スウィートホーム・シンフォニー 02話
案内されたのは、都心にある低階層マンションだった。
高級住宅街と名高い場所に立地するマンションは、閑静な一角にそっとたたずんでいた。手入れの行き届いた木々に囲まれており、とても都心とは思えない雰囲気がある。染井監督がオーナーとなっている物件で、その内の一部屋が今回役作りとして提供されている。
染井監督の妥協のなさは有名な話だ。作品に陶芸家が登場するとあれば実際に弟子入りをさせるなどは当然で、舞台となる家に気に入ったものがないので実際に新居を建築したこともある。本人は「さすがに天候までは範疇外です」と言っていたらしいけれど、それ以外なら大体どうにかするつもりなのだろう。
その一環が、今回の「お願い」だった。遼一郎と蒼生は、駆け落ちして一緒に暮らしている。もちろん、二人は演技として関係性を表現してくれるだろうことはわかっている。だけれど、実際に共に過ごした時間を積み重ねてほしい、というのが染井監督の望みだった。
絶対にそうしてくれと無理強いをするつもりはない、とは言われていた。実際、染井監督も昔に比べれば温和になったそうで、拒否することは可能だというのが周囲からの弁だ。
ただ、二人からすれば断る理由がそもそもなかった。役作りという意味で妥協するつもりがないということはもちろん、実際に特別な関係を結んでいるのだから当然だろう。
遼一郎と蒼生が天馬と一成の関係性をベースにしていることは、カンパニーの関係者しか知らないけれど。事実として、互いを特別に思い合った二人なのだから、一緒に暮らすことは願ったり叶ったりの事態とも言えた。
なので快諾はしたものの、さすがに映画のような賃貸住宅で暮らす、というわけにはいかない。瞬く間にマスコミに嗅ぎつけられてしまうことは想像に難くなかったし、セキュリティ的にも問題がある。
そういうわけで、染井監督が手はずを整えた。「お願いをしたのは私ですから、当然ですよ」と言って、今日二人を伴ってその部屋を訪れたのだ。
◆ ◆ ◆
「うわ、めっちゃ広い!」
リビングルームに入るなり、一成は歓声を上げる。物のない部屋は広々としていて、南側の大きな窓から差し込む陽光は、余すところなく部屋の全てを照らしていた。
ナチュラルブラウンのフローリングは落ち着いた光沢を持ち、白い壁はすっきりとした印象を与える。高い天井は梁が見える作りになっており、その合間にはシーリングファンが設置されて、ゆるやかに回っている。
「談話室より広いんじゃないか。これなら大き目のプロジェクターも置けそうだな」
「だよねん! 天井も高いし、めっちゃ開放的な感じ!」
嬉々とした調子で言葉を交わす二人を、にこにこと見つめているのは部屋を案内していた染井監督だった。しばらく二人の話を聞いていたけれど、そっと口を開く。柔和な表情を形にしたような声だった。
「ここが一番大きな部屋ですね。リビング以外に、メインベッドルームと和室と洋室があります。広さもありますし、プライベートの確保には重きを置いていますので、戸建てのような感覚で過ごしてもらえると思いますよ」
一つ一つの言葉を確かめるような、丁寧な響きで染井監督は言う。三階建ての低階層であることに加え、一戸の面積が広いためそもそも総戸数が少ない。さらに、一戸ずつの家は直接隣り合わないよう配置されているため、集合住宅ならではの雰囲気はあまりなかった。
堅牢なエントランスと二十四時間常駐の管理人の存在が、唯一のマンションらしさと言えるかもしれなかった。
「以前ここに住んでいた方は、油絵を専門としていたんですよ。アトリエとして使っていた部屋もありますし、もしもよろしければ三好さんもそちらをお使いください」
染井監督は、落ち着いた調子でとある画家の名前を告げた。それは天馬も聞いたことのある名前だったし、当然一成もよく知っていた。幼少期はフランスで暮らしていたということで、晩年はそちらで過ごしたい、と居を移したことはマスコミを通して二人も聞き及んでいる。それまでの日本での拠点がここだったのだろう。
