水仙の咲く頃に





 撮影を終えた天馬は、スマートフォンを取り出した。今日の撮影は全て終わって、あとは帰るだけだ。ただ、その前に少し自由時間が取れたので、周辺を歩き回ることにした。
 今日のロケは大きな公園に設置された移動遊園地で、一成が好きそうだと思ったのだ。天鵞絨町からそこまで遠いわけではないので、設置期間中に夏組で訪れるということもできるだろう。
 一成に宣言した通り、距離を取ることには成功している。単純に忙しいからという理由が大半ではあるものの、一成はちゃんと天馬の意図を汲んでくれたのだろう。毎日の報告をすることもないし、天馬以外と時間を過ごすことが多くなった。
 正直に言えば寂しかったし、一体何度自分から話しかけようと思ったかわからない。ただ、一成のためを思えばこれが正しい選択なのだと言い聞かせて、どうにかこらえていた。
 とはいえ、一成の笑顔を見たいという気持ちはずっと持っている。できるなら一成を喜ばせてやりたいのだ。だから、「一成が好きそうだな」と思えばスマートフォンを構えてしまう。
 なるべく距離を取ろうとしているものの、お互いを無視しているわけではない。簡単な挨拶は交わすし、必要な話はちゃんとしている。そもそも喧嘩をしているわけではないのだ。
 なるべく二人でいることを避けてはいるものの、夏組で連れ立って出かけることもあるし、全員でくだらない話で盛り上がることだってあった。だから、一成が好きそうなものを写真に撮っておけば、いつか見せる機会も訪れるだろう。

(写真くらいじゃ、プレゼントにもならないだろうが)

 思いながら見つめるのは、スマートフォンケースに挟んだしおりだった。一成が作ってくれたコスモス畑のしおりで、スマートフォンと共に常に持ち歩いている。
 何だかもじもじしているな、と思ったらしおりを差し出された時は心底びっくりした。ただ、それは予想外だったからで当然喜んで受け取った。
 一成がくれるものなら何でも嬉しかっただろうけれど、天馬は一成の描く絵が好きなのだ。しかも、しおりに描かれるのは出会いのきっかけになった向日葵畑や、二人で訪れたコスモス畑である。
 一緒に過ごした時間を同じように大事に思ってくれているんだな、ということを実感して天馬の胸は言いようもなく満たされた。距離を取ることを選んだ寂しさもあり、天馬は日によって気分を変えてしおりを持ち歩いているのだ。
 一成の描いたコスモス畑をじっと見つめていたものの、天馬はゆっくり視線を外す。周囲をきょろきょろ見渡したのは、プレゼントの代わりにはとうてい及ばなくても、一成を喜ばせるものを探したかったからだ。
 そのためにも、何か珍しいものや心惹かれるものはないだろうか、と天馬は遊園地を歩き回ることにした。
 

 本格的な遊園地というわけではないので、そこまでの広さはない。だから少し歩くくらい問題ないだろうと思っていたものの、予想は裏切られる。たいした距離を歩いていないはずなのに、天馬は自分がどこにいるのかわからなくなっていた。
 うろうろ歩いてみても、知った道には出ないのだ。おかしい、と首を傾げつつも、もう少し行けば知っている場所に出るかもしれない、とさらに歩みを進めた。
 すると、表通りから外れたような一角に出る。遊園地の建物の裏手にあたる、ひっそりとした場所だ。思わず立ち止まったのは、こぢんまりとした花壇に立派なスイセンが咲いていたからだ。
 もともと公園内にあった花壇だろう。移動遊園地を設置するにあたって、導線の関係で建物の裏になってしまったのかもしれない。表通りならば客の目を楽しませるのだろうけれど、この場所では一体誰が目にするのか。わからないけれど、そんなことは問題でもないとでも言うように、スイセンは堂々と咲き誇る。
 ピンとした花弁は白と黄色。中央部分はオレンジがかった少し濃い黄色で、花そのものが明かりになっているようにも思えた。
 天馬はスマートフォンを構えて、凛と咲くスイセンをカメラに収める。花壇には何本もスイセンが咲いていて、この場所だけ光を集めたようだった。
 一成はきっと花も好きだろうし、喜んでくれるんじゃないか、と思いながら天馬は写真を撮る。遊園地の裏手で見つけたたくさんのスイセン、と聞いただけでも一成なら「なにそれ!」と笑ってくれるんじゃないか、と天馬は思う。どんなことだって、いつだって楽しく聞いてくれるのが一成なのだ。
 一成に見せられるようなベストショットをどうにか撮り終えて、天馬は息を吐く。満足げにうなずいてから、ふと周囲を見渡したことに深い意味はなかった。ただ、ここは何の建物の裏手なんだろうな、と思ったからだ。詳細がわかれば、元の道に戻る手がかりになるかもしれない。

