おやすみナイチンゲール 09話
話したいことがあるんだ、と一成が言った。起き出した天馬を見つけると、ほっとしたような笑顔を浮かべて駆け寄ってくる。朝の挨拶を交わしたかと思えば、開口一番そう言ったのだ。
ここ最近、一成の様子がおかしいことには気づいていた。
だから、話をしようと思っていたのは天馬も同じだ。一成から言われたのなら話ははやいと了承の答えを返せば、朝食後に201号室へ来ると言う。
夏組にもその話はしていた。幸は澄ました顔で「じゃ、オレは椋のところに行ってるから」と言ったのは、天馬と一成を二人きりにしようという配慮だろう。
一成がわざわざ、他の誰でもない天馬に「話がある」と告げたことの意味くらい察していた。
朝食を済ませたあと、天馬は201号室で一成が来るのを待っていた。幸はすでに、スケッチブックを持って202号室へ移動している。天馬はソファに座って台本をめくっているけれど、いまいち身が入らない。
朝食の席の一成は、一見するといつも通りのようだった。
明るい笑顔で綴にちょっかいをかけたり、誉とテンション高く会話を交わしたりしていた。だけれど、時折その横顔に影が差すように思えたのは、恐らく天馬の思い違いではないはずだ。
目に見える不調ではない。具合が悪くてそれを隠している、というわけでもなさそうだけれど、ここ最近の一成は、何だか様子がおかしいとは思う。ただ、具体的にどこかが悪いというわけではないようだった。
だからこそ、どこまで踏み込んでいいのか図りかねていたのだけれど、話を聞くくらいはしてもいいだろう、と思っていた矢先に一成本人から声を掛けられたのだ。
ゆっくりと朝食を食べていたから、部屋に来るまではまだ時間があるのかもしれない。それまでは、ひとまず台本に目を通していよう、と思っていた。
しかし、予想よりも早く扉がノックされる。返事をすれば、「遅くなってめんご~」と言いながら一成が部屋に入ってくる。
「台本読んでた? お邪魔ならそう言ってねん! 他の時間でも全然オッケーだから!」
手にした台本に気づいてそう言うので、天馬は首を振った。一成が来るまで読んでいただけで、急ぎの用事ではないと告げれば、一成はほっとしたように息を吐いた。
「一成の話を聞くのが今一番大事な用事だからな」
きっぱり言うと、一成が何だか困ったように笑った。
「そんなに楽しい話じゃないんだけどね~」と言う様子は冗談を口にするような雰囲気だけれど、表情はどこか硬い。天馬は「お前の話なら何でも聞く」と答えて、立ったままの一成を手招いた。
「……本当に、テンテンってばカッコイイよねん」
何かをためらうような表情を流したあと、一成は一言つぶやいてから、おずおずと近寄ってくる。
わずかな逡巡のあと腰を下ろしたのは天馬の隣だ。最初に部屋へ来た時は向かいの席に座ろうとしていたけれど、隣へ座るよう促せば、それ以降ここを定位置だと判断してくれているようだ。その事実が、天馬には嬉しい。
「これ、今度出るドラマの台本?」
「ああ。二時間ドラマだけど、評判が良ければ連ドラになる可能性もある」
「それじゃ、いっぱい見てもらわないとだねん!」
雑談を交わす一成の様子は明るい。いたっていつも通りにも見えるけれど、これが会話の糸口を探っていることくらい天馬とて理解している。
話したいことがあると言って訪れたのだ。一体それがどんな内容なのかはわからないけれど、「楽しい話ではない」と言っていたから、口に出すことをためらっているのだろう。
「一成」
天馬はそっと名前を呼んで、肩が触れる距離にいる一成へ手を伸ばす。投げ出された右手を握ると、一成のまなざしが揺れる。天馬は真っ直ぐと一成を見つめて口を開く。
「何か困ってることがあるなら、ちゃんとオレに話せ。お前、最近何か様子が変だろ」
「……やっぱ気づいてた感じ?」
「まあな。具合が悪いってわけじゃなさそうだとは思ってたけど――でも、お前今日何か顔色悪くないか」
さっきまでは、ハッキリと分からなかった。だけれど今、至近距離でまじまじ顔を見つめれば一成の顔色はいつもより青白く見えた。
