向日葵畑で待ち合わせ
芝居の休憩時間に、天馬の話を聞いている。地べたに座って、キャンバスを挟んで真正面で向き合うのもすっかりいつものことだ。
「合宿ももうすぐ終わりなんだっけ?」
「ああ、そうだ。それなりの時間は取ってもらったが、さすがにずっと合宿所にいるわけにはいかない」
場所を変えれば気分も変わるだろう、ということも期待しての合宿だった。
夏組がまとまるために必要ということで、それなりに長い期間が設けられていたものの、そろそろ天鵞絨町へ帰らなくてはならない。天馬の仕事もあるし、夏組のメンバーは全員が夏休みというわけではないのだ。
「そっか。テンテンも仕事だし、あと、すみーもお仕事あるんだっけ」
「そろそろアルバイトに行く必要があるとか言ってたな。あんなにさんかくの話しかしてない人間に、仕事ができてるのかも謎だが」
夏組の一人を示して言えば、天馬が心底不思議そうにつぶやく。
二人であれこれと話をしていたので、一成は自然と夏組メンバーについて詳しくなった。
一成と同じ年の斑鳩三角という青年は、いついかなる時ももさんかくを探している変わり者。あとの二人は同じく聖フローラ中学校(一成も知っている学校だったのでほっとしたし、名門じゃん!と騒いだ)に通っている。
準主演を務める瑠璃川幸は、女の子のような格好をしているもののれっきとした少年で、気が強くて毒舌。最後の一人、向坂椋は反対に気が弱くて、いつでもおどおどしているという。
天馬から聞いた話をもとに、一成はあだ名で呼ぶことにした。天馬のこともあだ名で呼んでいるので、みんなも同じようにしたら夏組が少しでもまとまるかも、なんておまじないのような気持ちで。
三角はすみー、幸はゆっきー、椋はむっくん。勝手につけたあだ名で呼んでみると案外しっくり来たし、天馬は「何だそれ」と言いつつ面白そうに笑っていた。
「あと、カントクちゃんも忙しそうだよねん」
「一応、こっちでやれることはやってるけどな。限界もあるだろ」
合宿へ来ているのは、夏組だけではない。その内の一人を指して、一成は言う。カンパニー主宰兼総監督を務めるのは妙齢の女性で、劇団のために日々奔走していると聞いていた。合宿だけが仕事ではないはずだ。
そもそも、MANKAIカンパニーというのは莫大な借金を抱えており、借金返済と劇団の経営を立て直す必要がある、と天馬から聞いている。春夏秋冬全ての組で、公演を千秋楽まで成功させなければならないのだ。
しかし、所属する劇団員は数が少なく、無事に幕が上がるかどうかすら危ういというのが現状だ。
春組はどうにか走り切ったものの、夏組の段階でも綱渡りは変わらない。そんな状況なのだから、監督としてやるべきことは山積みのはずだ。
「でも、ちゃんとみんなのこと見ててくれる人なんだよね。テンテンにもアドバイスくれたんでしょ?」
軽い口調で告げるのは、夏組と衝突したあとで監督が声を掛けてくれた一件だ。天馬はこくりとうなずくので、一成は天馬から教えられた話を思い出す。
今日も今日とていつものようにギャラリーを訪れて、話を始めた一成は天馬の様子がおかしいことに気づいた。芝居の練習にも何だか身が入らないようで、どうしたのかと尋ねてみると、ぽつりぽつりと経緯を話してくれた。
昨日天馬は、一成と別れてから合宿所へ戻った。
練習の続きを再開したものの、相変わらず夏組の様子はバラバラでぎこちない。椋はおどおどして台詞を間違えてばかりだし、幸は一応形にはなっているものの、客に見せられるレベルではない。三角は集中力にムラがありすぎて、芝居の途中でさんかく探しを始めてしまう始末だ。
その上、全員がバラバラに自分の役を演じるだけで、何一つ一体感は生まれない。休憩時間だって、個々好き勝手に過ごすだけで会話すら発生しなかった。
夏組として舞台へ立つというのに、全員向いている方向が違うのだ。いくらそれぞれのキャラクターが個性的だとしても、別々のドラマを展開しては一つの作品として成り立たない。
