春を訪う 01
ぜひ家に来てくださいね、とは言われていた。とはいえ、雑談の中のちょっとした話題である。完全な社交辞令とは思わないし、好意で言ってくれていることはわかっていた。それでも、いずれ機会があれば――という類の話だと思っていのだ。
しかし、そう思っていたのは天馬だけだった。考えてみれば、一成が同席していた時点でいずれこうなるのは予想できる事態だと言ってもおかしくはない。大人になって落ち着いてきた、と思っていたけれどつまるところ一成は一成である。
「ってわけで、今度のオフに染井監督の家行こうね、テンテン!」
満面の笑みで、天馬が断るなんて一切思っていない顔で宣言するので。天馬はその顔をじっと見つめて、何だか懐かしい気持ちにすらなっていた。
一成のコミュニケーション能力の高さは、目を見張るものがある。出会った頃から馴れ馴れしい人間だとは思っていたものの、結局そうやって壁を作らず接してくれたことが、当時の天馬にとっては大きかった。他の夏組と天馬をつないでくれたのは、明るく話題を振ってくれる一成だったのだから。
あの時から、天馬は誰とでも親密になれる能力を尊敬していた。最初こそ素直にそう伝えられなかったけれど、今では思ったことを口にするのにためらいはないので、事あるごとに口にしている。一成の好きなところや尊敬する箇所を伝えるのは、何一つ恥ずかしいことではない。
それに、一成は茶化すような物言いをしながら心底嬉しそうに笑うのだ。「テンテンに言われると、何かめっちゃすごいことみたいに思えるよねん」なんて言って。
大したことではないと一成は思っているから、そんな風に言うけれど。誰とでも仲良くなれること、心を広げて飛び込んでいけること。それは確かに一成の得難い資質の一つだし、天馬が大事にしたいものなのだ。一成の明るい光を包み込んで守っていきたいと、いつだって天馬は思っているのだから。
今回の提案も、それが発揮されたことだというのはよくわかっている。一成と染井監督は、この前の映画撮影で初めて顔を合わせた。しかし、今では何だか昔からの知り合いのような風情さえ醸し出しているのだ。
最初こそ多少のぎこちなさはあったようだけれど、今やすっかり雑談も軽口もお手の物である。一応、一成はまだ愛称はつけていないもの、それも時間の問題かもしれない。
だからまあ、考えてみれば順当な流れだとは言える。染井監督が家に招待してくれたことも、具体的な話が着々と進んで、気づけば訪問日が決定していたことも、そこまで意外に思うことではなかった。
それに、天馬だって染井監督の家を訪ねることが嫌なわけではない。むしろ、染井監督のイマジネーションの一端に触れられるような気がして、わくわくした気持ちになったくらいだ。
何より、天馬は一成の言葉に首を振るつもりなんて最初からない。だから一成の言葉にこくりとうなずけば、一成は心底嬉しそうに笑った。
◆ ◆ ◆
染井監督の自宅は、都内中心部からは少し離れた所にある。
喧騒には縁のない閑静な住宅街の中、まるで公園のように木々が密集した区画が現れる。何も知らなければ、公共施設の一つかと思ってしまうような出で立ちだ。そこが染井監督の家だった。
シンプルながらしっかりとした門をくぐると、目にも瑞々しい芝生や新緑の滴る木々に出迎えられる。中に入っても未だに公園のような風情である。
のんびりとした染井監督に案内されながら、輝く緑の中を進んだ。しばらく歩いて辿り着いたのは、こぢんまりとした平屋の建物だった。豪邸と言うほどの広さはなく、染井監督の自宅といって想像されるようなものではない。
ただ、ふんだんに木が使われているし、一つ一つ意匠にこだわっていることは見て取れた。周囲の庭にも溶け込んでおり、遠目から見れば風景画の一つのような趣さえある。丁寧にデザインされ、時間を掛けて作られた家だということはすぐにわかった。
一成は目をきらきらさせて、「染井監督の友達が設計したんだって、この家と庭!」と天馬に言う。世間話で聞いていたのだろう。天馬が「へえ」と感心して周りを見渡すと、一成は嬉しそうに「マジすげーよね!」と笑っている。
