水仙の咲く頃に
いつもより遅い電車に乗る一成は、座席にもたれかかるように座って、大きく息を吐き出す。
アルバイト先のデザイン事務所は、天鵞絨駅から数駅離れた所にある。公開講座がない日はほとんど毎日通っているのでずいぶん慣れてきたし、任される仕事も増えてきた。今日は少し残って作業した結果、いつもより帰る時間が遅くなったのだ。
仕事自体はやりがいもあるし、デザイン会社の人もみな気さくだ。とはいえ、業務が増えれば純粋に疲労へつながっていく。
さらに、公開講座も最終回を間近に控えており、大きな課題の制作を行っていた。一成は日本画を完成させる予定で、寮に帰ってからも制作に取り組んでいる。
くわえて、公開講座の修了にともなって画塾の話も本格化していた。監督たちにも相談した結果、ひとまずは体験入学ということになりこちらの準備も必要だ。
もちろん、MANKAIカンパニーでの日々の業務も滞りなく行っている。SNSの更新はすっかり毎日の習慣になっており、フォロワーはずいぶん増えた。投稿すればたくさんの反応をもらえるようになっているし、冬組タイマンACTへの機運も上々だ。
ここがMANKAIカンパニーの正念場だと、誰もが理解している。冬組は毎日遅くまで稽古に励んでおり、初日の幕が上がるのを待つばかりだ。カンパニーの誰もが自分にできることを行うのだと意気込んでいるし、一成とて例外ではない。
そういうわけで、一成の毎日は目まぐるしく過ぎていく。カンパニーの仕事に、公開講座、画塾の準備、アルバイト先の業務。やるべきことが山積みで、寮に滞在する時間自体が減っていたし、たとえ寮にいても常にばたばたと動き回っているような状態だった。
恐らくそれは天馬も同じなのだろう。もともと忙しい人間だったけれど、最近では連続ドラマ以外に映画撮影も始まっており、朝早く出かけて夜遅く帰ってくる生活になっている。同じ寮に住んでいるとは言っても、ほとんど顔を見ていなかった。
(――忙しいからって、理由つけられるだけマシかなぁ)
ぼんやりしながら一成は思う。天馬から「距離を取ろうと思う」と告げられて以降、一成もその通りに過ごしている。自分以外と接点を持ってほしい、という天馬の望みを叶えたかったということもあるし、自分の恋心をどうにかして消し去りたいがゆえの行動だ。
だってそうでなければ、きっと一成は時間を見つけて天馬と話をしようとしただろう。わずかでもいいからと、天馬と何でもない話をして「一日頑張ろうね」なんて言っていただろうし、些細なメッセージを送っては何てことないやり取りをしていたはずだ。
しかし、今の一成はもちろんそんなことはしていない。朝、運よく顔を見られたら「おはよん、テンテン!」と元気に挨拶はする。天馬も嬉しげに「ああ、おはよう、一成」と答えてくれるし、その笑顔だけで一日頑張れちゃうな、なんて一成は思う。
今までならきっと、そのまま「今日は何するの?」だとか話をして、昨日あった面白い出来事なんかを天馬に報告する。しかし、距離を取ると決めたのだ。近しい位置で、心を渡し合うような話をするべきではない、と二人は思っているから、世間話程度の話をすればそのまま別れる。
事実として多忙なのだから、不自然なことではない。天馬は迎えに来た井川の車にすぐ乗らなくてはいけないし、一成だって用意ができたら出勤しなければならないのだ。
ただ、そうでなくてもこうするのだと決めていた。距離を取って、もっと広い世界に出て、天馬以外との接点を持つ。そのためにはこれ以上近寄ってはいけないのだ。
本当はもっと話がしたかったし、こんなことがあったのだと天馬に言いたかった。何に心を動かされたのか、見つけたきれいなものや楽しいものを、少しでも天馬と分け合いたかった。
しかし、そうしないと決めたのだ。自分の恋心は天馬の負担で迷惑だ。天馬と長く接していたら、いっそう気持ちは大きくなる。天馬との時間を過ごせば過ごすほど、恋心はあふれていって、この心は消えてくれない。だから、今のように接触せずに距離を取ることが一番なのだ。
(これでいいんだよね。こうするのが、テンテンのためにもなる)
自分自身に言い聞かせた一成は、帰宅してからやるべきことを意識して考える。距離を取っても、天馬のことをずっと考えてしまっては意味がない。他のことを考えられる、という意味でも多忙であることは救いにもなっていた。
課題用の日本画や画塾の準備、SNSの投稿内容、Webサイトの更新案。頭の中に浮かぶものを具体的な形に落とし込んでいると、電車はゆっくりスピードを落としていく。駅に着いたのだ。
