桜の下でいつかきみと




 そこから先は、天馬も知った通りだ。絵に飛び込んであちらの世界に降り立った一成は、すぐに天馬へ電話を掛けた。着信音を頼りに天馬を探し当てると全速力で街を駆け抜けて、ギャラリーへと帰ってきたのだ。
 一成の家にまだ在宅していたなら、こうも上手くは行かなかっただろう。帰るために住宅街を歩いている時間帯だったのは幸運だったのかもしれない。
 そんなことを思いながら、天馬は「悪かったな」と一成に言う。心配を掛けてしまったこともそうだし、純粋に労力を使わせてしまったことを指しての言葉だ。もっとも、一成は「そんなことない」と言うだろうとわかっていたし、実際その通りだった。勢いよく首を振って、当たり前のことをしただけだ、と言い切る。
 一成は心から思っているのだ。天馬が心配で移動遊園地までやって来て、園内を探し回った。不思議なギャラリーでオーナーと再会し、元の世界へ渡った。
 危険はあったし、家族と顔を合わせることを忌避しているのに、天馬を迎えに行きたいと飛び込んでくれたのだ。こんなにも、自分の全てで行動してくれるのに、たいしたことはしていないと本気で思っている。
 そのいじらしさに天馬の胸は詰まった。悲しみや苦しみではなく、愛おしさと呼ばれるものだ。幸せにしたい。笑顔にしたい。ひたひたと胸に満ちていく気持ちを感じていたところで、天馬ははっと気づく。
 ギャラリーの小部屋で、天馬と一成は向かい合っている。その天馬の手には、一成の部屋から持ち出した画集があるのだ。これは思い出の品物のはずだから、渡したら一成は喜んでくれるんじゃないか。思った天馬は、笑顔を浮かべて言った。

「一成、お前に渡したいものがあるんだ。この画集、一成が言ってたやつだよな」

 そう言って、紙製のケースに入った青い表紙の画集を一成に差し出した。
 幼い時に見てから心を奪われた、印象的な本だ。家族の目を盗んで、こっそりと見ていた。思い出の画集であり、持ってくればよかったとこぼしていた。恐らくその画集のはずなのだ。
 天馬は嬉しそうな表情で、きらきらとしたまなざしを浮かべている。一成が喜んでくれるだろうか。嬉しいと思ってくれるだろうか。輝くような笑顔は、ただ一成を喜ばせたいのだということが伝わってくる。一成はきゅっと唇を結んだ。
 天馬が、一成のことを心から大事にしてくれていることは知っている。いつだって味方でいてくれたし、どんな時も力になろうとしてくれる。
 距離を取ろうと言ったのだって、つまるところ一成の世界を大事にしたいからだ。天馬以外との接点を持って、いろんなことに出会っていくことを望んだのは、一成の未来を守りたかったからだ。天馬しか知らないままで、閉じた世界で暮らしていくのは一成の本質を失わせてしまうだとわかっていたから。
 天馬はいつだって、一成の幸せを考えていた。こちらの世界に呼んだのが自分だからという責任感もあるだろうけれど、純粋に天馬の資質としての話だろう。誠実で真摯な人だからこそ、一成の幸せのためにできることなら、何だってやりたかった。
 恐らく目の前の画集もその一環なのだ、と一成は思った。
 過去を捨ててきた一成。自分が一成の過去を知らなくては、とあちらの世界で家族や家の様子を見聞きした。その過程で、天馬は一成の思い出の画集を見つけた。
 持ってこられなかったし、こちらの世界では本そのものも見つけられず、結局一成の手に渡ることはなかった。それを知っているからこそ、この画集を持ってきてくれたのだ。
 天馬の気持ちが嬉しかった。あちらの世界で、ただ一成を思ってくれたという事実に胸が震えた。
 一成は深呼吸をしてから、そっと画集を受け取ると「ありがとう」と告げた。表紙はまさしく一成の記憶通りだったし、「BLUE LANDSCAPE」といタイトルも覚えていたものと一致する。これが思い出の画集であることは間違いなかった。だから、あらためて感謝の気持ちを伝えると、天馬は嬉しそうに笑った。
 その笑顔がまぶしい。一成のためにできることがあった、という事実を天馬が嬉しいと思っていることが伝わってくる。それを見つめる一成は、きゅっと眉根を寄せた。くしゃりと顔がゆがむ。泣き出しそうな表情で、震える声で、一成はつぶやいた。

