「陽だまりの午後へ」佐久間咲也:はなむら常連(30代・会社員)
お昼休みのチャイムが鳴った瞬間、財布を持って立ち上がる。上司から仕事の話でも振られてしまったら、十分以上は解放されない。声を掛けられる前に部屋を飛び出して、そのまま事務所の入っているビルから外に出た。
行き先は、いつもの私のランチ先、洋食屋はなむら。
天鵞絨商店街にあるはなむらは、うちの会社からだと歩いて十分弱。ただ、最近は近道を発見したのと、走っていけるようにスニーカー出勤を始めたおかげで、もっと早く到着できるようになった。
青い空には、太陽が明るく輝く。外に出た時は上着を羽織っていても寒いくらいだったけれど、軽く走ったおかげで商店街に辿り着いた時は、適度に体が温まっていた。
人でにぎわう、商店街のアーケード。行き交う人たちの間をすいすい通り抜けて、一目散に店へ向かった。最初はどこに何があるかわからなかった商店街の店も、今では並びをちゃんと把握している。
最短ルートではなむらに到着して、少し上がった息を整える。深呼吸をしてから、すっかり見慣れた店の扉を開ける。よく知る内装にほっとすると同時に、明るい声が響いた。
「いらっしゃいませ!」
目の前には、満面の笑みを浮かべた赤い髪の青年。大きな目をきらきらと輝かせており、名札には「佐久間」と書かれている。私は内心でガッツポーズを決めた。
やった、今日はシフトの日だった。ラッキー!
ただ、もちろん表には出さない。平静を装って「一人で」と告げれば、佐久間くんはにこっと笑った。
そこだけぱっと花が咲いたような。暗闇に一筋差し込むスポットライトのような。なんだかほっとする、胸の奥が温かくなる笑顔だ。
内心で拝んでいると、佐久間くんは慣れた動作で片隅の席に案内してくれる。お昼時ということで席のほとんどは埋まっているものの、まだ少し空きはある。場合によっては相席を頼まれることもあるけど、今のところ平気そうだった。
「Aセットを一つお願いします。サイドはスープ、ドリンクはコーヒーで」
席に着くと同時に、メニューも開かず注文する。もはや何も見なくても、ランチに何が提供されるかは把握している。Aセットは本日のパスタ、Bセットは日替わりで大体肉料理。サイドメニューでサラダまたはスープ、ドリンクはコーヒーか紅茶が選べる。好き嫌いもアレルギーもないので、パスタが食べたかったらAセット、そうじゃない場合は大体Bセットにすることが多い。サラダかスープかはその日の気分による。ドリンクはいつもコーヒー。
佐久間くんはにっこり笑うと、私の注文を復唱する。それから、「本日のパスタはナポリタンです!」と嬉しそうに教えてくれた。ナポリタン、と私はつぶやく。今日は本当にラッキーかも、と思う。佐久間くんは私の小さな声もちゃんと拾ってくれたようで、にこにこ「はい!」とうなずく。つられるようにして、声になっていた。
「ここのナポリタン、おいしいですよね」
「はい! オレも好きなんです!」
ぱあっと顔を輝かせての台詞に、私は内心で答える。知ってる。他のお客さんと話してるの聞いてたから知ってます。
とはいえ、まさかそんなことを答えるわけにもいかない。大人の顔で「そうなんですね」と言えば、佐久間くんは嬉しそうにうなずいた。まぶしい笑顔だった。
それから佐久間くんは、一旦下がったあとお水を持ってきてくれた。浮かべた笑顔はふんわりとやさしくて、見ているだけで胸がぽかぽかする。
料理が来るまでの間、それとなく佐久間くんの様子をうかがう。スマホをいじっている場合ではない。声を掛けられれば気持ちのいい返事をして、きびきびと店内を動き回る。お皿を下げてお水のお代わりを持ってきて、会計をして注文を聞いて料理を運んで、落としてしまったスプーンの替えを素早く用意する。忙しく働く合間にも、決して笑顔は忘れない。真剣な顔をしていたって、ひとたび声を掛けられれば、「はい!」と笑顔で返事をしてくれる。
