春を訪う 02




 一成や天馬の言葉に、染井監督はほがらかにうなずく。ヤマモモの思い出話に花を咲かせて、染井監督の自宅にも実のある木があれこれと植わっているのだという話になっていく。

「そろそろビワの季節ですし、ブルーベリーやラズベリーなんかもあるんですよ。秋には柿や栗、冬でもミカンやユズが採れます。少しですけどね」

 染井監督は楽しそうに、自宅にいながら森の中に住んでいるような気持ちを味わえるのだ、と続ける。
 しっかりと手入れをされた庭園というより、自然の風合いが色濃い庭だ。広い敷地の中ぽつりとある家だからこそ、周囲からも隔絶したような雰囲気がある。まるで森の中の一軒家のような。

「――いつか森で暮らしてみたいと、妻がよく言っていたんですよ」

 ぽつり、と染井監督が言った。話の間に一瞬できた空白のような、ささやかな沈黙にするりと入り込む言葉だった。
 二人へ向けていた視線は自然とサイドテーブルへ向かい、写真の中で笑っている女性をじっと見つめている。染井監督の頭に浮かぶのは、きっといつかあった会話なのだろう。

「この家も庭も、妻はとても気に入ってくれていました。花も好きな人で――チューリップも好きでしたよ。春らしい花だと、花壇で咲いたチューリップを持ってきてくれました」

 目を細めた染井監督は、そう言ってから天馬と一成へ視線を向けた。やわらかなまなざしで、唇をほころばせて続ける。

「だから、チューリップを持ってきてくださってとても嬉しかったんです。どんな花でも嬉しいのも嘘ではありませんが、妻に花を贈ってくれたんだなと思えて」

 静かに染井監督は続ける。故人を悼むための花も、その気持ちが嬉しい。だけれど、今日の二人が持ってきてくれたのは、故人のためのものではなかった。その事実が嬉しい。

「私の話から、妻の人となりを想像して選んでくれたのでしょう。贈り物を選ぶような気持ちで、どの花なら似合うのかと考えて。ありがとうございます」

 やさしい声で、染井監督は心からの感謝を伝えた。それから、少し照れくさそうな表情で言葉を添える。

「死別してからずいぶん経っているんですけどね。そろそろ、妻と過ごした時間より、一人で暮らした時間の方が長くなりそうです。それなのに、何だか今も近くにいるような――ずっと一緒に暮らしているような気がしているものですから」

 思い出の一つとして分類するような時間が経っているのだと、染井監督は自覚している。だけれど、今もまだ何一つ色褪せてなどいないことは語られる言葉やまなざしで理解できた。
 何だか少し恥ずかしそうなのは、普通と違うだからとか、本来なら過去のことにすべきなのにそうできていない、と思っているからでないことはわかった。

「――奥様とは、どんな風に出会ったんですか?」

 染井監督の言葉を聞いた天馬は、真っ直ぐ視線を向けて問いかけた。だって今口にした言葉は。恥ずかしさの意味は。きっと今もまだ、たった一人の伴侶へ心が向かっているからだ。長い時間を経ても、想いは何一つ変わらないからだ。
 照れくさそうな表情は、惚気話を口にしているようだと染井監督が思ったからだろう。
 それなら、尋ねることは失礼にならないのではないか、と天馬は思った。長い間ずっと心の中に寄り添って生きる人だ。染井監督の大事な人の話を聞いてみたい、とすんなりと思った。

「あ、それオレも聞いてみたいです!」

 嬉々とした表情で続いたのは一成だった。天馬の考えを察したということもあるだろうけれど、何より感情に聡い一成のことだ。染井監督の気持ちだってすぐに理解した。
 普通と違うことへの羞恥は一つもなかった。初恋の人を語るような、照れくささに喜びを混ぜた言葉だとわかっていたからこそ、天馬の言葉に同意を示したのだ。誰かが誰かに向ける好意の話が、一成は好きだった。
 染井監督はぱちりと目をまたたかせて、わずかばかりの逡巡を流す。だけれどそれも数秒で、唇に笑みを浮かべた。

