桜の下でいつかきみと
日が沈む直前に、二人はギャラリーの小部屋へ帰ってきた。息せき切って、街角に置かれた絵の中に飛び込んだのだ。
実寸大で描かれるのは、クリーム色の壁と象牙色の床に囲まれて、一組の椅子と机があるだけの空間。天馬が一成の家を訪れるため、案内された小部屋だった。
絵の中に飛び込むと、描かれた通りの部屋が目の前に広がる。絵の世界ではなく、現実として二人ともあの小部屋にいることを確認して、ほっと息を吐く。取り残されることなく、無事に帰ってきたのだ。
背後を振り返れば、壁に立てかけられているのは、変哲もない街角を描いた絵だ。この絵を通って、天馬はあちらの世界に渡った。そこで道に迷い、時間までに戻ってくることができなくなりそうになっていたのだ。しかし、一成が天馬と合流したことで、無事にこうして帰ってくることができた。
よかった、と思う一成は手をつないだままだったことに気づいて、そっと手を離す。天馬は数秒の沈黙を流したあと、一成に向かって礼を告げた。危ない所だったという自覚はあったし、一成に助けられたこともわかっていた。
ただ、疑問もあった。あらためて現状を認識した天馬は、一体どうして一成が自分の前に現れたのかと尋ねた。
天馬はロケ先の移動遊園地から、あのギャラリーに辿り着いた。天鵞絨町から近いとは言え、一成も訪れていたわけではないのだ。一体どうして、同じようにあちらの世界へ渡ることになったのか。
疑問を持つのももっともだろう、と一成は思う。だから素直に、天馬が行方不明になったと井川から連絡が来たのだと答える。それから、いてもたってもいられなくなって、一成はMANKAI寮を飛び出したのだ。
移動遊園地に着いてからのことを思い出しながら、一成は天馬に事情を説明する。
◆ ◆ ◆
合流した井川から詳細を聞いたあと、一成は遊園地を回ることにした。人が変われば視点も変わる。天馬が見つかるかもしれないし、そうでなくても何らかのヒントを得られる可能性はある。
そう思ってあちこち走り回っていると、一成は見慣れたギャラリーを発見したのだ。
遊園地の片隅。表通りから外れた建物の裏手に、「A GALLERY」と書かれた立看板が置かれていた。
思わず立ち止まったのは、「こんなところにギャラリーがあるなんて」と思ったからではない。風景に同化してしまいそうな、地味な看板に見覚えがあった。
周囲に目を走らせると、案の定目立たない扉を見つける。灰色の壁に同化するような、簡素な扉。もともと記憶力はいい方だし、一成にとっては忘れられない出来事をもたらした場所だ。
向日葵畑の絵と向き合って、天馬と出会った。絵の中の人物であるはずの天馬と言葉を交わし、心を分かち合った。「こっちへ来い」という言葉にうなずいて、一成はこちらの世界にやってきた。
全ての始まりはあのギャラリーだった。何度も通った扉を、新しい世界へ導いた場所を忘れるはずがなかったのだ。
一体どうしてここにあのギャラリーがあるのか、と一成の心臓は大きく脈打った。不思議なギャラリーであることは、実体験として知っている。ひとところに留まることはなく、場所を変えていることも察していた。
だから、突然目の前に現れたこと自体は理解の範囲内だ。ただ、今このタイミングで、目の前に現れるなんてことは、まるで予想していなかった。とはいえ、この符号が無関係とは思えない。もしかして、という可能性が頭をよぎる。
一成は数秒考えてから、簡素な扉に手を掛ける。
中へ飛び込むと、記憶と寸分違わない光景が広がっていた。重厚な雰囲気が漂うインテリアに、年齢も性別も不祥のオーナー。嬉しそうな出迎えに挨拶をしたあと、一成は勢い込んで天馬のことを尋ねた。
天馬が行方不明になったタイミングで現れた、という点には何か意味があるに違いない、と思ったのだ。天馬との出会いのきっかけになった場所である。そのギャラリーが出現していて、同時に天馬の行方がわからなくなったなんて、何らかのつながりがあるとしか思えなかった。
オーナーは一成の言葉に、さらりと告げた。「彼でしたら、あなたが元いた世界に渡りましたよ」と。