窓の外へちらりと視線を向けると、天鵞絨駅の隣の駅名が目に入った。以前、思考に没頭しすぎて降り過ごしたことがあるので、気をつけないと、なんて思っている。
電車は乗り降りする人たちを入れ替えると、再び走り出す。一成は天鵞絨駅を通りすぎないよう、意識的に思考の集中度を下げるため、車内の様子に目を向けた。
空席はないものの、満席というほどではない。ちらほらと立っている乗客がいて、一成の前にいるのは制服姿の高校生だった。漏れ聞こえる会話から、予備校帰りの高校生だと察する。さっきの停車駅には、そういえば大きな予備校があったな、と一成は思う。
「模試つっても、ここで判定悪いとやべーから緊張する」
「結果見て、志望校ギリで変えるとかあるしなぁ」
「模試なのに緊張やばい」
高校生たちは間近に迫った模試について、あれこれと言葉を交わしている。スマートフォンのアプリで英単語や時事ネタを確認しながらの会話は、受験生ならではだろう。挙げられる志望校から、それなりの偏差値の高さがうかがえる。
「まあ、東大組よりは多少気は楽だけど」
「それな。併願できるし多少は余裕あるっつーか」
「東大組なんか空気違うよな」
BGMのように流していた、目前で交わされる会話。しかし、耳へ飛び込んだ言葉に一成の体に力が入る。どっどっ、と心臓の動悸が速まった。じんわりと額に汗が浮かぶ。自分と何ら関係のない話題であることはわかっているのに、東大という言葉に受験時代の記憶がよみがえる。
幼い頃から、東大に進むのが当然だと言われ続けていた。親戚一同を見渡しても、東大出身者しか目に入らない環境だったのだ。それ以外の道が許されていないことは、小学校に入る頃には理解していたし、自分も東大に進学するのだと漠然と思っていた。
ただ、実際に受験勉強を始めれば、決して簡単ではないことも身に染みて感じるようになった。
決して成績は悪くなかった。難関私大であれば充分合格圏内だと言われていたものの、東大となると話は違う。そもそも、国公立大学の受験科目とはあまり相性が良くなかったのかもしれない。それとも、常に一位を取り続けることへのプレッシャーが大きくなりすぎていたのかもしれない。
もともと、塾や課題に追われるような生活をしていた。高校に入ってからは、本格的に受験が近づいてきたからだろう。いっそう顕著になり、朝から晩まで勉強してばかりだった。
外聞のために学校へはちゃんと通っていたものの、授業中にも課題を進めることがほとんどだった。学校の試験では高得点を取れていたから、教師もあまりうるさいことは言わなかった。休み時間に雑談するなど持ってのほかで、クラスメイトたちと会話した記憶はほとんどない。
学校が終わればそのまま予備校に向かい、授業を受ける。帰宅後は予備校や家庭教師の課題をこなすため、再び机に向かった。課される量は膨大で、いくら時間があっても足りなかった。
睡眠時間を削っていたからだろう。課題の最中に眠ってしまうことが増えて、母親が監視の役目を負うようになった。仕事から帰宅した父親がくわわることもあったし、そのまま試験結果を問い詰められることもあった。
――どうしてお前は一位が取れないんだ。
――本当にあなたはだめね。お姉ちゃんとは大違い。
持てる時間の全てを使っても、とうてい姉には敵わなかった。学校の試験すら全教科で一位も取れないし、定期的な模試の結果も東大判定は芳しくない。まだ受験までは時間があるとはいえ、同じ時期の姉はずっとA判定を取り続けていたのだ。比較すれば、確かに一成は出来損ないなのだろう。
毎日積み上がっていく課題に、伴わない結果に、一成は精神的にも身体的にも疲弊していった。それでも、暴力を振るわれるわけでもないし、食事を抜かれるわけでもないのだ。雨の日には送り迎えもしてくれたし、結果を出せない自分が悪いのだと思いながら一成は机にかじりついていた。
高校生活の全てを受験勉強に捧げたといっても過言ではない。学校の思い出はほとんどなく、一成の記憶にあるのは予備校と自室の机ばかりだ。
そうして実際に受験が近づいてきた頃、一成は毎日緊張と吐き気で倒れそうになっていた。自分の実力なんて、自分が一番わかっている。日に日に合格へのプレッシャーが大きくなり、一成はずっと逃げ出したくてたまらなかった。
今頃の時期は、最初に比べて模試でもそれなりの判定が出るようにはなっていた。ただ、当然姉のように盤石な結果ではなかったから、両親からは強い言葉を浴びせられるだけだった。
