向日葵畑で待ち合わせ



 水彩画を描くことにした。鉛筆だけのスケッチでも天馬はありがとな、なんて言ってくれるだろうけれど、きちんとした形に仕上げたかったのだ。
 そうと決めてから、すぐに必要なもの一式をそろえた。
 捨てられてしまっただけで、昔は水彩画も描いていたのでどれが手になじむかはよくわかっている。貯めていたアルバイト代はだいぶなくなってしまったけれど、後悔はなかった。
 あまり時間がないことはわかっていた。
 本格的に取り掛かった時点で、天馬が合宿所を離れるまでは残り二日になっていた。明後日には天鵞絨町に帰ってしまう。
 時間の進み方はマチマチだから、純粋に二日後に会えなくなると決まったわけではない。今までの経験から考えると、順当に一日が過ぎる可能性の方が低いから、恐らく五日程度の猶予はある。ただ、突然のイレギュラーが発生しないとは言えないのだ。出来得ることならば、二日後までに作品を仕上げたい。
 だから一成は、大学で絵を描いている。机の上に紙や絵の具を広げて絵を描くことに没頭しているのだ。幸い構内には机も椅子も豊富にある。絵を描く場所には事欠かなかった。

「スケッチ以外描いてるとか、珍しいじゃん」

 中庭に設置されている机に、水彩画道具一式を広げていると声を掛けられた。
 顔を上げれば、同じ学部の友人だった。軽音サークルに入っており、彼のツテでロッカーにスケッチブックや画集などを置かせてもらっている。

「まあね~。ちょっとこういうのも描いてみたくて!」
「そういうもん? まあ別にいいけど、三好今日の法制史いた?」
「うーん、今日はちょっとパスしちった!」

 明るい笑顔で言うと、友人は「マジで!?」と大袈裟に反応する。
 一成は見た目によらず真面目と評判だ。講義をサボるなんてしたことがないし、誘われても結局はちゃんと出席している。そんな一成が講義に出ていない。
 もちろん理由は一つで、絵を描くためだ。こんなことが知られたら何を言われるかわからないし、一成とてサボりたいわけではなかった。だけれど、今大事なことは絵を描くことだった。
 講義が始まっても教室の席に着いていないなんて、一成にとっても初めてのことで心臓がドキドキした。後ろめたくて、罪悪感に襲われて冷や汗まで出てくる。
 しかし、絵に集中してしまえば、そんなものはすぐに吹き飛んだ。目の前の紙の上だけが世界だ。天馬に見せたいものを、ここに描き出すのだ、という意志のもと一成は筆を走らせた。

「今日起きらんなくて、俺も出てねーんだよ。ノート借りる気だったんだけど」
「めんご~。他の子にノート借りられないか聞いてみるね!」

 いささか不機嫌そうなつぶやきに、一成は軽い調子で答える。もともと、彼と知り合ったのは「ノート貸してくんね?」と声を掛けられたことがきっかけだ。
 話してみれば楽しい時間を過ごせたし、深いことを話さずともゆるく付き合える相手だ。飲み会などにもよく声を掛けられるので、比較的顔を合わせることが多い。

「ならいいけど、よろしく頼むわ。ロッカーも貸してんだし」
「おけまる~」

 最終的にノートが手に入るなら、経緯は気にしないのだろう。あっさりとした答えに、一成も了承を返した。
 ノートを貸してくれそうな人を頭に思い浮かべて、果たして誰に頼もうか、と考える。ロッカーを借りているのは事実だし、世話になっているので借りは返したかった。
 彼が一成にロッカーを貸しているのは、気兼ねなくノートを借りるためだということはわかっていた。
 一成は真面目な人間なので、ノートもきちんと取る。内容もわかりやすいと評判で、よく貸してくれと頼まれるのだ。その際、優先的にノートを借りたいという意向で「ロッカー貸してやろうか」と言ったことを一成は察している。本人が言ったわけではなくとも、態度の端々からおおむねわかるのだ。

「そんじゃまあ、オレは飲み行くから帰るわ。三好もサボってんなら行くか?」
「オレ今あんまお金ないよ?」
「金がねーやつに用はねーわ」
「ひどいな~」

 けらけら笑って答えると、友人は肩をすくめる。冗談であることはわかっていたので、あくまで雰囲気は軽い。
 まあ、奢られる気であったことは事実だろうけれど。一成の家が裕福なことは察しているようで、よく「奢ってくれ」やら「これついでに買ってくれ」やら言われるのだ。

「んー、でも、オレこの絵描きたいからさ。今日はパスでだいじょぶだよん」

 たとえお金があったとしても、飲み会に行くような時間がないのは事実だ。今の一成にとって大事なのはこの絵を描き上げることだけだ。他のことに目をくれる暇はない。
 友人は「ふーん」と言ってから、机の上に広げられた紙に目を向ける。スケッチパッドのA4サイズ紙の上には、向日葵畑が描かれている。下描きは済んでおり、青空の着色に入っているところだった。
 天馬と過ごしたあの向日葵畑で見たような、くっきりとした夏の青空を描きたくて、一成は何度も色を作っている。