染井監督は「自慢の友人ですよ」とほほえんでいた。変わり者だという友人は、建築士の資格を持ちながら本業は別で、趣味で建築デザインなどを手掛けていたらしい。その友人が、こだわりを持って設計した家の一つが染井監督の自宅だった。
天馬と一成が住むあのマンションもその友人の手だろうか、と尋ねれば染井監督は誇らしげに「そうですよ」とうなずいた。
デザイン性のあるものに目のない一成は、「凝ってるのに全然浮かないって、立体だと特に難しいんだよねん」としげしげ家を眺めていた。こんな時の一成はグラフィックデザイナーとしての顔をしていて、天馬は何だかそれが楽しい。どんな時も真剣に、自分の思うものを突き詰めていく姿を見るのが天馬は好きだった。
もっとも、ずっと外で家を眺めているわけには行かない。染井監督にうながされて、玄関の扉をくぐった。
案内されたのは、開放的なリビングだった。無垢材でできた床や天井など、全体的に木の温もりを感じさせる部屋だ。
扉を入った中ほどには、こぢんまりとしたダイニングテーブル。年季を感じさせる風合いをしているものの、丁寧に手入れされていることがよくわかる。
部屋の中心に置かれているのは、木製フレームのソファとローテーブルだ。ナチュラルな色合いでまとめられて、部屋のあちこちに置かれた観葉植物とも調和していた。
壁際に設置されたアンティーク調のサイドテーブルには、写真立てと花瓶がいくつも並び、それぞれ異なる花が飾られている。その向かいの壁には、一成が描いたクロッカスの絵が飾られていた。
木の温もりに、瑞々しい緑と色とりどりの花を、大きな窓から入る外の光が明るく照らし出す。部屋の中にいながら、日当たりのいい森の中にたたずんでいるような風情があった。
「どうぞ座っていてくださいね。ちょっとお茶でも入れてきましょう」
立ったままの二人へ、染井監督はにこやかに言う。そこで天馬と一成は、はっとした表情を浮かべた。手に持っていたものを思い出したからだ。
「今日はお招きいただきありがとうございます。焼き菓子がお好きだと聞いたので、一成と選びました」
真剣な面持ちで紙袋から取り出したのは、最近評判の焼き菓子専門店のクッキーだった。染井監督は甘いものが好き、というのは業界でも知っている人は多い。ただ、具体的にどんなものが好きなのか知る人は少なかった。
とはいえ、そこは一成である。情報収集といった意識からではなく、単純に好きなものを知りたいという気持ちから、最近のお気に入りがクッキーであることを聞いていた。
自宅を訪れるのだから手土産が必要だ。それなら、染井監督が喜ぶものがいいよねん、というわけで、あれこれ美味しそうなクッキーを調べて二人で決めたのがこの手土産だった。ナッツやチョコレートなど様々な種類があることにくわえ、花をモチーフにしたクッキーは蓋を開けた時に花畑が広がるように見える。きっと染井監督は喜んでくれるだろうと思えた。
染井監督は一瞬驚いたような顔をしたものの、すぐに柔和な笑みを浮かべる。「気を遣わせてすみませんね」と言いつつも、「どんなお菓子でしょうか」と嬉しそうに受け取った。
「――あの、それからもう一つ……手土産って感じじゃないんですけど」
染井監督へ視線を向けた一成が、いつもより静かな声で言った。天馬がちらりと横顔へ目をやれば、緊張感を宿した雰囲気を漂わせている。一成は、一つ深呼吸をすると手提げの紙袋を開いた。
「もしもよければ、これを奥さんにと思って」
言いながら取り出したのは、チューリップのミニブーケ。一重咲きのピンク色が愛らしく、春を包み込んだような花束だった。
「もっとちゃんとした花の方がいいのかなって思ったんですけど、染井監督の話を聞いてたらこっちの方がぴったりかなって思って」
「気を悪くしたらすみません。でも、オレも同意見だったので――」
天馬も言い添えたのは、この花は染井監督の亡くなった妻に対してのものだからだ。
一般的に、故人へ送る花として適当なのは菊やカーネーションなどが挙げられる。チューリップというのは、どちらかと言えば華やかな雰囲気があり、手向けとしては選ばれにくいだろう。だからこそ、気分を悪くする可能性もないわけではなかった。
しかし、天馬と一成は染井監督の話からこんな花がふさわしいと思ったのだ。
