向日葵畑で待ち合わせ
※並行世界同士の話
家に帰りたくなくて、一成は十二月の街をあてもなく歩く。大学を出て真っ直ぐ駅へ向かうのではなく、駅近くの商店街へ立ち寄った。並ぶ店を眺めながら機械的に足を動す。
ショーウィンドウに映るのは、金髪にピアスといういつもの自分だけれど、見慣れた笑顔は浮かんでいない。一成は固い表情のまま、ふらりと歩みを進める。
気づけば見知らぬ路地に入っていた。特に目的があるわけではないけれど、そのまま細い道を進む。寒空の下を歩き続けるのに薄いコートは心もとなくて、一成は体を縮こまらせた。
(休講になったらその時間だけ勉強できるでしょって言われるけど、今日は勉強したい気分じゃない)
はあ、と白い息を吐き出しながら思い浮かべるのは、両親の顔だった。
「一成に期待はしてない」と言いながらも、勉強以外のことを選べば不機嫌になるのだと知っている。一成に求められるのは、テストで良い点数を取り続けることだけだ。
ただ、それは三好家にとっての最低限の振る舞いであって、何も特別なことではない。
だから、いくら好成績を収めたところで両親の眼中に自分がないことはわかっていた。親の望む大学に入ることができなかった時点で。
一成は現在、芙蓉大学法学部の二年生である。
世間的に評判の高い大学であることは間違いないけれど、三好家の人間からすればとても考えられない進学先だった。入るべき大学など、東大以外には有り得ないのだから。
親族からの自分の評価はよくわかっていた。東大へ入ることのできなかった落ちこぼれ。東大に首席で入学したお姉さんとは大違いだ。
合格発表の日はそれこそ葬式のような雰囲気だった。叱責された方が、まだマシだったかもしれない。声を荒げることもなく、冷えた目で見つめられたことの方が、よっぽど堪えた。
あの日を境に、家族の態度はあきらかに変わった。まるで一成の姿が見えていないような反応に、どうすればいいかわからなかった。だけれど、何もしないままではいられなくて、おどけてみたり役に立とうとしたりと行動してみたけれど、意味はなかった。
積み重なる失敗に、一成は追い詰められた気持ちで思ったのだ。いっそ怒ってくれたら。オレを見て声を荒げてくれたなら。
かすかな望みで、一成は春休みに外見をがらりと変えた。黒かった髪を金色に染めてピアスを開けたのだ。
だけれど、両親は「勉強だけはするように」と言い渡しただけだった。大きな溜め息を吐いて、様子の変わった一成を一瞥しただけで終わりだった。その反応だけで充分だった。だめなんだ。何も期待されていない。両親の視界に、一成は入っていなかった。
元に戻すことも考えたけれど、結局一成はその外見のまま大学生活を過ごすことにした。両親に見捨てられた代わりのように、せめて友人を作ろうと思ったのだ。そのためには、こちらの外見の方が話しかけられやすいと思ったし、今までと違う自分になれるようで純粋に面白かった。
結果として、大学では友人たちと楽しく過ごすことができている。
高校まで友人なんていなかったものの、持ち前の学習能力の高さを活用して、見よう見まねで明るい自分を作り上げることに成功したのだ。軽い雰囲気で、いつでも笑顔の三好一成、というキャラクターは上手く周囲になじんでいる。
(期待はされてなくても、一番じゃないといけないのはわかってるけど)
ぼんやり歩きながら、一成は思う。両親の期待は、現在ロースクールに通う姉へ一心に注がれている。一成は世間体の手前ちゃんと大学に通って卒業することが義務づけられているし、その際は当然成績優秀者でなければならない。
東大に入ることもできなかった落ちこぼれは、それくらい果たしてしかるべきなのだと両親は思っている。時間も手間もお金もかけたのに結果を出せなかったのだから、一成は償いをしなければならない。
だから、休む暇があるなら勉強をしろと言われることはわかっていた。大学で講義を受ける以外は全ての時間を使うべきで、アルバイトすら許されていないのだ。
大学の友人と遊ぶことも、当然いい顔はされていない。ただ、理解ある親の顔も必要だと思っているようで、全てを禁止されているわけではないのは幸いだ。もっとも、奇抜な外見を許しているんだからそれ以外は自重するように、という無言の圧力は感じている。
なので、外見に似合わず一成は真面目だと言われるし、夜遊びの類はほぼしたことがない。学外でのイベントにもあまり顔は出せていなかった。その時間は、全て勉強にあてなければならないのだ。
今日だって、授業が休講になったということは、勉強時間が増えたと思わなければならない。わかっていたけれど、どうしても勉強をする気分になれなくて、一成はあてもなく街をさまよっていた。
(――あれ、ここ何だろ)
路地を歩いていた一成は、行き止まりで足を止めた。
前方は一見すると灰色の壁に見えるけれど、目立たない扉が一枚ある。室外機やゴミ箱に紛れるようにして、立看板も立っている。よく見れば「A GALLERY」と書かれていた。
