春を訪う 03
「はっきりとしたきっかけがあったわけではないのです。ただ、ある日突然『これ以上映画は撮れない』と思いました」
淡々とした調子で、染井監督は言った。それからのことは、天馬や一成も知っている。結局染井監督は、映画撮影を一切止めてしまった。歴史に名を刻む監督でありながら新作が出ることはなく、すっかり過去の人という扱いだ。
それも当然で、映画を撮らなくなればメディアに顔を出す機会はない。マスコミとの接触も極力避けていたため、表舞台から姿を消すのは簡単だった。
当初こそ何が起きたのかと、マスコミの一部は騒いでいたらしい。妻との死別がきっかけだとする記事もいくつか出ていたものの、死別直後ではなかったことから単なる憶測の域を出なかった。実際、染井監督にもはっきりとした原因はわからなかったのだ。
「妻のために映画を撮っていたわけではありません。もしも、妻がいないから映画が撮れないなんて言ったら、『私のせいにするなんてずるい』と言われるでしょう」
そう言う染井監督は、自嘲めいた笑みをうっすら浮かべた。事実として、死別後もアイデアは頭にあったし、撮りたいものだってなくなったわけではない。三回忌の前に新作も発表しており、傍から見れば妻との別れから立ち直ったように見えただろう。
染井監督自身も、映画撮影のための技術がなくなったわけではないから、作品を完成させることはできるだろうと思ったのだという。
「それでも、どうしても映画を撮ることができませんでした」
理由はわからない。だけれど、今までずっとそばにいた人がいない、という現実はあまりにも重かった。
どんな映画が撮りたいのか、こんな話にしたいのだと、隣で語り合った相手がいない。一番近くで自分の映画を見てくれる人は、どこを探したってもう二度と会えない。その事実は、あまりに痛くて苦しくて、どうすることもできなかった。
周囲の人間は染井監督を心配して、カウンセリングや心療内科の手配もしてくれた。しかし、結局染井監督がそれ以降映画を撮ることはなかった。
ただ、映画への情熱自体を失ったわけではなかったので、映画製作と配給を請け負う会社を経営する、という形で映画と関わっていくことを選んだのだ。
「もちろん私もこれでいいと思っていたわけではないのですが――過去にとらわれているのだと、いつまでも死んだ妻のことを考えているから、前に進めないのだと言われるのは辛くもありました」
染井監督が映画を撮れなくなった原因は、明確になっていない。ただ、妻の死が大きな影響を与えていると考えるものは少なくなかった。だからこそ、再び映画を撮ってほしいとの思いから、染井監督へ発破をかけるようなことを言う人間も大勢いたのだろう。
心配ゆえの言葉であることは、充分にわかっていた。過去に囚われて人生を諦めてしまったように見えたのかもしれない。死んだ人間の方ばかり向いて、生きることを投げ出してしまうのではないかと思ったのかもしれない。
染井監督を思っての言葉なのだと、頭では理解していてもどうしても心はうなずかなかった。
「――だから、お二人が妻のことを想って花束を用意してくれたのが嬉しかった」
やわらかな笑みをこぼして、染井監督はサイドテーブルのチューリップに目を向けた。とうてい仏花として選ばれることのない花だ。だからこそ、故人への手向けではないのだと思えた。染井監督が心から大事にする人へふさわしいと選ばれた、純粋な贈り物だった。
「妻のためのものなら何でも嬉しいんですけどね。でも、もういない相手ではなく、ともに生きているのだと言ってもらえたような気がしたのです」
天馬と一成へ視線を向けた染井監督は、おだやかな声音でそう言った。
どれほど深くからの言葉なのか、二人は理解する。たとえこの世界のどこを探したって会えないとしても、染井監督の中で大事な人は生きている。過去に取り残すことなく、今日この日までともに歩んできた。
染井監督は、声高に愛を主張するような人ではない。おだやかに日々を生きて、時間を重ねてきた。その根底に横たわるのは、これほどまでに深く豊かで、強い愛情だ。表に出すこともなく、丁寧に抱きしめるようにして、たった一人への愛を抱えて歩いてきた。
そんな染井監督にとって、自分たちの選択は意味のあるものだったのだと、天馬も一成も理解した。確信があっての行為ではなかったけれど、二人の間にあるものを讃えることができたのだ。それが何だか誇らしい。
