向日葵畑で待ち合わせ
スマートフォンを置いてきたことに気づいたのは、見慣れた大通りまで出た時だった。
ギャラリーの小部屋にあった机の上に出したまま、回収せずに飛び出してきてしまった。ただ、とても戻る気になれず一成は一旦家に帰ったのだけれど。
連絡を欠かしたことを母親に責められ、父親からは厳しく注意され、姉からは呆れられた。連絡手段としてスマートフォンは必須だったし、大学の友人たちとのやり取りにも支障が出る。
このままスマートフォンのない生活ができるわけもないので、一成は意を決して再びギャラリーを訪れるしかなかった。
翌日、図書館で勉強すると嘘を吐いて時間を作った一成は、ギャラリーへ向かう。当てもなくさまよって辿り着いた店だったので、果たしてもう一度行けるのだろうか、という心配は杞憂に終わった。
記憶力はいい方だったし、周囲を観察するのは癖になっている。無意志の内に目印になるものは覚えていたようで、ほとんど迷うことなくギャラリーへと辿り着く。
恐る恐る扉を開けば、オーナーが一成を出迎える。「忘れ物でしたら、預かっておりますよ」と言うのでほっとするけれど、オーナーは猫のように目を細めるだけで何も取り出さない。その上、ただ一成を見つめるだけなのでおずおずと口を開いた。
「あの……スマートフォンを取りに来たんですけど……」
「はい。あの電話でしたら昨日と同じ部屋に置いております」
オーナーはそれだけ言うと、部屋の扉を指し示した。昨日と同じ、中央の扉だ。自分で取って来い、という意味だと察して一成は足を踏み出す。その背中にオーナーは声を掛ける。
「昨日と同じ部屋でございます。向日葵畑もそのままに、お客様をお待ちしております」
思わず足を止めたのは、昨日のことを思い出したからだ。
絵だったはずのものが現実へ変わる。向日葵は風に揺れて、絵の中の青年は確かに一成を見つめていた。紫色の瞳が美しい、顔立ちの整った青年の姿は強く一成に焼きついている。だけれど。
「――絵が動くなんて、そんなことあるわけがない。あれは何か、トリックとかあるんですよね?」
振り返った一成は、イエスの答えを期待して尋ねた。まったく予想もつかないけれど、絵が動くわけがないのだから仕掛けがあるはずなのだ。オーナーはうやうやしく答える。
「絵をよく見て、ご自分でお確かめください」
丁寧な言葉ではあるけれど、到底トリックを教えてくれる気配はなかった。まあそれもそうだろうな、と思っているので特にガッカリすることもない。
一成は「そうですね」とうなずいて、扉の取っ手を握る。オーナーは「いってらっしゃいませ」と一成に声を掛ける。
◆ ◆ ◆
部屋の様子は昨日と何一つ変わっていなかった。一成は机の上のスマートフォンをポケットにねじこむ。このまま立ち去ればいいとわかっていたのだけれど、オーナーの言葉も気に掛かる。
一成は好奇心も旺盛な性質だ。手品なんてくだらないと言われていたけれど、種や仕掛けを考えるのも好きだった。だから、不思議な絵のトリックを解き明かしたいと思うのは自然な流れだろう。
それに、と一成は思う。
絵の中の青年は、やっぱり後ろを向いているから顔は見えない。だけれど、昨日一成は彼の顔を確かに見たのだ。あざやかな紫色の輝きは未だに胸に焼きついている。
だから、トリックさえわかれば昨日の青年に再び会えるような気がして、一成はじっと絵を見つめている。
夏の気配をそこかしこに感じさせる、向日葵畑の絵。決して味わったことのない夏の風景。
こんな記憶があればよかった。こんな夏を過ごしてみたかった。絵の中の彼は、どうして向日葵畑にいるのだろう。去来する思いを抱えながら、一成は絵を見ている。
すると、目の前の絵が一瞬ぼやけたように見えた。突然ピントが合わなくなったような、そんな様子。一成はびくりと肩を震わせるものの、どこかで予感はしていた。だからタイミングに驚きはしても、出来事自体は予想の範囲と言えた。
ぼやけたピントが戻った瞬間。塗り替えられていくように、目の前の絵が現実へ変わっていくなんてことは。
