おやすみナイチンゲール 02話




 談話室の朝は忙しい。出勤・登校・各種用事など、朝から活動する団員たちが次から次へと朝食に訪れるからだ。
 特に学生組が集中する時間帯は慌ただしさのピークを迎える。ただ、一番早く登校する聖フローラ組は、比較的ゆっくりと朝の時間を過ごすことができる。
 一成が起きてくるのは、大体椋と幸が食事を終えた時間帯だ。二人の見送りをするために起きてきて、そのまま朝食を取っていることが多い。
 大学の授業や用事がないと、昼過ぎに起きてきて朝食兼昼食を取っていたことが嘘のように、最近は規則正しく三食を取っている。
 今日も今日とてその通り、臣が用意してくれたオムレツとロールパンに、サラダとスープの朝食に舌鼓を打ち、出勤する至と千景を見送っていた。
 その後は、すでに朝食を終えている左京やガイ、監督と雑談を交わしながら、ソファで食後のコーヒーを飲んでいたのだけれど。

「――カズくん、もしかして寝不足?」

 持ち物の確認をしていた椋が、ふとした調子で声を掛ける。心配そうな表情で真っ直ぐ一成を見つめている。

「そういえば、何かあくび多いよね」
「かず、ちょっと眠そう~」

 一成が何かを言うより早く言葉を続けたのは幸で、朝一番のサンカク探しから帰ってきていた三角も続いた。さらに、食べ終えたお皿を片付けて、キッチンから戻ってきていた九門も眉を下げて言葉を添える。

「カズさん、眠いなら寝ちゃっていいよ!」
「ソファで寝るなら、掛けるもの持ってこなくちゃ……!」

 はっとした顔で椋が言い、今にも部屋に向かって走り出しそうだった。一成は慌てて「だいじょぶだよん!」と声をかける。椋のことだ、本当に布団を持って帰ってきそうだった。
 ひとまず椋は、一成の言葉に足を止めてくれたけれど心配そうな顔は変わらない。さらに、それまで黙っていたガイまで「無理をするのは賢明な判断ではない」と言い出すし、監督も「ちょっと仮眠取るとスッキリするかも!」と続く。
 左京は「いつものことだな」とでも言いたげな顔で新聞に目を通していた。一成に対する夏組の過保護っぷりは、もはや日常茶飯事だからだろう。

「マジで全然平気だからね!?」

 実際具合が悪いならともかく、別に体調不良でも何でもないのだ。それなのに心配を掛けてしまうのは本意ではない、と懸命に一成は主張する。
 すると、そのタイミングで談話室の扉が開き、制服姿の天馬が入ってきた。家を出る時刻まではまだ時間があるけれど、天馬は比較的朝が早い。支度が済んで、談話室へやって来たのだろう。

「何かあったのか」

 それぞれと一通り挨拶を交わしたあと、天馬は不思議そうに尋ねる。夏組の雰囲気がいつもと違うことを察したのだろう。素早く答えたのは幸だった。

「一成が寝不足みたいだから、寝かせたほうがいいんじゃないかって話」

 幸の言葉に天馬は綺麗な眉を寄せる。それは当然何かを不快に思うものではなく、純粋な心配から来るものであることは談話室の誰もが理解している。
 もちろんそれは一成もだけれど、同時に別のことも察していた。

「一成、眠れてないのか」

 ソファに座る一成のもとへ、一直線に歩いてきた天馬は言う。
 真っ直ぐとしたまなざしを向けて、心からの心配と不安を乗せて。一成が何か辛い目に遭っていないだろうかと、恐れにも似た雰囲気さえ漂わせて。

「だいじょぶだよん! 昨日変な時間に目覚めちゃったから、ちょっと眠いだけだかんね!」

 明るい笑顔で一成は答えた。無理をしているつもりはない。実際、昨日がちょっとしたイレギュラーなだけで、連日眠れていないわけではないのだ。
 だから、天馬や夏組が心配することは何一つないのだと、一成は朗らかに言い切る。