静かに沈黙が流れる。しかし気まずさの類はなく、ひたひたと胸を満たす喜びをかみしめるような時間だった。
そんな沈黙に身を浸してから、ゆっくりと口を開いたのは染井監督だった。やわらかな笑顔に明るい光を混ぜて、染井監督は嬉しそうに言った。
「三好さんの絵は、とても春めいていますからね。だから私も好きなのですが、妻も気に入ってくれるに違いありません」
視線の先はサイドテーブルの設置された壁際の真向かい。天井に近い場所には、一成が描いたクロッカスの絵が飾られている。
「妻にもこの絵を見せたかったんですよ。しばらくぶりに撮影した映画の大事なアイテムということもありますし、春を描いた絵を妻は喜んでくれますから」
うきうきとした調子で、染井監督は映画撮影のことは妻にも報告したんですよ、と続ける。
日常での些細な出来事を、染井監督は写真の妻に毎日話していた。その中で、天馬と一成のストリートACTを見たことや、どうしようもなく心を動かされたという話も口にしていた。
脚本を描いたこと、映画製作の話が持ち上がったこと、カンパニーへ説明をしにいったこと。天馬と一成から出演オファーへの承諾をもらい、本格的に映画製作が始まったこと。無事に作品が完成し、全国的に上映が開始されたこと。一つ一つを、染井監督は報告していた。
「『ずいぶん待たせるんだから』と妻は言うでしょうね。少し怒って、すぐに笑って『すごく楽しみ!』と言ってくれると思います」
長い沈黙を経て、ついに上映される染井監督の新作映画だ。多くの人が待ち望んだ映画を、誰より待っていたのは一番の理解者であり、今までずっとともに過ごしてきた染井監督の妻であることは違いなかった。
「映画でも大事な意味を持っていますし、クロッカスは春を告げる花ですから。こんなにも光にあふれた春の花を、妻に見せたかった」
作中のアイテムとして当然評価はしていた。ただ、それだけでなく自宅に飾りたいと素直に思ったのだ。
もともと、染井監督は一成の絵を好ましく感じていた。好きな作品を演じた役者が描いた絵だからではなく、一成の描く世界に魅了されたのだ。
丁寧に描き出されるのは、奥行きのある世界観に、あふれる色や光。派手なものだけではなく、白と黒のモノトーンの世界でさえも色を感じさせる腕前は見事だった。それでいて、どこまでもしんとした静けさや幾重にも塗りこめたような夜を描き出すこともできる。
多彩な世界を絵筆から生み出す日本画家・三好一成の作品が染井監督は好きだった。
そういうわけで、クロッカスの絵を買い取りたいと申し出たのだ。お金を払いたい染井監督とお金は受け取れないという一成で多少のひと悶着はあったものの、天馬が仲裁に入って上手く落ち着いた。
結果として、クロッカスの絵はリビングの一角に堂々と飾られている。
「いつでも見ることができますからね。妻からももちろん、食事中にも目に入ります。ああ、もちろん日に当たらないよう気をつけていますし、ときどきメンテナンスもするつもりです」
きっぱりとした口調で、絵を大切にしていることを伝える。作者である一成がいるのだから、そこはきちんと言っておかないと、と思ったのだろう。
「ありがとうございます。そういう風に思ってもらえて、すっごく嬉しいです」
へにゃりと眉を下げて、一成は答えた。いつもの明るくてぴかぴかした笑みではなく、とろけるようにやわらかな笑顔。描いたものを、丸ごと受け止めてくれたのだと実感すれば何だか胸がふわふわして、自然とそんな表情になってしまうのだ。
隣で様子を見守る天馬も、ふっと唇をほころばせる。一成の絵が人の心を動かしたのだと知ることも、一成の胸が喜びで満たされていることも、天馬にとっては嬉しくて仕方がないことだったからだ。大事な人が幸せでいてくれる。その事実は、どうしようもなく天馬の胸を高鳴らせた。
もっとも、浮かんだ笑みはほんの一瞬だ。あくまでも夏組としての親愛を表に出すよう、気をつけていた。それでも、奥底に宿る感情を隠し切れないと思ったからこそすぐに笑みを消して、平静を装ったのだけれど。
「――ああ、すっかりお茶がなくなってしまいましたね。おかわりを持ってきましょう」
おだやかな表情を浮かべていた染井監督は、はたとした口調で言う。カップに入った紅茶はとっくに空になっていた。