「――ん?」

 ぐるり、と周りへ視線を巡らせた天馬の唇から、声が落ちる。てっきり建物の裏手だと思っていたけれど、看板が置かれていることに気づいたのだ。
 地味な立看板で、周囲の景色に紛れるように設置されている。アトラクションの入り口とも思えないけれど、何かの店だろうか。思いながら近づいていく。
 すると、看板には「A GALLERY」と書かれていた。
 ギャラリー?と天馬は思う。一体どうしてこんなところにギャラリーがあるのか。不思議には思ったものの、遊園地にまつわる絵でもあるのかもしれない、と考える。もしもそうなら一成が喜ぶかもしれない。どんな絵があるのか教えてやりたいし、一成が行きたいと言うなら連れてきてやりたい。
 即決した天馬は、灰色の壁にまぎれるような目立たない扉に手を掛けた。







 扉や看板の地味さとは打って変わって、一歩足を踏み入れた先には重厚な空間が広がっていた。
 ダークブラウンの板張りの床は落ち着いた輝きを放ち、ワインレッドの壁紙は図案化された植物の刺繍が施されている。入ってすぐの右手にはカウンターがあり、部屋の中ほどには、アンティーク調の椅子と机が一組。その奥には、扉が三つほど並ぶ。
 天馬は不思議な気持ちで、室内を見渡す。ギャラリーと名乗っているのに絵を飾っていない、ということへの疑念もあった。しかし、それよりも引っかかるのは、ここを知っているような感覚が芽生えたからだ。
 何かの取材先か、映画のセットか。記憶をさらうけれど思い当たるものはない。ただ、この場所のことを知らないわけではないような気がする、と思っていた。
 考え込んでいると、扉が開く音がした。部屋の奥にある三つの扉の内、一つが開いたのだ。
 中から出てきたのは、ずいぶん小柄な老人だった。まるで子供のような体格にも見えるけれど、頭髪は真っ白だし、顔には深い皺が刻まれている。オールバックの髪はおかっぱで、男性にも女性にも見えた。
 初めて見る顔だ、と思う。しかし、同じくらいに既視感を覚えて、天馬はその顔をじっと見つめる。

「――おや、あなたの方につながりましたか。橋渡しを務めたのが夏組リーダーだからでしょうかね」

 老人はそうつぶやいて、まじまじ天馬を見つめた。声は低すぎることもなければ、高すぎることもない。口調ははきはきしていて、見た目によらず若々しくも感じられる。性別も年齢も曖昧で、何だかとらえどころがない。
 印象の定まらない不思議な人だな、と思っていると、老人ははっとした表情を浮かべる。それから、嬉しそうに続けた。