その言葉に、一成は固まる。薄々予想はしていた。しかし、はっきりと告げられたことで、一成は目に見えてわかるほどの動揺を浮かべる。
そんな様子に構わず、オーナーは続けた。天馬は、一成がプレゼントしたしおりを肌身離さず持っていた。オーナーがそれを求めた結果、渋々ながら承諾して一成がいた世界へ絵を通して旅立ったという。
経緯を説明された一成は、どう反応したらいいかわからなかった。不思議なギャラリーは、絵を通して世界を渡ることができる。だから、天馬があちらの世界へ向かったという事実自体は、納得できる。
しかし、どうしてそんな行動をしたのかがわからない。なんで、テンテンはあっちの――オレの世界になんか行ったの。そんなことする必要なんかないのに。どうして。なんで。
混乱と動揺を浮かべる一成の内心を、オーナーは察したのだろう。淡々と言葉を続ける。
「あなたの過去を知るのは自分の役目だと、思っておいでのようでしたよ」
そう言うオーナーは、取り立てて隠すようなことではないと思っているのだろう。相対した天馬が告げた言葉を、一成へ告げる。
「こっちに来いと言ったのはオレだ。あいつの家族や育った場所を、ちゃんと知りたい。生きてきた痕跡を知るのは、全部受け止めて抱えていてやるのは、オレの役目だ」「一成の世界で、一成の生きてきた場所を自分の目で確かめたい」――。
凛とした決意を宿して、天馬はあちらの世界へ旅立ったのだ。
天馬らしい言葉だと、一成は思った。同時に、どれほどまで天馬が自分を大事にしてくれているのか、ということを実感する。
自然と胸に広がるのは、喜びや愛おしさ。大好きなのだと、特別なのだと自覚した相手が、一成のことを心から想って行動してくれたのだ。嬉しくないはずがないし、天馬のことが好きなのだという気持ちで胸が満たされる。
しかし、続いた言葉に一成は顔色を変える。
「日没までに戻ってこなければ、扉は閉じると言ってあるのですが――。あと三十分ほどでしょうか」
一成に聞かせるための言葉というより、単なる独り言のようだった。あくまで事実を確認しただけだったのだろうけれど、聞き流すことはとうていできない。
日没と共に扉は閉じる。絵によってつながった世界だ。扉が閉じられてしまえば行き来することはできなくなる。あと三十分時間があるとはいえ、天馬はまだ帰ってきていない。
待っていれば、ちゃんと天馬は戻ってくるかもしれない。しかし、一成は天馬の方向音痴をよく知っている。本人は認めないけれど、果たして無事に元の場所へ帰って来られるのか。
そうでなくても、何かのトラブルが起きる可能性だって否定できない。あちらの世界で何かがあって、扉となった絵まで辿り着けなかったら。そうなったら、天馬は取り残されてこちらの世界に戻ってこられない。
その事実に、ぞっと背筋が凍る。天馬が行方不明になったと聞いた時のような、不安と焦燥、腹の底から忍び寄る恐怖が体を包む。
天馬と二度と会えなくなったら。まばゆい光で一成を照らしてくれた。強くてやさしい、大好きな人。天馬がいたから出会えたものや、知った幸せがたくさんある。天馬と過ごした日々や天馬と重ねた思い出は、一成にとって掛け替えのない宝物だ。
天馬ほどすてきな人を一成は知らない。誰からも愛されて、大事にされてしかるべき人だ。この世界から天馬がいなくなるなんて絶対に許したくなかったし、絶対に嫌だった。
この場所で、夏組とカンパニーのいる世界で天馬は幸せにならなければいけない。天馬はこの世界に欠かすことのできない人だ。あちらの世界に取り残されるなんてこと、絶対にさせちゃいけない。
――テンテンを迎えに行こう。
事態を把握した一成は、すぐさま心に決めた。ギャラリーから別の世界への渡り方なら知っている。扉となる絵があるはずだし、日没までは扉が開かれているなら、今絵の中に飛び込めばいい。天馬を見つけて一緒に帰ってくればいい。
「あなたの家族と会いたいようでしたので、家のある場所とつなげました。ただ、住宅街ですから太陽の沈み具合はわかりにくいかもしれませんね」