このままではいけない。主演を務める自分がどうにかするべきだ、と天馬なりにそれぞれに声を掛けてアドバイスをしようと思ったのだ。
足りない部分なら嫌でも見えるから、一つ一つを指摘してやれば良くなるはずだと思って。だけれど、天馬の言葉に一応うなずきはするものの、目に見えて演技が上達するわけもない。
演劇経験のない素人なんだから仕方ない、と頭では思う。しかし、上手く納得できずに苛立ちばかりが募るのだ。
何を思っているのか、どんな考えで芝居に臨んでいるのかすらわからないからかもしれない。
ただ同じ台本を読んでいるだけで、一つの作品として成立もしていない。芝居によって互いの心を返していくような瞬間も生まれず、舞台に立つ誰もがただバラバラに存在しているだけだった。
苛立ちは解消されないまま、夕食の時間になる。
親睦を深めるために全員で作ることになっているものの、基本的に無言のままで準備は進む。時々、椋が何かを言いたそうに口を開くものの、声になることはない。
その日も黙々と準備を進めていたのだけれど。一体何がきっかけだったのか。覚えてもいない些細なことから、苛立ちのまま天馬が言葉をこぼす。
カチンと来た幸が言い返して、慌てたように椋が声を掛けるけれど二人に反論され、どんよりと落ち込む。我関せずといった態度で三角がとんちんかんなことを言っていて、天馬の苛立ちはいっそう募った。
練習の風景を思い出す。何も変わらない。良くなるために言っているのに。こんなメンバーで舞台に立てるわけがない。全員バラバラで、何一つまとまることもないこのメンバーでは。
現状への苛立ちもあいまって、天馬は言葉を荒げてキッチンをあとにした。
部屋に戻る気分にもなれず、外階段でぼうっとしている天馬に声を掛けたのは、お盆を持った監督だった。夕食で作ったカレーを持ってきてくれたのだ。そのまま天馬は、カレーを食べながら監督と話をしていた。
ささやかな話だった。しかし、監督はこれまでの天馬の行動をしっかり見ていてくれたのだ、と思い知るには充分だった。
夏組の芝居を良くしようとしての行動を評価して、何よりも天馬のことも信じてくれた。天馬をリーダーにしてよかったと、嘘偽りなく言ってくれたのだ。とても上手くできているとは思えないのに、心から。
その上で、芝居をよくするためにできることはもっとあるとアドバイスもくれた。
役者としての実力を持ち、リーダーとして夏組メンバーを見ていてくれた天馬なら、的確な助言ができるはずだと。天馬はきちんとメンバーの演技を見ている。欠点を指摘するだけではなく、良い所だってわかっているんだから、それをちゃんと口にすればいいのだと。
「――で、まずは謝罪からってとこでつまずいちゃったんだよね~」
今までの流れを簡単にまとめてから、一成は言った。場の雰囲気を明るくするために、からからと笑いながら。
監督のアドバイスを実践しようと、天馬は意を決して翌日の練習に臨んだ。昨日の夕食時は苛立ちのまま、きついことを言ってしまった自覚はある。だから悪かったと謝ろうと思ったのだけれど。
「慣れてないから、タイミングがわからなかったんだよ」
決まり悪げに天馬が言う通り。稽古場にメンバーがやって来て、いざ謝罪を口にしようと思ったところで天馬は言葉に詰まってしまった。
面と向かって謝罪なんてしたことがなかった、というのもあるし、普段なら気にならないメンバー同士の空気にたじろいでしまったのだ。
天馬がおらずとも、気軽な雑談が飛び交うような雰囲気ではないのだ。全員が互いに無関心といった空気感は、天馬の謝罪すら拒絶するのではと思えて上手く言葉にならなかった。
結局タイミングを失って、そのまま稽古が始まってしまった。昨日の夕食の空気感を引きずって、気まずいままに午前が終わる。
それから昼食後の休憩時間に、いつも通り向日葵畑を訪れて事の次第を一成に説明したのだ。
「だけどさ、悪いこと言っちゃったなとは思ってるんでしょ?」
「それはまあ……芝居に関係ないことまで言う必要はなかったと思う」