 夏組や天馬は一成の体調を常に気遣っている。それは、一成が通り魔事件の犯人に襲われて怪我をしたからであると思われているけれど、事実は少し違う。
 夏組しか知らない。他の誰に話してもきっと信じてはもらえない、奇跡みたいな出来事。
 死んだはずの一成と電話がつながって、一成の死を回避しようと未来の夏組は懸命に働きかけてくれた。結果として一成は死ぬことなく、今もこうして夏組と同じ時間を生きている。
 だからこそ、夏組は一成のことが心配でたまらない。
 死んでしまった過去を確かに覚えている彼らは、今ここに生きている一成が傷つけられたり痛い思いをしたりすることが、恐ろしくてならないのだ。再び一成がいなくなってしまうのではないかと思ってしまうから。
 特にそれが強いのは天馬であると、一成は理解していた。だから、純粋な心配だけではなく、恐れすらも浮かべる天馬に言いたかった。
 大丈夫だよ、と。ここにちゃんと生きていて、消えたりなんかしないのだと。

「でも、ちょっと寝不足なのは本当だから、今日は早く寝るねん」

 体調を崩したとなると、確実に夏組全員に心配されることはわかっているので、素直にそう言った。
 睡眠不足は敵である。もはや、一成にとって己の体調管理は夏組のためにも必須事項と言えた。
 天馬は一成の言葉に、ほっとしたように息を吐き出す。それから、「ああ、そうしろ」と笑った。
 やさしく細められた目や、白い歯をこぼす天馬に、一成の胸は高鳴る。
 談話室という場所柄、あくまで夏組の親愛からのものだとわかっている。だけれど、一成は天馬から受け取るものはみんな特別な意味を見出してしまうのだから仕方ない。

「本当なら、お前のこと送っていってやりたいんだけどな」

 残念そうな顔で天馬がつぶやけば、三角もしょんぼりと肩を落とした。
 今日の一成は2限からだけれど、三角はアルバイトがあるためその前に家を出なければならない。三角以外は全員学校なので、当然送っていくことはできないのだ。

「かず、ごめんね~」
「全然だいじょぶだよん! てか、送り迎えなくてもちゃんと大学行けるかんね!」

 諸々の事件があってからしばらくは、大学の行き帰りには誰かが付き添ってくれていた。
 その気持ちは嬉しかったけれど、一成としては時間を掛けさせることが心苦しい。それに、一人でも大丈夫なのだと安心してほしかったので「付き添いなしでも平気だよん!」と事あるごとに主張した。
 結果、夏組はそれを受け入れてくれたので、時間が合えば万里と一緒になることもあるけれど、基本的に大学の行き帰りは一成一人だ。
 ただ、今日は「一成が寝不足である」という事実があるので、「送っていきたい」という言葉になったのだろう。
 一成以外の夏組は、「今日は万里さん何限からだ」やら「確かそんなに遅くなかったと思うな」やら言い合っていて、あれよあれよという間に、万里と一緒に大学へ行く算段が整っていく。
 夏組は学生が多いため、あまり自由に時間が取れない。結果として、大学が関係する場合万里の世話になることが多いのだ。
 夏組一同感謝しているので、万里に対しては何かと貢ぎ物が多くなりつつあるけれど、当の万里は「別に要らねえから」と呆れたように笑っていた。
 今回もきっと万里は、夏組の頼みを引き受けてくれるのだろう。一成は万里に対して、そっと胸中でメッセージを送る。
 大丈夫だってって言ってもたぶん「だめ!」って言われるパターンだから、セッツァー今日はオレと大学行こう。お昼食べたいもの考えといて。