「ありがとうございます。お二人はやさしいですね――ここはそれに甘えてしまいましょうか」

 天馬と一成の言葉は、彼らなりの心遣いから発せられたものであることは染井監督も理解している。これまでの付き合いから、二人の人間性はよく知っているのだ。
 同時に、これが単なるお世辞やおためごかしの類でないこともわかっていた。心から、二人は自分と妻の思い出を聞いてくれるだろうと思えた。その事実が嬉しかったし、誰かに話をできることは染井監督にとって確かな喜びだったのだ。
 だからこそそう言えば、天馬も一成もきらきらとしたまなざしでうなずく。染井監督はサイドテーブルの写真へ目をやってから、ぽつりぽつりと言葉を落とした。

「妻との出会いは、私が大学生の時でした。ずいぶんと大昔のことです。昔から映画が好きだったので、映画研究会というものがあるのだと知って、訪ねてみたんです。妻は一つ上の学年で、気さくな先輩でした」

 若い頃の染井監督は、人付き合いが得意な性質ではなかった。一人で黙々と映画を見ては、自分なりの分析をノートにしたためるような青年だった。ただ、誰かと映画の話をしてみたいという気持ちがゼロではなかったので、大学入学を機に研究会を訪ねたのだ。
 しかし、上手く話せるわけでもなかったので、部屋の隅でただ黙っているしかできなかった。そんな時に声を掛けたのが、後に妻となる女性だった。

「会話も不得手でしどろもどろだったのに、どんな話も楽しそうに聞いてくれましたし、他の部員たちとの橋渡しも務めてくれましたね。妻のおかげで、友人たちとの縁ができたと思っています」

 しみじみとした調子の言葉に、「なるほど」と天馬が感慨深げな声を漏らす。何だかそれは、夏組に所属したばかりの自分のようじゃないか、と思ったのだ。
 染井監督は恐らくそれを察したのだろう。にっこり笑って「三好さんに似ているかもしれませんね」と言った。もっとも、当の本人はびっくりした顔をして首を振る。

「え、オレ全然そんなすごい感じじゃないですよ」
「本人は大体そう言うんですよ。妻もたいしたことはしてない、なんて本気で言うんですが。そんなことはないでしょう」

 最後の言葉で天馬へ視線を向ければ、重々しくうなずく。夏組としての最初の出会い。横柄で周囲を見下す天馬が夏組の輪に入れたのは、誰相手でも明るく話しかける一成の存在があったからこそだということは、よくわかっているのだ。
 一成は二人の言葉に、照れたような表情を浮かべる。とはいえ、心から言っていることはわかっているので、あえて強く否定することでもないと思っているのだろう。素直に受け取ることにしたらしい。それを認めた染井監督は、ゆっくり言葉を継いだ。

 大学時代に出会ってから、しばらくは仲のいい先輩と後輩という立場を続けていた。ただ、いつしか二人で特別な時間を過ごすことが多くなっていく。それは恐らく、染井監督の思い描く映画作品を、誰より目を輝かせてきいてくれたことに端を発している。

「『こんな映画を見てみたい』というものは、いくつもあったんです。映画を見ることが好きだったので、たくさんの作品を見ている内に自分だったらこうするのに、といつも思っていたものですから」

 作品を見るたび、分析内容を記していたノート。次第にそれは、自分ならどんな映画を撮るかというアイデアメモへと変わっていった。もっとも、一人で映画を見るだけだった染井青年にとっては、単なる頭の中のメモ書きでしかなかったのだけれど。

「いつか自分の映画を撮ってみたい、という気持ちはありました。ただ、自分がそんなことを言うのはおこがましいと、自分のような人間が望んではいけないと思っていました。それでも諦められなくて、脚本を作ったり絵コンテを切ったりしていたんですから、今思えばあとはきっかけだけが必要だったんでしょう」

 誰にも言うことなく、内側に秘め続けていた希望。それをふと漏らしたのが、後に妻となる先輩だった。
 彼女は、目を輝かせて映画の話を聞いてくれた。付き合いやお世辞ではなく、ただ真っ直ぐとした好奇心で、染井青年の言葉を一つ残らず聞いてくれた。そうして言ったのだ。「その映画、絶対見てみたい!」と。

「話を聞いてもらえたことや、『面白そう』と言ってくれたことが嬉しかった。先輩が言ってくれたんだから、という後押しにもなりました。でもきっと、本当はずっと映画を撮りたかったんですよね。その最後のきっかけになってくれたのが、妻でした」