苦々しい表情で天馬は答える。具体的に何を言ったかまでは聞いていないけれど、売り言葉に買い言葉で、恐らくプライベートなことに言及してしまったのだろうと一成は考えた。
言動がきつくなりがちな天馬なので、いっそう厳しい言葉に聞こえたはずだ。たとえ、天馬に相手を傷つける意図がないとしても。
「それじゃ、やっぱり謝った方がいいよねん。傷つけたかもって、テンテンも思ってるんだしさ」
悪気の有無で言えば、天馬に悪気はなかっただろうと一成は思っている。ただ、口にした言葉が相手を傷つけた可能性があるということもわかっているし、それが自分の誤りであることも承知しているのだ。ならば、きちんと謝罪をした方がいいと一成は思った。
「それに、テンテンのこと誤解されたままなのもいやじゃん?」
なるべく軽やかな声で、一成は言葉を続けた。
確かに天馬の言葉はきつく聞こえることもあるし、声を荒げたとなればずいぶんと圧も強かっただろう。相手を委縮させてしまったかもしれないし、怖い人間だと思われた可能性はある。
本当は、とてもやさしい人なのに。何にだって真正面から向き合ってくれる人なのに。誤解されたままの評価になったらいやだな、と一成は思う。
「あとさ、テンテンの話聞いてる感じ、みんな結構わかってくれそうじゃね?」
具体的にどんな人物なのかを知っているわけではないけれど。天馬の言葉の端々から聞いた限りでは、夏組のメンバーというのは素直で心根の真っ直ぐ人たちなんだろうな、と思ったのだ。
天馬は「まあな」と答えるので、薄々感じ取ってはいるのかもしれない。その事実へ勇気づけられる気持ちで、一成は口を開く。
「むっくんとかさ、気弱っていうのはたぶん、やさしい子なんじゃない? 委縮しちゃってるからおどおどしてるけど、結構フォローしようとしてくれてるっぽいし」
「……まあ、向坂は一応話しかけて場の空気を盛り上げようとはしてるな。毎回失敗するが」
休憩時間に雑談を振っては、話が弾まず撃沈する様子を思い浮かべて天馬は答えた。天馬も含めて、一応雑談に応じてはいるものの、大体話が膨らまなくて会話は一往復で終わってしまうけれど。
「ゆっきーは逆にめちゃくちゃきっぱり言えるタイプだから、テンテンとも渡り合えるっしょ」
「それはそうかもしれないが、瑠璃川は口が悪すぎる。このオレを捕まえてポンコツ呼ばわりだぞ」
「有名俳優の皇天馬捕まえてポンコツって言えるの、度胸はあるよね~」
天馬の演技力は夏組でも大きな武器になるはずだ。実力の差に委縮してしまうことも考えられるのに、幸は一切気にしないどころかポンコツ呼ばわりである。物怖じしないタイプなのだろう。
「それに、春組の衣装すごかったってことはめちゃんこプロ意識あると思うな~。中学生なのにすごくね?」
幸はもともと、春組の衣装制作としてMANKAIカンパニーと関わった。その出来は、舞台を見ている天馬も知っているのだ。天馬は渋々とした調子ながらうなずく。
「春組の衣装は、舞台でも見劣りしない出来だったのは確かだ。あれをデザインから縫製まで仕上げたのはすごいと思う」
敵対する両家の衣装は、それぞれ赤と青を基調にして作られていた。主人公のロミオのあざやかな赤と、準主人公のジュリアスがまとう深い青。
キャラクター造形を際立たせるようなデザインとあいまって、舞台でよく映えていた。求められるものに自分のセンスを発揮して完成させられるのは、プロ意識の産物だろう。
「すみーはマイペースだけど、その分安定してる感じするんだよねん。テンテンにもさ、結構フラットな感じじゃん」
さんかくをいつでも探していて、見つけるときらきら顔を輝かせる。それ自体は奇異に思える行為ではあるものの、逆に言うといつでもその状態を維持している。
天馬がきついことを言っても、苛立っても、三角は気にすることなく天馬と接する。
「――斑鳩のマイペースさに助けられてるところもなくはない」
ぼそり、と天馬は言う。今朝稽古場に入ってきた時、椋は明らかに昨日のことを引きずっておどおどしていたし、幸も苛立ちを残しているようだった。