「ああ、三好一成の絵をお持ちですね?」

 突然の質問に、天馬は大きく目を瞬かせる。一体どうしてそんなことを知ってるんだ、と思ったし、大体その質問はどういう意味だ、と思ったのだ。
 一成の絵を持っているかどうかなんて、どうして確認する必要があるのか。まさか、ギャラリーというのは他人の絵を収集してるだとかそういう意味なのか。まさかそんな変わった店なのか――そこまで思ったところで、はたと天馬は気づく。
 変わった店。不思議なギャラリーの話なら知っている。一成がこちらの世界に来るきっかけ。街を歩いている時、たまたま遭遇した一軒の店。その話をした時、一成は何て言っていた?
 表には「A GALLERY」と書かれた立看板。目立たない扉を抜けると、広がるのは重厚な空間だ。アンティーク調の椅子と机があり、そこで一成は向日葵畑の絵を選んだ。さらに、三つある扉の内中央の扉を通って、一成は向日葵畑の絵と向き合って天馬と出会ったのだ。
 不思議なギャラリーを運営するのは、小柄な老人だと聞いていた。まるで子供のように見えるけれど、外見からは確かな年月を感じさせる。男性にも女性にも見えるような、不思議な人がオーナーだという。
 まさか、という気持ちで天馬は目の前の人物を見つめた。
 一成から聞いていた特徴とぴたりと一致することは間違いないし、店の内装もまさしく言われた通りだ。もしかして、と天馬は思う。ほとんど直感的に、天馬の胸には言葉が浮かぶ。
 もしかして、目の前のこの存在がオーナーで、ここが不思議なギャラリーなのか?
 馬鹿げたことを思っているのかもしれない。しかし、天馬は馬鹿げた話が事実だと知っている。絵の中の人間だったはずの一成と言葉を交わし、心を受け取り合って、確かにその体に触れた。こっちへ来いと手を引いて、今一成と同じ世界を生きている。夢物語みたいな現実を知っている天馬は、不可思議な存在を決して否定できなかった。
 だから、一成の言葉通りの人物が現れて、聞いていた通りの場所に辿り着いたなら。どれだけ馬鹿げていて、信じられない話だったとしても、それが現実なのだと認めるしかない。
 一瞬でそう判断した天馬は、大きく深呼吸する。
 もしもここが不思議なギャラリーだというなら、ずっと考えていたことがある。叶うわけがないと思いながらも、できるならばと望んでいた。どういうわけか訪れたチャンスが今ならば、自分のすべきことは一つだ。だから、まずは事実を確認しなければ、という気持ちでゆっくり口を開く。

「聞きたいことがある。一成がこっちの世界に来たのは、ここからなのか」

 一切の説明はなく本題を切り出した。何も知らなければ、何を言っているのかすらわからないだろう。しかし、ここが本当に一成の言う通りの場所であるなら、天馬の言葉を理解することはたやすいはずだ。
 老人は天馬の言葉に、少しだけ沈黙を流す。しかし、すぐにゆったりとほほ笑むと、鷹揚に答えた。

「その通りでございます。ここは世界を渡るギャラリーにして、三好一成の絵を所蔵する場所。私がオーナーでございます。以後お見知りおきを」

 そう言ってうやうやしく頭を下げる姿は芝居がかっていたものの、やけにしっくり来る。ギャラリー自体が持つ雰囲気のせいか、老人――オーナーの持つ不思議な空気のせいか。恐らくどちらも作用しているのだろう。

「ここから三好一成をあなたの世界に送り出しました。あちらの世界で生きていたら、彼は絵を描くことが許されません。それなら、あなたの世界で生きるべきでしょう。そのための扉となるのが、この場所の役目なのですよ」

 頭を上げたオーナーは、何てことのない顔で言い放った。曰く、あのままでは一成は絵の道を諦めるしかなかった。それを防ぐためには、別の場所で生きるのが最善だと判断してこちらの世界との橋渡しを行った。当然の結論だといった顔で、オーナーは続ける。