一成はびっくりしたように瞬きを繰り返したあと、うろうろと所在投げに辺りへ視線をさまよわせる。それから、おずおずとした調子で天馬を見つめて言った。
「――えっと、久しぶりに夜が明けるの見ちゃったな~みたいな?」
軽い笑い声とともに告げられた言葉に、天馬は眉をしかめる。
一成が慌てたように「課題とかじゃないからねん! ちゃんとベッドにはいたし!」と続けるのは、不摂生の結果ではないという主張だろう。
ただ、天馬は一成のことを信用しているので、自ら不健康な行いをしないだろうと思っていた。夏組の心配を理解できない人間ではないのだ。
だから、眉をしかめたのは、そんな一成が寝られないまま夜を明かした、という事実の重大性を察したからだ。
「何があった」
強い声で、天馬は尋ねる。一成が話をしたいと言ったのは、恐らく眠れずに夜を過ごしたことに関係があるのだろう、と思った。
何か心配があるのか、不安や憂いが心に宿っているなら、その全部を溶かしてやりたい。心からの思いを込めて、天馬は一成を見つめている。
「――マジで全然楽しい話じゃ、ないんだけど」
「大丈夫だ。お前の話なら、何だって聞いてやる」
不安そうに揺れる瞳で、一成が言う。恐らくこれから話すのは、天馬にとっても快い内容ではない。そんなのは一成が眠れないという事実から察することはできた。
ただ、一成はそういった話を天馬の耳に入れることを好まない。だからこそのためらいなのだとわかっている。
自分の言葉が誰かを傷つけること、憂いを生んでしまうこと。そういうことを恐れるのが、心やさしい天馬の恋人だ。
「何もなかったって顔をされるより全然いい。苦しいことも辛いことも、話してもらえることが嬉しいんだ」
握った右手に力を込めて、一成へ伝える。
きっと一成は天馬の心に憂いを生むことを恐れている。だけれど、一成が自身の心に蓋をして無理に笑うくらいなら、痛みも苦しみも全部ぶつけてくれるほうがよっぽどいいのだ。
「テンテン……」
揺れるまなざしで、その通りの声で、一成はつぶやきを落とす。未だためらいは漂っているようだけれど、天馬の思いはしかと届いたはずだ。天馬に握られた右手にそっと力が込められる。
一成は数秒間目を閉じた。ゆっくりと深呼吸をして、そっと瞼を開ける。緑色の瞳が真っ直ぐと天馬をとらえる。まなざしを受け止めた天馬がこくりとうなずくと、一成はゆっくり口を開いた。
「夢を見たんだ」
落ちた言葉は、ひどく静かだった。感情の全てをそぎ落としたようなそれは、普段一成が発する声とは似ても似つかない。軽やかに跳ね回るような響きはなく、どんな生命力も感じられない。
一成は、天馬の手を握った。すがりつくような強さで握られた手は、わずかに震えている。はっとして一成を見つめると、静かな声が唇から落ちた。
「オレが、殺される夢なんだ」
淡々と一成は語る。感情の乗らない、事実だけを羅列するような調子は、天馬の心を波立たせたくないという一成の配慮だろう。
一成が感情的になってしまえば、きっと天馬の心も千々に乱れる。それを厭って、なるべく無機質に言葉を並べている。しかし、発せられる言葉に天馬の体は強張っていく。だって、その内容は。
一成は今までに見た夢の内容を全て覚えていた。ただ、最初は混乱に叩き落とされていたから、それぞれの夢のつながりなんて理解していなかった。
だけれど、天馬に話をすると決めた一成は、朝を待ちながら今までの夢を思い返して気づいたのだ。脈絡なく散らばるだけだと思っていたそれらには、明確な順序があることに。
大学に夏季課題を提出に行った帰り道。思いの外遅くなって、早く帰らなくちゃと焦っていた。
そんな時に声を掛けられた。MANKAI寮を見回っている警官は、寮のみんなからの依頼で一成を迎えに来たのだと言った。焦りだとか顔見知りの警官だとか、そういう諸々で一成は簡単に彼を信用して車に乗った。
連れて行かれたのは、ひと気のない公園だ。
