秋桜と揺れる日々




 一体これは何だ、と混乱しながら天馬は自室への道を辿った。
 たった今自分の心に湧いてきた感情。臣や綴、不在だった幸やさっきの太一に向けて思ったこと。
 きらきらとしたまなざしで、真っ直ぐな好意を向けるなら。嬉しそうな笑顔で真っ先に駆け寄ってくるのなら。楽しそうに親密に言葉を交わすのなら。その相手はオレがいい、なんて思ってしまった。
 これが嫉妬と呼ばれる感情だ、ということはさすがに自覚していた。ただ、どうして嫉妬なんてしてるんだ、と天馬はうろたえるしかない。
 一成が多くの人に受け入れられるのは喜ばしいことだ。尊敬できる相手がいることもそうだし、一成にとってこの世界がプラスになるのなら天馬にとって願った通りのことでしかない。だから、「よかったな」と言えばいいのに、そうできないことを天馬は自覚していた。

(一成の一番近くにいるのは自分じゃないと嫌だとか、友達を取られるなんて思ってるのか)

 言い訳のように胸中でつぶやく天馬は、自分の幼稚さに呆れるしかなかった。
 胸が騒いで落ち着かないのも、嫉妬してしまうのも、つまりはそういうことなのだと思った。一成の手を引いたのは天馬だ。この世界に来るきっかけになったのは自分だし、こちらでの生活では常に一成のことを気にしていた。
 義務感からではなく、一成の力になりたいと思っていろんなことをしてきた。そういうものの積み重ねで、一成の一番は自分なのだと当たり前のように思ってしまっていたのだ。
 だから、どんな状況でも天馬を一番にしてくれるだなんて。誰より天馬を優先してくれるだなんて。天馬の知らない顔を誰かに見せることはないなんて。思ってしまって、そうではない現実に嫉妬しているのだと思った。

(子供じゃないんだ、もっと冷静になれ)

 友達の一番じゃないから嫉妬しているだなんて、幼稚極まりない、と天馬は自分に言い聞かせる。たとえば幸に知られでもしたら呆れたように肩をすくめるだろうし、一成は本気で「テンテンかわいい~」なんて言うだろう。
 そんなかっこわるい姿は見せられない。自分の気持ちに整理をつけて、今度一成と顔を合わせる時にはもっと落ち着いていないといけない。
 そのためにはひとまず一人になりたい、と天馬は足早に廊下を戻る。とにかく頭を冷やすためには、一人になる必要があった。
 その一心で急いで部屋へ向かっていたからだろうか。思いがけない嫉妬という感情にうろたえていたからだろうか。
 速足で歩いていた天馬は、前をよく見ていなかった。階段を駆け上がろうとしたところで、部屋から出てきた真澄とぶつかった。

「っ、悪い」

 勢いよく衝突してしまったことにくわえ、その衝撃で真澄が手に持っていたものを落としたことに気づいてそう言う。ばらばらと廊下に散らばるのは、写真らしい。真澄が素早く拾い上げる様子に、天馬も大量に散乱した写真を拾い集める。

「――全部監督かこれ」

 思わず声がこぼれたのは仕方ないだろう。中身を見るつもりは特になかったけれど、一枚ずつ拾っていけば被写体は自然と目に入る。
 それなりの枚数があったけれど、全てに写っているのはまぎれもなく監督だった。一応許可は得ているようで、照れくさそうだったりぎこちない顔だったりするものの、視線はカメラに向いている。

「何枚あるんだよ……」

 ぼそり、と天馬はつぶやく。天馬が拾い集めたものだけでもなかなかの枚数だったけれど、真澄の手にも写真の束があるのだ。
 昨今は写真を撮っても、わざわざ印刷することは少ないだろう。にもかかわらず真澄は、厚さ数センチはありそうな枚数の写真を持っている。
 全て監督を撮影したものだったとしても驚かないというより、十中八九それが正しいのだろう。他の人ならいざ知らず、相手は真澄である。