「あ、でも、お迎えオレ行けるよ~! かず、待っててね!」

 一成の時間割を、当然夏組は把握している。終わりの時間を確認した三角は、キラキラした笑みで嬉しそうに言う。どうやら、行きの時間は都合がつかなくても、帰りの時間なら問題なく大学へ行けるらしい。
 夏組も何だかほっとしているのは、さすがに終わりの時間は重ならないので、万里に頼むのは気が引けるからだろう。
 一成はぱっと笑って、三角の言葉に「おけまる~!」と答えた。手間を掛けさせて悪いとは思うけれど、三角が来てくれること自体は嬉しいのだ。
 二人は「帰り道、おすすめのサンカク教えてあげるね~」「楽しみ!」と和やかな空気を醸し出していた。
 ガイや監督も、一段落した空気に安堵の表情を浮かべているし、左京もちらりと視線を向けて「まとまったみたいだな」とつぶやいていた。

 それから、夏組は他愛ない雑談を交わしていたのだけれど、不意に幸が視線を上げる。時計に目をやると、ぽつりと言葉を落とす。

「もうこんな時間か」

 その声に、椋もはっとしたように鞄を持つ。そろそろ二人は出掛ける時間だった。すると、九門も慌てたように置いてあった鞄を手に取った。

「あれ、くもぴ今日早くね?」
「うん! 先生に聞きたいことあって、早く行こうと思って!」

 普段ならば聖フローラ組が出発してだいぶ経ってから九門は寮を出ている。しかし、今日は二人と同じ時間に出掛ける予定だったらしい。
 幸と椋が「いってきます」と言って談話室を出るのに続いて、「いってきます!」と元気に告げて部屋を出る。ほうぼうから響く学生たちを送り出す声を聞きつつ、一成も立ち上がって玄関に向かった。

「お見送り、てんまも行こ~!」
「なんでだよ」

 一成の後ろからは、三角とその三角に腕を取られた天馬もついてくる。天馬は怪訝な顔をしているものの、嫌がっているわけではないので素直に玄関までやって来た。
 期せずして、玄関には夏組が全員集合している。

「それじゃ、いってきます」
「うん。ゆっきー、気をつけてねん」

 澄ました顔で告げる幸に向かって、一成は答えつつ両手を広げる。幸は表情を変えずに腕を回して、一成に抱きついてから体を離した。一成がひらひらと手を振ると、幸は小さく笑った。

「むっくん、いってらっしゃい」
「うん。カズくんも気つけてね」
「おけまる~!」

 言葉を交わしながら、二人は自然な動作でハグを交わす。お互いの背中をやさしく撫でて、少し体を離すと目を合わせてほほえみを交わしあった。

「カズさん、行ってくるね!」
「いってらっしゃい、くもぴ!」

 元気よく告げた九門は、その勢いのまま一成に抱きついた。一成は楽しそうに声を上げて、強く九門を抱きしめ返す。二人は明るい笑い声を咲かせてから体を離した。

 出かける時には必ず一成のことを抱きしめる。
 事件以降始まった習慣は、一成の死んだ過去を知っているからこそだ。誰に見送られることもなく寮を出て、二度とは戻らなかった。自分たちの前からいなくなって、永遠に会うことはできなくなった。
 それら全てを知っているから、一成の存在を体中で感じて、寮を出る時にはきちんと言葉にしたかった。
 抱きしめて、行ってくると言っていってらっしゃいと送り出される。ただいまと帰ってきて、おかえりと出迎える。
 そういう全てを、今ここで生きている一成と交わしているのだと、何度だって確認したかった。だからこそ、こうして出掛ける前のハグを行うようになった。
 MANKAIカンパニーのメンバーは多少意外に思ってはいるようだけれど、案外すんなりと受け入れている。

「かず、オレともぎゅーってしよ~」

 椋たちを見送ると、玄関は途端に静かになる。すると、三角が両手を広げながらそんなことを言う。
 当然一成の答えはイエス以外にないので「どしたん?」と言いつつも両手を広げた。三角はふわふわ笑って答えた。