向日葵が時折ゆったりと揺れる。風の音がする。熱気をはらんだ夏の空気が、絵の向こうからやって来る。そして何よりも、向日葵畑の青年がゆっくりと振り向くのだ。
強い意志の宿る瞳に、あざやかな輝きが散る。そのまなざしで周囲を見渡したあと、一成の姿に気づいたらしい。何か言いたげな表情を浮かべたあと、大股で一成の方へ歩いてくる。
ほどなくして、青年は一成の前で立ち止まった。向日葵畑とシンプルな部屋。不思議な境界を隔てて、二人は向き合う。
紺色のシャツに、黒いアンクルパンツ。手には紙の本を持ち、あざやかなオレンジ色の頭髪と、美しい紫の瞳。全てが恐ろしく整った青年の顔を、一成はじっと見つめた。
一成から、怖いという気持ちが消えたわけではなかった。得体の知れない状況に放り込まれていることは事実だし、今までの常識が通じない事態に見舞われている。世界が壊れていくような、今まで信じていたものがガラガラと崩れ去っていくような恐怖はある。
しかし、一成は真っ直ぐと青年を見つめ返した。どうしてなのか、目が離せなかった。きっとこの紫の瞳に魅入られてしまったんだろう、とぼんやり思っていると声が響いた。低く、重い声は目の前の青年から発せられる。
「お前、さっきオレの顔見て逃げただろ」
「――え?」
「オレの顔見て逃げるとはいい度胸だな」
憤慨したような調子で「オレは皇天馬だぞ。顔を見て喜ぶならともかく、どうして逃げるんだ」と続いて、一成の心臓がどきんと跳ねた。怒らせてしまった。不快な思いをさせてしまった。そんなこと許されていないのに。
「ごめんなさい」
ほとんど反射的に一成の口から謝罪が飛び出した。青年――天馬を不快にさせる意図はなくて、ただ混乱のあまりの行動だったけれど、気を悪くしたなら謝るのは当然の結論だった。
「顔を見て逃げたわけじゃないんです。でも、結果として失礼なことをしてしまったから――ごめんなさい」
行動の理由なんて意味はないのだ。一成にとって大事なのは、目の前の相手の気分を害したこと、それだけだった。
思いつめたような表情で謝罪を繰り返すと、天馬は大きく息を吐き出した。それから強い声で「わかった」と言って、一成を真っ直ぐ見つめた。
「なあ、お前名前は何て言うんだ。あと、別にため口でいい。大学生くらいだろ」
「ええと、オレは三好一成で……芙蓉大の二年生」
ため口でいい、と言われた手前丁寧に話すのも気が引けた。なので、天馬の様子をうかがいつつも、とりあえず口調を緩めた。
天馬は特に気を悪くした様子もなかったし、「へえ、頭いいんだな」と感心している。その様子に一成はほっとして、もう少し言葉を続けてみることにした。
「そんなことないよ。もっと頭のいい大学はあるし、オレよりすごい人はたくさんいるし……オレは全然普通!」
自分の言葉が思ったよりも深刻に聞こえて、一成は慌てて声の調子を明るくした。そうだ、大学で過ごしている時みたいにすればいいのだ、と思う。絵の中の人間と話しているなんて、予想外の事態に混乱してしまったけれど、いつもの調子になればいい。
明るく楽しく、いつだって笑顔の三好一成だ。あらためて決意してしまえば、一成の気持ちはずいぶんと落ち着いてきた。
天馬はと言えば、一成の言葉に不思議そうな表情を浮かべたけれど。それも一瞬で、すぐに雰囲気を切り替える。力強い笑みで、何かに挑みかかるような調子で言った。
「一成。お前が悪いと思ってるなら、ちょっとオレに付き合え」
真っ直ぐとした声は、ただ力強い。一成は予想外の言葉に、目を瞬かせて尋ねる。
「付き合うって何に?」
「芝居だ」
天馬は何当たり前のことを言ってるんだ、という響きで簡潔に答えるけれど、一成は首をかしげるしかない。一体どうして、ここで芝居なんて言葉が出てくるのかさっぱりわからなかった。天馬はそんな一成の反応に、奇異なものを見る目を向けると言った。
「本当にお前、オレを知らないのか。皇天馬だぞ」
「えーと、うん、初めて聞いたかな~?」