異常事態であることには気づいていた。逃げ出そうとして捕まった。コンテナの裏に引きずっていかれた。スマートフォンを渡せと執拗に迫られる。決して渡せないと抵抗をすれば、警官はナイフを取り出す。
落ち着いた口調で語られる夢の内容に、天馬の表情が険しくなっていく。だってその内容は、一成が知ることのない過去だ。
一成は一人で大学へ課題を提出に行って、それから先の足取りがわからなくなった。恐らく帰宅途中で車によって連れ去られたと予想されている。
次に見つかったのは、公園の駐車場だ。コンテナの裏で、物言わぬ亡骸となって発見された。
天馬の心臓が激しく音を立てている。嫌な汗が流れている。
天馬は一成に、彼が死んでしまう事実を告げた。その過去を回避するためにはどうしても伝えなくてはならないと思ったからだ。
しかし、詳細までは教えていない。どこでどんな風に死んだかなんて、教える必要はないと思った。
大事なのは、通り魔事件の犯人によって殺されるということだけで、ひと気のない公園で体中を刺されて死ぬなんて教えていない。それなのに、一成は。
「もみ合ってる内にナイフがお腹に刺さちゃって。逃げようとしたら、背中からまた刺されたんだ。オレはそのまま倒れて、動けなくなる。スマートフォン持ってたからとっさに電話掛けたんだけど、犯人に気づかれて壊されちゃった。でも、その時にストラップが千切れて、オレのほうまで飛んできたのはラッキーだったんだと思う」
一成は言う。淡々と、ただ事実だけを述べる口調で。それでも、声の端々に揺れる心をにじませながら。
ストラップを握りしめた一成は、たった一人を思い描いた。
いつか、一成は言っていた。過去につながった電話で、クマのストラップは天馬にぴったりだと。きっと北極星を指しているから、オレたちの目印である天馬にはこの上もなく相応しいと。
だから、一成はクマのストラップを握りしめた。天馬の面影にどうにかすがりつくみたいに。
天馬はぐっと唇を噛んだ。
一成が死んだ過去で、天馬たちは一成がどんな風に亡くなったのかを聞いている。
クマのストラップは血まみれだった。一成は必死で握りしめたのだと思っていた。流れ出る血に全身を染めながら、血まみれの手で、まるで助けを求めるみたいに。
その瞬間に思い描いたものを、天馬は知った。オレだ。一成は他の誰でもなく、オレに手を伸ばしたんだ。
気づくのと同時に天馬を襲ったのは、どうしようもない後悔だ。
だって、天馬は一成の手を握ってやれなかった。その場所に駆けつけて助けてやれなかった。一成のところまで走っていってやれなかった。一成はたった一人で死んでしまった。
「全然動けなかったけど、テンテンのこと思い浮かべられた。だから、どうにか正気を保ってたんだと思う」
落とされる言葉に、天馬ははっと我に返る。
事実だけを並べるような、落ち着いた口調に聞こえた。実際、一成の様子は平静に見えた。しかし、そのまなざしは色を失っていた。虚ろな目で、ぽろぽろと言葉が落ちていく。
「何回もオレのこと刺すんだ。その度ずっとクマのストラップを握ってた。動けないのに。背中に乗って、動かないようにって押さえつけて何回も、何回も刺すんだ」
機械仕掛けのような声で一成が語るのは、犯人によって刺された時の情景だ。
犯人は一成に馬乗りになり、全身に何回もナイフを突き立てた。動くことのできない体を押さえつけて、執拗と言えるまでに何回も。
壊れたようにそれを語る一成の様子に、たまらなくなって天馬は細い体を抱き寄せた。
「言わなくていい」
腕の中に一成を閉じ込めて、天馬は言った。
だってそれは一成が死んだ瞬間だ。自分自身の命が事切れる光景なんて、これ以上口にしなくてよかった。一成は持ち前の生真面目さで、きちんと自分の見たものを天馬に伝えようとしてくれるけれど。
「これ以上何も言わなくていい」
口にするたび、一成の心はきっと傷つけられていく。夢で見た光景だけで、きっと一成の心はボロボロになっているのに。これ以上、自分の言葉で夢に見た光景を深く刻みつけることなんかしなくていい。