 もっともその頃は、あくまで一番親しい先輩と後輩といった関係だった。二人の仲が急速に進展いったのは、映画を作る過程での話だった。

「妻は映画作りに非常に強力的でした。プロデューサー的な役割をとても上手く引き受けてくれて。当時の私にはとてもできないことばかりでしたので、妻がいなくてはとても映画は完成しなかったでしょう」

 脚本だけがあったところで、映画を作ることはできない。出演する役者は当然として、映画作成のための機材やスタッフも必要だ。ロケを行うなら場所の確保や交通手段だって手配しなくてはならない。もちろんお金なんてないから、いかに安く仕上げるかも大事になってくる。交友関係の狭い染井青年にとっては難しいことを、彼女は難なく引き受けてくれた。

「そうして完成した最初の作品を、一緒に見た時のことは今でもはっきりと覚えています」

 そう言う染井監督の目に何が映っているのか、天馬も一成も理解している。初めて作り上げた作品が上映される瞬間。自身の力を全てそそいで、出来上がった大切な作品。それを自分の目で見届けるのは、永遠に忘れ得ないあざやかな時間だっただろう。
 きっとそれは、旗揚げ公演の時のことを思い出すのと同じなのだ。
 新生夏組として出会って、初めて舞台に立った。それまでバラバラの場所で生きてきた自分たちが一つとなって、最高の舞台を作り上げた。あの瞬間の、永遠に忘れられない輝き。天馬と一成だって、いつでも取り出せる。
 染井監督が人生で初めて撮った作品は、研究会での評判も上々だった。「面白かった」という言葉が嬉しくて、何より自分が想像した世界を形にすることの喜びを染井監督は知ったのだ。次々と撮りたい作品のアイデアが浮かんで、すぐに次の作品へと取り掛かる。
 どの作品でも一番の協力者であり、理解者であったのが妻となる先輩だった。
 小さなアイデアも楽しそうに聞いて、悩みがあったら寄り添い、譲れない意見があれば真正面からぶつかることも厭わない。常に全てを肯定するのではなく、一人の人間として対等に向き合いながら、いつだって味方でいてくれる人のことを大切に思うのは、当然の流れと言えた。
 映画製作に打ち込んだ四年間。卒業の集大成として制作した作品は、染井青年にとって渾身の出来栄えだった。周囲のすすめもあり新人映画コンクールに応募したところ、見事に大賞を受賞。染井芳暢という名前が世間に知られた瞬間だった。

「その時に奥さんにプロポーズしたっていうのは、聞いたことあります!」
「そういえば。染井監督の話として、よく話題になりますよね」

 嬉々とした表情で一成が言って、天馬も大きくうなずいた。プライベートが多く語られない人ではあるものの、いくつかのエピソードはある。その一つが、新人賞を受賞した際のプロポーズである。
 染井監督は「ああ……」と小さく声をこぼす。耳が赤く染まっており、完全に照れた様子で言う。

「あの時は、いろんなことが一気に押し寄せてきて混乱し通しだったもので……。その上、プロポーズを受けてもらえた喜びで舞い上がっていたものですから……。インタビューで何が聞かれているかもわからないまま、妻にプロポーズしたことを話してしまったんですよね……」

 染井監督は、学生映画界ではそれなりに有名だった。ただ、プロとして通用するかどうかとささやかれていたのだ。
 しかし、蓋を開けてみれば予想以上の完成度の高さで、とても二十歳を過ぎたばかりの青年の作品とは思われなかった。審査員が満場一致で大賞に選出したこともあり、マスコミが大量に押し寄せたのだ。
 その時、染井監督はちょうどプロポーズを成功させていたタイミングだった。結果、混乱と舞い上がった気持ちから結婚報告までしてしまったらしい。
 聞かれてもいないことをべらべらしゃべってしまった、と染井監督は猛烈に後悔したものの、時すでに遅し。マスコミは面白がって、大賞受賞とともにプロポーズと結婚を報じたのだ。

「妻が面白がってくれたことは幸運でしたが……」

 しみじみとつぶやく監督は、大きく息を吐き出した。過去の自分に心底呆れているらしい。その気持ちも理解できないわけではなかったけれど。

「でも、そのエピソードはお二人らしいなと思います。それからも、たびたび奥様のことが出てくるのもその一件があったからだと思いますし」

 丁寧に言葉を選びながら、天馬は言った。染井監督は失敗の一つだと思っていることはわかったけれど、周囲からの評価は少し違う。どちらかと言えば、染井監督の人となりを表すほほえましいエピソードという扱いだ。

