スウィートホーム・シンフォニー 01話
二人そろって、天馬の自宅へと帰ってきた。一応、天馬が一人で住む家ではあるけれど、一成にとってはよく知った場所である。二人とも未だ別々の家に暮らしているものの、時間があれば一成はしょっちゅう天馬の家に通っているのだ。すっかり慣れた様子でソファに座った。
もっとも、一成の仕事が立て込んでいればこうして天馬の自宅を訪れることもできない。二人そろって帰ってきた、ということは一成の仕事が落ち着いていることを意味している。
「ちょこっと修正あったみたいだけど、ほとんど変わってないみたいだねん!」
リビングのソファに座った一成が、渡された台本を取り出して言う。ぱらぱらとめくって確認しているのは、修正部分なのだろう。
「この前の段階で、ほぼ決定稿だったからな。まあ、絵コンテも完成しててスケジュールまで組んでるんだ。それもそうだろ」
一成の隣に座った天馬も、台本に目を通す。事前に準備稿へ目は通していたものの、契約後に渡されたものが正式な台本になるので、こちらを読み進める必要がある。
「――夏組のみんなも言ってたけど、マジであのストリートACTがこうなるか~って感じだよねん」
台本から顔を上げた一成が、思わず、といった調子でこぼす。それを聞く天馬は、にやりと唇の端を上げて答えた。
「原案がアドリブ満載のコメディ劇だとは思えない、抒情的な映画だからな」
「マジそれな~! 映画見たあとに舞台見たら、びっくりしちゃうっしょ」
「全然雰囲気違うからな。それなのに、キャラクターがブレてないのはさすがだ」
「オレもそれ思った! 作風全然違うのに、ちゃんと蒼生(あおい)と遼一郎(りょういちろう)なんだよねん」
「ああ。あの二人がもしも駆け落ちしたら、こういう風に生活するだろうなって思う」
しみじみとした調子で言った天馬は、あらためて台本に目を通す。それはこれから二人が出演することになる作品であり、夏組公演をもとにした映画だった。
対象の公演は、昨年行われた夏組全員集合公演だ。
近頃では、スケジュールの関係で夏組六人がそろって舞台に立つことはなかった。そんな中、久しぶりに全員がそろった夏組公演は、天馬演じる遼一郎と一成演じる蒼生という恋人同士によるラブコメ劇だった。
公演のお知らせのためにサプライズとして行われたストリートACTが話題を呼び、全公演配信ということもあいまって、大きな評判となった。
もっとも、世間一般の認識と実際の様子は少々異なる。もともとは、天馬と一成がひっそりと育んできた恋人関係が、マスコミによって嗅ぎつけられたことに端を発するのだ。
スキャンダルは全て告知のためのサプライズだ、といった体で駆け抜けた、というのが実際のところである。結果として、一連の騒動をなかったことにするため、夏組が筆頭となってどうにか実現させたのが二日間のみの特別公演だ。
ただ、事情を知っているのは関係者だけなので、一般的にはWebを中心として盛り上がりを見せた、大成功の公演という位置づけである。
「マジでめっちゃ研究してくれたんだなって感じだし、さすがだよねん」
「人間に対する観察眼が鋭いって評判だからな。染井(そめい)監督は」
どこか誇らしげに天馬が口にしたのは、夏組公演をもとにした映画を撮りたい、とオファーしてきた人物だ。一成は天馬の言葉に、MANKAI寮の談話室で顔を合わせた人物を思い浮かべる。
年の頃は七十代。丁寧に整えられた、ふっさりとした白髪。鼈甲の眼鏡。小柄な体躯に、襟付きシャツとジャケットを品よく身に着けていた。にこにこと浮かんだ笑みは、縁側で日向ぼっこをする猫のような雰囲気を宿している。しかし、眼鏡の奥の瞳は子どものような好奇心が宿っていた。
彼の名前は、染井芳暢(そめい・よしのぶ)といった。
その名前は、演技に関わる者なら誰でも知っている。国際的に権威のある映画賞をいくつも受賞した映画監督であり、彼の撮った作品は国内外を問わず高く評価されている。映画だけにとどまらず、芝居の道に入ったものであれば、見ておくべき作品として位置づけられる作品をいくつも撮っているのだ。
しかし、それは二十年以上前のことだ。ある時を境に、染井監督はぱたりと映画を撮ることを止めてしまった。現在は、映画製作と配給を請け負う会社を経営しており、そちらの方面で映画界に影響を与えている。