いつでも明るい笑顔を浮かべていて、陽だまりのような人だったのだと言っていた。暗い顔や悲しい顔は似合わない。どんなことも楽しんで、いつだって笑顔でいてくれる。きらきらと明るくて、周囲に光を連れてくるような人には、華やかな花がきっと似合う。
染井監督のプライベートは、あまり多く語られていない。妻と死別した後はずっと独り身で、子どももいない。映画製作に情熱をそそぎながら、ひっそりと日々を過ごしてきたのだと言われている。一成や天馬も、そう多くの話を聞いたわけではない。ただ、幸運なことに言葉を交わす機会が増えて、ふとした時にこぼされる言葉から今は亡き伴侶の人となりを想像したのだ。
とはいえ、まったくの見当違いという可能性も否定しきれない。こんな時にチューリップを持ってくるなんて非常識だと言われることも考えられた。それでも、妥協した結果として無難な花を選ぶなんてことはしたくなかった。だからこその決断だったのだけれど。
「――ああ、きれいな花ですねぇ」
採点を待つような気持ちでいると、染井監督がぽつりと言った。それからクッキー缶をテーブルに置くと、一成の方へ手を伸ばしてブーケを受け取る。そっと包み込むと「春らしい花束だと、妻も喜びますよ」とにっこり笑った。
その言葉に天馬と一成が安堵の表情を浮かべると、染井監督が肩をすくめて言う。
「そんなに構えなくても平気ですよ。花を持ってきてくださった方に、腹を立てるようなことはしませんからね」
そう言ったあと、目を細めて「『これは私の花なんだから、私が気に入るかどうかが大事なの』なんて言うでしょう」と続けた。懐かしむような口ぶりではなく、まるですぐ近くに当人がいるような響きをしていた。しかし、それも一瞬だ。すぐに表情を切り替える。
「それでは、少しこれを活けてきましょう。花瓶ならたくさんあるんです。お二人は座っていてくださいね」
それだけ言うと、染井監督はブーケとクッキー缶を持って、すたすたと歩いていく。家人の言葉に否と答える場面でもないだろう、と二人は言われた通りソファに腰を下ろす。ひとまず、無事に目的のものを渡せたことでほっとした空気を漂わせながら。
「――よかったねん、テンテン」
「そうだな。喜んでくれたみたいだ」
そっと目を合わせながら、先ほどのやり取りについて言葉を交わす。
一成は他人の感情の機微を読むのが得意だし、天馬も染井監督の考えがまるでわからないわけがない。だからこそ、恐らく単なる仏花よりも華やかな花の方がいいのではないか、という結論に達したのだ。
勝算はあったと言えるが、絶対というわけではない。心配がぬぐいきれなかったので、無事に受け取ってもらえたことに安堵していた。
「花いっぱい飾ってあるもんね。やっぱり、チューリップでよかったかも」
一成が視線を動かした先は、アンティーク調のサイドテーブルだ。
ずらりと並んだ写真は、よく見ればどれも一人の女性が写っている。一人だけのものもあれば、染井監督の面影がある若い男性が一緒のものもあった。恐らく、写真の中の人物が染井監督の亡くなった妻なのだろう。
並んだ写真の前には、花瓶がいくつも置かれている。ライラックやポピー、ミモザなどの花が活けられていて、サイドテーブルは彩りにあふれていた。部屋の中でも最も華やかで、光と色で飾られたような場所だ。
「そうだな。仏花より、チューリップの方がなじみそうだ」
一成の言葉に天馬もうなずく。純粋に花の雰囲気という意味でもそうだし、何より染井監督の心情を思ったのだ。恐らくそれは一成も同じだろう。
並んだ写真立ては埃一つなく、活けられた花瓶はどれもがきちんと手入れをされている。硝子の花瓶には新鮮な水がそそがれ、花はどれもが瑞々しい。常に目を配っていなければ、こんな風にきれいな状態を保ち続けることは難しい。
染井監督が毎日花瓶の手入れをしていることは明白だった。日常の一つとしてそうしているだけなのかもしれない。けれど、きっと違うのだ。染井監督にとって、こうして花を用意することは、たった一人に向かう気持ちからの行動に他ならない。
今はもうここにはいない。それでも、確かに息づく人。遠い思い出を語るのではなく、まるで隣にいるような響きで彼女のことを口にする。染井監督にとって、亡き妻は決して過去ではない。今も近くにいるのだという気持ちがあるから、丹精込めて花を手入れしているのだろうと思えた。