「あいつのかわいさを形にするには、どれだけあっても足りない」

 天馬から写真を受け取った真澄は、不機嫌そうな表情でそう言った。天馬が呆れたように枚数へ言及したけれど、こんなものでは足りないと心底思っているらしい。鋭い目つきをして、抑揚のない声で続けた。

「実物が一番かわいいに決まってるけど、いつでも見返すのには写真が便利だから。写真なら充電も気にしなくていいし、かわいい監督をたくさん並べられる。もちろん、本物が一番かわいいけど」

 淡々とした言葉は、単なる事実を並べているだけといった雰囲気だった。熱狂的な様子ではなく、落ち着いているように聞こえるからこそ、よけいに真澄の真剣さがひしひしと伝わってくる。天馬は若干たじろぎつつ「まあ、確かに監督はかわいいが……」と答えた。
 途端に、思いっきりにらまれた。ブリザードでも吹き荒れていそうな冷たいまなざしだった。お前の発言に同意しただけだろ!と思ったものの、とっさに言い返せない程度に真澄の目は鋭かった。

「あいつが世界で一番かわいいのは事実だけど、そう思ってるのは俺だけでいい」
「そ、そうか……」

 監督がかわいいのは事実でも、天馬に同意はされたくなかったらしい。真澄はよりいっそう目つきを鋭くしてさらに問いかけを重ねた。

「もしかして、監督のこと世界で一番かわいいって思ってるの」

 真剣な目で問いかけられて、天馬は言葉に詰まる。
 監督がかわいいかかわいくないかと言われれば、ためらうことなくかわいいと言えた。いつだって芝居に真剣。舞台のことを語るまなざしはきらきらしていて、表情も豊かだ。天馬の心の傷にもやさしく寄り添って、真っ直ぐ言葉を掛けてくれた。いつだって天馬を信じて背中を押して、どんな時も見守っていてくれる。
 監督を思い浮かべれば胸が温かくなるし、力が湧いてくる。年上だけれどちょっと抜けているところもあるし、かわいらしい人だと思ったこともある。
 ただ、素直にうなずけなかった。うかつに肯定を返そうものなら、真澄に何を言われるかわからない、という面もあったけれど、それよりも。

「監督はいつでもきらきらしてるし、笑ってる時が特にかわいい。あいつが笑ってると、世界中がみんな輝いて見える。世界で一番かわいいのは監督」

 きっぱりと告げる真澄は、確信しきった表情を浮かべていた。
 監督という存在が、彼女が浮かべる笑顔が世界で一番かわいいのだと、疑ってもいないのだと伝える。真澄にとって監督がそういう存在であることを天馬は知っているし、それほどまでに特別に思っているのだ。

「監督がきれいでかわいいのは、俺だけが知ってればいい。他の男なんて、監督の視界に入らなければいいのに。俺だけを見て、俺を一番に思ってほしい。俺の一番はいつだって監督だから」

 そう言った真澄は、数秒だけ沈黙を流したあと「はあ、監督好き……」とつぶやく。熱っぽい溜息はいつも通りの真澄と言える。
 監督は他劇団の手伝いに出掛けていて、今寮にはいない。あらためて不在を認識したからなのか、真澄は「監督に会いたい」とつぶやいた。

「あいつの顔が見たい。会いたい。いなかった間の話がしたい。監督が俺を見つけて笑ってくれると嬉しい。あいつの笑顔は、世界で一番かわいくてきれい。そう思ってるのは俺だけでいいけど、天馬もそう思ってるの」

