「La Vie colorée」三好一成:画材屋(70代・アルバイト)




 お絵描きが好きだったな、と思い出したのは六十を過ぎた頃。ずっと続けてきた仕事も、そろそろどうやって着陸しようか、なんてことを考え始めていた。
 仕事を辞めたら突然やることがなくなって一気にぼけちゃう、なんて怖い話もたくさん聞いたから、それを防止しなくちゃ、と思って。そういえば私って何が好きだったんだっけ、と考えてみたら、小さな頃はしょっちゅう裏紙なんかにお絵描きしていたことを思い出した。
 それから、少しずつプライベートの割合を増やそうとスケッチだとかを始めて、気づけば十年以上。決してすごく上手いというわけじゃないけれど、絵を描くこと自体が楽しかった。
 時間を見つけては絵を描いてるから、絵の具は案外早くなくなる。最初は近くの文房具屋でそろえていたけど、最近はちょっと足を伸ばして画材屋さんへ行くようにしていた。ちょっとしたお出掛けにちょうどいいのと、いろんな画材を見られるのが楽しかったから。
 そういうわけで、今日もいつもの画材屋に出掛けた。都内でも繁華街というわけではないから、比較的落ち着いている。近くに美大があるからか、品揃えも豊富でなかなか気に入っていた。年の瀬ということもあって、街は何だか慌ただしいけれど、画材屋はいつでも落ち着いた静かな空気が流れているから、そういうところも好きだった。
 駅からの道を散歩がてら歩く。それなりにいい運動になるわね、と思いつついつもの道を通って、画材屋の近くまで来たところで思わず足が止まってしまった。珍しく、店の前には人が大勢いたから。
 しかも、集まっているのはみんな若い人たち。明るい声で弾むように会話していて、何だかとても楽しそう。笑い声は遠くまで響くようで、近づくのをためらってしまった。
 別に私のことなんて気にしないことはわかっていたのだけれど。あまりにも明るくてまぶしいものは、それだけで弾き返されるような強さがある。これがたぶん、老いるということなんだろうなとは思う。若くて明るいものに、気圧されてしまうのだ。
 自分を鼓舞して進むべきか、少しここで待つべきか。どうしようか、とためらっていると、不意に若い人たちの中の一人がこちらを見た、ような気がした。気のせいだったのかもしれないけれど、真ん中にいた金髪の子が何かを言ったかと思うと、それを合図に若い人たちが移動を開始したのだ。店の前からばらばらといなくなり、あっという間にいつもの静かな店先が戻ってくる。
 偶然なのか、果たしてこちらに気づいたからなのか。わからないけれど、ありがたく思いながら画材屋へ入った。

 目的の絵の具をカゴに入れたあとは、好きなように画材を見て回る。普段使わないような画材を見るのが楽しくて、油絵や日本画のフロアを見ていた。いろんな絵の具があるのが面白いし、どんな絵もいかにして色をとらえるのかが大事なのね、なんて思っていた。
 まるで宝石でも見ているような気持ちで、一つ一つの絵の具を見ていた。すると、前方に人の気配がしてふと視線を向ける。緑色のジャケットを着た金髪の男の子が、ショーケースの中を熱心に見ている。何だかどこかで見たことがあるような――と思って、じっと見ていたせいだと思う。その子が、ぱっと顔を上げた。ショーケースからこちらへ視線を移して、ばちりと目が合った。その瞬間、さっき店の前にいた子だ、と気づいた。この子が一声掛けたかと思ったら人がいなくなって店へ入れた。あの時の子だわ。さっき見たのにすぐ思い出せないなんて、年を取るってこれだから嫌になっちゃう。
 そんなことを思っていたら、金髪の子はぱっと笑った。何だかやけに嬉しそうな笑顔だな、と思っているとこっちへ近づいてくる。誰か知り合いでもいるのかしら、と思ったらその子は明るく言った。
「こんにちは! さっきは、店の前でうるさくしてごめんなさい」