「こちらで無事に絵を描いていることを確かめたかったのですが――少し座標がズレてしまいましたね」

 天馬が一成の絵を持っていることに起因しているのかもしれない、と言う様子はいたって自然だった。明日の天気を語るような気軽さで口にするのは、摩訶不思議な話だ。
 異なる世界をつなぐのがこの店であり、オーナーの能力だという。世界はいくつにも分岐し、それぞれは平行に存在している。その中で、一成の絵を見るために多くの世界を渡り歩き、一成の絵を保護するために活動しているのだ、と説明した。
 くわえて、一成の絵は世界中で評価されているのだ、と誇らしそうに言うのだ。目をきらきらと輝かせて、弾んだ声で言う様子は無邪気な子供のようだった。熱っぽささえ感じる空気で、一成の絵について長々語る様子に、つまるところこのオーナーは一成のファンなのだと察しがついた。
 やっぱり一成には絵の才能があるんだな、と天馬は思ったし、不可思議な存在であるオーナーの心さえつかむなんてさすがだ、と感心した。一成の持つものを、内側にある美しいものや豊かなものを、大事にして守ってやろうと決意を新たにする気持ちにもなった。
 ただ、今の自分がすべきことは別にあるのだと天馬は理解していた。

「あなたが絵を持っているということは、ちゃんと絵を描いているということなんでしょう。それでこそ、こちらの世界に橋渡しした甲斐があったというものです」

 オーナーは何やら納得したように、自分の言葉にうなずいている。しみじみとした調子で、一成のために世界をつなげて、絵を通して天馬との出会いを果たしたのだ、と当時のことを語っている。
 天馬とて覚えている。合宿所の向日葵畑で、不思議な絵を見つけた。どうしてこんなところに絵があるのか、といぶかしんでいると絵の中の青年が動き出して、会話を交わせるようになった。
 それから名前を知り、共に時間を過ごして心の内に触れた。大事に思うようになり、こっちへ来いと手を伸ばした。だから今、一成はこの世界で生きている。MANKAIカンパニーの夏組として共に舞台へ立ち、一つ屋根の下で暮らしている。
 話だけ聞いたなら、とうてい信じられるはずがない。冗談の類にしか思えないけれど、これが全て事実だと知っている。
 一成の言葉を疑う余地もないし、実際に天馬は自ら経験しているのだ。だから、実際に絵がつながることも、一成が別の世界からやって来たことも知っている。オーナーの言葉は嘘や妄言ではない。純然たる事実で、実際の出来事だ。
 理解している天馬は、真っ直ぐオーナーを見つめた。ずっと前から思っていたことがあった。一成をこちらへ呼んで、同じ世界で生きると決めた時から誓っていた。
 一成にあちらの世界を捨てさせるなら、自分が何もかもを受け止める。一成の人生を丸ごと引き受ける。それくらいの覚悟がなければ、無責任に「こっちへ来い」なんて言えるはずがない。
 だからこそ、今こうして不思議なギャラリーへ辿り着いたなら。異なる世界をつなぐ場所に今自分が立っているなら。言うべきことは一つだけだ、と天馬は口を開く。

「オレを一成の世界に行かせてくれないか」

 真剣なまなざしを浮かべて、天馬は言った。ずっと前から考えていた。ただ、どうしたって無理な話だから口にはできなかったけれど、奇しくもそのチャンスが訪れたのだ。
 オーナーは天馬の言葉に、驚いたように目を瞬かせる。構うことなく、言葉を続けた。

「一成はこっちの世界で、伸び伸び暮らしてる。誰かに否定されることもなく好きな絵を描いてるし、興味のあることは何だって挑戦してる。夏組やカンパニーのみんなと仲がいいし、毎日楽しそうにしてる」

 こちらの世界にやって来てからの一成を思い浮かべて、天馬は言葉を重ねる。
 事実として、一成は「こっちに来られてよかった」と言っていた。心からこちらの世界の毎日がどれだけ幸せなのかと教えてくれたのだ。未練がないことに罪悪感を覚えていたのは、嘘やごまかしではなく本当に心残りがないことの証明だ。

「帰りたいと思ってないことは知ってる。あっちの世界とは決別して生きるってことを、一成は選んだ。今まで生きてきた過去は全部あっちに置いてきたんだって、一成は理解してる」