 鋭い目つきで投げかけられる言葉は、真澄から監督へ真っ直ぐ向かう心のあらわれだ。本当に心の底からそう思っているのだとわかっている。だからうかつなことは言えないと思ったし、本心を告げなければいけない、と天馬は自分の気持ちと向き合った。
 天馬から監督へ向ける好意は間違っていないけれど、真澄ほどの熱量を持っているかと言われるとためらってしまう。確かにかわいいと思うし、きれいな人だ。だけれど、世界で一番きれいでかわいいという言葉は、どうにもうなずけなかった。
 即答できない、という事実を答えの一種として受け取ったのだろう。自分のライバルではない、と認識した真澄はとたんに天馬への興味をなくしたらしい。落ちている写真がないことを確認したあとは、無言で廊下を去っていった。

 思わずその背中を見送った天馬の頭には、真澄の問いが頭の中でリフレインしていた。
 真澄にとって監督は「世界で一番かわいくてきれい」な存在だ。同じように思うかと尋ねられて答えられなかったのは、監督をかわいくないとかきれいじゃないと思っているからではない。
 実際とても魅力的な人だし、内側からあふれるような光を放っている。かわいく笑う顔も、しなやかな美しさも知っている。
 それでも、すぐにうなずけなかったのは、心が違うと言っていたからだ。

(世界で一番かわいくてきれいなら)

 真澄の言葉から自然と結びついた光景。
 辺りがオレンジ色に染まっていく中で、たおやかに揺れるコスモス。濃淡の違うピンク色が海のように広がる中で、誰よりきれいに笑っていた。きらきらとした光を宿して、何もかもをまばゆく照らし出すような。これ以上美しいものなんて、この世には存在しないんじゃないかと思った。

「あ、テンテン!」

 不意に名前を呼ばれて、天馬は振り返る。特別な呼び名に聞き間違えるはずのない声だ。自然と唇が緩むのと同時に、ぱたぱたと駆け寄ってくるのは一成だった。
 目をきらきらさせて、頬を紅潮させて。瞳をやわらかく細めて、どんなものよりもまばゆい笑みを浮かべて駆け寄ってくる。
 その様子に、自然と天馬は思う。コスモス畑の風景や、日常の中で垣間見える些細な瞬間。あらゆる全てをひっくるめて、当たり前の答えを導き出すように。――世界で一番かわいくてきれいなのはこの笑顔だ。
 疑問一つなくするりと浮かんだ言葉に、天馬は固まった。
 待て。真澄の質問に答えられなかったのは、つまり真澄にとっての監督は、オレにとっての一成ってことじゃないか。確かに世界で一番かわいくてきれいなのは一成の笑顔だと思うが――いや、待て待て。真澄のあれは、友情じゃなくて恋愛だろ。同じはずがない。
 必死で自分に言い訳をして、思い違いだと頭を振ろうとした。しかし、すぐに脳裏に浮かんだのはついさっき真澄が発していた言葉だった。

 ――俺だけを見て、俺を一番に思ってほしい。
 ――あいつの顔が見たい。会いたい。
 ――いなかった間の話がしたい。監督が俺を見つけて笑ってくれると嬉しい。
 ――あいつの笑顔は、世界で一番かわいくてきれい。

 真澄が監督に向けた言葉を、天馬は何の気なしに聞いていた。監督に対して同じことを思ったことはないから流していたのだ。しかし、真澄にとっての監督が自分にとっての一成だったら、と考えれば話は違う。
 ついさっきまで感じていた嫉妬の正体。自分が一番じゃないと嫌だった。同じ寮へ帰るのに、出先で会えたら嬉しかった。自分の知らない時間にどんなことをしていたのか聞きたかったし、聞いてほしいと思った。オレを見つけたら、真っ先に駆け寄ってくれたら嬉しい。
 何よりも、一成の笑っている顔以上にきれいなものもかわいいものも思いつかない。一成が笑っていると、それだけで何もかもが光り輝いて、言いようもなく胸が満たされて幸せになってしまう。
 さっきまで他人事だと思っていた真澄の感情が、突然身に迫ってきて天馬はうろたえる。かーっと顔中に熱が集まっていく。
 だってこんなの、この気持ちは。この感情に名前をつけるなら。答えは一つしかないと天馬は理解していた。
 だって、真澄から監督への恋心はカンパニーメンバー全員知っている。その気持ちと同調してしまうなんて。真澄から監督に向ける感情と同じものを一成に抱いているなんて。

 こんなの、恋してる以外に答えはないじゃないか!