 にこにこ言われて、どうやらこれは私に言っているらしい、と気づく。あと、さっきはやっぱり私がためらっているのに気づいて、周りに声を掛けてくれたのだ、ということも察した。金髪の子は「買い忘れ気づいて戻ってきたら、会えてめっちゃラッキー!」と言ってから、さらに続けた。
「オレたち、近くの美大の――天美って知ってますか?」
「え、ええ、知ってます」
「ほんと? オレたちそこの学生なんだけど、今度の展示会のことでめっちゃ盛り上がっちゃって」
 だからつい大きな声で騒いでしまった、と言う。周りのこと気にしなくちゃだめだよね~という様子は屈託がないし、別に悪気があったとは思っていないから、そんなようなことを言った。すると、何だかとても嬉しそうに口を開く。
「ならよかった~! あ、それなら、これも何かの縁だし、展示会興味あったらぜひ来てください。展示会のチラシもどうぞ! 関係者じゃなくても全然オッケーだし、入場も無料、絵以外にもいろいろあります! ちなみに、オレはカズナリミヨシって言います☆」
 くるくると表情を変えたかと思うと、流れるように一枚の紙を取り出してそう言う。勢いに押されるように受け取ったチラシには、確かに天鵞絨美術大学の文字がある。
「このチラシもオレが作ったんです。ほら、これがオレの名前!」
 にこにこ言いながら示された先には、「デザイン:三好一成」という文字。そういえば、さっき何だか名前を言っていた気がするけど一回ではとても覚えられなかった。だから、こうして文字で書いてあるのはありがたい。
 金髪の子――三好さんはうきうきとした調子で、心底楽しそうに展示会について説明してくれる。来てくれると嬉しい、なんてまるで昔からの知り合いに向けるような言葉を掛けてくれるけれど。
「お誘いいただいて嬉しいわ。でも、こんなおばあちゃんが行くなんて、場違いでしょう」
 知り合いの作品があるならまだしも、完全にただの部外者だ。美術館の展示会ならいざ知らず、若者たちが中心になる場にわざわざ老いた人間が訪れるなんて、異物が紛れ込むようなものでは、と思って言った。誘ってくれた気持ちはとても嬉しかったけれど。
 すると、三好さんは大きな目を丸くした。本当に心底びっくりしたみたいな、そういう顔で口を開く。気分を悪くしたとか、そういうことは一切なく、ただ不思議がる声で言う。
「ええ~? そんなことないです。来てくれたら、オレはめっちゃ嬉しい!」
 私の言葉を否定する響きではなくて、ただ自分の気持ちを取り出すような、そういう調子。三好さんは明るい笑顔で、だけれどどこかにやわらかさを添えて続けた。
「いろんな人に見てもらえると嬉しいっていうのもあるし――それに、オレはずっと絵描いてたいから。いくつになっても絵描いてる人がいるのって、すごく嬉しいんです」
 目を細めた三好さんは、私が絵を描く人間だろうと尋ねた。カゴに入った絵の具だとか、画材を見て回る様子でそう予想したらしい。
 間違っていないのでうなずくものの、別に私はちゃんと絵を学んだわけじゃないし、描き始めたのだって六十を過ぎてから。若い頃からずっと絵を描いてきたとは言えないのだ。だから、三好さんが求める人物とはズレているはずだ、と言うけれど。
「オレ、自分がその年になったらどんな絵描けるかって楽しみにしてるんです。だから、先にその年齢になった人がオレたちの絵見て、どんなこと思ってくれるんだろって、想像するだけですごくわくわくします」
 そう言ってから、三好さんは続けた。辺りに光が散るような、周りの全てが色づいていくような、そういう表情で。
「だってその年にならないと、見えないものってたくさんあるから!」
 真っ直ぐ告げられた言葉は、本当に心の底からのもので。三好さんにとって年を重ねるということは、新しい景色が見えることと同じ意味なんだな、と思った。