おやすみナイチンゲール 01話




 一成はうつ伏せで地面に倒れている。
 体が動かない。葉擦れの音が耳鳴りのように響く。自分の呼吸音がやけに耳につく。土の匂いに鉄の匂いが混じっていた。
 意識はもうろうとしているのに、体に走る痛みが気を失うことを許さない。かろうじて脈打つ鼓動と共に、じっとりと血が流れていく。
 辺りは暗く、ただ木の揺れる音がしている。闇に塗りつぶされたような視界の中で、スマートフォンの画面だけが四角く切り取られている。
 もうろうとした意識で、一成は呼び出しを続けるスマートフォンを見つめる。答えて。どうかつながって。懸命に祈るけれど、すぐに願いは断ち切られる。
 背後にいた人物が、スマートフォンを拾い上げると思い切り地面に叩きつけた。何かが割れる音がした。明かりが消える。衝撃の弾みに、つけられていたストラップが千切れてころころと転がった。
 背後の人物は、それだけでは飽き足らず、スマートフォンを何度も踏みつける。ばきり、とひどい音がした。
 大切な思い出がたくさん詰まっている。何もかもが宝物みたいな日々を仕舞いこんだ。いつだって大事な人たちとつながっていられる。
 一成にたくさんの喜びや幸福を連れてきてくれたスマートフォンは、無残に破壊される。
 大事だった全ては踏みつけられ、もうカメラも動かないし、電話だってつながらない。届かない。壊れたものは、もう二度と戻らない。

 抗う決意も、逃げ出す意志も、もうとっくになくなっていた。破壊されたスマートフォンはほんの少し先の自分なのだと、わかっていた。
 体も動かない。何一つできることはない。息が苦しい。視界がかすむ。痛い。葉擦れの音がうるさい。辺りの闇が迫ってくる。
 一成は熱い息を吐き出した。視線だけが動く。投げ出したままの右手。その先に、見慣れたストラップが転がっていた。
 叩き落とされた衝撃で外れたクマのストラップ。夏組全員で持っている。星空をモチーフにした。クマの意味するもの。北極星。オレたちの目印。
 一成はもうろうとした意識のまま、指先を伸ばした。
 ほんの数センチが遠い。鉛のように重い体は、まるで言うことを聞かない。それでも、一成は懸命に指先を伸ばしてクマのストラップに触れる。

 北極星。彼を目指して走っていく。オレたちの、オレの目印。

 最後の力を振り絞って、一成はクマのストラップを手のひらに収めた。そこで自分の右手が血まみれであることに気づいたけれど、どうすることもできなかった。
 ごめん、と思いながらクマを握りしめる。オレの北極星。オレの目印。祈るような気持ちで一成は目を閉じた。

 人の気配がした。一成の背中に乗り上げる。体を押さえつけるように馬乗りになるけれど、そんなことをしなくても、動くことなどできそうになかった。
 一成はただ、手のひらのストラップを握りしめる。思い浮かぶ顔がある。会いたい人がいる。声を聞いて、体に触れて、その顔を見て、名前を呼んでほしい。
 きっともう、それは叶わない。もう二度と会うことはできない。それでも、思い出すことだけは許してほしい。

 背後から迫る気配を感じながら、一成はあざやかなオレンジ色を思い浮かべる。

















 目が覚めた。
 一瞬自分がどこにいるのかわからなくて混乱するけれど、見慣れた天井に202号室であることを理解する。心臓の音がガンガンと頭に響く。胸を突き破りそうに激しい。
 固まったままの体をどうにか動かして、一成は右手を目の前にかざした。小さな電球が点くだけの室内でも、はっきりとわかった。血にまみれることのない、自分の手のひらだ。
 それを確認した一成は、ほっと安堵する。体のこわばりが溶ける。小さく深呼吸をしながら思い出すのは、さっきまで見ていた夢の内容だ。

 暗闇の中倒れている。怪我をして動けない。スマートフォンで電話を掛けているのに、つながることなく壊される。次は自分の番だとわかっていた。顔もわからない誰かが、次に手を掛けるのは己自身だ。
 動くこともままならない。逃げ出すこともできない。このまま、ここで終わりを待つしかないのだと、動かない体でそれだけを理解していた。