自然な動作で立ち上がり、カップを回収する。「手伝います」と声を掛けるも、「お客様にそんなことはさせられません」とやわらかく首を振られた。続けて「好きでやっていることですから」とまで言われては、素直にうなずく以外の道はなかった。
それからしばらくして、染井監督は新しい紅茶を手に戻ってくる。丁寧にカップをサーブすると、楽しげに言う。
「さっきとは少し、茶葉を変えてみたんですよ。フルーティーな香りが強めでしょう」
「あ、ほんとだ。柑橘系っぽい匂いかも」
「へえ、面白いな」
紅茶を前に、楽しげな会話が交わされる。染井監督も嬉しそうに、最近買った紅茶の話だとか気になっている茶葉についてなど、何でもない雑談が弾んでいく。すっかりくつろいだ雰囲気で、リビングは和やかな空気が流れていた。
そんな中で新しく公開される映画についてあれこれと話をしていると、ふと沈黙が流れる。会話の間の小休止のような、ささやかな一瞬だ。すると、それを合図にしたように、染井監督が持っていたカップをローテーブルへ置いた。
「天馬くん、三好さん。今日は本当にありがとうございました。お二人のおかげで、とても楽しい時間を過ごせています。家まで来ていただいて、ありがとうございます」
真っ直ぐ視線を向けて、染井監督は言う。唇に笑みを浮かべて、真剣な雰囲気をまとって。
天馬と一成が思わず居住まいを正してしまうような、そんな空気さえあった。もっとも、そんなたいそうなことをしているわけではないので、慌てて二人で首を振ったのだけれど。
染井監督は「本当にお二人に感謝しているんですよ」と、やさしい口調で言った。それから、同じ響きで言葉を重ねた。
「これは私の独り言ですし、お二人に何か行動を起こしてほしいだとか、そういうことではないんです。ただ、私が思っていることをお伝えしたいだけですので、あまり深くは考えないでくださいね」
やわらかく目を細めて告げられた言葉に、天馬と一成は戸惑いを浮かべる。一体どんな反応をすればいいのかわからなかったからだ。染井監督は二人の困惑を理解している。しかし、説明することなく先を続けた。
「天馬くんと三好さんの様子を、今日は近くで見ていることができました。仲のいいお二人であることは充分知っていましたが、なんてまぶしくて美しいのだろうと思ったんですよ」
おだやかな声音で言うのは、今日染井監督の自宅を訪れた二人の様子だった。きらきらとまぶしいくらい、二人の間にあるものは光に満ちあふれていた。お互いに向かう真っ直ぐとした信頼や愛情が、形にならない想いが二人を包んでいるようだった。
染井監督の言葉に、天馬と一成はどんな顔をすればいいかわからなかった。
二人の関係は、あくまでも友人であり夏組の仲間ということになっている。特別な相手だと、人生をともにするのだという誓いを知っているのは、MANKAIカンパニーのメンバーと彼らの家族など一部の人間だけだ。染井監督に伝えたわけではない。
ただ、聡い人であることはわかっている。「浅き春のカノン」のクランクアップを祝うパーティーでの一成とのやり取りなら天馬も聞いていたから、気づいていることも知っていた。とはいえ、はっきりとした言葉にしたわけではないから、ここでうなずいていいのかわからなかったのだ。
それを察したのだろう。染井監督は、おだやかな声音で続ける。
「関係性にどんな名前をつけるのかは、当人だけが決めることですからね。私がとやかく言うことではありませんし、報告をしてほしいわけではないんです。わかりにくい言い方をしてしまいましたね、すみません」
困ったように眉を下げた染井監督は、肯定する必要はないのだと二人に告げた。芸能人という立場上、簡単にうなずけないことはわかっていたのに、曖昧な言い方で戸惑わせてしまうことを再度詫びてから、さらに言葉を重ねた。
「世間一般的な形とは少しばかり違うのかもしれません。もしかしたら、受け入れられないという人もいるかもしれませんね。普通や大多数とは違うというのも、事実ではあるのでしょう」
はっきりとした言葉にされなくても、染井監督は二人の関係に気づいている。
たった一人の特別だと、互いを想い定めた二人なのだ。一般的には異性同士で行われる誓いを、二人は同性で交わし合った。大多数の選択と違っていることは確かだった。もしも世間一般に公表されたなら、否定の言葉も向けられるだろう。普通とは違う、ただそれだけで。