開けた場所ではないので、どれくらいで太陽が沈むか可視化されているわけではないのだ。だから、日没までのタイムリミットを把握しにくいかもしれない、とオーナーは言う。心配の雰囲気は一切なく、ただ事実を羅列するだけの響きしか持たない。
しかし、オーナーの言葉に、一成の体がびくりと震えた。天馬の向かった先。あちらの世界で、一体どこへつながったのかを理解したからだ。
天馬は一成の過去を知りたいと言っていたのだという。恐らく、こちらの世界で生きる一成には一切の過去がないからだ。今まで歩いてきた痕跡も、辿ってきた足跡も、この世界のどこにもない。どんな風に生まれて生きてきたのか、知る人間はどこにもいないのだ。
だからきっと、天馬はあちらの世界へ渡って、一成の家族と顔を合わせることを選んだのだろう。
天馬ならそうするのだと、一成は素直に思った。天馬は誰より誠実で真摯な人だ。自分の行動や言葉に責任を持つ人間だからこそ、こちらの世界へやって来ることで失った家族とのつながりを、ちゃんと自分の目で確かめようと思うことは不思議ではない。
一成のことを大事に思うからこその行動だとわかっているから、嬉しい気持ちはあった。ただ、同じくらいに忍び寄るものがあった。
天馬が向かった先は、一成の家だ。生まれてから家を出るまでずっと過ごしていた場所。恐らくそこには、一成の家族がいる。
厳格な父親と、教育熱心な母親、聡明で優秀な姉。絵に描いたように完璧な家族だった。一成だけが出来損ないで、こびりついた染みのような存在だった。一成さえいなければ、全てが調和した完全無欠な家族だった。だから、家族にとって一成は不要なものだった。
両親や姉を思い浮かべただけで、一成の体はすくんだ。生まれてからずっと過ごしてきた家で、経験してきたことが脳裏によみがえる。きっと楽しい思い出はあった。嬉しいことも、幸せなこともあったはずなのに、全ては塗りつぶされてしまった。
幼い頃からずっと勉強をしてきた。思うような結果が出なければ両親は不機嫌になり、優秀な姉と比べられる。勉強に関係のないことなんて、家族にとっては不要なのだ。絵を描きたいという一成の希望はとうてい信じがたいもので、異常だった。
東大に入ることだけが一成に課されていて、生活の全てを勉強に捧げた。終わらない課題に睡眠時間を削って、起きている間の全てを使ってもまだ足りなかった。結局一成は、両親の期待に応えることはできなかった。
あの瞬間から、一成は決定的に要らないものになった。本当はもっと前から知っていたけれど、はっきりと理解した。出来損ないの失敗作。求めたことにも応えられない。自分は要らない存在なのだと、身に染みて感じる日々だった。
大学に入ってから、家族からの扱いはより顕著になった。食卓を共に囲むこともなく、生活全てを監視される。世間体を気にするおかげで暴力を受けることはなかったけれど、これ以上意に沿わぬことをしないようにと、徹底的に管理される。
本当は要らないからだ。家族の一員になるべきではなかったのに、間違ってくわわってしまった。そんな一成は、家族の邪魔にならないよう、望んだものを提供し続ける以外の道はなかったのに。
それでも一成は、どうしたって絵を描くことを手放せなくて、時間を見つけてはこそこそと描きためていた。見つかれば処分されるとわかっていたから、家族に隠しながらひっそりと。
そんな中で天馬と出会って、一成の絵を心から受け取ってくれた。好きだと言って一成の絵が欲しいと言ってくれた。だから、天馬へ贈るための絵を描いた。
しかし、天馬のための絵は家族に見つかって、目の前で破かれた。あの瞬間の光景がまざまざとよみがえって、一成の視界は真っ暗に塗りつぶされるようだった。
――これだからお前は出来損ないなんだ。絵なんか描いてどうしようもない。
あざやかな青空の下に広がる向日葵畑。天馬との時間をそっとしまいこんだ一枚の絵は、細かく千切れていった。夏の思い出が、天馬との全てが、一成の愛したものたちが、目の前でばらばらになっていく。
いつだってそうだった。描いた絵は見つかったらゴミになる。捨てられる。だってこれは、要らないものだ。一成の望むものなんて、両親にとっては不要なものでしかない。ゴミでしかないのだ。