すめらぎてんま。何度か繰り返すけれど、やっぱり聞き覚えがない。ありふれた名前でもないし、一成は記憶力がいい。聞いたことがあれば、どこかには引っかかるはずなのに一切覚えがなかった。
軽い調子で放たれた返答に、天馬は尊大に言い放った。
「なら今覚えろ。実力派俳優の皇天馬だ。いずれ、世界中の主演男優賞を総なめにするからな」
「え、俳優なの!?」
天馬の言葉に一成は素っ頓狂な声で叫びつつ、納得もしていた。なるほど、この顔の整い方は芸能人だと言われればうなずける。天馬は一成の反応に、いっそ感心した風情でつぶやく。
「テレビとか映画とか全く見ない生活でもしてたのか」
「最近はそうでもないよん」
高校時代までは、テレビといえばニュース番組か時々教育テレビくらいしか見ていなかった。ただ、大学に入ってからは流行もちゃんと押さえるようになったので、話題のドラマや映画も逐一チェックしている。それなのに、皇天馬なんて名前は一切知らなかった。
「オレのチェックが甘かったのかも! えっと、皇くん――って何か固いし、テンテンって呼んでいい?」
ことさらテンションを上げて、一成は尋ねる。いつもの調子を取り戻して、大学時代のノリで天馬と接することにしたのだ。それなら自分は「皇くん」なんて呼ばないし、何かあだ名をつけるだろう。それが一番自分らしい。それが一番よく慣れた、人を不快にさせない方法だ。
天馬は一成の言葉に、虚を衝かれたような顔をする。だけれど、わずかな沈黙のあと「好きに呼べ」と答えるので、「おけまるだよん!」と笑った。
「映画とかドラマとかいっぱい出てる系? 調べたらすぐ出るかな――すめらぎって皇帝の皇でいい? てんまってどんな字?」
「皇帝であってる。てんまは天の馬だ」
言葉通りに、スマートフォンの検索欄に入力する。
皇天馬。目の前の青年によく似合う、堂々とした雰囲気と爽やかさがあわさった名前だと思う。インパクトもあるし、忘れると思えないんだけどなぁ、と思いつつ一成は検索ボタンをタップした。
「んん?」
天馬の言葉が確かなら、芸能人皇天馬として何かしらの情報がヒットするはずだ。
だけれど、一成のスマートフォンに出てくるのは、漢字の意味や「天馬」を説明するページ、はたまた店舗などで、皇天馬の情報は一切出てこない。人名としてもヒットしないようだった。
「やっぱ全然出てこないんだよねん」
「そんなわけないだろ」
一成が自分のスマートフォン画面を見せるも、天馬は到底納得しなかった。ズボンのポケットからスマートフォンを取り出して何やら文字を入力すると、「ほら見ろ」と一成へ画面を見せる。
そこには、衣装に身を包んだ天馬の写真がずらりと並び、「皇天馬主演決定!」やら「完成披露試写会で皇天馬の意外な一面が発覚!?」やらのネット記事の見出しに、公式サイトの該当ページが表示されていた。確かに芸能人として活動していることは間違いないと思わされる検索結果だ。
「……テンテンさ、インステやってる?」
しばらく考えたあと、一成は尋ねた。天馬は「オレ個人のアカウントは一応あるが……そんなに投稿してない」と答える。一成は「そっか」と言ってから言葉を継いだ。
「オレさ、大学から結構マメに更新してて、フォロワーもわりといるんだよねん! 検索したらすぐ出てくるはずだから、『kaz-PIKO』って検索してくんね?」
努めて明るい調子でお願いをして、天馬のアカウント名も教えてもらった。一成は慣れた動作でインステのアプリをタップして、伝えられたIDを打ち込み検索するけれど。結果は予想通り、天馬のページには辿り着かなかった。
「……該当なしだな」
一成のアカウントを探した天馬も、ぽつりとつぶやく。一成は一つ息を吐き出すと、見慣れた自分のページを表示させた。
最新の写真は、大学のカフェテリアで購入したキャラメルラテのカップの写真だ。インステは気軽に投稿ができるので、その時感じた些細な喜びを記録できるのが好きだった。
家族にバレたら「こんなくだらないことをする暇はない」と咎められることもあり、隙間時間にできることもありがたい。