「アトリエ代わりの部屋は、廊下の突き当たりです。庭に面しているので、大きな絵も搬入できるようになっていますよ」
リビングからその部屋を見ることはできない。ただ、庭、という言葉に染井監督が視線を動かす。つられるようにして、天馬と一成も同じ方向へ目をやった。
三人の視線の先にあるのは、南に面した大きな窓だ。濃い色合いの木製の窓枠。その向こうには、太陽の光を浴びた庭が広がっている。
まず目に飛び込むのは、五メートルほどの、丸みを帯びた樹形の木。その近くに背の高さが違う木々がぽつぽつと並び、地面は手入れのされた芝生が敷き詰められている。さらに、庭全体は小さな木立に囲まれていて、その外を目立たないように壁が覆っている。
加えて、外郭はマンションの共有敷地としての庭となっているため、道路とはずいぶん隔てられている、と染井監督は告げる。おかげで、部屋に備えられた庭は誰に邪魔されることもない、プライベートな空間になっていた。
並ぶ木立や芝生は、夏に向かう日差しをまんべんなく浴びる。したたるような緑は、きらきらとした光を弾いていた。
しばし庭の様子を眺めたあと、染井監督は「少し出てみましょうか」と言って窓を開く。ふわりとした風が舞い込んで、それぞれの頬をそっと撫でる。からりとした太陽の匂いがするような風だった。
窓の外にはウッドデッキが備え付けられていて、そのまま庭に出ることを想定しているらしい。管理人が用意してくれたサンダルが置いてあり、三人は光のあふれる庭へと降り立った。
「リビングで見てる時から思ってたけど、この木、何かめっちゃいい感じじゃね?」
きらきらした笑顔の一成が駆け寄ったのは、庭の真ん中に位置する木だった。
隆起した根っこがうねるように地面からのぞき、ざらざらとした幹は太く立派だ。そのまま真っ直ぐ、空に向かって両手を広げるように枝を伸ばす。その先にはこんもりとした緑が繁り、丸形の樹形を作っていた。
風に揺れるたび、地面に落ちた木漏れ日がきらきらと動く。
「何かさ、形もきれいじゃん? 整ってるっていうか、絵本の表紙にしたらぴったりって感じ!」
「ああ……確かにな。きれいな丸形だし、絵になりそうだ」
「だよねん。やっぱりこの木が中心って感じだし……シンボルツリーってやつなのかな」
ぽつりとこぼした一成は、木の根元に立って頭上を見上げた。密集した葉に覆われて、空の様子はうかがえない。それでも、隙間からこぼれる光は地面に降りそそいでまだら模様を作っている。
一成は目を細めて、頭上の緑を見つめた。すると、見慣れぬものが視界に飛び込んで思わず声をこぼした。
「――あれ? 何か実みたいなのがある」
見上げた先には、密集して葉が茂っている。車輪状に発生した葉の根元には、緑色の楕円形。表面はつぶつぶしていて、何かと思ったのも一瞬で、すぐに実の類であることは察した。天馬が不思議そうに首をかしげて「実?」と言うので、一成は頭上を指し示す。
天馬も近くに寄って来て、二人そろって小さな楕円形を眺めていると、背後から声がかかる。天馬と一成の様子を見守っていた染井監督だった。
「これはヤマモモの木です。雌株なので、夏になれば実がつきますよ。近くに雄株があるんです。ただ、去年はずいぶんとたくさん実をつけたようなので、今年は少ないかもしれませんね」
おだやかに、染井監督は説明する。
ヤマモモは隔年結果と言って、果実が多い年と少ない年を繰り返す。六月末頃には熟して赤くなり、ふっくらとした丸い実が収穫可能になるという。ただ、目の前のヤマモモは数えるほどの実しかなっていないようだった。
「花が咲いた頃に上手く剪定すれば、ずいぶんと収穫ができるようですよ。シロップ漬けやジャムにするのが一般的といったところでしょうか」