できることなら、何もかも全部忘れてくれればいい。全てはみんなただの夢で、目覚めた瞬間に溶けてなくなってしまえばいいのに。
「テンテン……」
つぶやいた一成は、ゆっくりと天馬の背中に腕を回した。しがみつくように力を込めるから、天馬は一成の体をいっそう強く掻き抱く。
忘れてくれればよかった。
ただの夢なのだから、明け方には消えていく。起きた時から形をなくして、痕跡もなく消えていくのが道理だ。
だけれど、そう思うには、あまりにもその夢は天馬の知る現実通りだった。
ただの夢だよ、と笑って言えないくらい。酷い夢を見たんだな、と言ってやさしく一成の頭を撫でてやれないくらい。落ち着いた顔で、全てはみんな夢だと言い切ってしまえないくらい。
一成を抱きしめる天馬の手は、誰が見てもハッキリとわかるくらい震えていた。
「ねえ、テンテン、これはオレの夢?」
かすれた声で一成は尋ねた。
あまりにもリアルな、まるで現実みたいな夢だと思った。自分自身の体験だと錯覚してしまいそうな、酷い悪夢だと。
だけれど、己を抱きしめる天馬の手が震えている。声が揺らいで泣きそうだ。まるで、実際にその場面を知っているような。単なる悪夢ではなく、記憶と相対するような。
そんな様子に一成の心には疑問が生まれる。
本当に、これはただの夢なの。現実に起こったことみたいなこの夢は、本当にオレの夢なの。
落ち着いた口調で紡がれた言葉に、天馬は答える。願いの全てを込めた声で。
「――夢だよ」
ささやかれた声に、一成は悟る。強い響きだ。あまりにも強い願いを懸けるみたいだ。何かに助けを乞うみたいだ。
奥底からにじみでる思いを、切実なまでの願いの強さを感じれば感じるほどに、一成ははっきりと理解してしまう。
これはただの夢なんかじゃない。天馬が震える手をして、すがるみたいな強さで祈るなんて、ただの夢であるはずがない。
天馬の体をぎゅっと抱きしめる一成は、すとんと納得していた。
荒唐無稽な話なら、充分知っている。過去に自分が死んだ現実があることも知っている。だから、ただ素直に思った。
これはただの夢じゃない。テンテンが知っている過去なんだ。起きるはずだった現実だ。これは、オレが死んだ過去なんだ。
思うのと同時に、一成の背中をぞくりと悪寒が走る。
最期の瞬間を覚えている。様子のおかしい警官が、ナイフを持つ姿がよみがえる。
刺された痛み。動けない体。暗闇が広がる。背後から迫ってくるナイフ。何度も刺された。木の音がうるさい。刺された。動けない。意識がぼやける。オレはここで死ぬ。
這い上がってくる恐怖は、一成を混乱へと誘いこむ。
しかし、恐慌を来たすより早く、一成は自分を抱きしめる力強い腕に気づく。がっしりとした腕が自分を捕まえている。温かな体温が、じんわりと包み込んでいてくれている。
その事実は、混乱の縁にいた一成を確かに引き上げた。
「……テンテン」
自分を抱きしめる天馬の名前を、一成はそっと呼んだ。
どうした、と尋ねる声がやさしい。天馬自身も混乱を引きずっているだろうに、一成の言葉を問い返す声はどこまでもやわらかかった。
その声に勇気づけられるように、一成は口を開いた。思い浮かぶ最期の光景。もうここで死ぬんだと思った。あの瞬間に望んだこと、叶えられなかったことを知っている。
「オレの名前、呼んでほしい」
思い浮かんでいるのは、壊されてしまったスマートフォンだ。もうここで死ぬのだと悟った時、一成は願ったのだ。天馬の声が聞きたかった。最期にせめて、天馬の声で名前を呼んでほしかった。
天馬は一成の言葉に、不思議そうな空気を流した。だから一成は、夢の内容を――死ぬ瞬間に思っていたことを告げた。
もうここで死んじゃうんだって思った。だからテンテンの声が聞きたくて、電話を掛けたんだよ。
一成から告げられた言葉に、天馬の体が強張った。
思い出すのは、一成が帰らないと聞かされた談話室の光景だ。
何か連絡が来ていないかと聞かれて、自分のスマートフォンを取り出した。するとそこには、一成からの着信が一つ。
鞄に放り込んだままだったから、まるで気づかなかった。その事実に、ひどい間違いを犯してしまったのではないか、と思った。