こっそりと写真を投稿し続けたアカウントには、今までの思い出が詰まっている。確かな軌跡がここにはあるのに、天馬のスマートフォンには欠片も存在しないのだ。
「オレの方は、ちゃんとオレのアカウントあるよん。テンテンのアカウントは見つからなかったけど」
自分のアカウントが表示された画面を天馬に見せて、事実を告げる。念のため、事務所が運営しているという、公式アカウントも検索してみたけれど当然存在しなかった。
天馬と一成は、お互いの顔を無言で見つめ合う。言いたいことはわかっていた。
一成は皇天馬という芸能人をまったく知らない。調べたところで、芸能人としての情報は一切出てこなかった。一方で、今までの時間を詰め込んだ、一成のインステのアカウントは天馬が探しても見当たらない。
どうしてだとか、何が起きているんだとか。不思議がってもいいのかもしれないけれど、二人ともどこかで納得はしていたのだ。
「――まあ、この状況だからな」
肩をすくめる天馬は、落ち着いた口調で言った。仕方ないな、とでも言いたげな様子で、混乱や戸惑いは少ない。「この状況」が何を指すかなんて、一成だってわかっている。
天馬のいる世界は夏の向日葵畑で、一成がいるのは十二月の小部屋だ。一枚のキャンバスを境にして、それぞれ全く違う世界に立っている。本来なら有り得るはずのない光景であることは、二人とも充分承知している。
加えて、こうして向かい合うに至るまでの経緯だって、よくわかっているのだ。
季節も場所も飛び越えているだけでも有り得ないのに、もっと信じられない事実を知っている。そもそも、最初に目にしたのは一枚の絵だったのだから。
「てかさ、テンテンからこっちってどう見えてる系? オレは絵の一部がテンテンって感じなんだけど」
「こっちもそんな感じだ。向日葵畑に、部屋の様子を描いた絵が置いてあった。なんでこんなところに絵なんかあるんだって思った」
「めちゃくちゃ怪しくね?」
一成の場合は、ギャラリーという看板を掲げた店へ入った。不思議な流れではあったものの、絵が現れること自体は想定内だ。ただ、天馬は違う。向日葵畑に突如現れる一枚の絵など、怪しいこと極まりないだろう。
「ああ。だから、何かのセットなのかと思って周囲を見てたんだけどな。ちょっと目を離したら、絵の中の一成が立ち上がってた」
天馬が最初に見たのは、椅子に座る一成の絵だった。クリーム色の壁と象牙色の床に囲まれて、一組の椅子と机があるだけの空間。そこに一人の青年が座っている絵は、向日葵畑でもいっそう奇異に映る。
撮影か何かで使うものだろうか、と周囲を探してもカメラもないしスタッフもいない。一体どういうことだ、と思いながら再び絵を見た天馬は息を呑むことになる。さっきまで座っていたはずの青年が、立ち上がっていたからだ。
さらに、絵のはずだった目の前の光景は、気づけば本物のように動き出す。結果として今の事態であることは、二人ともわかっていた。だから、どんな不思議が起きたところで全ては想定内のようにも思えたのだ。
「そっか。それじゃ、テンテン的にはオレも絵の中の人間なんだ?」
「お前もそうだろ」
「そそ。テンテン、向日葵畑にたたずんでめっちゃ絵になってたよん。あ、本当に絵だけど」
軽い調子で言い合うけれど、話の内容は荒唐無稽極まりない。絵だったはずのものたちが、まるで現実のように目の前にはあって。さらに、そこに描かれた人物と話をしているなんて、到底現実のはずがないのに。
どうしてなのか、奇妙な感覚はあまりなかった。有り得ないことが起きている、と頭では理解していたけれど、次第に違和感は薄れていく。
言葉を交わす相手からは何一つ違和感の類がないからだろうか。それどころか、昔から知っているような気安ささえあるからだろうか。ただすんなりと事態を受け入れてしまったのだ。
「オレの世界にテンテンはいないからさ。テンテンの世界に、きっとオレはいないんだよねん」
キャンバスを隔てたあちら側とこちら側。恐らく、二つの世界は本来交わることがない。別々に存在するはずだったものが、どんな因果か今ここで交わった。