ただ、三角だけは何も変わらない。さんかく探しが上手く行かなかったようで気落ちはしていたものの、天馬に対するしこりが一切ないことは見て取れた。
天馬の言葉に、一成はにっこり笑った。威圧的な言動と言葉にする内容を間違えがちなだけで、天馬は人のことをちゃんと見ている。
それぞれの演技の欠点と同時に長所だって認識できるように、普段の様子だってちゃんと把握しているのだ。相手をよく見てる、なんて一成に言ってくれたけれど、それは天馬だって同じなのだ。
何だか嬉しい気持ちになりながら、一成はさらに言葉を続けた。
「それにさ、今までずっと練習してきたんだし大丈夫じゃね? テンテンの本気はちゃんとわかってるって!」
もともと知り合いだったわけではないメンバーだ。不思議な縁で夏組という関係性になったものの、強制されたわけではない。辞めるという選択肢だってあったけれど、誰一人そんなことを言い出さずに今日までを過ごしている。それは一つの答えなのだと一成は思う。
「辞めるって言うタイミングがないわけじゃなかったと思うんだよねん。でもさ、合宿だってちゃんと参加して練習もばっちりしてるわけだし」
天馬にとっての及第点ではないかもしれないけれど、練習に身が入らないというわけでもサボろうとしたわけでもない。全員きちんと練習に参加しているし、辞めたいと口にすることもない。
「テンテンと一緒に練習してたら、めちゃくちゃ本気で向き合ってくれるってこともわかるっしょ。絶対手抜かないし、本当に真剣なんだなって伝わるじゃん。だからさ、テンテンの言葉なら聞いてくれるって!」
だってここで台本の読み合わせをしているだけの一成にも、天馬の真剣さは痛いほど伝わるのだ。素人でしかない一成に対しても、一切手を抜かずに向き合う。稽古場ですらない場所で、台本を読み合わせるだけの瞬間さえ、天馬は全力で役者だった。
稽古場でも天馬は同じように過ごしているに違いない。だからきっと、夏組のメンバーにも伝わると思った。
天馬の真剣さを一番近い場所で感じてきた人たちなら、心から向けられた謝罪だって、きちんと受け取ってくれる。今までずっと一緒に練習を重ねてきた人たちだからこそ。
「テンテンなら大丈夫だよ」
一成は心からの言葉を告げる。天馬と過ごした時間が、どれほど輝いているのかを一成は知っている。共に過ごす時間は、嬉しくて楽しくて、心が弾んで仕方なかった。
それは恐らく、どの瞬間も天馬が一成に全力で向き合ってくれたからだ。一つだって蔑ろにすることはなく、何もかもをきちんと受け取ろうとしてくれた。そんな天馬であるなら大丈夫だと、一成は本気で思っている。
天馬は一成の言葉を、黙ったまま聞いていた。それから、ゆっくりと口を開く。
「――ありがとな」
一成の心からの思いを、天馬は受け取った。だから、少しだけ照れるような表情で言った。一成はぶんぶん首を振る。ただ事実を告げたまでで、お礼を言われるようなことではないと思ったからだ。
「オレこそ、テンテンと話すのめっちゃハッピーだったからベリサン!――って言ってるのも、何か変な感じ。最初は怖かったのにねん」
くすぐったそうに言うのは、初めて天馬を見た時のことを思い出しているからだ。
常識では考えられない事態ということもあり、最初の印象は恐怖がほとんどだった。それなのに、今では天馬と過ごす時間を心待ちにしているのだから不思議なものだ。
「それはオレもだな。最初は、よっぽど軽いやつなんだと思った」
初対面の記憶を取り出しているのか、天馬は遠い目をして言う。
ため口でいいと告げたあとの言動は馴れ馴れしくて、こいつは一体何なんだと思ったものだ。楽しいことだけを考えて生きている、いい加減でふざけたやつなんだろうと。
「もちろん、今はそんなこと思ってない。お前は、人のことをよく見ていて合わせられるやつだ。相手の望みを察することも気を遣うのも上手いし、笑顔でいてくれることにもずいぶん助けられた」
今日までの時間を思い出して告げると、一成は照れたように笑う。自分にとっての当たり前を拾い上げてくれることも、それが天馬のためになったことも嬉しかった。