「向日葵畑?」
「そう! 青空と向日葵がテーマなんだよねん!」

 絵を見てくれたことが嬉しくて、いささか意気込んで一成は答えた。天馬と過ごした時間。天馬が望んだもの。自らの手で描き出す世界。一成は弾んだ心そのままに声を発する。

「今ちょっとここの青空塗りたくてさ。だけど、そのまま出すんじゃほしい色にならなくて、いろいろ試してるとこ。どれくらい他の色混ぜればいいかな~ってのがまだわかんなくて」

 セットの絵の具に青はあるけれど、そのままでは天馬と過ごしたあの景色にならない。他の色を混ぜつつ理想の色を探しているのだ、と力説する。目の前の友人は、一成の言葉に数秒沈黙を流してから言った。

「そういうもん? 全然わかんねーわ」

 無機質な声音に、一成ははっとする。苛立っているとか、馬鹿にしているといった響きではなかった。ただ、何かをシャットアウトするような声だった。
 線が引かれたのだ、と一成は思う。こちらに向いていた心が閉じた気配。絵に対して興味がないから。一成と同じ熱量を持っていないから。諸々の気持ちから、友人は線を引いた。一成と自分は違うのだと明確に意識したのだろう。
 一成はすぐに表情を塗り替える。口にすべき言葉は、取るべき行動はすぐにわかった。
 深い話をするような相手ではないのだ。本音を取り出して口にしたことなどなかったのに、突然こんな風に自分の考えを聞かされたところで戸惑うのも無理はない、と思った。
 もっと慎重にならなくてはいけなかった。目の前の彼は、込み入った話や強い感情を伴う話を好まない。何事にも深く関わることを良しとしないし、そんな彼だからこそ一成も気楽でいられたのに。いきなりこんな話をしてしまったのは、自分の落ち度だ。

「だよねん! つまんない話しちゃってめんご~!」

 両手を合わせておどけたようなポーズを取れば、友人は唇に笑みを浮かべた。軽い雰囲気で「そーそー」と言う。興味のない話を続けるようなことはせず、謝罪までしたことに満足したらしい。唇を引き上げたまま続ける。

「絵なんか描くより酒飲んでる方が楽しいだろ。ってわけだから、俺もう行くわ」
「おけまる~」

 片手を上げて去っていく友人に向かって、明るい笑顔で手を振った。今まで通りの顔で、何も変わらない態度で。いつだってこんな風に接してきたから、軽い雰囲気は一成によくなじんだ。
 雑踏の中に背中が消えていき、一成は描きかけの絵に視線を転じる。
 理想の色を出すために、いろいろな青を作った。まぶたの裏に焼きつくような青空。その下の太陽みたいな向日葵。あの風景を描くために必要な色がほしい。

(――どの色がいいかな。ずっと見てるとよくわかんなくなってきちゃうよねん)

 誰かに意見を聞くことができたら違うだろうか、と思うけれど。果たして、絵について尋ねられる人間がいるかと言えば疑問だった。
 一成が絵を描く、ということ自体は特に隠してはいないから知っている人間は多い。ただ、それは事実として認識しているだけであって、特に話題になるようなことはなかった。恐らく単純に興味がないのだ。
 そういう話をしたければ、絵に関わるサークルや活動なりに顔を出せばいい。それをしなかったのは、結局一成も無意識に避けていたのかもしれない。絵を描くことで自分の本音が見えてしまうことも、相手の望んだ形に心を加工して差し出せないことも、きっと怖くて。
 だからこれは全部自業自得なのだとわかっている。絵の話をしても、見知った友人たちはゆるやかに線を引く。興味のない話をしているのだから当然だ。誰かは愛想で聞き返してくれるかもしれないけれど、どれだけの気持ちを絵に込めたかなんて語ることはないだろう。
 本心で向き合うことのできない一成には、心の全てをさらけ出すような絵の話はきっとできない。友人たちも、恐らくそれを望んではいない。
 今までのように、深い話をせずゆるやかに付き合っていくのが一番なのだ。楽しい話だけをして、苦しいことは一切見せずに。ただ笑顔だけが続く関係でいればいい。
 それが正しいのだと、ずっと思っていたのに。
 頭に思い浮かぶのは天馬の顔だ。もしも天馬がここにいたら、天馬にどの色が一番近いかなんて聞いたら、真剣に考えてくれる気がした。
 広げた色を一緒に見て、こっちの方が近いんじゃないかとか、これはこれできれいだな、とか。もしかしたら、今までに見た空を思い浮かべて、この色はあの時の青空に似ているなんて話をしても聞いてくれる気がした。

(――絵を描くんだ)

 あちら側とこちら側。違う世界に生きている人だとしても、大事な人であることは変わらない。きっとずっと、これから先も忘れることはないだろう。たとえ同じ場所で生きられなくても、この絵は天馬と一緒に時間を重ねていける。
 だから、心の全てを傾けて描くのだ。あの向日葵畑を、まばゆいばかりの光をたたえた夏の風景を。
 タイムリミットは迫っている。一成は一つ深呼吸をすると、並んだ色へ真剣なまなざしを注ぐ。描かれるべきふさわしい色を見つけるために。