もっとも、彼の作品は今でも日本映画界に多大なる功績を果たしたものとして評価されており、その名声が衰えることはない。
天馬自身、過去の名作映画ならそらんじられるほど何度も見ている人間だ。最近とんと映画を撮っていないとしても、伝説的な映画監督であることには変わりない。そんな人物を前にして天馬はそわそわと落ち着きがなくて、一成は内心で「かわいいなぁ」と思っていた。
談話室でのあれこれを思い出しながら、一成は口を開く。
「染井監督がさ、めっちゃ気に入ってくれたのも嬉しいよねん」
「ああ。長く脚本を書いてなかったのに、思わず筆を執って一気に書き上げた、なんて光栄な話だ」
談話室で顔を合わせた染井監督は言っていた。著名な映画監督であることなど、まったく感じさせることなく、大スターを前に戸惑う少年のように照れながら。
夏組のストリートACTに、そのあとの公演にどれほど心を動かされたのか、と落ち着きながらも確かな熱弁をふるったのだ。
遼一郎と蒼生の二人が、どれほどまでに互いを思い合っているのか、かけがえのない存在であるか。痛いほどに伝わってきて、二人の間にあるものはなんて美しいのかと心が震えました。どんな道を歩いてきたのか、どんな未来を描いていくのか。この二人の話をもっと見てみたいと思ったのです、と。
全体としてはコメディ劇であるため、笑いのシーンはふんだんに盛り込まれている。ただ、別れ話に発展している恋人同士、という役柄であったため、一成と天馬のシーンはところどころでシリアスな展開になっている。その全てを貫くのは、お互いへの限りない愛情だ。
もともとは、現実の天馬と一成に即したアドリブ劇が根幹である。事実としてお互いをたった一人と思い定めた二人だという前提があるため、劇中の二人の間にも特別なつながりが生まれている。舞台上でもそれは遺憾なく発揮されているため、染井監督の感想はこの上もなく正しい。
一成と天馬が、共に人生を歩むと決めたように、作中の二人は手を取ることを選んだ。この人がたった一人の特別だと。世界中から選ぶのはこの人だけなのだと。言葉で、声で、まなざしで、紡ぐ吐息で、指先の動きで、全身の全てで訴えるような二人の演技にどうしよもなく胸を打たれたのだ、と染井監督は言う。
結果として、衝動のまま二十数年ぶりに脚本を書き上げた。さらにそれだけにとどまらず、絵コンテまで完成させた上、もしも実際に撮影するなら、と撮影スケジュールまで立てたというのだから、見事な情熱と言わざるを得ない。
染井監督自らアポイントメントを取り、カンパニーの監督たちをはじめとした関係者に説明へ赴いたのも、染井監督が真摯に作品と向き合おうとしていることの証左だった。
世界的に名前の知られた映画監督である。彼が再び映画を撮る、となればマスコミが大いに騒ぎ立てることは目に見えている。どんな端役でも構わないからと、出演を熱望する役者は後を絶たないだろう。
染井監督自ら動かなくとも、全ては周囲がお膳立てしてくれるような環境に生きている。それにもかかわらず、染井監督は自らの足でMANKAI寮へと足を運び、自分自身の口で熱意を伝えた。彼にとって、それは当然のことだった。
話を聞いた結果として、MANKAIカンパニーは染井監督の申し出を受けた。話題性という意味でカンパニーの利になるということもあったけれど、染井監督の熱意を受け取ったからだ。原案という立場の夏組にも、公演での脚本を手掛けた綴にも話をして、双方からは好意的な返答を得ている。
何より、天馬も一成も、再び彼らを演じることが楽しみだった。一つ一つの役柄は、どれも自分たちにとって掛け替えのない存在ではあるけれど、遼一郎と蒼生という存在は、これからの人生を決定づけた役柄でもあるのだ。スケジュールを調整して、出演を快諾したのは当然の結論と言えた。
「公演とは違った世界っていうのも新鮮だよな。雰囲気も変わるし、こういうアプローチもできるんだなって、参考になる」
しみじみとした調子で言った天馬は、台本にそっと目を通す。一成も同じように、手の中の台本に視線を向けた。
染井監督の書き上げた脚本は、夏組全員集合公演を原案としているものの、完全な続編という形ではなかった。
公演では紆余曲折あれどハッピーエンドを迎えて、周囲とも和解を果たす。しかし、映画で描かれるのは、タイムパトロールの二人に出会うこともなく、父親や弟を筆頭として交際に反対された結果、駆け落ちを選んだ遼一郎と蒼生の物語だった。