天馬は「それに」と言葉を続ける。一成と過ごして、共に芝居をして感じたことがあるから、伝えたかったのだ。
「相手に合わせられる柔軟性は、芝居に欠かせない長所だ。それを活かしたらもっと演技が良くなると思う。ときどき、いい芝居することもあるしな」
「マ!? オレ、ちょっと演技力ついた!?」
「まだまだだけどな。でも、最初に比べたらずいぶん良くなったと思う」
天馬は嘘を吐かないし、芝居にかけてはそれが顕著だ。だから、天馬が「良くなった」と言うなら事実としてその通りなのだ。
胸が熱くなる気持ちを味わっていると、天馬がつぶやき落とした。一成に聞かせるためのものではなく、心の内が思わずあふれてしまったような、そんな声で言った。
「一成と舞台に立ってみたいな」
目を細めて、唇は笑みの形をして。天馬の声がやさしくこぼれて、一成の鼓膜を撫でる。
まなざしに宿る光はやわらかくて、憧憬のようなものを忍ばせる。天馬はきっと、MANKAIカンパニーの舞台を思い描いている。一成の知らない光景に一成を加えてくれた。同じ世界には生きていないけれど、それでも共にあってくれたらと。
にじみだすような願いが真っ直ぐ届いて、一成の胸は詰まる。
天馬の大切な芝居。トラウマを乗り越えるために立つ舞台。そこに自分を加えてくれたことは、どんな言葉よりも確かな一成への信頼だと思えた。
そんな風に思いを懸けてくれる人がいる、という事実にじわりと視界がにじむ。このままあられもなく泣き出しそうになって、一成は笑顔を浮かべた。突然泣いたりしたら、天馬はきっと困惑してしまうから。
「テンテンの舞台、ちゃんと成功させなくちゃだねん。最高の舞台のためにもさ、テンテンちゃんと謝るんだよ?」
幼い子供へ言い聞かせるような、そんな調子で言ったのはもちろんわざとだ。軽い口調で、冗談に紛れさせてしまった方が天馬は受け取りやすいだろう。天馬は少しだけバツの悪そうな空気を流すものの、「わかったよ」と答える。
「ちゃんと謝るし、最高の舞台のために努力する」
天馬がきっぱりと言うなら、これ以上に確かなことなどない。天馬が真剣に取り組む舞台は、きっと大成功を収めるに違いない。よかった、と思いながら一成は軽口で答えた。
「うん。テンテンはいい子だからちゃんとできるよねん!」
面白がった調子で言うと、天馬は顔をしかめる。子供扱いするな、とでも言いたいんだろうな、と思ったし実際「子供扱い――」までは口にしたのだけれど。途中で言葉を切るので、一成は首をかしげる。
「どしたの?」
何かあった?と尋ねると、天馬はしばらくの沈黙を流す。それから一成へ視線を向けると、にやりと笑った。とっておきのイタズラを思いついたような、やけに子供っぽい顔で答えた。
「そうだな。いい子としてちゃんと謝るから、オレにご褒美をくれ」
「オレに用意できるものなら全然いいけど――何かほしいものある感じ?」
「お前の絵がほしい」
不思議に思いつつ問いかければ、天馬は堂々と言葉を放った。しかし、一成にとっては全く予想外の答えだったので、思わず目を瞬かせる。
一体どうして自分の絵がほしいなんて言うのか、理由がさっぱりわからない。頭を埋め尽くす疑問そのままに、一成は尋ねる。
「オレの絵? なんで?」
困惑しながら尋ねてしまったのは仕方ない、と一成は思う。確かに、天馬には雑談として絵を描くのが好きだという話をしたし、持ち歩いている無地のノートも見せた。
鉛筆書きのスケッチはずいぶんな量になっていて、一枚ずつどんな絵なのかと説明した。だから、一成の絵を天馬は確かに知っているけれど、ほしいと言われるなんて欠片も思っていなかったのだ。
「この前見せてもらった時、上手い絵だなって思ったっていうのもある。ただ、一番はお前の絵をもっと見てみたいって思ったんだ」
昔描いた絵が全て捨てられた、という話はしている。だから、一成が描いた絵として残っているのは、無地のノートと大学のロッカーに置いてあるスケッチブックで全てだ。それ以外の新作として一成の絵が見たいのだ、と天馬は言う。