「あ、ヤマモモのジャムって聞いたことあるかも。ちょっと酸味があるから、甘いものにトッピングすると美味しいんですよね」
ぱっと顔を輝かせた一成が言えば、染井監督は嬉しそうにうなずいた。おすそ分けとしてもらったこともあるらしく、「アイスに乗せると美味しいですね」と嬉しそうに言った。
「今年の収穫が充分にあればよかったのですが――ただ、少なくてもいくつか実はなるでしょうから、もしも良ければ口にしてみてくださいね」
柔和な笑顔で告げられた言葉に、二人はこくりとうなずいた。ヤマモモを食べたことはなかったので純粋に興味があったし、せっかく染井監督に言われたのだし、という気持ちもあった。
「それに、実がならなくてもこの木は庭の中心ですから。お二人にも気に入っていただけたら幸いです」
そう言った染井監督が視線を向けるので、天馬も一成も再度ヤマモモの木を見つめた。
丁寧に手入れされた芝生は軽やかな黄緑色を地面に広げている。全体を囲むのは、すっきりとした樹形の高木や繊細な雰囲気を持つ常緑樹、コンパクトな低木などそれぞれ趣の違う緑を宿す。そして、中央に立つのがヤマモモの木だった。
密集するように繁った葉は濃い緑色をしているけれど、光があたれば透かしたような薄緑へと変わる。風に揺れれば一緒に木漏れ日も動いて、庭に差し込む光はヤマモモの木を中心に広がっていくようだった。
整えたようにきれいな丸い樹形は、絵本の表紙にぴったりだ、と一成は思ったのだけれど。恐らくそれは、リビングの窓から見た景色をしかと覚えているからだ。
南に面した大きな窓から、光を一身に浴びるヤマモモを見ていた。まばゆいほどの光を集めて立つ一本の木。窓はまるで額縁のようにヤマモモを切り取っていて、この木こそが庭の主役なのだと言われずとも理解したのだ。
「夏には涼しい木陰を作ります。常緑樹なので冬でも葉は落ちませんし、寒空の下でも青々とした葉を茂らせる姿は生命力を感じさせますよ」
誰に言うともなく、染井監督はつぶやいた。天馬と一成は自然と、これからの季節の庭を思い浮かべた。
夏の日差しの下、濃い影を作る。秋には風にそよいで、落葉する木々を見守る。冬の寒さにも負けずたたずみ、春には緑がほころんでいく。
そんな風に時間を重ねてきたのだろう、と感慨深い気持ちで目の前のヤマモモを見つめていた。
明るい日差しが降りそそぐ庭に、沈黙が流れる。けれど、それは気まずいものではなく、そよぐ木々の音や鳴き交わす鳥の声に耳を傾け、ただこの空間の全てを享受しているのだとわかっていた。
ときおり風がそよいで、髪の毛を揺らす。夏に近づく日差しは、目を見張るほどの明るさを含んで庭の隅々まで照らしていた。天馬も一成も、身を浸すようにただ無言でたたずんでいた。
しかし、それも長くは続かなかった。染井監督のスマートフォンに着信があったからだ。
申し訳なさそうに電話に出た染井監督は、丁寧な物腰で受け答えしたあと、いくつかの指示をして通話を終えた。それから、恐縮した素振りで「会社に戻る用事ができてしまいました」と言う。迎えの車が来るので先に戻る旨を伝えられて、首を振るはずもない。
快くうなずけば、染井監督は安堵したように息を吐き出した。それから、ポケットから鍵を取り出すと二人に手渡す。これから共に過ごす、この部屋の鍵だ。
「役作りのお願いを快く引き受けてくださって、ありがとうございます。本物の恋人として暮らしてほしい、とお願いはできませんし、好きなように過ごしていただいて構いません」
静かに言った染井監督は、一度口をつぐむ。
役者は映画監督の道具ではないのだから、関係性を強要することはできない。それでも、役作りの一環として共に過ごすことを承諾してくれたのは、ありがたいことだったのだ。諸々の気持ちを込めて、染井監督は口を開く。
「二人が同じ家で共に時間を重ねることは、作品に確かな力を与えることは間違いありません。奥行きと深みを与えてくれると信じています」