 はっきり自覚した天馬の顔は真っ赤に染まる。だらだらと汗が流れて、一体どうしたらいいのかと天馬は廊下へ立ち尽くすしかできない。その様子は、明らかに不審だったのだろう。

「テンテン? どしたの?」

 目の前までやってきた一成が、天馬の目の前でひらひら手を振る。のぞきこむような上目使いに、小首をかしげる様子が目に入って天馬の心臓は驚くくらいの音を立てた。
 どっどっ、とせわしなく鼓動を刻む音が耳にこだまして、やけにうるさい。目の前の一成がやたらときらきらして、かわいく見えて仕方なかった。
 こんなにかわいかったか!?と思いながらも、天馬は上ずった声でどうにか言葉を絞り出す。黙ったままでいたら、一成が不安に思うかもしれない。

「いや、何でもない。それより、どうしたんだ。何か用事か?」
「テンテンと話したくて! 帰り道あんまり話せなかったし、談話室でもいなくなっちゃったから……」

 はにかむ笑みで答えられて、天馬の心臓は休まる暇がない。
 どうやら一成は、寮までの帰り道でほとんど話ができなかったことを気にしていたらしい。さらに、談話室に天馬がやってきたこともすぐにいなくなってしまったことも気づいていた。恐らく、話が終わった段階で急いで天馬を追ってきてくれたのだろうと察しがついた。

「あのね、今日の講義の話とか聞いてほしくって! いろいろ面白いこととかあって、テンテンに話したいな~って思ってたんだ。あ、でも、テンテンが忙しいとかなら全然平気だよん!」

 くるくると表情を変えながら告げられる言葉に、天馬の胸はきゅうっと締め付けられた。ついさっき自覚したばかりの恋心が暴れ出しそうだった。
 だって今、一成は何て言った? オレと話がしたいと、わざわざ追いかけてきてくれた。今日あったことを話すなんて、誰相手にしたっていいはずだ。談話室にいた誰かだって問題なんかないのに、わざわざオレのところに来てくれた。
 その事実に天馬の胸は否応なく弾む。舞い上がるような気持ちで「いや、大丈夫だ」と答えれば一成は嬉しそうに笑った。それから、「今日は日本画の回だったんだけど、全然上手く行かなくてめちゃ燃えたんだよねん!」と続ける。
 日本画ならではの画材を使うことは初めてで、思うようにいかなかった。だからこそ、勉強熱心な一成の心に火がついていっそうやる気になったのだという。
 そういうところが一成らしいな、と思うし、次はどうしたらもっとよくできるかとあれこれ考えているらしい。岩絵の具だとか膠だとかの話を楽しそうに語る様子が、天馬には嬉しい。

「完成したらテンテンに見てほしいな」

 講座で絵を完成させたら天馬に見てもらいたい、と一成は言う。他の誰でもない天馬に自分の絵を見てほしいなんて言われて、天馬は浮き立った気持ちでうなずいた。

「ああ、オレも一成の描いた絵が見たい」
「マ!? それじゃ、オレもっと張り切っちゃうかんね!」

 きらきらしたまなざしで続く言葉に、天馬の胸は言いようもない感情で満たされていく。
 一成が絵を見てほしいと言ってくれたこと。わざわざ天馬を追いかけてきてくれたこと。天馬に話がしたいと言ってくれたこと。全てが胸を甘くくすぐるのは、一成にとっての天馬は特別な存在なのだと教えてくれるからだ。
 他の誰かとは違う。天馬のことを一成は特別視してくれている。その事実は圧倒的に天馬の胸を満たしたし、優越感を覚えていた。オレは一成の特別なんだ、とうぬぼれではなく思えたからだ。
 一成への恋を自覚した天馬だからこそ、よりいっそう強く甘く、特別な位置に自分がいるという事実に酔いしれるような気持になったのは事実だ。