「そだねん。オレ、染井監督と奥さんの話好き。すごくお互いのこと大事にしてるっていうのがわかるから」

 にこにこと一成も言葉を添えた。
 染井監督は、新人コンクールでの受賞をきっかけに華々しく映画界へデビューを果たす。それから次々と新作を発表し、着実に評価されていった。
 三十代に入った頃には日本国内では知る者のないほどの存在となり、活躍の場を世界に広げる。四十代の頃には国際的に権威のある賞をいくつも受賞。世界に名だたる監督としての地位を、不動のものとしたのだ。
 そんな染井監督を、マスコミが放っておくはずもなかった。映画監督としての業績はもちろん、日常生活や染井監督の人となりを伝えるべく、取材陣が周囲に押し掛けることも多々あったのだ。そこには、有名人である染井監督のスキャンダルを期待しての下世話な好奇心もあったのだろうけれど。
 いくら取材をしようとも、染井監督から出てくるのは仲睦まじい夫婦の様子である。
 スキャンダル目当てに取材していたマスコミたちも、どんな醜聞の影もないことを察したのだろう。デビュー時のプロポーズの件もあり、染井監督のプライベートを伝えるのはいかに夫婦仲が良く、愛妻家であるという話がメインとなっていた。

「そう言っていただけると嬉しいですが、特別なことではないですからね。好きで大事にしたくて結婚した相手ですし」

 天馬と一成の言葉にお礼を言いつつ、さらりと染井監督は告げる。愛妻家であることだとか、夫婦の仲睦まじさは染井監督にとっては取り立てて話題にするようなことではない。人生をともにしたい相手を大切にするのは、当然のことでしかないのだから。

「――そうですね」

 心からといった調子で天馬はうなずく。この世界のたった一人なら、天馬だって一成だって知っている。大事にしたくて、宝物みたいに丁寧に抱きしめていたくて、結婚という選択をしたのだ。特別なことのようにわざわざ報じられるものではないのだ。
 天馬の声に込められたものを、一成は理解している。だからこそ、一成も大きく首を縦に振って全力で天馬の言葉を肯定した。

「染井監督が奥さんのことめちゃくちゃ大事にしてるな~ってこと、今日家に来てよくわかったし、そういうのってすごくすてきだなって思います」

 目を細めた一成は言う。たとえばサイドテーブルに並んだ写真や飾られた花。当たり前のように置かれるクッキーの小皿。彼女のことを語る口ぶりやまなざし。大事な人を、心のままに大事にしているのだと、この上もなく伝わってくることは一成の胸をあたたかく満たすのだ。
 染井監督は二人の言葉に、やわらかく唇をほころばせた。「ありがとうございます」と告げてから、そっと言葉を続ける。

「妻が亡くなって、だいぶ経ちます。大事に思うのはわかるけれど、亡くなった人間にいつまでもこだわっても仕方ないと言う人もちらほらいました。親切心だということはわかっているのですが――どうしても私には過去のことにできませんでした」

 つぶやきのような声は語る。映画監督としての地位を築き上げ、順風満帆とも言える生活を送っていた。しかし、彼の妻が病の宣告を受けたことでそれまでの日々は一変する。
 闘病生活を懸命に支えたものの、病の進行は早くあっという間に病魔は体を蝕んだ。五十を目前にして、彼の妻はこの世を去ることになったのだ。

「妻の葬儀を終えてから、また映画を撮り始めました。大々的な復帰作とも銘打たれないような、小さな作品です。それでも、歓迎して迎え入れてくれたことをありがたいと思いました」

 治療に専念するため、映画製作は一時休止という扱いだった。メディアやマスコミとの接触も絶っていたとはいえ、あくまで一時的なものと目されていた。実際、葬儀後に新たな作品を手掛けたことから、再び映画を撮っていくのだろうと誰もが思っていた。

「ですが、続けて作品を撮っていく内にどうしても違和感が拭えなかった。私の撮りたいものは本当にこれなのだろうかと、何かが足りないのではないか、と思うことが増えていきました」

 それでも、染井芳暢という名前で発表される作品は一定の評価を受けていた。ネームバリューのおかげなのか、違和感も単なる気のせいだったのか。明確な答えは出ないものの、染井監督の中で膨らんでいく疑念だけがただ一つ確かだった。