やさしく包み込んでくれるような、強張った心をやわらかく溶かしてしまうような。佐久間くんはいつだって、そういう笑顔を浮かべるのだ。単なる客と店員で、特別なつながりは一つもない。接客の一環として、義務的な笑顔を作ればいいだけなのに。佐久間くんは、いつだって心からの喜びがあふれるように笑っていた。まるで、ここで出会えたことが心底嬉しいみたいに、大事な人へ向けるみたいな、そういう風に。
よくできた作り物の笑顔で、心の中では全然別のことを思っている可能性はある。単なる店員なんだから、それで充分だ。だけれど、たぶん佐久間くんは本当に、心からの親愛を向けていてくれるんだろうな、と思っている。
私が一体何を知っているのか、と言えば当然何も知らない。だからこれは、単なる私の妄想でしかないのだけれど。一年近く通い続けている内に積み重ねたものが、私に教えてくれるのだ。
佐久間くんは人をよく見ている。お客さんに何かを言われる前にさっと動くこともそうだし、それ以外の場面だって。寒そうにしているお客さんに気づいたら、お冷ではなく白湯を用意しようかと声を掛ける。空調の風向きを確認して場所を変えたり、突然の雨に傘を貸したり、アレルギー対応だってばっちりだ。子供連れには率先して助けの手を差し伸べるし、何なら子供をあやすのも上手い。どんな時も佐久間くんは笑顔を絶やさないし、「ありがとう」と言われると恐縮した雰囲気を漂わせてから、心底嬉しそうにはにかむ。
あの笑顔を真正面から受け取ったら、言葉ではなくただ理解してしまうのだ。ただ真っ直ぐと、心から佐久間くんは思っている。誰かの助けになれること、力になれることが嬉しいのだと。ありがとうという言葉が、相手が喜んでくれたことが、心底嬉しいのだと、ただ理解する。
何の気なしにはなむらを訪れて、値段に見合わず美味しいランチだったので、時々訪れていただけの私だってそうだ。佐久間くんの様子を眺めつつ思い出すのは、忘れられない一日のこと。
あの日私は、立て込む仕事にすっかり疲れて、いつもより遅い時間に店を訪れた。残業続きで寝不足が祟ったのか、あまり喉の調子が良くなかった。マスクはしてたし酷い咳が出るわけではなかったけど、咳き込んでいたことに気づいたのかもしれない。
席に案内してくれた佐久間くんは「もしよかったら」と言って、のど飴を一つくれた。慌てた顔で「要らなかったらすみません」と前置きをしてから、とてもよく効くのど飴で味も美味しいのだと言って、もしも迷惑でなければ、と。
何だか断るのも心苦しかったし、飴一つくらいなら最悪あとで捨てることもできる。流れのように受け取って、「ありがとうございます」と言うと佐久間くんが笑った。
やさしく目を細めて、白い歯をこぼして、頬を薔薇色に染めて。その一瞬で、まばゆい光が辺りに降りそそぐ。胸の奥まで真っ直ぐ届く。やわらかく抱きしめるように、心からの親愛をあふれさせて、温かな光が満ちるみたいに笑う。
まるで何かの祝福みたいだった。疲れ切っていたせいか、身も心もボロボロだった私に、あの笑顔はまりにも真っ直ぐと胸に沁み込んだ。それ以来、佐久間くんの笑顔が頭から離れなくて私はずっとはなむらに通っている。
名前を知ってこっそり心の中で呼ぶようになり、ひっそりと佐久間くんを見守って、気づけば一年近くが経っていた。人に言ったら気持ち悪がられるだろうし、佐久間くんに知られるなんて言語道断だ。佐久間くんを怖がらせたいわけではない。
だから単なる客という立場で、私は今日もはなむらに通う。毎日シフトに入っているわけじゃないからいつでも会えるとは限らないけど。あの陽だまりの笑顔に会えたから、午後も頑張れるな、と思いながら私はナポリタンが来るのを待っている。