きっぱり告げる顔には決然とした意志が宿る。いつもの温和な表情ではないからこそ、本気がうかがえて天馬と一成も神妙にうなずいた。ただ、すぐに染井監督はにっこりと笑った。
「マスコミへの発表はまだですが、正式に発表すれば忙しくなりますね。その前の息抜きだと思って、今日はゆっくりしていってください」
それだけ言うと、染井監督は「車を待たせていますので」と言って部屋へと戻る。天馬も一成も続いて、見送りのために外へ出ようとしたのだけれど。染井監督は「こちらで結構ですよ」と固辞したので、結局玄関先で別れることになった。
「――そんじゃ、せっかくだしちょっと探検しね?」
染井監督を見送ったあと、一成はぱっと明るい笑顔を浮かべて言う。部屋はいろいろあると聞いてはいるけれど、具体的に見て回ったわけではない。これから、撮影が終わるまでの一ヶ月以上を過ごす家なのだ。把握しておくに越したことはない、と天馬も思った。
「そうだな。いろいろ準備するものもある。大体見ておいた方がいい」
「だよねん!」
天馬の言葉に、一成は嬉しそうにうなずく。それから、わくわくした雰囲気を全身から漂わせて、軽い足取りで一歩踏み出した。
二人は連れ立って、玄関に近い部屋から順番に見て回る。和室や洋室はどれも充分な広さを持っていたけれど、リビングに比べればずいぶんと小さく思えてしまう。あらためてリビングの広さを実感した。
「この辺は、あんま使わないかも?」
「客室的な使い方を想定してるんじゃないか」
「なる~。夏組全員泊まっても大丈夫そうだもんね」
和室の引き戸を締めつつ、一成は答える。どの部屋もしっかりとした作りで、ホテルや旅館の一室のような趣もあった。広さもあるので夏組の四人が泊まりに来ても、充分おもてなしできるだろう、と思えたのだ。
「で、こっちがメインベッドルームだねん」
廊下を挟んだ向かい側。一成が軽やかな動作でドアを開き、二人は部屋へ入る。床や壁は、濃淡の違うグレーで統一されており、落ち着いた雰囲気を漂わせていた。寝室としてリラックスできるよう考慮されているのだろう。ただ、家具の類は置いていないので、がらんとして寂しい印象もあった。
「ねね、テンテン、ここならめっちゃ大きいベッドも置けそうじゃね!?」
きらきらした笑顔で、一成は言う。「グレーってどんな色も似合うし、アクセントカラー何にしよっか!」とうきうきした調子で言葉は続き、天馬は一瞬黙る。しかし、すぐに笑みを広げて答える。
家具のない寂しい部屋だ、と思うのではなく、これからここをどんな風に変えていこうか、と楽しいことを真っ先に告げてくれる。そんな一成が好きだな、とあらためて思いながら。
「そうだな。この部屋の広さなら、キングサイズでも充分置けるだろ」
「だよねん! あ、でも、それだとわざわざ買うことになっちゃうか」
自分のベッドや天馬の自宅のベッドを思い浮かべつつ、一成は言う。天馬のベッドはそれなりに大きいけれど、さすがにキングサイズでないことは知っていた。天馬は一成の言葉に、さらりと答える。
「まあ、別に買ってもいいが」
「さすが~。でも、家にあるの使えるならそっちのがいいんじゃね。撮影終わるまでの期間限定だし」
今回は、あくまで役作りのための同居なのだ。撮影が終われば解消されるのなら、わざわざ家具を新調する必要はないだろう、と一成は言う。天馬の財力からすれば微々たる金額だということはわかっていたけれど、いずれ不要になるものをわざわざ購入するのはどうか、と考えたのだろう。
「てか、ベッドだけじゃなくて、家具どうするかって決めなくちゃだしね」
「ああ。何もない状態じゃ生活できないからな」
一成の言葉に、天馬は肩をすくめて答えた。当然部屋には何もないので、購入するなりレンタルするなり、はたまた自宅から持ち寄るなりして、必要なものをそろえる必要があった。