淡々とした調子で、一成が描く新しい絵に興味がある、と告げたあと天馬は言葉を切った。
一成を真っ直ぐ見つめる。強い輝きが宿って、紫色の瞳が不思議に光る。魅入られてしまいそうな目を見つめ返すと、天馬はゆっくり言った。何かに祈るような響きで。
「それに、絵ならきっと残るだろ」
天馬の言葉に、一成の心臓がどきりと鳴った。
気づいていたけれど、はっきりと口にしてこなかった事実がある。あちら側とこちら側では時間の進み方が異なっているけれど、止まってしまったわけではない。否応なしに時間は流れる。だから、いつか合宿の終わりはやって来る。
天馬のいる向日葵畑は合宿所の近くにある。天鵞絨町に帰ってしまえば、この向日葵畑を訪れることは難しくなる。つまり、合宿が終わったら天馬はもうここには来ない。
こうして直に向かい合ってはいるけれど、二人が生きているのは別の世界だ。よく似ていて同じ場所もあるけれど、とこどころが異なっていて、どうしたって違う世界で生きている。天馬がこの向日葵畑を訪れることがなくなければ、一成との対面を果たすことはもうできないのだ。
合宿が終わって、天馬が天鵞絨町に帰ってしまえば、もう世界はつながらないのだろう、と二人とも思っていた。互いの絵はただの絵になって、ただそこにあるだけ。言葉を交わすことはできなくなる。
万が一の可能性として、時間は再び巻き戻るのかもしれない、とも思った。ここへ訪れれば、何度だって合宿へ来たばかりの天馬に会えるのかもしれない。
だけれどそれなら、今ここにいる天馬とは二度と会えない。今のこの瞬間の天馬と一成の時間は、合宿の終わりと共に終止符を打つしかない。
時間の進み方の規則性がはっきりわかってはいないから、確かな日時を特定することはできないけれど、残された時間はそう多くない、と二人ともわかっていた。
だからこそ、終わりを見据えて、天馬は言ったのだ。
いつかこの時間に終止符が打たれて、今日までの日々が思い出になる。その時に、記憶のよすがになるものがほしい。確かに二人で過ごした時間はあったのだと、夢でも幻でもないと言える確かな証がほしい。そのために望んだのが一成の絵だ。
物理的な物の行き来ができることはわかっているから、絵を渡すことは可能だろう。
一成の絵を受け取れば、きっと天馬はずっと大事にしてくれる。疑いなくそう思えるから、ただうなずけばいいとわかっていたのだけれど。
いつか終わりが来るのだ、という事実に打ちのめされるような気持ちが強くて、すぐに答えを返せなかった。
その沈黙をどう受け取ったのか、天馬は言葉を継いだ。自分だけ何かをほしがっては悪いと思ったのかもしれない。
「代わりにオレは、この台本をやる」
「え!? 大丈夫なの!?」
予想外すぎる言葉に、唇から言葉が飛び出た。これから演じる舞台のための台本だ。手放してしまっては今後が立ち行かない。天馬は一成の言葉に肩をすくめた。
「予備はあるからな。お前にやれそうなものって言ったらこれくらいしか思いつかない。オレのサインでもいいが」
「それはそれでほしいけど……てか、サインも台本もレアすぎない? 代わりがオレの絵でいいの?」
天馬から渡されるものに対して、あまりにも釣り合いが取れていないのではないか、と思った。だって一成の絵は、単に趣味で描いているだけのものだ。プロとして芝居をしている天馬とは、到底比べようがない。
しかし、天馬は一成の言葉に不機嫌そうに眉を跳ね上げる。苛立つような強い声ではっきりと言った。
「お前の絵がいいんだよ」
「が」の部分にアクセント置いて、天馬は答えた。他の誰でもなく一成の描いた絵がいいのだと。他の物ではだめで、一成の絵がほしいのだと。天馬は強い調子で言葉を並べる。
「お前のスケッチを見てると、一成はこんな風に周囲を見てるんだなって思う。木漏れ日が落ちるところがきれいだって思うし、ケーキの絵は美味そうだ。くつろいでる猫の描き方がやさしいし、店からはにぎやかな声が聞こえる気がする」