同じ言葉を話しているし、スマートフォンやインステが通じる辺り、大きな所は変わらないのだろう。だけれど、恐らく細部に違いがある。その一端を二人は理解した。
「そうみたいだな。少なくとも、オレがいないってことは確かだろ。芸能人じゃないオレはオレじゃない」
「え、なにそれ、テンテンかっこいい~!」
「事実だからな」
胸を張って言う天馬は、両親も有名な役者なのだと告げる。著名な芸能人夫婦のサラブレッドとして子役時代から活躍しており、その経歴がなければ自分ではない、と言い切った。
天馬の言う両親の名前もやっぱり聞いたことがないし、もしもこの世界に皇天馬がいるとしたって、絶対に芸能人でないことは確かなのだろう。
「テンテン、マジでカッコイイね……。オレは全然そういうのないから、もしかしてそっちにもオレはいるけどぱっとしないだけかも」
天馬の知らない場所で三好一成は生きているのかもしれない、と思った。そっちの自分はもしかしたらちゃんと東大に受かっているだろうか。
そう思うと、胸がざわざわと騒いだ。天馬は気づくことなく「その可能性は否定できないけどな」と肩をすくめる。
「でも、芙蓉大にお前がいるかどうかくらいは調べられるんじゃないか。二年生だよな。何学部なんだ」
「法学部だけど……全然違うところにいるかもしれなくね?」
「まあな。でも、芙蓉大って共通点はあるんだ。案外近くにいるかもしれないだろ」
些細なことが違っているとはいっても、共通点もある。たとえば、芙蓉大学はどちらの世界にも存在しているのだから、一成がいるとしたら芙蓉大生かもしれない、と天馬は言うのだ。
もしもそうなら、と一成は思う。もしもテンテンの世界にちゃんとオレがいるなら、今ここのオレは一体何なんだろう。
「オレの顔見て逃げるってことはないだろ。さっきのお前みたいに」
「芸能人皇天馬ってことはさすがに知ってるだろうしねん。――ってかさ、さっきって?」
ずっと気になっていたのだ。再び部屋を訪れて絵の中の天馬と対峙して、開口一番の言葉を聞いた時から。
「さっきオレの顔見て逃げただろ」と言っていたけれど、一成は逃げ出した翌日に再びやってきたのだ。とてもさっきとは言える時間ではないのに。思って、一成はその辺りを尋ねる。
「一成が逃げてから、戻ってくるまでは十分くらいだぞ」
一成の詳細な説明を聞いた天馬は、あっさり答えた。むしろそれから表情を険しくして「お前、一日帰ってこなかったか」と言うので、そっちの方が重要だったらしい。
一成は笑顔で「めんご~」と言いつつ、もはやこの辺りは考えるだけ無駄なのかもしれない、と思った。
絵のはずの世界が現実になり、描かれた人間と話ができる。二つの世界が交わって、有り得るはずのない邂逅が果たされている。そんな事実の前では、多少の時間のズレなど大したことではないように思えた。
時間通りの約束なんかは難しいだろうけれど、そんなことをしてるわけじゃないし。そこまで思ったところで、一成は気づく。
今の時間は? 図書館で勉強をすると嘘を吐いて、ギャラリーへ来る時間を作った。いくらなんでも、遅すぎては怪しまれる。
顔を強張らせてスマートフォンを取り出す。案の定、思ったよりも時間が立っている。母親から何度も連絡が来ていた。
「――テンテン、めんご! オレ帰らなきゃ!」
急いで返事の文面を作りながら、一成は言う。ギャラリーの話なんてできるはずがないし、天馬のことを口にしたくはなかった。だから、ただ母親からの叱責を浴びるしかないのだとわかっている。
気分は滅入るけれど、それでもいつもよりはマシだった。一成がもう一度謝ると、天馬は少しだけ驚いたような顔をしてから言った。
「用事なら別にいい。また来るんだろ」
当たり前のことを語るような口調。一成が再びやって来ることを、少しも疑っていない。その事実に、一成は何を言えばいいかわからない。だけれど、口は勝手に動いて「またね」と答えていた。
◆ ◆ ◆
父親が帰宅するような時間ではなかったので、母親に一通り責められるだけで済んだ。図書館で勉強していただけなのに遅すぎる、という点については、言い訳のために買って帰った書籍が功を奏した。