「――テンテンの馬鹿」

 感謝の気持ちは心からのものだったし、天馬だってそれはわかっているはずだ。だから、続いた言葉は完全に予想外だったのだろう。しかも、一成の言葉に冗談の気配はない。思いつめたような表情で、今にも涙がこぼれそうな顔で言うのだ。
 天馬はうろたえた表情で一成を見つめる。天馬が困っていることはわかっていたけれど、一成はもうそんなことを気にしている余裕がなかった。今までずっとこらえていたものが決壊するように、一成の唇からは声が零れ落ちる。

「お願いだから、こんな無茶しないで」

 泣き出す寸前のような表情で一成は懇願する。天馬が何を言えばいいかわからずに口ごもっていると、一成は堰を切ったように言葉を並べる。

「オレのためにあっちの世界に行ったんだってわかってるし、すごく嬉しかった。だけど、テンテンがいなくなっちゃうんじゃないかって、怖くて仕方なかった。だって、違う世界に行くなんて、普通のことじゃないんだよ」

 馬鹿げた話でとうてい信じられない出来事が現実なのだと、一成は知っている。
 不思議なギャラリーに飾られた絵を通って、別の世界へ行くことができる。本当に世界を超えられる。自分で体験しているから、嘘でも何でもないとわかっている。だからこそ、天馬があちらの世界に行ったまま戻れない可能性を、誰より強く認識していたのだ。
 不可思議なことが起きるということは、何か特別な力が働いているはずだ。科学では説明できない現象なら、それこそ何が起きるかわからない。
 常ならばあり得ないことが起きるのだ。タイムリミットだけではなく、気まぐれ一つで店や絵が消えてしまうことだってあるかもしれない。もしかしたら、そのまま皇天馬という存在がまるごとこの世界から消えてしまう可能性だってあったのだ。

「――もうこんなことしないで」

 一歩踏み出した一成は、右手で天馬の腕をぎゅっと握った。すがりつくように、瞳をゆらゆらとさまよわせて、喘ぐように言葉を続ける。

「オレのためにしてくれたことだっていうのはわかってる。でも、テンテンがいなくなっちゃうなんてやだよ」

 天馬が好奇心だとか自分の目的のためにあちらの世界へ行ったわけでないことは、一成とてわかっている。これは全部一成のための行為だ。過去を捨ててきた一成の代わりに、自分が全てを受け止めてやるという決意で、天馬は世界を渡った。
 大きな目を潤ませて、一成はぽろぽろ言葉をこぼす。

「もっと自分を大切にして。無茶しないで。オレのためにしてくれたことは、すごく嬉しい。だけど、何が起きるか全然わからないんだよ。この世界から、テンテンがいなくなっちゃうかもしれなかった。こんな危険なこと、もうしないで」

 そこまで言って、一成はぎゅっと唇を結んだ。これは一成の心からの願いで、懇願だ。
 しかし、同時にわかっていた。天馬はきっと、危険を認識したうえでこの決断をした。どんな出来事が起きようと受け入れて、一成の過去を知ろうとしてくれた。天馬はそういう人間だ。いつだって真っ直ぐで、強くてやさしい。危険を知っても自分の信念に従って行動できる。
 わかっていたから、一成はとっくに気づいていた。天馬がこんなことをしたのは、危険を顧みず異世界へ飛び込んでいったのは、三好一成の存在が理由なのだと。
 だって天馬が何もかもを知ってあちらの世界へ行ったのは、一成のせいだ。一成がいなければ天馬はこんな無茶をしなかった。
 たとえば一成がもっと強ければ、過去がないことを気にしなければ。たとえ苦しくても天馬に弱音なんて吐かなければ、もっと上手に隠していれば。自分だけで全てを乗り越えられたら、天馬がこんなことをする必要はなかった。これは全部、自分のせいだ。