一成がわざわざ電話を掛けたのだ。大事な用事があったはずなのに出てやれなかった。その後悔は、天馬をずっと貫いていた。
どうして電話を掛けたのか、ずっとわからなかった。だけれど今、一成は言ったのだ。
恐らく一成自身も、自分が見たものがただの夢でないことくらい、とっくに気づいている。だから、今一成が語る最期の瞬間は、間違いなく過去の出来事だ。
命が事切れるその時に願ったことは。天馬に電話を掛けた理由は。天馬の声が聞きたかった、だなんて。
あれは一成の、最期の願いだった。
一成を抱きしめる天馬は、呆然としながら思う。
叶えてやれなかった。聞きたいと願っていた声を届けてやれなかった。電話に出てやれなかった。
その事実を思い知らされた天馬は、自身の心がすうっと冷えていくのを感じていた。ひどい間違いを犯したと思った。その通りだった。
命が終わるその瞬間に願ったのがオレの声を聞くことで、それなのにオレは電話に出てやれなかった。一成はそれを恨むような人間じゃない。わかっている。だけど、オレは一成の願いを叶えてやれなかったんだ。
泣きそうに顔を歪めた天馬は、一成の背中に回した指に力を込める。ぐしゃりと服を握りしめた。ごめん、と言いたかった。
お前の電話に出られなくて、願いを叶えてやれなくて、答えてやれなくてごめん、と。懺悔の言葉を口にしようとした。しかし、その前に一成は言った。
「でもね、テンテンが電話に出なくてよかったんだ」
一成の声はわずかに震えていて、だけれどどこまでも凛としていた。美しい響きが耳を打って、天馬は目をまたたかせる。電話に出てほしいと願ったはずなのに、それなのにどうしてそんなことを言うのかわからなかった。
「テンテンの声が聞きたかったのは本当だけど、オレが死ぬ直前の声なんて聞かせたくないもん」
もしもあの時天馬の電話がつながっていたら、息も絶え絶えに一成は名前を呼んだだろう。天馬はすぐに異変に気づくはずだ。それから必死で一成を助けようとしてくれるに違いない。
だけれど、恐らく間に合いはしない。誰かが駆けつけてくれたところで、一成の命はとっくに終わりを迎えている。
そんなことになったら、天馬は一生あの時の電話を引きずるに違いない。命が事切れるほんの少し前の声を、天馬はきっとずっと覚えている。そんなことにならなくてよかった、と一成は思った。
「テンテンにはさ、もっと楽しいこといっぱい覚えててほしい。夏組みんなで笑ってるところとか、テンテン見つけたらめっちゃ嬉しくなっちゃうところとか、千秋楽のカーテンコール出る時とか!」
努めて明るく、一成は言った。
天馬に覚えていてほしいものは、決して一成が死ぬ前の瞬間じゃない。もっと楽しくて幸せで、光にあふれた記憶がいい。いつだって一成を照らしてくれた天馬には、それが一番ふさわしい。
「オレを思い出すならさ、笑顔になってほしいんだ。死ぬ直前の弱ってるところじゃなくて。思い出したら最強にハッピーになれちゃうみたいな、そんなオレがいい」
美しい願いを懸けるように告げられる言葉に、天馬の記憶が紐解かれる。
一成を探して夜の街を駆けた。三角と共に公園を訪れて、そこに一成がいるはずだった。しかし、一成のもとに行くことは許されず、どうしてなのかと聞いた時、左京は言ったのだ。
一成は楽しいことを見つけるのが得意で、綺麗なものを探すのも上手い。いつだって笑顔でいようとした。だから、天馬たちが覚えているのはそういう一成だけにしろと言って、決して遺体を見せなかった。
「――ああ」
天馬は一成の肩口に顔を埋めて、すがりつくように抱きしめながら声を漏らした。
そうだ。天馬も三角も、一成の遺体を直接は見ていない。情報としては聞いているから、どんなに酷い状況だったのかは知っている。
頭に浮かぶ姿は血だまりの海に倒れる一成だ。だけれど、実際にこの目でその姿を見たわけではなかった。
「左京さんや、密さんや、千景さんは、絶対にお前が死んだところを見せなかった。オレと三角には絶対に見せないって決めて、実際そうした」