「もっと頑張りなさい」「努力が足りない」と言われ続けていたけれど、できることなら何でもやったのだ。それでもこの結果が全てだったし、いざ受験当日を迎えたところでどうなるかなんてわかっていた。
受験会場である大学の門をくぐった時の絶望感を、一成は今も覚えている。
前日は早くに布団へ入ったけれど、緊張して上手く眠れなかった。今日が終わったら一体どうなってしまうのか。幸福な未来なんて、とうてい思い描けなかった。いざ試験が始まって、答案用紙に向かい合った時は緊張がピークに達していて、鉛筆を上手く握ることさえできなかったのだ。
受験にまつわる記憶が怒涛のように押し寄せる。目の前が真っ暗になったような気がした。呼吸が上手くできない。あの頃のような吐き気が襲ってきて、一成はとっさに口元を手で押さえた。
高校生たちの会話は、自分と何一つ関係がないとわかっているのに。受験と東大という言葉が、勝手に昔の記憶と紐づけられてしまう。
寝る間を惜しんで、ただ勉強だけに邁進した日々。ほんの少しの息抜きは絵を描く時間だけ。しかし、中学時代はかろうじてできていたことも、高校時代には不可能になった。両親の監視のもとで、自由になる時間はない。勉強することだけが、一成が生きていてもいい理由だった。
――休むなんてこと、あなたに許されてるわけがないでしょ。
――お前は出来損ないんだから、これくらいの努力は当然だ。
頑張らなければ。努力しなければ。心休まる時間なんて。好きなことを選んでいいなんて。そんなものは、きちんと成果を出せる人間にだけ与えられた特権で、何一つ満足にできないオレには与えられない。受からなければ。ちゃんと東大に入らなければ。オレは生きている価値もないのだ。
ノイローゼになりながら、受験までの日々を過ごしていた。あの時の記憶が脳内にぶちまけられて、一成は混乱する。電車の中で吐きそうだった。思い出す。苦しい。心臓の音が頭に響く。逃げたい。焦燥感と恐怖で、一成はほとんどパニック状態になりかけていた。
しかし、そこで電車がゆっくりとスピードを落としていることに気づく。
救いを求めるように視線を動かせば、見慣れたホームに電車が入っている。駅名が目に飛び込む。天鵞絨駅。一成の帰る場所。一成が今いる場所。
天鵞絨町だ、と思った一成ははっとした表情を浮かべる。そうだ、ここならオレは。受験をしなくていい。東大に入れなくても、期待に応えられなくても。オレはここで絵を描いていい。
すがるような気持ちで、一成はふらふら立ち上がる。電車が止まるのを今か今かと待ち構えて、扉が開いた瞬間、一成は転がるようにホームへと飛び出した。
◆
駅に設置されたベンチで少し休んでから、一成は改札を出た。幸い時間が経てば落ち着いたので、急ぎ足で寮までの道を辿る。いつもより遅くなってしまったから、早く帰りたかった。
ビロードウェイは夜でもにぎわっている。ストリートACTをしている人たちもちらほらいて、一成は自然に「お芝居がしたいな」と思う。
天馬に出会うまで、一成の世界に演劇なんてかけらもなかった。しかし、今の一成にとってお芝居は絵を描くのと同じように大好きなものだ。
夏組のみんなと舞台に立ったあの瞬間の胸の震えは、いつまでだって刻まれている。絵以外にこんなに楽しいことがあるなんて、MANKAIカンパニーに所属しなければ一成は永遠に知らないままだった。
頭に浮かぶのは、MANKAI寮で過ごした日々であり、カンパニーメンバーだ。
天馬を筆頭とした夏組に監督。迎え入れてくれた春組、新しい仲間になった秋組、今カンパニーのために先頭で戦おうとしている冬組。
もしも今回のタイマンACTで相応の結果が出なければ、MANKAIカンパニーは解散しなくてはならないのだ。そんなことになったら、みんなと離れ離れになってしまう。MANKAIカンパニーで出会った人たちは、みんな大切な仲間だ。そんな彼らとの別れなんて、絶対に阻止しなくては。
あの温かな場所を守るのだ、と一成は決意を新たにする。タイマンACTに全力で取り組むのだと、やるべきことを頭に描き出していく。
ストリートACTでも、やりようによってはタイマンACTの援護ができるかもしれない。冬組の世界観を連想させるようなそんな芝居はどうだろうか。
たとえばこんな夜にふさわしい、情緒的なものであれば冬組の芝居へつなげることができるかもしれない。夏組の雰囲気とは違うけれど、天馬や三角の演技力なら問題ないだろうし、他の組も参加すれば違った味わいになるだろう。