――あなたなんて、生まなきゃよかったわ。
落ち着いた声で告げられたのは、徹底的な存在の否定だった。
本当はずっと前から知っていた。どうにか目をそらしていたけれど、否応なく思い知らされた。要らないんだ。オレは家族にとっての邪魔者で、ゴミでしかない。今まで描いてきた絵と同じように、捨てられるべき存在だ。
最初から間違っていた。生きていることが過ちだ。オレは生まれてきちゃいけなかった。だって、自分を生んだ母親が、今日まで自分を育ててきた両親が言うのだ。出来損ないだと、生まなきゃよかったと。
悲しいくらいすんなりと、一成は納得した。生まれてきちゃいけなかった。オレは要らない存在だ。オレの命なんて、どんな意味も価値もない。オレはここにいちゃいけない。生まれてきたことが間違いだったんだ。
家族のことを思い出しただけで、存在全てを否定された感覚がよみがえる。
理性では、あれはあくまで両親が言っただけのことだ、と訴える。天馬は違うと力強く否定するし、夏組はきっと一成を抱きしめて、どれだけ一成が大切かと言ってくれる。カンパニーのみんなもそうだ。
たとえ両親がいくら一成を要らないと言ったって、一成が必要だとここにいてよかったと、何度だって伝えてくれるだろう。
心からそう信じられるのに、奥底に刻まれた感情は消えなかった。二十年ずっと伝え続けられた言葉が、見てきた態度が、接してきたあらゆる全てが、毒が回るようにじわじわと染み込んでいた。
いくら頭では違うとわかっていても、家族に会ったら瞬く間にあの頃に引き戻されるだろう。生まれてきてはいけなかったのだと、生きていくことは許されないのだと、否応なく思い知る。
あちらの世界に戻って、今まで住んでいた家に赴いて。再び家族と顔を合わせたら、何もかもが否定される。間違っているのだと、生まれたことが許されていなかったのだと、はっきりと突きつけられる。オレは生きていちゃいけない。生まれてきてはいけなかったのに、どうしてオレはまだ生きているのか。本当は、もっと早く死ななくちゃいけないのに――。
こわばったままの表情で、すくんだ体で一成は呆然と思うしかなかった。理性ではなく、もっと深い場所が訴えていた。
幼い頃から掛けられてきた呪いは未だ有効で、一成をとらえて離さないのだ。あの世界に戻る。家族と顔を合わせる。そうしたら引きずり込まれる。生きていてはいけないと突きつけられる。生まれてきたことが間違いだったと、早く死ななくちゃいけないのだと、思い知らされる。
理性ではなく体の全てが理解して、足がすくむ。逃げ出したかった。嫌だと思った。戻りたくなかった。会いたくなかった。行きたくなかった。あの世界に戻るのが怖かった。
一成の心情を、オーナーは察していたのだろう。青い顔でたたずむ一成へ向かって、そっと言葉を掛ける。
「あなたのことですから、迎えに行こうと考えているのでしょうけれど――別に彼が戻ってこなくても、構わないでしょう。こちらの世界にいれば、あなたはずっと絵を描けるんですから」
絵を通ってあちらの世界に渡った天馬。未だ姿は見えないし、もう日没まであまり時間はないのだろう。このまま帰ってこなければ、天馬は失踪という扱いだ。
ただ、オーナーからすればそれは些細なことでしかない。一成が絵を描けなくなるなら問題だけれど、天馬がいなくなったところで支障はない、というのがオーナーの見解だ。
「三好一成には夏組が必要です。ただ、一人くらい欠けてもまだ夏組はいますからね。あなたが無理をする必要はありませんよ」
一成の様子がおかしいことは、オーナーもわかっているのだろう。著しいストレスを感じていることも、その理由も察している。不思議な力を持っているのだ。家族からの扱いや境遇についても熟知しているのかもしれない。だから、天馬を迎えに行けば家族と対面するかもしれない、という可能性に体がすくんでいることも理解して言うのだ。
「あなたがわざわざ、あちらの世界へ行く必要はありません。こちらにいれば、何も怖いことはないのですから。ここで過ごす毎日は、幸せなのでしょう」