「うわ、めっちゃ感謝なんだけど。絶対すっごい血まみれだし、見たら夢に見そうなやつだもん。見なくて正解だよん」
わざとらしく明るく一成は言う。名前の挙がった三人に見られていることを申し訳ないとは思っているようだけれど、幸い全員記憶がないことも知っている。
だから、一成の血まみれの姿を見たという記憶は、誰も持っていない。それを指して、一成は心からほっとした様子で「よかった」と言う。天馬は一成をぎゅう、と抱きしめたままつぶやく。
「オレが覚えてる一成は、ずっと綺麗なままだ」
思い出すのは笑っている顔ばかりだ。それは一成自身がいつだって笑顔であろうとした強さの証でもある。
同時に、どれほどまでにキラキラと光り輝いていたのかを、何度だって天馬は思い知ったのだ。一成は天馬の言葉に、やわらかな声で答えた。
「うん。それがいい。テンテンが覚えてるのは、そういうオレがいい」
だから電話に出なくてよかったんだよ、なんて。天馬の狂おしいほどの後悔すら、一成は溶かしてしまう。一成の望みを叶えた結果なのだと言って、全てを美しく塗り替えてしまう。
綺麗なものを見つけて、何度だって掲げてくれたことを知っている。今だってその通りだった。
「でもさ、テンテンの声が聞きたかったのも本当なんだよねん」
肩口に顔を埋める天馬の頭をやさしく撫でて、一成は言った。落ち着いた声のようにも聞こえるけれど、ゆらゆらと揺れるような声の調子は、恐らく最期の瞬間を思い出しているのだろう。
自分の命が事切れる、その瞬間に願ったこと。夢という形で過去を知った一成は、強い願いを理解した。
「テンテンの声が聞きたかった。オレの名前を呼んでほしかった」
ここで終わる。暗い場所で、一人で死ぬ。
だけれど願っていいなら、望んでもいいのなら、天馬の声が聞きたかった。その声で名前を呼んでほしかった。
他の誰でもない天馬の声で、力強く、どんなものよりまばゆい光を宿した声で。
「オレの名前、呼んでほしい」
頭を撫でていた手が止まった。震える声が耳を打った。天馬は、一成を抱きしめていた腕から力を抜いた。ゆっくりと体を離したのは、自分がすべきことを理解していたからだ。
わずかに空いた距離で、天馬は一成を真正面から見つめた。
一成は唇をやわらかく引き上げて、目を細めて笑っている。だけれど、その瞳はゆらゆらと美しく揺れている。ぱしゃりと崩れて、今にも零れていきそうだった。
天馬はそっと手を伸ばす。右手でやさしく一成の頬を包み込む。温もりが伝わって、じわじわと満ちていく。
左手は一成の右手を握りしめた。決して離すまいとする力強さで、互い違いに指をからませて、真っ直ぐと一成と見つめて口を開く。
「一成」
一つ一つの音を噛み締めるように、天馬は名前を呼んだ。
世界で一番美しい音があるとするなら、きっとこの音の連なりに違いないと思いながら。目の前で確かに呼吸をして、心臓を動かす愛しい人の名前を呼ぶ。
「一成」
何度だって呼んでやる、と天馬は思う。
一成が死んだ過去は現実にならなかった。今ここで一成は生きていてくれる。だけれど、一成が死んだ過去は天馬の記憶にしかと刻み込まれている。
あの時一成が願ったことが何だったのか、今になって天馬は知った。叶えてやれなかった。受け取ってやれなかった。だけれど今なら、いくらだって叶えてやれる。
「一成」
天馬は一成の名前を呼ぶ。一つ一つを確かめながら、何度もその名前を口にした。
いくらだって呼ぶ。何度だって呼ぶ。オレの声を聞きたいと言うのなら、オレの声で名前を呼んでほしいと願うなら、声がかれるまでだって呼んでやる。
「一成」
心を全部取り出すみたいに名前を呼ぶたび、至近距離で見つめる一成の表情はくしゃりと崩れていく。だけれど、それは悲しみや苦しみではないと知っていた。
一成は泣きそうに天馬を見つめて、それからゆっくりと目を閉じた。体中の全てで、天馬の声を感じようとするみたいに。静かに頬を流れていく雫は、どんな宝石よりも美しかった。
「……一成」