「オレ、これ以上テンテンの負担になりたくない」

 くしゃくしゃに顔をゆがめて、一成は言った。手から力が抜けて、腕を握る右手が外れる。声がみっともなく震えて弱々しいのは、これが罪の告白だと知っているからだ。自分のせいで天馬を危険にさらしたことの懺悔であり、次に待っているのは断罪のはずだった。
 こちらの世界に来た時点で、一成は天馬の世話になっている。カンパニーメンバーも当然力になってくれるけれど、一番は天馬だった。
 金銭的な援助ももちろんそうだし、一成が安心して暮らせるよう気を配っていてくれた。売れっ子役者として日々忙しくしているにもかかわらず、いつだって天馬は一成の味方だったし、どんな些細な話だって聞いてくれた。
 天馬はたくさんの時間を一成に使っていてくれたのだ。多忙な天馬の時間をどれだけ奪って、面倒を掛け続けていたのか。距離を取ったことで一成はそれを理解したし、だからこそ自立しなくてはと思っていたのに。
 結局一成は、こんな事態を招いてしまったのだ。一成のせいで危険を冒すなんて。別の世界へ飛び込んでいくなんて。天馬の負担になりたくないのに、今までの比ではない事態に巻き込んでしまった。その事実に一成は打ちのめされたし、どうしようもなく理解してしまった。

「オレは、テンテンのマイナスにしかなれない」

 天馬の役に立ちたかった。プラスになりたかったし、たくさんのものをあげたかったのに。一成は天馬から奪うばかりで、面倒を掛けて迷惑になるだけで、負担にしかなれないのだ。
 呆然とした調子でほとんど泣きながら告げると、天馬は目を丸くする。完全に予想外の言葉だったのだろう。
 戸惑った様子で一成を見つめて、一体どうしたらいいのか、とうろたえるような空気が流れる。しかし、それも数秒だった。天馬は大きく深呼吸をすると、すぐに真剣な表情を浮かべる。
 一成に真っ直ぐ相対して、じっと視線をそそぐ。紫色の瞳には、力強い光が宿っている。きらきらとしたまばゆさを一成に向けると、きっぱり言った。

「マイナスなんて、そんなわけないだろ。オレは一成から、たくさんのものをもらってる。お前がいるだけで、オレの人生はどれだけプラスになったかわからない」

 一成の言葉は、まったくの見当違いだ。どうしてそんなことを言うのか、という気持ちで天馬は言う。
 一成と出会わなければ、夏組との合宿はきっとあんなにスムーズに行かなかった。バラバラになりそうな夏組をつないでいたのは一成だったと知っている。明るい笑顔で、気遣っていることにも気づかれない軽やかさで自分たちを結びつけてくれた。
 公演を終えてからも、一成はカンパニーの力になってくれている。デザイン能力だけではなくWebにも強いし、一成がいなくては成り立たないものはたくさんあるのだ。もっと自分を誇ってもいいくらい。
 それに、一成といる日々は天馬にとって掛け替えのないものだった。一成の心が動いた瞬間を知ること、描いた絵を見せてもらえること。日常の些細な瞬間を分かち合って、嬉しそうに笑う顔を見られること。
 一成が幸せでいてくれるという事実を噛みしめれば、天馬の胸は喜びに満ちていったのだ。一成の見ているものはいつだってきれいで、一緒にいるだけで世界が輝いていくように思えた。
 そんな一成が「マイナスにしかなれない」なんて、天馬はきっぱり否定する。思いっきり首を振るし、「そんなわけないだろ」という答えしかないのだ。どんな嘘もごまかしもなく、心から思っている。
 一成は天馬の言葉に、戸惑ったような表情を浮かべる。他人の感情に敏感な一成なのだ。この場を取り繕うためのものでないことに、気づかないはずがない。
 天馬が本心から言っている、という事実を理解しているからこそ、困惑している。本当にそんなことを言ってもらっていいのか、そんな価値なんてあるのか、いぶかしんでいるのだ。

「一成がいてくれてよかったって、毎日思ってる」

 疑い全てを払拭するように、天馬は力強く言った。これは揺るぎない天馬の本心であり、紛うことない事実だ。
 一成はオレにとってたくさんのものをくれた。知らなかった世界を見せて、世界にある美しいものを教えてくれた。その事実を受け取ってほしい。願いながら、天馬はさらに言葉を続けた。届けたいことはもっとあった。
 一成がいてくれてよかった。一成と一緒にいられて嬉しい。心から思っているけれど、それは一成がプラスを与えてくれるからだけじゃない。
 たとえ、一成が何を天馬にもたらさなくたって、天馬は同じことを言う。プラスをくれるから一緒にいたいわけじゃないということだって、伝えたかった。だって天馬は望んでいるのだ。