オーナーの言葉は正しかった。こちらの世界にいれば、一成に怖いものはない。好きなだけ絵を描いていられるし、お芝居だってできる。やりたいことには何だって挑戦できるし、誰もが背中を押してくれる。
一成のことを否定する人間は一人もいないし、みんな当然のように一成を受け入れてくれるのだ。一成の心を、存在を、丸ごと抱きしめていてくれるような人たちと、一成は一つ屋根の下で暮らしている。
元いた世界では決して得られなかったものが、降るように与えられている。これが幸せなのだと、何度も一成は噛みしめた。ここにいれば幸せでいられるのだと、疑いなく思えた。
わざわざ元の世界に戻って、存在を否定する相手と対面するなんて。そんなことをしなくたって、一成はただこの場所にいればいいとオーナーは言うのだ。
だってここでなら、一成はどんな恐怖も苦しみも思い出さなくていい。全ては過去のことだとなかったことにして、連なるものたちはみんな捨ててしまっていい。傷を、痛みを、思い出して直面して、心を引き裂く必要なんて一つもない。
オーナーの言葉は、一成のことを想ってのものなのだろう。一成が傷つかないように、という願いでもある。
「この世界なら、あなたはずっと絵を描いていられる。心を摩耗させてまであちらへ戻る必要なんて、一つもありませんよ」
力強く告げられた言葉を聞く一成は、こわばる体を動かそうとした。固まってしまった筋肉を、思い出す過去に囚われてしまった自分を、鎖でつなぎとめられたような心を、必死で奮い立たせる。
だって答えなんて、一つしかない。オーナーへ告げることなんて、これだけだ。
「――だめだよ」
震える声で、張りついてしまった舌を無理やり引きはがして、一成は言葉を絞り出す。
あちらの世界に行く必要はないと、オーナーは言う。
もしも両親と顔を合わせたら、と考えるだけで恐怖に囚われてしまうのだ。大きなストレスは、一成の筆を鈍らせる原因になるかもしれない。心を壊す可能性があるなら避けるべきだ。一人が欠けても夏組は残るのだから、一成が無理をする必要はない。
ある意味では正しいのかもしれないけれど、うなずけるはずがなかった。一人が欠けても夏組は残るなんて。夏組は全員そろって夏組だ。誰か一人だっていなくなったら成り立たない。それに、何よりも一成は自分自身の意志で、どうしようもなく叫ぶ心で、確かに言える。
「テンテンがいなくなるなんて、絶対に嫌だ」
泣き出しそうな声で言う一成の脳裏には、向日葵畑の天馬が思い浮かんでいる。最初に絵が動き出した時は思わず逃げ出してしまったけれど、それから天馬と言葉を交わすようになり、真っ直ぐとした心根を知った。
芝居に対してひたむきで、人に対しても誠実だ。一成の心を、本音を、余すところなく受け取ってくれた。一成の絵を好きだと言って、一成の見ている世界をどれだけ尊いかと伝えた。一成の居場所はここなのだと、力強く告げた。いつだって天馬は、一成の心を大事にして抱きしめていてくれたのだ。
そして天馬は、「オレのところに来い」と一成に手を伸ばした。生まれてきてはいけなかったのだと、生きていることを否定された一成に「違う」と首を振って。そこで生きているのが辛いなら、自分のところへ来いと言ってくれた。
突然の申し出は、一成の心の奥に真っ直ぐ届いた。迷いはなかった。常識と理性は考え直せと言っていたけれど、天馬の言葉を聞いた瞬間から答えなんてとっくに決まっていた。だから一成は何もかもを捨てて、天馬の手を取ったのだ。
あの時だって、一成は怖かった。自分で決めた道を進むことは、もしかしたら間違っているかもしれない。いつかこの選択を後悔する日が来るかもしれない。そう思ったけれど、一成の答えはもうとっくに決まっていた。
――テンテンに出会うため、この手を取るためにオレの人生全部があったんだ。
あの時の気持ちを、天馬と生きると決めた誓いを、一成はずっと覚えている。これが答えだ。これがオレの決意だ。たとえどれだけ怖くたって、逃げ出してしまいたくたって、体がすくんで身動きが取れなくなってしまったって。それでもオレは、テンテンを諦めたりなんかするもんか。