客層としても一定の年齢に訴えかけるようなものが好ましいかもしれない。夏組はどちらかと言えば年齢層は低めだけれど、もう少し大人びた年配の観客も想定するべきか。ストリートACTでも、その辺りの集客をしているのはどんな芝居だろうか。
そんな気持ちで、ストリートACTに集まる人たちに目を向けた一成は、ぎくりと体をこわばらせた。五十歳前後の男性と女性、それから若い女性。漂う雰囲気や背格好が、記憶の中の両親と姉に重なった。
――だめだ。
何の脈絡もなく、頭に言葉が浮かんだ。だめだ。こんなところを見つかったら。芝居がしたいなんて。そんなことがバレたら、恐ろしいことになる。
電車の中で思い出してしまった受験時代の記憶が、あちらの世界で過ごした日々が襲い掛かってきて、一成の体は固まったまま動かない。縫い付けられたように足は道路に張り付いて、一歩も動けなかった。
頭では無関係だとわかっていても、似た姿は勝手に家族の姿を連想させる。
絵を描くことを許さなかった両親、自分には興味のなかった姉。そんな彼らが、芝居をしたいなんてこと認めてくれるはずがない。小説だって名作と言われるものはかろうじて許されたものの、作り物の話に何の意味があるのかと言われていた。
勉強の役にも立たない芝居なんて、ただ心を震わせてくれるものなんて、家族にとっては何の意味もない。外聞を気にして家の外では隠していたけれど、一歩家に入れば娯楽の全てをくだらないと、劣ったものだと見下していた姿を知っている。
一成が芝居をしているなんて知られたら。ストリートACTをしている姿を見られたら。夏組のみんなと舞台の上に立っていたことを知られてしまったら。
きっと何もかもが壊される。きらきらと輝いていた全てが、一つ一つ丁寧に抱きしめたい何もかもが、ぐちゃぐちゃに壊されてなかったことにされるんだ。
思い出すのは、向日葵畑を描いた絵だった。家族に内緒でギャラリーに通って、天馬とたくさん話をした。大事で大切な、掛け替えのない時間だった。天馬の願いを叶えたくて絵を描いた。天馬にプレゼントできるよう、隠れて懸命に筆を走らせた向日葵畑の絵。見つかった時に何が起きたか。
――これだからお前は出来損ないなんだ。絵なんか描いてどうしようもない。
そう言って、父親は一成の描いた絵をびりびりと破り去った。ずっとそうだった。くだらないものだと、劣ったものだと、見下したものはいつだって捨てられる。両親にプレゼントした絵も、それまで描き溜めていた絵も、一成が心を込めたものたちはみんな意味のないものだった。捨て去ることが当たり前だった。
――あなたなんて、生まなきゃよかったわ。
母親は平然とそう言って、一成はどうしようもなく悟ったのだ。東大に入れなかった。何一つ期待に応えられなかった。その時点で、自分にはどんな価値もない。合格発表の日から、一成の存在は家族の中でないものになったのだ。具体的な危害をくわえられることはなかったけれど、失敗作の不要な存在として扱われていた。
オレが心を震わせるものなんて。オレが大事にしたものなんて。家族にとってはゴミ同然で要らないものなのだ。きっとみんな捨てられる。奪われる。壊される。
両親や姉を連想させる姿に、一成は怯えた表情で立ち尽くすしかなかった。理性ではきちんと、目の前の人たちは無関係だとわかっているのに。まるで今ここに両親がいるように思えて、怖くてたまらなかった。
ここは天鵞絨町で、両親はどこにもいないのに。大事なものが、大好きなものが、再び壊されてしまうんじゃないかと思った。要らないのだと大きくバツ印をつけられて、否定されて、びりびりに破いて捨てられる。なかったことにされる。
あの時の記憶はあまりに強烈で、奥底にまで刻み付けられていた。だから、家族に似た姿を見ただけで、一成の心は簡単にあの頃に戻ってしまう。どうすることもできなくて、一成は暗闇に飲み込まれて立ちすくんでいる。
しかし、そんな一成の意識を現実に引き戻す音があった。スマートフォンが、連続でメッセージの受信音を鳴らしたのだ。
はっとした一成は、無理に体を動かしてポケットを探った。取り出すと、LIMEにメッセージが届いていた。差出人は三角で、帰りの遅い一成を心配してのものだった。
――かず、何時くらいに帰ってくるのかな~? 今日は、さんかくの夕ご飯だよ
ふわふわとした声が聞こえてきそうなメッセージに、一成の体から力が抜ける。暗闇だらけの場所に光が差し込んだような気がした。
――今日は、さくやと作ったんだよ~。かずにおいしく食べてほしいねって、がんばった!