「ほんと、テンテンにはお世話になってばっかりだよねん。テンテンがいてくれるとめっちゃやる気になっちゃうし、いーっぱい恩返ししないと!」

 軽やかな響きで、一成は言う。心からの言葉だと響きが伝えていたから、「そんなことしなくていい」と答えようとした。しかし、天馬の唇は開きかけたままで固まり、声になることはなかった。恩返し、という言葉にぎくりと体がこわばったのだ。
 冷や水を浴びせかけられたように、顔に集まっていた熱が引いていく。せわしなく鳴っていた心臓は、さっきとは別の意味でめまぐるしくなっていった。恋心から来る早鐘ではなく、焦燥めいた鼓動が体中を巡っていた。
 だって気づいてしまったのだ。自覚したばかりの気持ちに舞い上がって、特別なんだと浮き立っていた。だけれど、一成の言葉で気づいた。特別? そんなのは当然だ。だって、一成をここに連れてきたのはオレだ。

 あちらの世界からこちらへ来い、と天馬が手を引いたから一成はここにいる。こちらでの生活が充実したものであることは、天馬も理解している。「ここにいられてよかった」と一成は言ってくれたし、こちらで過ごす生活が幸せだと嘘偽りなく告げてくれた。
 実際一成は、毎日楽しそうに日々を過ごしている。やることは多くあって忙しいとはいえ、どれもが一成の心を弾ませているのだろう。きらきらと楽しそうな表情が天馬には嬉しかったし、そんな毎日を与えられたことに誇らしさも感じていた。
 一成をサポートするのは天馬にとって当然だったから、いつでも目を配って助けが要るならすぐに手を貸した。必要な物があれば「あとで返せよ」なんて冗談で言いながらお金も出しているし、一成の生活全般の面倒を見ている自覚もある。
 それら全てを指して、一成は天馬のことを「恩人」だと言っていてくれた。何度も感謝の言葉を伝えて、天馬がいてくれてよかったと告げてくれたのだ。
 こちらへ来るきっかけになったこと。毎日をサポートしていること。気に掛けて、いつでも力になろうとしてくれること。伝えられる言葉から、天馬は自分が一成の助けになれていることを何一つ疑わない。
 それに、天馬は一成にとって唯一過去につながる人間だ。他の誰もが知らないものを、天馬だけは知っている。一成と過去の話ができるのは、きっと天馬だけだ。
 その事実をあらためて認識した天馬は、呆然としながら思った。

 ――こんなの、特別になるなんて当たり前じゃないか。

 浮き立つような気持ちではなく、頭を殴られるような感覚で思っていた。
 オレは確かに一成の特別だ。こっちへ来いと手を引いて、親身になってサポートをして、一成の居場所を作った。そうしてきたという自負があるからこそ、天馬を特別に思うのは至って自然だと理解していた。

(だけど、だからこそ、オレは)

 にこにこ笑顔を浮かべる一成を、天馬はじっと見つめる。
 まっさらな信頼を寄せてくれていて、今日はこんなことがあったのだと、嬉しそうに教えてくれる。まるで幼い子供が、親に向かって報告するような無邪気さだ。もしかしたらそれは間違っていないのかもしれない、と天馬は思う。
 この世界に呼んだきっかけで、率先して面倒を見ているのが天馬なのだから、一成にとって天馬は保護者のような感覚なのかもしれない。