簡単に想像できるからこそ、染井監督は天馬と一成に伝えたかったのだ。
「天馬くんと三好さんには、心強い仲間がいますからね。私がわざわざ言う必要はないかもしれませんが――二人の間にあるものは、いつだって美しい」
真っ直ぐ二人を見つめて、染井監督は言った。映画を撮影している時からずっと思っていたこと。今日間近で二人の様子を目にして、気持ちは確信へと変わっていった。
「どれだけ真っ直ぐ相手を想っているか。大事で、大切で、特別にしたいと、宝物のように思っているか。これ以上ないほど確かに伝わりました。言葉だけではなく、まなざしや指先の仕草、名前を呼ぶ声の響きや唇の動き、そういうものの全てが、愛おしさで形作られているようでした」
そう言って、染井監督は息を吐いた。少しばかりの沈黙を流したあと、ゆっくり言葉を続ける。静かでいながら、力強い声。凛としてやさしい、どこまでも澄み切った響きで言う。
「こんなにも美しいものを、愛と呼ばずに何と呼ぶのか私にはわかりません」
真っ直ぐ告げられた言葉は、降りそそぐように二人へ届いた。
はっきりと関係性を口にしたわけではない。それでも染井監督は確かに二人の間に結ばれているものを見つけた。置かれた立場から公表しない選択をしているのだと理解して、具体的な言葉を口にはしない。それでも、染井監督は二人に伝えたかった。
たとえ、世間に向かって大々的に告げることができなくても。ともすれば否定され、遠ざけられ、嫌悪や忌避を向けられ、普通ではないと後ろ指をさされるとしても。二人の間にあるものは、この上もなく美しいのだと、いくらだって言いたかった。
染井監督の言葉を受け取った二人は、胸がいっぱいになってどんな答えを返せばいいかわからなかった。心から、染井監督は思っていてくれる。真っ直ぐと、二人の間にあるものは愛なのだと告げてくれた。
「――お二人を見ていると、妻に会いたいなとあらためて思うくらいでしたよ」
いたずらっぽい笑みを浮かべて、染井監督は言う。その言葉の意味が、わからない二人ではなかった。
たった一人の特別を知っている人だ。世間からも愛妻家と呼ばれて、仲睦まじさは広く浸透している。おしどり夫婦として有名で、比翼連理になぞらえる言葉もある。
そんな人が言うのだ。天馬と一成、二人の姿に最愛の人を思い浮かべたのだと。二人の様子から、特別な片割れとともに過ごしたいと願ったのだと。
それは、この上もないほどの愛の肯定だった。
普通とは違っていて、誰も彼もが手放しで祝福を贈られる関係ではないとしても。人によっては受け入れられず、拒絶や嫌悪を示されるとしても。
染井監督は言う。
天馬と一成。二人の間にあるものは、自分たちと変わらない。世間の人々が口々に「理想的な夫婦」だと言った自分たちと同じものが、二人の間には結ばれている。誰より力強い、肯定の言葉だった。
天馬と一成は、どんな答えを返せばいいかと互いに視線を交わし合う。感謝を口にすればいいのか、それとももっとふさわしい言葉があるだろうか。何かを言わなくては、と思ったのだけれど。それに気づいたのか、染井監督が口を開く。
「これは単なる私の独り言ですからね。答えはなくて構いませんよ」
やさしい二人のことなので、何かを返そうとしてくれることはわかっていた。だけれど、何かを望んでいるわけではなかった。ただ受け取ってほしい、と願っての言葉だったのだ。
ただ、それだけではきっとうなずかないことも、染井監督は理解していたのでさらに言葉を添える。
「でも、そうですね。もしもよければ、また遊びに来ていただけたら嬉しいです」
にっこりと笑みを浮かべて、染井監督は言った。
今日はとても楽しい時間を過ごすことができた。天馬と一成の話は興味深いものだったし、仲睦まじい二人の姿を見ていることは染井監督の胸をあたたかく満たしていた。何だか、妻との毎日を思い出させる風情さえあったのだ。
だから望んでいいのなら、また二人が遊びに来てくれるといいと思った。
天馬と一成はぱちりと目を瞬かせたあと、笑みを浮かべて「はい」とうなずいた。真夏の太陽みたいなまばゆさに、春の光のあたたかさを混ぜて。秋の朝みたいに澄んだ声に、冬の夜の凛々しさを添えて。
「そしたらまた、奥さんの話いっぱい聞かせてほしいです」
「またぴったりの花を持ってきます」
力強く告げられた言葉に、染井監督は嬉しそうにうなずいた。
END