ゲームにおけるルート分岐のように、別の道を選んだ場合の世界という位置づけだ。MANKAIカンパニー公式のアナザールートと銘打たれることになっている。
もしもの世界の別ルートの話である、とすることで今後のカンパニーにおける展開にもある程度の自由が担保できる。
「丁寧に二人の生活描いてて、全体的に淡くてやわらかい感じ。薄い光が差し込んでるみたいな」
目を細めた一成がつぶやく。公演はシリアスなシーンもあるけれど、ポップでカラフルな印象が強い。しかし、映画は透き通った光に包まれているような雰囲気だった。
「ようやく春になったかって頃の話だからな。思いが通じ合っても、全て雪解けを迎えたわけじゃない。だからこのタイトルなんだろ」
言いながら、天馬が台本の表紙をなぞる。指先が辿ったのは、二人が出演する映画のタイトル――「浅き春のカノン」。
映画では、大手財閥の流れを汲む一流企業の子息である遼一郎と、両親を早くに亡くして一人で弟を育てた苦労人の蒼生が、周囲の反対により駆け落ちを選んだ世界を描いている。
二人は何もかもを捨てて、地方都市のアパートで二人暮らしを始める。アルバイトで生計を立てながら過ごす日々はどうにか軌道に乗り、ささやかな毎日が日常になっている。
朝起きた時に交わされる挨拶、スーパーで交わされる夕食をどうするかといった会話、寄り添って歩く帰り道。変哲のない風景を慈しみながら、寄り添うように日々を過ごす。しかし、遼一郎の関係者が蒼生の前に姿を現したことで、おだやかだった毎日は終わりを迎える。
「やっぱ、この喧嘩のシーンってドキドキしちゃうよねん」
台本を読み進めていた一成が、あらためてといった調子でつぶやく。
関係者と会ったことで、蒼生は遼一郎を自分に縛りつけることは正しいのだろうかと葛藤する。さらに、関係者とのやり取りを秘密にしていることもあいまって、何か隠し事をしているのではないか、と考えた遼一郎とギクシャクした雰囲気になるのだ。
そこから発展する口論は、おだやかな映画の中でも珍しい、激しい感情をやり取りする場面だ。
「テンテンとガチ口論!ってシーン、あんまりやったことないしねん。そういう意味でも新鮮だし」
「そういえばそうだな。口論っぽいのはあってもコメディ調の方が多い」
一成の言葉に、天馬もうなずく。まったくないわけではないものの、シリアスな雰囲気での喧嘩というとそう数は多くなかった。
「遼一郎わりと子どもっぽいところあるかんね~。カチンって来ると、うっかり強い言葉使っちゃう感じちょっと懐かしくね?」
言いながらイタズラっぽい目を向けてくる一成に、天馬は微妙な表情を浮かべる。言いたいことはわかっていた。
思い出しているのは、十中八九出会った頃の話だ。
天馬がまだ高校生で、一成たち夏組は演技なんて経験したこともない素人集団だった。そんな連中と舞台に立つ、となれば上手く行かないことも多くて、天馬は苛立ちを抑えきれなかった。
加えて、天馬は友人というものがおらず、距離の取り方なんてほとんどわかっていなかった。だから、何を言えば相手が傷つくかなんて思いもせず、口から勝手に言葉は飛び出していたのだ。
相手がどんな風に受け取るかなんて想像もせず、放った言葉に痛そうな顔をするなんて思いもしなかった。
怒って言い返す姿なら予想できた。だけれど、痛みを抱えて笑おうとするなんて。そんな風に自分の言葉を受け止める人間がいるなんて、思いもしていなかった。
あの時のことを思い出すと、天馬の胸には苦い感情がよみがえる。ただ、一成が自分を責めるためにこの話をしたわけではないことはわかっていた。
一成の表情が何よりも告げている。過去の天馬を思い出した時、一成の胸によみがえるのは苦い記憶では決してない。痛みを思い出したとしても、浮かぶものはきっともっと甘いものだ。
「――思ってることを閉じ込めて、本音を口に出せない蒼生も何か懐かしいだろ」
そう言うと、天馬は隣に座る一成へ手を伸ばした。ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜる。一成は楽しそうな笑い声を上げると、そのままの雰囲気で答えた。
「そだねん。こうやって、思ってることちゃんと言えないのは昔のオレっぽいかも!」
