認して、詰め合わせセットの組み合わせなんかを考えていると店の扉が開いた。入って来た人物に、心の中で「あ」と声を上げる。
いつからか、たびたび訪れるようになったお客さん。不思議なメッシュの入った髪型で、口もとの黒子が印象的。驚くくらいに整った顔立ちをしていて、まるで人形みたい。そういう意味でも忘れられないお客さんではあるけど、それよりもっと別の意味でいろいろインパクトがあった。
「カレーパンは」
その人はわき目もふらず、ずかずかレジまで歩いてくるとそう言った。ぶっきらぼうな口調はいつも通り、尋ねる言葉もいつも通り。
「売り切れました……」
妙な迫力があるお客さんなので、何となく気圧されつつそう答える。お客さんは、思いきり不機嫌そうな顔になる。整った顔立ちは一切崩れることがなくて、顔の良さというのはすごいなと場違いながら毎回感心してしまう。笑顔とかじゃなくても、どんな角度でも、整った顔立ちは不変だ。
「次の焼き上がり時間は」
「確認します」
矢継ぎ早に聞かれて、念のため聞きに行く。ただ、予想通り今日のカレーパンはさっき出た分でおしまいだった。残念がるというか、仏頂面に拍車がかかるだろうな、と思う。何せあのお客さんは、カレーパンを買うためだけにうちの店に来ている。
カレーパンは決して目玉商品というわけじゃないけど、リピーターが多い。地味ながら確かなファンを獲得していて、恐らくそれは自家製フィリングが決め手だと思う。何種類ものスパイスを使って、具材にもこだわった一品。カレーパンに合うよう調整されているものの、本格的なカレーに近い味わいだと評判だ。
一部で一定の人気があるらしく、口コミだとかネットとかでたまに話題に上っている。あのやたらと整った顔をしたお客さんは、恐らくその辺りがきっかけなんだろう、というのが私やその他バイト仲間の見解だ。
カレーパンが大好きみたいだし、ネットの評判を知っていてもおかしくない。何せ、あのお客さんはカレーパンしか興味がないし、しかもあるだけ買っていこうとする。
初めてお店へやって来た時も、一直線にレジまで歩いてくると言ったのだ。「今あるカレーパン、全部売って」と。
パンを大量に買うお客さん、というのはいないわけじゃない。一つの種類をたくさん買う人もいる。だから、そういう人なんだなと思って対応したし、それだけなら日常のワンシーンとしてその内忘れてしまっただろう。ただ、さすがにそれが何度も続けばどういう事情があるんだろう……と謎に思い始める。
あのお客さんは、それからたびたび店を訪れてはカレーパンをあるだけ買おうとしていた。
実はどこかに転売してる?とか、何かのネタにされてる?とか、あれこれバイト仲間でも噂していた。ただ、そういうことはないだろう、という結論は出ている。
ネットを探しても、転売とかネタ系動画の痕跡がなかった、ということもあるけど。あのお客さんがカレーパンを買うところなら、みんな見ているから自然と理解していたのだ。
だって、袋に詰めたカレーパンを渡した時、あのお客さんは少しほほえむ。ぶっきらぼうで仏頂面で、氷みたいな表情をしていることがほとんど。こちらとの会話も必要最低限で、愛想は一切ない。だけど、あの瞬間だけは。カレーパンを手にした時だけは、ほんの少しだけど笑うのだ。やさしさと愛おしさがあふれるみたいな、そんな風に。
ああ、この人は本当にこのカレーパンがほしくて、手に入って嬉しいんだな。どんな言葉もなくたって、漂う雰囲気から伝わる。こんな風に笑う人が転売するとは思えないし、カレーパンを粗末に扱うこともないはず。買って帰るのは一人で食べ切る量じゃないから、家族とか友達とか、大事な人と一緒に食べてるんだろう。バイトの見解はそれで一致しているので、単純にカレーパンが大好きな人なんだろう、と目されている。
人形みたいな顔立ちと雰囲気はあんまりカレーパンと結びつかないけど、別に外見で好物が決まるわけでもないし。とにかくカレーパンが大好きな美形として、店では実は有名人である。
最初の来店から今日に至るまでのことを思い出しつつ、レジに戻る。申し訳なく思いながら次の焼き上がりがないことを伝えると、ぶっきらぼうに「わかった」と言う。それから、同じく温度のない声で一言。
「また来る」
それだけ言って、さっさと店から出ていった。本当に一切他のパンを見ない。ある意味すがすがしい。
しみじみ感心しつつ、私はその背を見送った。毎日来るわけじゃないから、次がいつなのかはわからないけど。「また来る」と言ったなら、きっと来店するに違いない。だからその時は、ちゃんとカレーパンが買えるといいな。