判例集や訴訟法のガイドブックを取り出して、「本屋に寄っていた」と言えばわずかに顔がやわらぐ。一成が勉強をする姿勢を見せれば、ひとまずは満足してくれるのだ。
「余計なものは買ってないでしょうね」
「ノートはちょっと買ったけど」
「まあ、それくらいならいいでしょう。あなたは努力してようやく人並みなんだから、気を抜いちゃ駄目よ」
ぴしゃりと叩きつけるように言われて、一成はこくりとうなずいた。昔から言われていることだから、よくわかっている。
報われるとは限らないけれど、努力しないという選択肢なんて一成は持っていない。だってそうしなければ、そもそもこの家には居場所がないのだと知っている。
夕食を食べてから、一成は自分の部屋に戻った。明日の講義内容を予習しておく必要がある。一成はテキストを取り出して机に向かうけれど、いまいち身が入らない。理由なんてわかっている。
一成は少しだけ考えたあと、本屋の袋から無地のノートを取り出した。
判例集やガイドブックと一緒に買ったもので、ノートというのも嘘ではない。ただ、数式や構造式を書くために買ったわけではない。シャープペンシルを鉛筆に持ち替えると、一成は無心で手を動かした。
頭の中にあるのは、あざやかな夏の風景だ。青い空の下には、太陽みたいな花が立ち並ぶ。まばゆい光が瞼の裏に焼きつくような、憧憬さえ感じるあの光景を象徴するもの。
ノートの上に、ギャラリーで見た向日葵の姿を写し取っていく。一つ一つをくっきり頭に思い浮かべて、まずは紙の上に形を取る。
家族は一成が絵を描くといい顔をしない。だから、おおっぴらにスケッチなんてできるはずもない。目にしたものを頭に刻み込むのは、一成の癖のようなものだった。
線を躍らせて、夏の風景を描く。大学でも絵は描いているものの、スケッチブックは自宅に持ち帰らないようにしている。友人のツテでサークルのロッカーに絵画関係のものは置かせてもらっているのだ。
だけれど、どうしても今絵が描きたかった。あの夏の風景を、あざやかによみがえる胸の鼓動を、天馬と過ごした時間を全て、他でもない今描きたかった。
だから一成は、無地のノートを買ってきた。これなら普通のノートに紛れてしまうから、家族にもバレないはずだ。
部屋で絵を描いているなんて知られたら、どんな叱責が待っているかわからない。勉強以外のことなんてしている場合ではないから、今のこの行為も家族への裏切りだということはわかっていた。
自分がどれだけ恵まれた環境にいるのか、一成は理解している。
学費だって全て出してもらっているし、充分な衣食住が保証されていて、飢えることもなければ寒さに凍えることもない。何も気にすることなく、勉強に専念できる環境が与えられている。
だから、絵なんて描いていてはいけないのに。
抑えきれない衝動を一成はずっと抱えている。絵が描きたい。目にしたものを、感じたことを、胸躍る瞬間を、心が動いた全てを絵にしたいのだ。気づいた時から芽生えていた感情は、朽ちることなく一成の胸にずっと息づいている。
(テンテンは今、何してるんだろう)
ざっくりと形を取った向日葵を、少しずつ描き込みながら一成は思う。
自然と言葉になったけれど、有り得ない話をしている自覚はある。ギャラリーの絵に描かれていた人と言葉を交わした。空想の一つで片付けられるのが当然で、荒唐無稽な出来事。夢を見ていたのだと言われればうなずいてしまいそうになる。だけれど、全ては確かな現実だった。
こちらとあちらでは、どうやら時間の進み方が違っている。だから、天馬は今どんな時間を過ごしているのかわからない。
まだ昼間なのか、それとも夜になっているのか。そもそも、天馬は向日葵畑で何をしていたのか。不思議な現実に戸惑って何かを問うことはしなかったけれど、考えてみれば疑問は尽きない。
(聞きたいことなら、いっぱいある)
些細なことから大事なことまで、いくつだって質問は頭に浮かんだ。天馬はきっと答えてくれるだろう、と一成は思う。