続いたメッセージとともに送られるのは、数枚の写真だった。
予想通りの三角形おにぎりだったけれど、スタンダードな白米ではなかった。ケチャップライスを握って卵で巻いた、オムライスおにぎりが写っている。奥にはミネストローネスープやサラダもあり、今日は洋食らしい。
咲也はナポリタンが好きだと言っていたことを思い出して、もしかしてこれは、二人の好きなものと好きなもののコラボなのかも、と一成は思う。そう考えると、こわばった体がゆるゆるとほどけていく。唇には、ほんの少しだけ笑みのきざしが浮かんでいた。
単純に自分の好物を作ったのだと言うこともできるけれど、三角と咲也の人となりを知っている一成は、きっとそうじゃないんだろうな、と思っていた。
二人はとてもやさしくて、人の孤独や悲しみに敏感だ。そっと寄り添ってそばにいようとしてくれる。だからきっと、一成の元気がないことに気づいて励まそうとしてくれたのかもしれない、と思う。
最近忙しくてばたばたしているので、毎日は慌ただしい。天馬と距離を取ることにして自分の心をどうにか殺そうとしているのは、思いのほか精神的も負荷がかかる。そういった諸々ですっかり疲弊してしまっていることに、二人は気づいているのかもしれない。
それに、咲也も三角も家族との縁が薄いと言っていい。咲也は両親を早くに亡くして、親戚の家を転々としていた。三角は家族と折り合いが悪いようで、あまり家族との思い出がないようだ。そういう経緯もあって、家族の話が一切出ない一成のことをずっと気にしてくれていた。
そんな彼らだからこそ、一成を元気づけるために自分たちの好きなものを用意して待っていてくれるのかもしれない、と思えた。きっとそれは、間違っていないだろう。
カンパニーには、心やさしい人たちばかりが集まっているのだ。家族もいないし素性も知れない一成のことだって温かく迎え入れてくれた。冬組に入った密も似たような境遇で、さらには記憶喪失だ。しかし、遠ざけるようなことはせず、当たり前のように受け入れている。
その密本人も、自分の境遇よりも一成のことを気にしてマシュマロをくれることもある。東がくわわることもあるし、家族のいない寂しさを感じることがほとんどないのは、カンパニーの仲間がいてくれるからだ。
どんな過去があっても、過去がなくても。変わることなく包み込んで、大事にしようとしてくれるのがMANKAIカンパニーなのだと知っている。だから、そんなやさしい場所に帰ろうと思えば、一成の足はようやく道路から動いた。
一歩ずつ踏みしめながら、一成は寮までの道を歩く。みんながいてくれるMANKAI寮。「ただいま」と言えば「おかえり」と返してくれる。あそこなら、ちゃんと息を吸える。あそこなら、オレはオレの好きなものを大事にできる。
思いながら、一成は夜道を進んだ。MANKAI寮のことを考えれば、踏み出す一歩は力強い。この世界に家族はない一成にとって、カンパニーメンバーは家族のようなものだ。あの場所にはみんながいてくれるのだ、という気持ちで一成は歩く。
(それも全部、テンテンがいてくれたからだ)
一歩ずつを踏みしめる一成は、あらためて思っている。MANKAIカンパニーという場所が大事になればなるほど、きっかけになったのが天馬だという事実を噛みしめる。
本当は、天馬に今日の話をしたかった。受験時代のことや家族のことを思い出して足がすくんでしまった。未だに自分は過去にとらわれて動けないのだということを認識してしまった。
だけれど、どうにか歩き出すことはできたのだ。みんながいてくれたからだし、MANKAIカンパニーが力になったのだと言いたかった。テンテンのおかげだよ、と伝えたかったし、そしたらきっと天馬は嬉しそうに笑ってくれるだろう。その笑顔を見れば、一成はきっともっと強くなれる。
しかし、一成は天馬と距離を取ると決めたのだ。天馬の存在に助けられているとはいえ、頼ってばかりではいけない。だから、天馬に話はしない。ちゃんと一人で立ち直るんだ、と決意する一成は、もうすぐ見えてくるMANKAI寮に思いを馳せた。