 ぞくり、と背筋が粟立った。酷い夢だ。だけれどやけにリアルで、まるで自分の身に本当に起こったことのように思えた。あそこで目が覚めなければ、きっと自分は夢の中で絶命したのだ。
 だからなのだろう。心臓は未だに落ち着かず、何だかやけに目が冴える。
 一成は比較的よく夢を見る性質だ。だけれど、変な夢を見て目が覚めても覚醒はわずかで、すぐにまどろみに落ちていくのが常だった。こんな風に、ハッキリと目が覚めてしまうことはまれだった。
 一成は大きく息を吐き出した。布団の中で寝返りを打つ。枕元に置いてあるスマートフォンが目に入って、手を伸ばす。
 夢の中で壊されたスマートフォンは、もちろん傷一つない。何となく安堵しながら、一成はスリープモードを解除した。今の時間を確認したかった。

 3時を少し過ぎた時刻に、一成はわずかに眉を寄せる。今までであれば、絵筆が止まらなかったりオールで遊んだりしてこんな時間になることも珍しくはなかった。
 ただ、最近はカンパニー総出で規則正しい生活を叩きこまれているし、そもそも登校前の夏組に挨拶をするのでちゃんと決まった時刻に起きているのだ。
 寝不足だとわかれば心配を掛けてしまうし、睡眠時間はちゃんと確保したい。もうひと眠りしなくちゃ、と思った一成はスマートフォンの画面をオフにして、布団に潜り込もうとする。
 しかし、ゆらゆらと揺れるストラップに気づいて手が止まった。オレンジ色のたてがみを持つライオンが、スマートフォンにはぶら下がっている。
 まじまじと見つめてしまうのは、さっきの夢で自分がクマのストラップを握りしめていたからだ。
 ここにあるのはライオンで、決してクマではない。その事実に、改めて一成は思う。ああ、やっぱりあれは夢なんだ。
 あまりにもリアルでまるで現実みたいだけれど、今の自分が持っているのはライオンのストラップだ。
 確かに、最初に選んだのはクマだったけれど、本当はライオンがいいなと思っていたことを知った天馬に「取り替えてやる」と言われた。だから、一成が持っているのは決してクマではないのだ。
 交換に至るまでの経緯を思い出すと、一成の唇には自然と笑みが浮かぶ。
 天馬を思い出せば、何だか胸がくすぐったくてふわふわとした気持ちになるのだ。いつだって堂々として力強い天馬の、ささやかなやさしさを見せてもらえることが嬉しい。
 ストラップなんて、誰が何を持っていたって大きな意味はない。わざわざ交換する必要もないのに「取り替えてやる」なんて持ちかけたのは、天馬のやさしさに他ならない。
 一成の願いなら、どんなにささやかなことだって叶えてやりたいと思っていてくれたからだと、今の一成はよく知っている。

(でも、テンテンにクマって我ながらぴったりだよねん)

 胸中で一成は言葉をこぼす。夢の中でも思っていたし、実際天馬にも告げている。
 密にもらったマシュマロのおまけのストラップは、星座がモチーフになっているはずだと推測した。天馬が持っているクマは、恐らくおおぐま座かこぐま座だけれど、一成はきっとこぐま座だと思っている。

(太陽みたいなテンテンだけど、星ならきっと北極星だから)

 いつでも同じ場所にあって、船乗りたちが方角の目印にしたという星だ。
 いつだって、夏組は天馬を目印にして走っていく。天馬がいるから、天馬が目印になってくれるから、夏組はきっと走っていける。そんな天馬には、北極星に連なるこぐま座はきっと相応しい。
 しみじみと思った一成は、自分の心がしんと穏やかになっていることに気づいて苦笑を浮かべた。わかりやすいなぁと思うけれど、悪い気持ちはしなかった。これなら眠れそうだ、と思う。
 どうしてあんな夢を見たのかはわからない。もしかしたら、最近は課題に追われているので、疲労がたまっているのかもしれない。
 睡眠不足は周りに心配も掛けるから、スケジュール配分を考え直したほうがいいかな、と思いつつ一成はライオンのストラップを撫でる。天馬のことを思い出すので、安眠にも効果がありそうだと思ったのだ。

(おやすみ、テンテン)

 唇に笑みを浮かべて、一成はそっと心で声をこぼす。返る言葉はもちろんないけれど、呼びかけられることが嬉しかった。
 スマートフォンを枕元に置き直して、一成は布団に潜り込む。まぶたを閉じた。
 しんとした部屋には、時計の秒針を刻む音が響く。耳をすませば、規則正しい椋の寝息が聞こえた。穏やかな呼吸の音が何だか耳に心地よい。
 ゆったりとした気持ちでそれを聞く一成は、いつしか眠りに落ちている。深い眠りに誘われて、夢を見ることはなかった。