そんな人に贈る花は、きっと仏花よりもチューリップの方がふさわしい。どんな花でも蔑ろにすることはないだろうけれど、故人への花を思わせるものより、春を束ねたブーケの方が似つかわしいだろう。
「ちょうどいい花瓶がありました。妻も気に入るでしょう」
細工の施されたガラスの花瓶を持って、染井監督が戻ってきた。広がるようにチューリップが活けられており、サイドテーブルにことりと置けば華やいだ雰囲気に可憐さがくわわる。染井監督は満足そうにうなずいた。
「かわいい花ですね。よく似合っていますよ」
自然にこぼれた言葉は、写真の中の女性へ向かっていた。いつもそうしているのだとわかるくらい、日常の一つとして紡がれた声だった。
「――ああ、お茶の用意をしないといけませんね。さっきのクッキーをお出ししてもかまいませんか?」
はっとした顔の染井監督に尋ねられて、二人は反射的にうなずく。するとにっこり笑って、キッチンの方へ走り去っていく。迷いのない動きに、「手伝います」と声を掛ける暇もなかった。天馬と一成は思わず顔を見合わせる。
撮影現場での染井監督も、フットワークが重いわけではない。それでも、立場上自分から動くより誰かを動かすことの方が多いのだ。
しかし、今は率先して自ら進んで動き回る。家人としては染井監督が一人しかいないのだから当然だと頭ではわかっているものの、どうにも落ち着かない気分になるのは仕方ない。
とはいえ、今からわざわざキッチンへ向かってもたいしてできることはないだろう。ここはもう、客人としてもてなされることにしよう、と二人は目線だけで答えを出した。
案の定、ほどなくして染井監督はお盆を手に戻ってきた。手際よく用意したことがうかがえて、手伝いを申し出たところで邪魔になるだけだっただろうと察することができた。
ティーカップにそそがれた紅茶と、持参したクッキーがソファ前のローテーブルに置かれる。染井監督は「かわいらしいクッキーですね」と花のクッキーに目を細めているし、自然な動作で写真の前に小皿のクッキーを置いていた。
「蓋開いた時、花畑みたいに見えるのがかわいいなって思って」
「そうですね。食べる前から何だか浮き浮きした気持ちになりました」
ぱっと明るい笑みを浮かべて一成が言えば、染井監督も唇をほころばせる。天馬も口を開いて「種類もいろいろありますし、それにこの店の焼き菓子は評判もいいです」と言葉を添えた。染井監督は「なるほど」といった表情を浮かべてつぶやく。
「あまりお店には詳しくないので、こういったいただきものがありがたいですね」
「こういう店が知りたいな~とかあったら言ってください。お菓子だけじゃなくって、紅茶の店とかもいろいろ知ってるんで!」
「そうですね。一成はこういう店の情報はだいぶ詳しいです」
「おや。それは心強い」
目を輝かせた一成の言葉に、天馬も同意を示す。染井監督が面白そうにうなずいて、そこから染井監督が淹れた紅茶や、二人の手土産について話が弾む。わきあいあいとした空気が流れて、雰囲気は和やかだ。
天馬にとって染井監督は、憧れの映画監督である。どことなく気負ってしまう側面もあり、最初は多少の緊張が見られた。しかし、そこは一成が上手く雰囲気を作ってくれている。ありがたく思いながら話している内に肩の力も抜けて、緊張もほぐれていた。
「今年はヤマモモの実ができるかな~って、テンテンと今から楽しみにしてて。ジャムも作ってみよっかなって思ってるとこです!」
「上手くできるかわからないですけど、あれこれ試してみようって言ってます」
「あ、そしたらちょっと味見してもらえたりとかします?」
「おや、それは光栄です。またあのヤマモモが食べられるなら嬉しいですね」
雑談は自然と、天馬と一成が住む家の話になっていた。染井監督の紹介で住むことになったようなものだから、話題の選択としても妥当と言える。
もっとも、二人の場合は純粋に楽しい話の一環として口にしているだけだ。あの家で暮らしていくこと、毎日を重ねること。宝物のような日々を、きっかけになった染井監督に伝えられることが嬉しかった。