自分自身を奮い立たせた一成は、オーナーを真っ直ぐ見つめる。心は今でも逃げ出したがっているし、動悸が激しい。じっとりと汗をかいているし、喉だってからからだ。それでも、するべきことは一つだった。
「オレもあっちに行く。テンテンを迎えに行かせて!」
振り切るように強く言って、三つの扉へ目を走らせた。恐らくあの中のどこかに、一成が元いた世界につながる絵があるはずなのだ。一体どれが該当する部屋なのか、とオーナーへ問いかける。しかし、オーナーの返事は芳しくない。
「今まで、二人の人間をあちらへ渡したことはないのです。何が起きるかわかりません。あなたが行く必要はないでしょう」
一成の言葉にやんわり首を振るのは、二人を送り込んだ経験がないからだ。世界を渡るというのは、決して簡単なことではない。些細なイレギュラーが重大な事態を引き起こすのでは、と懸念するのももっともだった。ただ、一成は諦めるつもりがなかった。
オーナーが渋っているのは、一成に何かあったら困るからだろう。どうやら一成の絵を評価してくれている、ということは天馬があちらの世界へ行く経緯で理解した。
一成が描いた絵をわざわざ対価として求めるくらいなのだ。一成の絵に価値があると思っていなければ成り立たない取引だし、だからこそ一成の身を案じているのだろう。何かあれば新しく作品が生み出されることはない。さっきからの言動でも、一成が絵を描き続けることを重要視していることはうかがえる。
だからこそ、イレギュラーを起こす可能性を排除したいのだということはわかった。ただ、もちろん素直にうなずけるはずがない。何が何でも一成はあちらに行かなくてはならない。
日没まで恐らくもう時間がないのだ。未だ天馬が帰ってこないことから考えて、何かアクシデントが起きている可能性はある。だから、どうしたって一成は元いた世界へ行く必要がある。
しかし、オーナーは首を振らない。一成の絵を評価しているから、描き手としての一成を守りたいと考えているのだろう。
そこまで思ったところで、一成ははっとした表情を浮かべる。対価として一成の絵を求めているというなら。一成の絵を評価しているなら。
「お願い、あっちに行かせて。もしも対価が必要なら、オレの絵をあげる」
オーナーの目を真っ直ぐ見つめて言うと、明らかにたじろいだ空気が流れた。すぐにノーが返ってこないことが、効果のほどを示していると判断して、一成はさらに畳みかける。
「無茶なことはしないって約束するから、お願いします。絵ならいくらでも描きます。リクエストがあれば言ってください。オレの精一杯で、あなたのために絵を描くから!」
きっぱり言うと、オーナーの瞳がゆらゆら揺れる。濡れたような黒にも、つややかな光を宿して明るく輝くようにも見える目を、一成はじっと見つめていた。
決してそらすことがないのは、揺るぎない信念の証だ。対価が必要なら、天馬を迎えに行けるなら、どんな絵だって描き上げるつもりだった。
絶対に退くまいという決意で、一成は強いまなざしを向け続ける。オーナーは戸惑いと逡巡を浮かべたまま、こくこくと時間が過ぎていく。
一体どれくらい時間が経ったのか。長い沈黙のあと、オーナーが口を開いた。
「――わかりました」
苦虫をかみつぶしたような顔で、苦渋の響きで、オーナーが言った。一成をあちらの世界へ行かせることは止めたい。しかし、一成の申し出も断りたくない。二つの感情で揺れ動いた結果、一成の絵に軍配が上がったらしい。
一成がぱっと顔を輝かせると、オーナーはいささか厳しい顔で口を開く。
「決して無理はなさらないでください。日没はもうすぐです。いいですか、あちらに渡れば恐らく電話は通じるでしょう。すぐに連絡を取って居場所を確認して、戻ってきてください。日が落ちても扉を開けるよう努力はしますが、一番は時間内に帰ってくることです。いいですね」
「おけまる! 絶対ちゃんと帰ってくるから!」
一つ一つの言葉に、一成は力強くうなずいた。天馬と一緒にこちらへ帰ってくるのが一成の目的なのだ。オーナーとゴールは同じだとわかっている。真剣なまなざしを受け取ったオーナーは、一つ深呼吸をすると中央の扉を示した。
◆ ◆ ◆