きらきらした声で言う一成は、昔の自分を思い出している。
MANKAIカンパニーに入団した頃。天馬たち夏組と出会って、共に舞台へ立つべく日々汗を流していた。あの頃の自分を、一成は覚えている。
思っていることを素直に口に出せなくて、誰の意見にもうなずいてばかりだった。そういう風に生きていくのが自分の処世術で、これ以外の生き方なんてできるわけがないと思っていたのに。
MANKAIカンパニーで過ごした日々が、夏組との出会いが、あまりにも真っ直ぐと自身の心を取り出して見せてくれる人たちが、一成に新しい決意をさせた。このままじゃだめだと、一歩を踏み出す勇気をくれたのだ。
それから何があって、今の自分へつながったのかだって、一成はよく知っている。
「何かちょっと懐かしいね」
少しだけ声の響きを変えて、一成はつぶやく。
遼一郎の子どもっぽさや、蒼生の本音を閉じ込めるところ。それはどことなく、過去の自分たちを連想させる。
あの頃感じた痛みや苦しみは、過去のものとは言え消え去ったわけではない。だけれど、それすらも今の自分たちなら、新しい輝きを与えてやれるだろうと一成は思っている。
「そうだな」
うなずいた天馬は、やさしい声をしていた。一成と同じ思いを抱いているのだと、声一つでわかるようなそんな響きだった。
学生時代に出会った自分たちは、それからずっと同じ時間を過ごしてきた。掛け替えのない仲間から、人生におけるたった一人だと目の前の相手を思い定めて。これから先の未来を共に歩んでいこうと誓い合った相手だ。
ここに至るまでの道のりは、平坦なものではなかった。だけれど、それすら乗り越えて手を取り合うと決めたのだ。
だから、痛くて辛い記憶だってそれすらみんな、どこかで甘さをたたえている。今この瞬間につながる道なのだと、誰よりはっきりと理解しているからこそ。
「あの頃はこんな未来想像してなかったから、不思議な感じもするけどな」
言いながら、天馬はそっと一成の髪を直してやる。それから、隣に座る一成の左手へ手を伸ばす。するりと撫でた薬指には、指輪が一つ。天馬がこれからの誓いを込めて、一成へと送った指輪だ。
そこに指輪がある、という事実に胸がいっぱいになりながら、天馬は手を握る。自然と寄り添う形になって、隣同士でお互いの肩が触れる。一成はからんだ指に力を込めると、くすぐったそうに言った。
「まあねん。テンテンと結婚するよんって言っても、当時のオレ絶対信じないと思う」
「それはオレもだな。成長しても嘘が下手だなって自分に思ってそうだ……」
若干遠い目をして天馬がつぶやくので、一成はころころと笑った。
出会ったばかりの自分たちにそんな話をしたところで、何を言っているんだと思われることは確実だった。それくらい、有り得ないと思っていた出来事が、今では現実になっているのは何だか不思議ではあったけれど。
「でも、テンテンのこといっぱい知ったら、好きになるのなんて当然じゃん?」
最初はどんな風に接すればいいのかと戸惑っていたのも事実だ。だけれど、天馬がどれほど真っ直ぐな心根を持ち、どこまでも誠実に向き合ってくれる人なのかを知っていった。
一成の心を受け止めて、当たり前みたいに大事にしてくれた。一成の世界を生まれ変わらせて、いつだって新しい光をくれる。
「ああ。一成のことを知れば知るほど、お前を大切にしたいって思うようになったからな」
テンションばかり高くて、調子のいいことを言っている人間だと思った。だけれど、他人の心の機微をすくい取ることに長けていて、そっと寄り添う人間だと知っていく。
抱きとめるようなやさしさで、辺りを包み込むまばゆさで、惜しみなく天馬へ愛を注ぐのだ。天馬の手を引いて、新しい景色を、その美しさを何度だって教えてくれた。
一つずつ、少しずつ、ゆっくりと互いの心を知っていく。
面倒なところも、厄介なところも、抱きしめたいところも、守りたいと思うところも、宝物みたいに集めていった。そうして、互いの知らない顔を知り、心の内に触れることで、相手を大切に思う気持ちは育っていったのだ。
「テンテン、マジで素直になったよねん。昔だったら、絶対もっと照れてたのに!」
天馬の肩にもたれかかった一成が心底楽しそうに言う。それを聞く天馬は、無言で左手を伸ばすと一成の前髪を掻き分けた。自然な動作で額に口づけると、にやりと笑みを浮かべて言う。
