おやすみナイチンゲール 07話



 血の匂いが鼻につく。それが自分の体から流れ出たものであることを、一成は理解していた。
 意識がもうろうとしている。それなのに、体を襲う痛みだけははっきりしていた。
 痛い。感覚全てが消えてしまえばいいのに。最初に刺された脇腹が、それから続けて何度も刺された背中が、休む間もなく痛みを訴え続ける。
 もしも動けたならもがいていたかもしれないけれど、力の入らない体ではそれも難しい。
 ひゅう、と喉を空回る空気の音が聞こえる。葉擦れの音にかき消されるようなか細いそれは、自分の呼吸音だ。
 いくら吸い込んでも酸素が入ってこない。苦しい。薄暗い明かりのせいか、それとも視界も次第に機能しなくなるのだろうか。暗闇がじわじわと迫ってくる。

 一成の意志だけで動かせるものは、もはや視線だけだった。それもいずれ難しくなるだろう。痛い。苦しい。じょじょに欠けていく視界に入るのは、血まみれの自分の手だった。
 うつ伏せのまま投げ出した右手。いつの間にか広がっていた血だまりの中、人形の腕のように倒れている。もはや自分で動かすこともできず、ただ横たわっているだけの手は、自分のものだとも思えない。
 それでも、握りしめたクマのストラップだけは確かな現実だと思えた。
 動かない体を叱咤して、どうにか手を伸ばして、手のひらで包み込んだクマのストラップ。背中に馬乗りに乗り上げて、振り下ろされるナイフ。逃げることもできず、刺される瞬間を待つしかできない。
 襲い来る痛みに震えながら、手の中のクマを握りしめた。
 一撃が振り下ろされる。衝撃と同時に灼熱と痛みが広がる。息ができない。苦しい。怖い。助けて。願うけれど、現実は無情だ。
 逃げ出すことのできない一成は、何度も何度もナイフで刺され続けるしかなかった。クマのストラップを握りしめながら。

 犯人である警官は、途中で我に返ったように手を止めた。動くことができないという事実に思い至ったのか、このまま放っておけば絶命することに気づいたのかもしれない。
 しかし、一成を助ける意志は最初からなかったのだろう。助けを呼ぶこともせず、ただ無表情に一成が死ぬ瞬間を待っていた。

 もはや、自分の命があとわずかであることくらい、一成も理解している。
 吐く息が細い。視界が次第に暗くなる。じわじわと闇に侵されていく。風の音がする。揺れる木々は咆哮のようにうなっている。痛みだけが唯一確かに一成の意識を保たせる。
 血まみれの手で握りしめたクマのストラップを、一成はただ見つめる。
 こんなに血まみれになってしまった。ごめん、と思うけれど同じくらいに安堵もしていた。
 クマのストラップが辿る面影を一成は知っている。本人とは似てもにつかないけれど、それでも思い出すのはたった一人だ。
 誰より誠実でやさしくて、いつだって一生懸命な、夏組リーダー。
 自分の傷を見せてくれて、一緒に舞台に立ちたいと言ってくれた。
 たくさんの時間を共に過ごして、新しい一面をたくさん知った。
 大好きだった。大切だった。これから先も、ずっとずっと、自分の思う限りで彼を大事にしていこうと思っていた。
 オレたちの目印。オレたちの北極星。いつだって、彼を目指して走っていく。
 オレの目印。オレを照らして、新しい世界を教えてくれた。オレの北極星。いつだってそこにいてくれる。オレを照らす。おれのひかり。
 思い浮かぶ人に連なるものが、手のひらにある。それは一成の、たった一つの幸運だった。

(ここに、ひとりじゃなくてよかった)

 もうろうとした意識で一成は思う。再度力を込めることもできないクマのストラップ見つめながら、一成はそっと心で言葉を落とす。
 一成はとっくに理解している。夜の公園で、誰もいない場所でオレは死ぬ。ここには夏組も、MANKAIカンパニーのみんなも、家族もいない。もう二度と大好きな人たちに会えない。
 だけど、それでも、握りしめていられるものがあってよかった。たった一人で死ぬんじゃなくてよかった。面影だけは持っていられる。
 視界が暗くなっていく。痛みが少し遠ざかった気がした。
 終わりが近いことの証明だから、喜ぶべきことではないのだろう。だけれど、この体を貫く痛みが消えるならもうそれでいいような気がした。痛みも苦しみも、感じなくて済むのなら。
 ああ、だけど、できるなら、と一成は思う。叶わない願いだなんてことはわかっている。それでも、できるなら。
 空気が喉を空回る。視界が欠けていく。木の音がうるさい。暗闇に覆われる。かろうじて目に映る光景は、クマのストラップだけだ。感覚が遠くなる。もう終わりだ。これで終わりだ。もうろうとしながら、一成は思っている。

(こえを)

 意識がぼやけてにじんで、どんな言葉が浮かんでいるのかも、一成にはわからない。ただ、心のままに形作られてぼろぼろとこぼれていく。

(こえを、ききたい)

 最初に刺された時、とっさに体が動いた。逃げ出そうとしたことを察知したのか、警官は腹のナイフを引き抜いた。どくどくと血が流れる。
 それでも踵を返して足を踏み出したところで、背中からもう一度刺された。崩れ落ちながら手に持ったスマートフォンを操作したのは、ほとんど無意識だった。
 救急車や警察なんて、欠片も思い浮かばなかった。どこかで理解していたのかもしれない。もう助からない。ここで終わる。だから、それなら、声が聞きたいのはたった一人だ。
 地面に倒れた一成は、呼び出しを始めたスマートフォン画面を見つめていた。背中の一撃は思いの外深く、体を動かすこともできなかった。
 どうか答えて。つながって。祈りながらスマートフォンを見つめるけれど、その前に警官に気づかれてスマートフォンは壊されてしまった。
 だから、もう連絡を取る手段なんて残っていないのだ。わかっていても、一成は思っている。祈りなのか願いなのか、ただ心からの望みだけがこぼれていく。

(せめて、こえがききたいよ)

 暗くなっていく視界で、何もかもの感覚が遠ざかる世界で、一成はたった一人を思い浮かべる。恐らくもう、意識を保っていられないだろう。それでも最後まで願うのだ。
 大事なたった一人。ぼやけていく意識に、鮮烈に輝く強い光。いつだってあざやかに、一成を照らし出す。大好きだった。大切だった。誰よりも大事な、世界で一番特別な人だ。
 何もかもが遠くなる。苦しみも痛みも、全てが暗闇に塗りつぶされていく。言葉も意識ももはや形にならない。奥底の願いだけが、最後の意志だ。心が最後に形を成したように、願いだけが紡がれる。

(てんてんのこえがききたいよ)

 どこか遠くで天馬が自分の名前を呼んでくれたような錯覚を覚えて、一成の意識は途切れる。