天馬は一成の言葉を、一つだって蔑ろにしなかった。怖いくらいに強いまなざしで、全ての言葉を掬いあげるみたいにちゃんと話を聞いてくれたのだ。だからきっと、どんなにくだらないことを聞いたって、呆れた顔をしながら答えてくれるんじゃないかと思えた。
ささやかな時間を共に過ごしただけだから、どんな根拠もない。だけれど、一成はただ自然とそう思った。
(オレがまた来るって、思ってくれてるからかな)
去り際の光景を思い出せば、一成の唇には笑みが浮かぶ。再び一成が訪れることを、天馬は当たり前みたいに信じていた。
ほんのわずかな時間を共にしただけなのに。ただ話をしただけで、天馬に特別な何かを上げられたわけじゃないのに。まるでそこには自分の居場所があるみたいだった。
一成とて、友人がいないわけではない。大学生活では気安い時間を過ごす相手もいるし、明るく話しかければ楽しげに答えを返してくれる。
親族での集まりとは違って、爪弾きにされるとか辛く当たられるとか、そんな経験はないし気の良い友人たちだと思う。ただ、一成は一度だって本音を口にしたことがなかったから、薄い膜のような隔たりをずっと感じていた。
友人は何も悪くなくて、自分のせいだとわかっている。
相手が望んだ言葉や欲しいものを差し出すのは、一成にとってあまりに自然だったから、最初に出会った時からそうしてきた。だってそうしなければ、自分はどこにも居場所がない。
欲しいリアクションを返すこと、望んだ言葉を口にすること。相手にとってプラスの存在でなければ、すぐに愛想を尽かされて要らないと思われてしまう。だから、自分の本音はずっと殺して生きてきた。
結果として、本心で向き合うことができなくなって、友人たちと過ごしていても溝を感じるようになっていた。本音を言えない自分の居場所なんて、どこにもないのだと思った。
だけれど、天馬は。
顔を見て逃げ出して、天馬のことも知らなかったなんて、きっと印象は最悪だったはずだ。それなのに愛想を尽かすこともなく接してくれた。
それどころか、「また来るんだろ」と言って、一成の訪れを待ってくれる。天馬に特別な何かをしたわけじゃないのに。自分の本音を殺して差し出したものなんて、何もなかったのに。
ちゃんとここに来てもいいのだと、はっきりと伝えてくれる。まるで居場所があるみたいだった。その事実に浮かぶ気持ちに思い出すものがあり、一成は少しだけ手を止めた。
(『贈りものをさがして』の招待状のシーンが好きだったな)
頭に浮かぶのは、小学生の頃に読んだ児童書だった。勉強の一環として、たびたび図書館を訪れた。『贈りものをさがして』はその際借りた本で、絵本の中に入って動物たちの誕生日パーティーに参加する物語だ。
主人公の女の子は、招待状を受け取って絵本の中に入る。動物たちに招かれたから女の子は絵本の世界に飛び込めるし、パーティーにも参加できる。
訪れるのを待っている誰かがいること。自分の居場所はここだと、はっきりわかること。小学生の一成には、それがとても羨ましかった。あの時の気持ちを、一成は思い出している。
絵の中の天馬は、きっと待っていてくれる。その事実はどうしようもなく一成の胸を満たすのだ。
(テンテンは『贈りものをさがして』知ってるのかな。あっちの世界にもあるのかな)
懐かしい気持ちになりながら、記憶の中の児童書を思い浮かべる。
本当は手元に欲しかったけれど、小学生の一成は自由に使えるお金を持っていなかった。両親は文学作品や科学系の本以外には難色を示すので、「ほしい」とも言えなかったのだ。
大学に入って、両親に内緒で学内や先輩のツテでアルバイトをしてお金を稼ぐようになった頃には、すでに絶版になっていた。図書館からも除籍されたようで、記憶の中でしかあの本と出会うことはできないけれど。違う世界があるのなら、当たり前に本屋に並んでいるかもしれない、と思うのは幸せな想像だった。
一成は再び手を動かす。紙の上に、向日葵の姿が現れていく。一成は向日葵畑を思い出しながら、明日もまたあのギャラリーへ行ってみよう、と決意を固めている。