「お前を大事にすることに、ためらう理由はないからな」
心底楽しそうな笑みとともに告げられて、一成は黙る。
何今の、テンテンめっちゃカッコいいんだけど!?という感情と、でこちゅー嬉しいという気持ちが渦巻いて上手く言葉にならなかったのだ。しかし、それも一瞬だ。
拗ねたように唇を尖らせた一成は、姿勢を変えて天馬を真っ直ぐ見つめると言った。子どもが駄々をこねるみたいな雰囲気で、奥底にはもっと別の色を宿して。
「でこちゅーだけじゃ足りないんですけど」
「オレもだ」
楽しそうな笑みをいっそう輝かせて、天馬は答える。額へのキスを喜んでいてくれることはわかっていたけれど、それだけじゃ足りないと言ってくれることが嬉しかった。一成がこんな風に、ワガママめいたことを言ってくれることも、胸を弾ませるには充分だった。
天馬の答えに、一成の表情が崩れる。真っ直ぐと向けられる愛情に、拗ねた顔なんてどうせ持続できないのだ。ふわふわとした気持ちのまま、こぼれだしそうな笑みが浮かぶ。
正面から向き直った天馬は、微笑みの形をした唇にそっとキスを落とした。うっとりとした様子で一成が目を閉じる。かわいいな、と思いながら天馬はついばむようなキスを繰り返した。
何度目かの口づけのあと、一成はそっと目を開けた。艶やかな若草色が天馬をじっと見つめる。宿る色彩の美しさに思わず動きを止めると、今度は自分の番だ、とでも言うように天馬の唇に己の唇を重ねた。やわらかな感触を堪能するような、長い口づけだった。
「テンテンとキスすんの、すげー好き」
唇を離した一成が、心からといった調子でつぶやく。薔薇色に染まる頬で、どこか酔いしれるような雰囲気を漂わせて。天馬はその様子に胸がいっぱいになりながら、「オレもお前とキスするのが好きだ」と告げる。
昔の天馬なら、こんなに素直に言えなかったけれど。これから先の未来まで、共に歩んでいくのだと決めた相手なのだ。どれほど大事なのか、伝えることをためらいたくはなかった。
「うん。テンテンがさ、そうやって言ってくれんのもめっちゃ嬉しい」
「本当なら、どこでも言ってやりたいし、キスだってしたいけどな。家の中でしかこういうことできないのは、少しもどかしい」
手を握り合ったまま、天馬はぽつりとつぶやく。
互い違いに指を絡めて手をつないでいるけれど、外でこんなことをしようものなら、すぐさまスキャンダルとして騒ぎ立てられることは目に見えている。キスなんてそれこそもってのほかで、人前ではあくまでも友人の顔をするしかない。
皇天馬という存在は、日本で知らないもののない存在だ。最近では海外進出も果たしているし、天馬にまつわることであれば些細なことでもニュースになってしまう。一成とて単なる一般人とは言い難く、メディアへの露出はそれなりにある。
そんな二人が互いを特別な相手として思い合って、人生を共に歩こうとしているなんて知られたら、どんな現実が待っているのか二人はよく知っていた。
ただでさえ、恋人や結婚の話題はスキャンダルの種になる職業だ。くわえて、それが同性ともなれば、周囲からどんな評価を下されるのか。充分理解できるほどに、二人とも大人だった。
最近では理解も広まっており、場合によっては祝福の言葉を受けることもできるだろう。だけれど、皇天馬の名前はあまりにも大きすぎる。
日本中の誰もが知る存在であるということは、数多くの人目にさらされ続けることを意味する。当然誰もが好意的であるわけではなく、隙あらばその名前に傷をつけようとする存在も充分知っている。
まだまだ過渡期の現状で、何もかもを素直にさらけ出すことは決して幸福な結末を連れてこないだろうことを、二人は理解していた。
周囲の人間は味方でいてくれることも知っている。夏組をはじめとしたMANKAIカンパニーのメンバーも、それぞれの家族も、大事な人と人生を歩むと決めた二人のことを応援してくれている。
だけれど、それでも、世界中の全てから手放しで祝福される関係ではなかった。少なくとも、今の時代では嫌悪感や拒絶、心無い言葉を向けられることは単なる事実でしかない。
だから二人は、互いを特別な相手であることを隠すことに決めた。夏組の一員で、掛け替えのない仲間であることは周知の事実だ。だから、共に人生を歩む存在ではなく、あくまでも友人としての顔をしているのだと決めた。