 あちらの世界を捨てるということは、これまで歩いてきた足跡が全て消えるということだ。それでも一成はこちらの世界を選んだのだと知っているし、後悔はしていないはずだ。なくしたものよりもっと大きな幸せを、一成はここで降るように受け取っているのだから。
 ただ、いくらMANKAIカンパニーの生活が心を満たす日々だったとしても、何一つ過去がないという事実はときおり一成を苦しめる。それまで立っていた地面が失われてしまったような。積み重ねてきたはずの土台が崩れ去っていったような。自身の根幹が揺らいで、寄る辺なさにさらわれそうになる瞬間があるのだと知っている。
 だから、それなら。一成の手を引いた自分だけの役目があるのだと、天馬は思っている。

「オレだけは、あいつの過去を知っていてやりたい。こっちに来いと言ったのはオレだ。あいつの家族や育った場所を、ちゃんと知りたい。生きてきた痕跡を知るのは、全部受け止めて抱えていてやるのは、オレの役目だ」

 一成はこちらの世界へ来たことで、今までの過去を全て捨ててきた。話には聞いていたから、どんな風に生きてきたかは当然知っている。しかし、実際のこの目で見たわけでもないし、確かな手ごたえとして実感したわけでもない。
 あくまでも一成の過去は、話の中の存在でしかなかった。一成の世界に行くことはできないのだから、話を聞いてやることだけが最大限天馬にできることだった。
 しかし、天馬は一成が話していた不思議なギャラリーに辿り着いた。この場所があちらとこちらの世界をつないだということを、天馬は疑わない。つまり、あちらから一成がやって来られたなら、その逆だって当然できるはずだ。単なる事実としてそう認識しているからこそ、天馬はずっと胸に宿っていた決意を口にする。

「一成の世界で、一成の生きてきた場所を自分の目で確かめたい」

 真っ直ぐ射抜くようなまなざしを向けて、天馬は言った。オーナーは揺らぐことなく視線を受け止めて、しばし沈黙を流した。
 唇を結んで、じっと天馬と見つめる瞳は不思議な色をしている。濡れたような黒にも見えれば、つややかな光を宿して明るく輝いているようにも見えた。何色とも言い難い瞳は、やけに人間離れしているように思える。
 不思議なギャラリーのオーナーにはぴったりだな、なんて思いながら、天馬はただ唇を結んで答えを待っていた。
 長い沈黙のあと、オーナーはゆっくり口を開いた。大きく一つ息を吐き出すと、静かな調子で答える。

「わかりました。あなたの言い分も、納得できないものではありません。それに、三好一成にとっても恐らく悪い話ではないのでしょう」

 そう言ったオーナーは、あちらの世界への扉を開くことに同意を示した。すげなく断られることも予想していた天馬は、ほっと息を吐く。ちょっと隣の町まで出かけてくる、というのとは話が違うのだ。もっと難色を示される可能性だって当然考えていたから、そうでなかったことに安堵した。
 しかし、オーナーはそんな天馬の考え見透かしたように言葉を続けた。

「ただし、無条件とはいきません。対価として――そうですね。あなたが持っている三好一成の絵をいただきましょう」

 確信を持った言葉に天馬はたじろいだ。一成の絵を持っていることは、一言も口にしていないのに最初からオーナーはこうだった。事実として、確かに天馬は一成の描いたコスモス畑のしおりを持っているけれど、傍から見てわかるようなものではない。
 それなのに、何一つ疑問のない顔で言うのだ。オーナーにはアンテナのようなものがあるのかもしれない、と天馬は思う。一成の絵のファンであることはわかっているし、異世界をつなぐギャラリーのオーナーなのだ。不思議な力を持っていてもおかしくはない。
 ただ、天馬とてそう易々と一成の絵を渡したくはなかった。一成が天馬にと贈ってくれたプレゼントなのだ。簡単に手放せるようなものではない。だから天馬はおおいに渋ったものの、オーナーは「でしたら話はなかったことにしましょう」とにべもない。
 結局のところ、絶対的な切り札を持っているオーナーが圧倒的に有利なのだ。
 今がまたとないチャンスであり、次にこんな機会が巡ってくる保証はないと、天馬は理解している。今を逃せばもう二度と、一成の過去を知ることはできないかもしれない。
 生きてきた痕跡を、今まで歩いてきた道のりを、天馬がちゃんと知ってやることができれば、一成の寄る辺なさにも手を伸ばせる。土台を失って倒れそうになったとしても、きちんと支えてやれる。こちらの世界で過去を持たないまま生きていくからこそ、一成の今までを知ることは天馬にとって何を置いても実現しなければならないことだった。
 だから天馬は、ひとしきり悩んだあと「わかった」とうなずいた。今の自分がすべきことは、一成の未来に明かりを灯すための選択なのだから、と。すると、すかさずオーナーが満面の笑みで手を出した。絵を渡すように、という意味合いであることを理解して、天馬は渋々コスモス畑のしおりを渡す。