無地のノートに描かれるスケッチを見ながら、天馬は思っていたのだ。一つ一つの説明を受けながら、一成の見ている世界はなんてきれいなんだろう、と。
一成の描くものは、日常の中のささやかな風景だ。見過ごしてもおかしくはないし、実際天馬にとっては取り立てて特別なものには思えない。それなのに、一成はどうしてこの絵を描いたのかと教えてくれる。
木漏れ日がスポットライトみたいで、舞台ってこんな感じかなって。このタルト、フルーツが宝石みたいだったんだよん。たまたま見かけた猫なんだけどさ、この伸びしてる背中がめちゃんこキュート! 大学近くの喫茶店、テラス席で盛り上がってて楽しそうだったんだよねん。
「一成の見たものがもっと見たい。お前の見てる世界は、きれいだって思う」
見逃してしまいそうなささやかな瞬間を、一成の目は拾いあげる。絵にして形にしようとする。それはたぶん、小さな美しさを一成が見つけることに長けているからだ。
きれいなもの、快いもの、胸に響くもの。一成の見つけたものを、目に映した世界を、天馬はもっと知りたかった。
「――オレはお前の絵が好きなんだ」
目を伏せた天馬は、わずかに頬を染めて言った。絵の良し悪しなんて、天馬にはよくわからない。だけれど、描いた絵をもっと見たいと思うのは、きっと好きということなのだろう。それをきちんと伝えたかった。
一成は天馬の言葉に、何も言えなくなる。だって、こんなこと、言われたことがなかった。一成にとって絵を描くことは、隠れて行なわなくてはいけないことで、後ろめたいものだった。
幼稚園の頃、母親の絵を描いてプレゼントした。大好きだった青色のクレヨンをたくさん使って、洋服を塗った。丁寧に、丁寧に描いた絵。はにかみながら渡すと、母親は何も言わず「ドリルは終わったの?」と聞いた。
小学生の頃、もらった球根を植えてチューリップを育てた。理科の勉強に最適だと、両親も積極的に協力してくれた。発芽して若葉が育ち、すくすくと大きくなり、つぼみをつける。
花開いた時は本当に嬉しく胸が弾んだ。赤い花びらの少し薄い所や、葉脈の透ける緑のあざやかさに目を奪われる。どれだけきれいかと、父親にたどたどしく伝えると「もう花は咲いたら用はないだろう」と言うだけだった。
描いた絵。見ている世界。自分だけしか知らないと思っていたもの。誰一人、認めてはくれなかった。絵を描くことは裏切りと同じで、罪悪感を抱えるしかないと思っていた。
それなのに、天馬は言う。真っ直ぐとした目で、絵が見たいと、絵がほしいと、一成の絵が好きだと言う。
「……一成?」
黙り込んでしまった一成へ、天馬は不安そうに呼びかける。何か不快にさせてしまっただろうか、と思ったのかもしれない。一成は慌てて口を開いた。
「ありがとね、テンテン!」
できる限りの笑顔を浮かべたけれど、きっと上手くはできていなかっただろう。声は揺れて、ほとんどつぶれている。だけどこれは、悲しいからじゃない。苦しいのでも辛いでもない。一成は深呼吸をすると、言葉を続ける。
「ね、テンテンはどんな絵がいい? せっかくだからさ、リクエストしてよ」
どうせ描くなら天馬の望んだものがいい、と一成は思った。どんな絵だってきっと喜んでくれるけれど、天馬をとびきり喜ばせたいのだ。天馬は少しだけ黙ったあと、口を開いた。
「青空の向日葵畑がいい」
力強い言葉に、一成は天馬を見つめる。天馬は小さな笑みを浮かべて言葉を添える。
「思い出すのはこの場所だろうからな」
寂しさと同時に、揺るぎのない力強さを感じさせる声だった。
会うことができない寂しさを抱えるとしても、忘れはしないと決意するような。一成を思い出すことをタブーにするのではなく、確かに一緒に連れて行くと告げるような。そんな声に、一成はうなずいた。
「待ってて。最高の絵を描くから」
いつの日か終わりを迎えても、今日までのことを何度だって思い出す。そのためにふさわしい絵を描くのだ。今この瞬間を全て閉じ込めるように。これから先の未来まで、描いた絵が天馬を照らしていくように。