「みんなぎゅーってしてるからオレもしたいな~って」

 一成の体をぎゅうぎゅう抱きしめながら言えば、一成は「なる~」とうなずいて三角を抱きしめ返す。三角はと言えば心底嬉しそうに両腕を受け入れていた。

「てんまもぎゅーってしてあげるね」

 一通り一成と抱きしめ合ったあと、三角は当然のようにそう言う。天馬は一瞬びっくりしたような顔をしたものの、問答無用で抱きしめられてしまえばわざわざ抵抗することもない。別に抱きしめられるのが嫌なわけではないのだから。
 多少戸惑ったものの、三角の背中を軽く叩いてやれば、にっこり笑った。

「それじゃ、てんまとかずもだねぇ」

 体を離した三角は当然のような顔でそう言うと、天馬の腕を引いて一成の前へ移動させる。
 ニコニコと嬉しそうな笑顔で「オレは先に戻ってるから、あとで来てね~」と言うとひらひら手を振って去って行った。残された二人は思わず無言で三角を見送る。

「……すみー、わりと空気読めるかんね」

 数十秒黙り込んだあと、一成が苦笑を浮かべてつぶやいた。
 三角は基本的にマイペースではあるけれど、他人の感情の機微には聡い。変わった言動が目立つだけで、求められているものを察する能力が高いことは何だかんだで夏組の人間はみんな知っている。
 だから、どういうわけで二人だけ玄関に残されたのかも理解していた。

「まあ、感謝する場面だよな」

 一つ息を吐き出した天馬は笑みを浮かべると、一成の腕を引いた。自分のほうへ引き寄せて、腕の中に閉じ込める。
 予想していたことだから、一成も自然な動作で天馬の背中に手を回した。ぎゅっと力を込めると、同じくらいの強さで天馬も一成の体を抱きしめた。
 夏組同士で交わす抱擁に似ている。だけれど、今ここで二人だけで分かち合うものは、少しずつ違う意味を持っている。
 触れる指先、刻まれる鼓動の音、腕の中に閉じ込める確かな体温。夏組とは違う熱を持って、まとう空気をあざやかに色づかせるのは、互いをたった一人だと思い定めた二人だからこそだ。
 天馬と一成が恋人同士であることを知っているのは、夏組の人間だけだ。察しのいいカンパニーメンバーは恐らく気づいているけれど、公にしているわけではない。
 だから自然と、人目のあるところではあくまで夏組としての振る舞いを行うようになっていった。恋人らしい時間は、二人きりになった時だけ、というのが暗黙の了解だ。
 夏組はそれを察している。加えて、一成は夏組の誰かと一緒にいることが多い。
 必然的に二人の時間が少なくなるので、時々天馬と一成が二人きりになれる時間を設けようとしてくれるのだ。今この瞬間もそういうことなのだろう。

「すみーにお礼しなくちゃねん」

 小さく笑みをこぼして一成はつぶやく。「そうだな。何かサンカク見つけてやるか」と答える天馬の声も何だか楽しそうだ。

 天馬とハグする機会は、日常生活において案外多い。だけれど、恋人としてこんな風に抱きしめてもらえるのは、やっぱり特別なのだ。
 がっしりした腕の中で、天馬の体温を近くで感じる。自分のものではない天馬の匂いが心地よい。一成は背中に回した腕に力を込めて、ぎゅっと目を閉じた。
 酷い夢を見た。再び眠ることはできたし、起きた時にはずいぶんとぼやけていた。それでも、どこかで引っかかるような、完全に拭い去ることはできない夢だった。
 だけれど、今天馬の腕の中にいる一成は夢の全てが溶けてゆくことを感じていた。
 燃えかすみたいに残っていた、小さな小さな悪夢の欠片。みんな、きっと消えていく。あれは夢だ。吹けば飛んで消えてしまうような。ただの夢なんだ。