「うん。でもさ、二人の時はめっちゃ大好きって言ってくれるし。特別なんだなぁっていっぱい伝わるよん」
絡んだ指にぎゅっと力を込めて、一成が言う。やわらかな光をこぼして、目を細めて。自分に真っ直ぐと向かう愛情を、抱きしめるような素振りで。
事実、一成も天馬も理解している。たとえ、多くの人には告げられない関係だとしても、特別な関係だと口に出すことができなくても。それでも、お互いが人生におけるたった一人であることを知っている。
「みんなには言えなくてもさ。テンテンのラブはちゃんと受け取ってるからねん!」
大いに胸を張って一成は告げる。公にすることはできなくても、天馬からの愛は何一つ損なわれていないのだ。
天馬は深い笑みを唇に刻んで「そうだな」とうなずく。一成から向けられる思いもきちんと受け取っているのだ、という心を込めて。たとえ、外ではそんな素振りを見せることができなくても。
「――でもやっぱ、一緒の現場行けるのは楽しみだよねん!」
ぱっと明るい雰囲気に切り替えると、一成がはつらつと言う。人生を共に歩く相手だと言うことはできないし、あくまでも夏組の友人だという顔をしていることは間違いない。だけれど、一緒にいられる時間が増えることは単純に嬉しいのだ。
「撮影期間は大体一ヶ月半か。一成も最初から現場入れるんだよな」
「おけまるだよん! てか、テンテンよく他の仕事調整できたね?」
天馬は、夏組全員公演を実現するためにあらゆるスケジュールを調整して、練習日と公演日をもぎ取った。結果として他の日に全ての仕事が詰め込まれる形となり、一切のオフがない生活を送っていた。ただ、それもようやく終わりを迎えたので、以前のような日々に戻っている。
とは言え、そこは皇天馬である。一成とて最近では以前より知名度も上がって仕事が増えてきてはいても、天馬とは比べるべくもないのだ。皇天馬の多忙ぶりは周囲の人間もよく知っているし、映画撮影も途中からの合流になる可能性は充分あった。
「井川たちが調整してくれたっていうのは大きい。事務所的にも、今回の仕事は話題性があるからな。まあ、一時期に比べればだいぶ落ち着いてるし――お前の方こそ、自分で調整してるんだから大変じゃないのか」
わずかに心配そうな表情を浮かべるのは、一成がどこの事務所にも所属していないからだ。昔から、スケジュール管理がやたらと上手い人間であることは知っている。だけれど、近頃では一成も仕事が増えてきているはずなのだ。
そんな中で、映画撮影のための日程をちゃんと確保して、他の仕事も組み込んでいる。決して片手間でできることではないので、負担になっているのではないかと心配だった。
一成は少しだけ困ったような微笑を浮かべて答える。大丈夫だから心配しないで、と明るく言ってのけることはしない。
「前よりは大変になってきたな~って感じはあるかも。でも、いっぱいいっぱいになって無理!ってほどでもないよ」
難なくできるわけではないけれど、まだ自分のキャパシティーに収まっている、ということらしい。以前よりも助けを求めることはできるようになっているし、本当にだめになる前に言ってくれるはずだ、と天馬は思っている。
だから、「そうか」と答えるだけに留めた。一成はそんな天馬の真意を察したのだろう。ぱっと明るい笑みを浮かべて言った。
「さすがに、新居探しはちょっとお休みだけどねん!」
人生を共に歩むと誓い合ってはいるものの、二人は未だに別々の家で暮らしている。どちらの家で同棲するにもそれぞれにデメリットがあるためだ。
ただ、「帰る場所はお互いのいるところがいい」という願いはしかと確認しあっているので、一緒に住むための家を探してはいたのだけれど。多忙を極める映画撮影中にはさすがにその時間は取れない、ということが一つ。
「忙しくなるからそれは仕方ないし――染井監督のお願いもあるしな」
苦笑にも似た笑みを浮かべる天馬だけれど、その表情は明るい。一成も同じことを考えているのだろう。楽しそうに「監督って、大体いろんな意味で強いよねん」と笑っている。
正式に出演を決めて契約書を交わした時に、染井監督から切り出されたお願いを二人は思い浮かべる。おだやかでやわらかな笑顔だった。それでいてどこか有無を言わせない迫力で、彼は言ったのだ。
――役作りのために、撮影期間中は二人で一緒に住んでくださいませんか。