ギャラリー、と一成は胸の内でつぶやく。
こんな所に絵を飾っても、誰かが見に来るとは思えない。もしかして、隠れ家カフェか何かの類だろうか。ただ、窓があるわけではないので中を見ることはできないし、本当にギャラリーなのかそういう名前のカフェなのかは判然としなかった。
一成は少しだけ考えてから、一歩足を踏み出した。好奇心が沸いたということもあるし、寒空の下を歩き続けてすっかり体が冷えていた。室内であたたまりたいと思ったし、もしも絵があるなら見てみたいと思ったのだ。
一成は絵を描くことが昔から好きだった。教育の一環で連れていってもらった美術館で、絵を見たことがきっかけだった。
それ以来、ノートの端やプリントの裏に落書きしてはしょっちゅう怒られていたし、無駄だと言われた図工の時間も楽しみだった。ただ、両親にとって絵は不要なものだとわかっていたから絵を描きたいなんて言えるわけがなかった。
だから、お年玉でこっそり買ったスケッチブックに、内緒で絵を描き続けていた。もっともそれも、中学時代にのめり込みすぎて、学年で一位が取れなかった時に全て捨てられてしまった。それ以来画材関係は自宅へ置かないように気をつけている。
最近では、美術館にだって行けていない。大学に入って以降、学校以外の外出には定期的な現在地の報告が義務付けられたし、買い物をしたらレシートを出すよう言われて勉強に無関係なものに時間を費やせばひどく怒られる。だからこっそり美術館にも行けなくて、一成は近頃絵を間近で見ていない。そんな時に現れたギャラリーだった。
もしかしたらカフェかもしれない、とは思った。だけれど絵があるのなら、見てみたかった。一成は突き動かされるようにして扉を開く。
◆ ◆ ◆
踏み入れた先は、重厚な空間が広がっていた。
ダークブラウンの板張りの床は落ち着いた輝きを放ち、ワインレッドの壁紙は図案化された植物の刺繍が施されている。部屋の中ほどには、アンティーク調の椅子と机が一組。その奥には、扉が三つほど並ぶ。
入ってすぐの右手にはカウンターがあり、老人が一人座っていた。
絵が飾ってあるわけでもないし、カフェにしては席が一組しかない。どういうことだろう、と不思議に思っていると置物のように座っていた老人が立ち上がった。
「ようこそいらっしゃいました。ここは、お客様のために一枚の絵をご用意するギャラリーです」
一成のもとに近づいてきた老人は、ギャラリーのオーナーだと名乗った。
ずいぶんと小柄で、子供のようにも見えるけれど頭髪は真っ白だし、顔には深い皺が刻まれている。オールバックの髪はおかっぱで、声は低すぎることもなければ高すぎることもない。男性にも女性にも見えた。
「さて、それではお客様。こちらにお掛けになって――絵を一枚お選びください」
うやうやしく部屋の中央まで一成を案内し、椅子へと座らせる。雰囲気に吞まれるような気持ちで、一成はそれに従ってしまう。
オーナーは猫のように目を細めると、どこからか革表紙の立派な本を持ってきた。一成の前にある机に置くと、「一枚だけ、お好きな絵をお選びください」と頭を下げる。
どういうことなのか、一体ここは何なのか。聞きたいことはたくさんあったのだけれど、オーナーは頭を下げたまま動くこともないし、どうやら一成が絵を選ぶまでその体勢でいるつもりらしい。何だかそれは気まずいし、というわけで一成は本を開いた。
◆ ◆ ◆
選んだのは、向日葵畑の絵だった。
青空と向日葵、それから後ろ姿の青年が描かれており、全体から明るい光を放つようだ。
渡された本に載っている絵は、初めて見たはずなのにどことなく懐かしい雰囲気があった。その中から、ほとんど直感で選んだ絵だった。
オーナーは「承知しました」と言って本を持って奥へと引っ込んだ。しばらくしてから再び姿を現すと、三つの扉の内、中央の扉を示す。
厳かな調子で「絵をお楽しみください」という言葉に押されて、一成は部屋へ踏み入った。
部屋はシンプルな作りだった。クリーム色の壁に象牙色の床。窓はなく、中央に一組の椅子と机があり、その奥――正面の壁には油絵が一枚立てかけられている。
本で見た時はわからなかったけれど、大きな絵だった。どうやら実寸大で描かれているらしい。額縁にも入れられず、そのまま置かれている様子は姿見のようでもあり、夏につながる扉が開いているようでもあった。
描かれるのは、青空を背景にした向日葵畑だ。空はくっきりとした青を宿し、広がる大輪の花たちは、瑞々しい緑の葉とまばゆいばかりの輝きを持っている。
その中には、青年と思しき人物がひっそりとたたずんでいた。紺色の半袖シャツに黒のアンクルパンツ。後ろ姿なので顔はわからないものの、オレンジ色の髪があざやかだった。それら全ての光景を照らす夏の日差しが、絵の中には描き出されていた。
一成はまじまじと、目の前の絵を見つめる。油彩画ならではの質感で、夏の風景をそのまま切り取っている。こんな場所で絵を描けたらきっと気持ちがいいだろうな、と思う。