願うように、祈るように、天馬は名前を呼んだ。
一つ一つの音が一成の心に染み渡って、どうか全ての傷を癒してくれるように。苦しみも悲しみも、みんなすべて拭い去ってしまえるように。ここで呼ぶ名前が、どうか一成の力になるように。
心からの願いを込めて、一成の名前を口にする。
「――テンテン」
吐息と一緒に、一成は天馬に答えた。からめた指に力を込めて、頬に添えられた手に自身の手を重ねて。ゆっくりと瞼を開いて、まばゆいほどのまなざしで答える声は、やわらかく天馬の耳を撫でた。
「一成」
吐息を紡ぐように、天馬はそっと呼んだ。一成はふわりと笑う。あざやかに頬を染めて、白い歯をこぼして、みずみずしい恵みのように。
全身を貫くほどの愛おしさに襲われて、天馬はつないだ手に力を込めた。自分のほうに引き寄せて、力の限りに抱きしめた。
細い体を、腕の中に感じる鼓動を無我夢中で抱きしめる。一成は天馬の広い背中に腕を回して、同じ力で抱きしめ返した。
そうして、二人はしばらくの間、ただお互いの体温を分け合っていた。
「――テンテン、ありがと」
分け合う熱が混ざり合って一つになるころ、一成が小さく言葉を落とす。
涙の混じるような声をしていたけれど、恐怖や混乱の響きはなかった。ただ穏やかな、安寧だけを知る声に天馬はほっとする。だけれど、すぐに強い声で答えた。
「礼を言われることじゃない。お前の願いを叶えるのは当然だし、オレだってお前の名前を呼べるのが嬉しいんだ」
何度だって一成の名前を呼ぶ。それが一成の望みならいくらだって叶えるし、そもそも天馬にとって一成の名前を呼ぶことは幸福な行為なのだ。お礼を言われるようなことではない。
一成は天馬の言葉にくすぐったそうに笑った。軽やかな響きに、天馬の心も軽くなる。一成が笑ってくれて嬉しい。怖いものを知らないみたいに笑ってくれることが嬉しくて、天馬は口を開く。
「お前の願いなら何だって叶えてやりたいんだ。他にオレにしてほしいこととかないのか」
抱きしめたまま尋ねれば、一成は沈黙を流した。
てっきり「特にないよん」と答えられると思っていたので、天馬は少し意外に思ったのだけれど。やさしく一成の頭を撫でてやると、小さな声がぽとりと落ちる。
「……一緒に寝てほしいかな~なんて」
恥ずかしそうに言った一成は、「無理なら全然平気なんだけど!」と慌てた様子で付け加える。天馬は「無理なわけないだろ」と反射で答えたけれど、一成にしては珍しい内容だな、とは思った。
一成はあまり、天馬を拘束することを望まない。天馬からすれば、思う存分拘束してほしいのだけれど、何だか悪いと思うらしい。
「一緒に寝るくらいしてやる。でも、その、今日の夜ってことか?」
「――てか、オレ今結構眠くなってきてるかもしんない……」
落ちた言葉は何だかやわらかくて、曖昧な響きをしている。
天馬はそこではた、と気づく。そうだ。一成は寝られないまま夜を明かしたと言っていた。恐らく夜中に目覚めて、そのまま朝を迎えたのだろう。つまり、睡眠時間がほとんど取れていないのだ。
すぐに思い至らない自分自身に天馬は文句を言いたくなるけれど、今はそんな場面ではなかった。
「夢見たらどうしようって思って寝られなかったんだけど。テンテンが一緒なら、夢も見ないかなぁって思って」
どこかふわふわとした調子の言葉に、本格的に眠くなってきたのかもしれないと悟る。もしもそうなら、つまりは天馬と共に過ごす時間が一成にとって安心できる場所だという証明に他ならない。
その事実に、天馬の心は否応なく弾んだ。ただ、喜んでいる場合ではないことも充分承知していた。
「そうだな。寝られそうなら寝たほうがいい。ベッドまで上がれそうか。というか、二人で寝られるのかあそこ……」
一緒に寝てほしい、という一成の願いを叶えるためにどうすればいいか、天馬は懸命に考える。それを察したらしい一成は、天馬の首に両腕を回してぎゅっと引き寄せる。
「テンテン、好き」
耳元で突然告げられた言葉に、天馬の思考回路はしばしショートする。一成はその反応に、楽しそうな笑い声を弾けさせた。