「――テンテン?」
「ああ、いや、何でもない。別に恩返しとかは気にしなくていいが……そうだな、一成の話を聞かせてくれ」

 一成の呼びかけに、はっとした顔で天馬は答える。一成は嬉しそうに笑って「膠をどれくらい混ぜたらいいかとか、そもそも画材として使えるようにするまでが大変でさ」と、今日の話をあれこれしてくれる。天馬はあいづちを打ちながら、そっと思っている。
 オレは確かに、一成の特別だろう。うぬぼれでも何でもなく、ただの事実としてそうなのだ。今ここに一成がいることの発端で、日常を過ごすのに大きな貢献をしているのは間違いない。だからこそ。

(一成が好きだなんて、恋をしてるだなんて、打ち明けちゃいけない)

 ついっさき自覚した恋心。一成に特別だと思われているという事実に舞い上がったけれど、「恩を返したい」という言葉で我に返った。

(オレが一成を好きだと言ったら、きっと一成はうなずく)

 一成が天馬に好意を抱いてくれていることを疑ってはいないけれど、それは果たして恋だろうか。もしも違っていたとして、一成は首を振れるだろうか。
 だって天馬は一成の恩人だ。本人もそう言っているし、何度だって感謝も伝えてくれている。そんな人間が思いを告げて、一成は断れるだろうか。
 意図しての行動ではなかったけれど、今の関係性にはどうしても不均衡な立場ができてしまうことを天馬は思い知らされた。
 一成はそんなことを思っていないのかもしれない。だけれど、今の天馬が思いを告げたら、きっと一成は断れない。もともと、人の気持ちを尊重する人間だからノーを言うことが得意ではない性質ということもあるけれど、それだけではない。
 どうしたって天馬は恩人という立場なのだ。居場所を与えて、面倒を見るという関係性は否が応でも作られてしまった。もちろん二人の関係は対等だと思っているけれど、状況はそれを許さない。
 今の天馬が思いを告げれば、必然的に恩人という立場を笠に着ることになる。対等な関係になる前に告白するのは、どうしたってずるい行為だ。

「先生の絵はやっぱりすごくてさ。日本画で奥行き出すのは難しいんだけど、そんなのわからないくらいで。オレもあんな絵描きたいな~って!」

 頬を紅潮させた一成は、日本画に対して強く興味を引かれたのだろう。今まで水彩画や油絵は描いたことはあったものの、日本画は初めてだったはずだ。きっとこんな風に、一成は新しいものと出会っていくのだ、と天馬は思った。
 勉強一色に塗りつぶされていた一成の今まで。隙を見ながらどうにか絵を描いていた。しかし、こちらの世界に来てからの一成は好奇心に導かれるように、様々なものと出会っていった。
 芝居から始まり、デザインやWeb制作、SNSでの積極的な発信、仲間たちと過ごす掛け替えのない時間。今まで知らなかったものを取り戻すように、一成は初めてと出会っていく。
 これから先、一成の世界はもっと広くなるのだと天馬は思う。これまでの家族と学校しか知らない閉じられた世界ではなく。
 たくさんの人やものと触れ合って、一成の世界は大きく広くなり、力強く羽ばたいていく。そういう世界に送り出すのが自分の役目だ、と天馬は静かに思う。
 だからきっと、好きだなんて言ってはいけない。
 一成はうなずいてオレの隣にいてくれるかもしれないけれど、それじゃだめだ。手を引いたきっかけで面倒を見てくれる相手を特別にしてくれなんて、一成の世界を狭めるだけだ。オレ以外の選択肢を奪って、自分勝手にオレのところに縛り付けるのと同じじゃないか。
 そんなことを選びたくなかった。一成にはもっと広い世界で生きていてほしかった。だから天馬はそっと決意する。嬉しそうに、わくわくした表情で、日本画を完成させるのが楽しみだと告げる一成を見つめて。

(好きだとは言わない。この気持ちは、一成に伝えたらだめなんだ)

 深く静かに宿した決意を、天馬はそっとなぞっている。