作者の名前などは書かれていなかったので、誰の作品なのかはわからない。何か情報でもないだろうか、と一成はスマートフォンを取り出すけれど、油絵の向日葵畑だけではあまりにも検索結果が多すぎる。
写真を撮って画像検索することも考えたけれど、そもそも撮影をしていいのかもわからなかったので断念する。それに、今はそんなことをする時間でもないと思った。
一成はスマートフォンを机に置いて、椅子に座った。目の前の絵を見つめる。
夏そのものを形にしたみたいな絵の世界。スマートフォンに意識を向けるより、ただ目の前の絵を見ていたかった。
一成にとって夏の思い出と言ったら夏期講習の塾だとか図書館の自習室で、向日葵畑なんて行ったこともない。夏の記憶と言って思い出すのがこんな景色だったらいいのに。憧れのような羨望のような感情で、目の前の絵を見つめていた時だ。
ゆらり、と絵の中の向日葵が揺れた。
一成は思わずまばたきした。絵の中の向日葵が動くはずはない。見間違いだ。そう思うのに。二度、三度のまばたきの間に目の前の絵はすっかり様子を変えていた。
油絵の具で描かれていたはずの絵は、今やもう絵ではなかった。目の前に広がるのは、本物の向日葵だ。
風を受けてゆったりと動き、向日葵のざわめきが聞こえる。熱をはらんだ空気が一成のもとまで伝わってくる。十二月では到底考えられない。まるで真夏のような熱気が、絵の向こうから流れてくる。
一成は思わず椅子から立ち上がった。どうして。絵だと思っていたけど、実はよくできた動画? 油絵を表示させていて、知らない間に映像に切り替わっていた?
混乱しながら一歩近づく。キャンバスに見えていただけでモニターだったのかもしれない、と確認するけれど電子的な雰囲気はなかった。
それに、近づくと間違いようのない夏の空気が伝わってきて一成は息を呑む。動画だとして、照りつける日差しや汗ばむ熱気を映像から再現できるはずがない。それならこれは一体――?
答えが出ないまま、呆然とした表情で向日葵畑を見つめ直した一成は、呼吸を止めた。向日葵畑の青年が、ゆっくりこちらを振り返ったからだ。
スローモーションのように体の向きが変わる。背中しか見えなかった青年の横顔が目に飛び込み、手には本のようなものを持っていることを知る。
完全に振り返ると、青年は真っ直ぐ視線を向けた。射抜くようなまなざしで、瞳に強い光を浮かべて、一成を見ている。
思わず息を止めたのは、想定外の事態への混乱だけではなかった。
こちらを見つめる青年の瞳があんまり綺麗であざやかな輝きに満ちているから、一成は目を奪われていた。
青年は整った顔立ちをしていた。意志の強さを感じさせる眉、すっと通った鼻筋、品のある口元。何よりも、力強い輝きを宿す瞳が、青年を殊の外魅力的に見せていた。
神様が丹精込めて作ったみたいだ、と思った一成は向日葵畑の青年をじっと見つめていた。
だけれど、それも青年が動き出すまでだった。向日葵畑にたたずんでいた青年は、しばらくの間一成へ視線を向けていたけれど、足を踏み出したのだ。真っ直ぐと、一成の方へ向かって。
その事実に、一成は呪縛が解けたようにびくりと体を震わせる。だって、絵に描かれたはずの人がこちらに向かってくるなんて、どうしたらいいかわからない。戸惑っている間に、青年はずんずんと歩を進めて、一成の前に立つ。
「――おい」
強い声が放たれて、一成は「やっぱりイケメンは声もカッコイイんだな」と現実逃避しかけた頭で思う。だって絵の中の人間に話しかけられるなんて、そんなことあるわけがない。
これはそういう映像か何かだろう。だってそうじゃなかったら、今まで信じていた現実が何もかも崩れてしまう。知らない世界に迷い込んでしまう。
「なあ、オレの声が聞こえてないのか」
青年は真っ直ぐ一成を見て、きっぱりと言った。他の誰でもない。目の前の一成に向けての言葉だった。吸い寄せられるように青年へ視線を向けると、ばちりと目が合った。
紫色の瞳。そこには間違いようなく自分が映っている。この人は、他の誰でもないオレを見ている。その事実を理解した瞬間、背筋がぞわりと粟立った。
絵の中の人間に見つめられている。そんなこと、起きるわけがない。大体、後ろを向いて描かれていた人の顔がわかるなんて、あるはずのない事態だ。あまつさえ、目の前に立って声まで掛けられるなんて、こんなことあっちゃいけない。起きるはずがない。これは異常事態だ。
一成は一歩あとずさった。よくわからないまま流されていたけれど、とんでもないことに巻き込まれているのだとようやく理解した。このままここにいちゃいけない。自分の世界が壊れてしまう。今すぐに離れなければ。
一成は固まったままの体をどうにか動かして、絵と距離を取る。不思議そうな顔の青年を無視して、そのまま踵を返した。あざやかな紫の輝きを振り払うように、一成は全速力でギャラリーを飛び出した。