「なるほど。これは味のある小品ですね」

 オーナーは嬉しげに言うと、しおりを大切そうに胸の前で持って、「準備をしてきましょう」と部屋の奥へと消えていった。
 ただ、いなくなったのはそう長い時間ではなかった。オーナーは比較的すぐ帰ってくると、三つ並んだ扉の内、中央の扉から部屋へ入るように告げる。曰く、そこに飾られた絵を通って一成の世界に行けるという。
 オーナーは簡単に、絵について説明をくわえる。今回用意したのは、何の変哲もない街角を描いた絵だ。どこか別の世界の一成が描いたもので、生家周辺の住宅街を題材としている。この絵が、今回世界をつなぐ扉だ。
 一成の実家付近が描かれているので、絵の場所から道なりに進んでいけば右手に「三好」という表札を掲げた家がある。それが、一成が幼い頃から暮らしている家だった。道なりに進んで右手。噛んで含めるように伝えられた言葉を、天馬は何度も繰り返す。幸い一本道だというから、迷うことはないはずだ、と言う。

「それからもう一つ、時間にはお気をつけください。これはイレギュラーなことですからね。無限に動き回ることはできないのです」

 落ち着いた口ぶりで、オーナーは続ける。あちらとこちらがつながるのは、太陽が昇っている間だけ。それまでに帰ってこなくてはならない。

「日没までは……そうですね。二時間少々といったところでしょうか。太陽が沈むまでに帰ってこなければ、絵は閉じてしまいます」

 現在時刻と絵の中の時刻は、おおむね同じ時間帯だとオーナーは推測していた。昼下がりといった今から、日没までがタイムリミットだった。

「いいですか。太陽が見えている間だけです。夜になったら、この絵は消えてなくなります。そうなったら、あなたは元の世界には戻れない。それでも構いませんか」

 すっと胸の内に切り込むような目で、オーナーは問いかけた。不可思議な色をして、えも言われぬ光を宿した瞳。吸い込まれるように見つめ返した天馬は、これがオーナーからの覚悟を問う言葉なのだと察していた。
 異なる世界へ渡る。決して簡単なことではないからこそ、あらためて尋ねたのだ。
 普通の事態ではないのだから、何が起こるかわからない。絵に何かがあって消えてしまうかもしれない。あちらとこちらをつなぐ扉が消えてしまえば、帰る道も失われる。安全を保障された行為ではないのだ。想定外のことが起きる可能性はゼロではないし、重大なアクシデントがあればこちらの世界へ帰ってこられないかもしれない。
 それでも、あちらの世界へ行く覚悟はあるのか、とオーナーは問うている。危険が一切ないわけではないし、戻れない可能性もある。そこまでのことをする意味はあるのか。考え直して中止する選択肢もある。
 あらためて問いかけられて、天馬の決意はよりいっそう固くあざやかになる。

「わかってる。それでもオレは、行くと決めたんだ」

 ずっと前から決めていた。答えなんて一つだけだ。一成の未来を、これからの人生を守っていくと決めた。それができなければ、何もかも捨てさせやしない。あの時から、ずっと答えは決まっている。
 オーナーは天馬の言葉から、真剣さを感じ取ったのだろう。揺るぎない決意にうなずくと、「それでは」と言って中央の扉を示した。

「あちらの世界へ、どうぞいってらっしゃいませ」