「それに、オレは一成に負担を掛けてほしいんだよ」

 真っ直ぐ一成を見つめて、心からの言葉を告げる。一成は大きな目を瞬かせて、戸惑ったように天馬を見つめ返した。どうしてそんなことを言うのか、と思ったのだろう。
 天馬は深呼吸すると「あっちの世界で、一成の家に行った。家族と会って、お前がどんな風に生活してたのか見てきたんだ」と告げる。一成がびくりと肩を震わせたのは、思い出す記憶が決して快いものではないからだろう。
 その事実を痛ましく思いながら、同時に自分の中の決意がより強くなっていくのを天馬は感じる。その気持ちのまま、天馬は続けた。

「一成を大事にしたいって思った。他の誰でもない、オレが一番一成のことを大事にしたいって思ったんだ」

 向日葵畑で宿した決意は、時間を経て一成の過去を知ることでいっそうあざやかに胸に刻まれた。今まで過ごした世界が、一成の家族が一成を蔑ろにしてまるでなかったように扱うのなら。代わりに自分が、一成を宝物みたいに大事にするのだと決意したのだ。

「そのためにできることなら、何だってする。オレは一成の力になりたい。他の誰かじゃない。世界で一番、一成の力になるのはオレがいい。だから、負担ならいくらでもオレに掛けてくれ」

 嘘偽りない本心を、一成に向かって真っ直ぐ告げた。何一つ隠すことはなかったし、恥ずかしがる必要もなかった。負担を掛けると、何かの罪を犯したように言う一成に伝わってほしい、と思いながら天馬は言う。

「面倒なことは確かにあるかもしれないし、迷惑なんじゃないかって一成が感じることもあると思う。負担になるのも間違ってはいないんだろう。でも、それはオレがお前の力になれるってことだろ」

 天馬が多忙なのは事実だし、時間もリソースも有限だ。だから無限に応え続けることはできないし、負担がゼロだとは言えない。ただ、それは一成のためにできることがある、という事実と同義語だ。
 もしも一成が何一つ天馬に頼らなかったら。天馬は何もしなくていいと言ったなら。負担にはならないけれど、一成にしてやれることも何一つなくなってしまう。

「オレは、一成のためにできることがあるのが嬉しい。一成の力になりたいし、一成を幸せにしたいんだ。その役目は、他のやつに渡したくない」

 心から、天馬は思っている。向日葵畑の誓いから、一成の家からの帰り道で、より強固になった想いだ。
 一成の力になりたい。一成のためにできることがあるなら、何だってしたい。一成が頼るなら、一番に自分の名前が出てきてほしい。
 これは単なる自身のエゴだとわかっているけれど。一成が天馬に遠慮して、他の人を頼るなんて嫌だった。一成の力になるのは自分がいい。たとえ負担だろうと迷惑だろうと、それさえ喜びに変えられる。いつだって、どんな場面だって天馬を選んでほしかった。
 切々と訴える言葉を、一成はじっと聞いている。こぼれだしそうに大きな目で天馬を見つめていて、何一つ聞き逃すまいとする真剣さだ。天馬の心を全て受け止めるように、余すところなく包み込んでいようとするように。
 他人の心を慮って、寄り添っていようとする一成らしいな、と天馬は思う。じわじわと募る愛おしさを感じながら、天馬は宝石のような緑色の目を見つめて、心からの言葉を紡ぐ。

「世界で一番、一成を幸せにするのはオレがいい。誰より一番にオレを頼ってほしい。できることがあるなら、何だってしたい。だから、負担だって面倒だって迷惑だって、掛けるならオレにしてくれ」

 射抜くように強いまなざしで、抱きしめるような愛おしさを漂わせて、天馬は告げた。カンパニーメンバーなら誰だって力になってくれるとわかっている。天馬じゃなくたって、一成のために動いてくれるのは間違いない。それでも天馬は望んでいる。
 一成のためにできることがあるなら。一成の力になって、一成を幸せにするためなら。一番に天馬がその役を負いたかったのだ。