「どうしよっか。テンテンと二人で買うもの決めるのも楽しそうだし、家から持ってくるのもいいよねん!」
「細かいものは買うとして、大きいものはそれぞれの家から持ってくるのが妥当かもしれないな」
新しく買って運んだ方が効率はいいのかもしれないけれど。何だかんだで、お互いの家にはしょっちゅう滞在しているので、愛着のある家具もそれなりにあった。ならば、わざわざ買うのではなく、気に入ったものを使った方がいい、と天馬は言うのだ。一成は、天馬の言葉に嬉しそうに口を開く。
「オレ、テンテンの家のソファ好き! あそこ、めっちゃ落ち着くよねん」
「オレは一成の家のダイニングテーブル好きだな。お前の家だなって感じがする」
「一点物だしね~」
大学の先輩の作品である、木製テーブルを指して一成も答える。一枚板で作られており、森の中のようなたたずまいを感じさせる一成のお気に入りだ。天馬が同じように好きだと思っていてくれる、という事実に一成は唇をほころばせる。
「そんじゃ、持ってくるもの二人で決めよっか。何かわくわくすんね」
空白の家が、少しずつ二人のもので埋まっていく。それは、互いの大事なものを持ち寄って、新しい家を飾りつけるみたいだ、と一成は思う。天馬はその言葉に、やさしく目を細めて「そうだな」とうなずいた。
「てか、引越しの段取りも決めちゃわないとだよねん。それに合わせて、荷物運ばなきゃだし」
「ああ。それに、お前は制作用に必要なものもあるだろ」
そういえば、といった顔で天馬が言った。
メインベッドルームと反対側に位置するのは、アトリエ代わりとして使っていい、と言われている洋室だ。この部屋と同じく何もないはずなので、必要なものは運び込まなくてはならない。天馬に比べて、やるべきことが多いのだ。とはいえ、一成のことなのであまり心配はしていなかった。
ただ、確認すべきことが多いのも事実だった。天馬は、念のため、といった調子で言葉を継ぐ。
「庭から搬出もできるって言ってたし、その辺りも一応確認しておいた方がいいな」
「そだねん。てか、そゆとこも考えてくれてたのかな~」
「かもしれない。お前が日本画家だってことは、染井監督だって充分理解してるだろうしな」
「画集まで見てくれてるとは思わなかったよねん。嬉しかったけど!」
きらきらした笑顔で言う一成は、染井監督とのささやかな世間話を思い出している。何てことのない雑談の一端で、染井監督は一成の画集について感想を告げてくれたのだ。代表作はもちろん、小作品に対してまで丁寧に。
一成が日本画家として活躍していることは、周知の事実だ。それなりに有名な作品もあるので、少し調べれば一成の絵自体はすぐに出てくる。
ただ、画集にしか載っていない小作品のことを染井監督が知っているとは思わなくて、一成は少々面食らった。もっとも、それは嬉しい驚きだったので、心からの喜びを伝えたのだ。
「日本画の仕事もないわけじゃないんだろ?」
「まね~。でも、撮影期間中はほとんどないように調整したよん!」
細々とやるべきことがあるのは事実だったけれど、本格的な仕事は入れていなかった。大きなものは一段落していたこともあり、日本画制作の依頼は一時的に休止という形を取っているのだ。
「って言っても、ちょこちょこ絵は描くからねん。アトリエ用の部屋はありがたいよねん」
「ああ。それじゃ、アトリエの部屋を確認したら、必要なもののリストアップだな。段取りはスケジュールの都合もあるが、ある程度は決めていいだろ」
てきぱきとした天馬の言葉に、一成はうなずく。やるべきことは山積みで、決めなくてはならないことも多くある。二人とも何かと忙しい身の上なので、早々に取り掛かって適宜仕事を片付けていく必要がある。
天馬も一成も決して暇ではないのだ。過密な日程で動くことが常だったし、特に天馬などは分刻みのスケジュールをこなすことがほとんどだ。今、ここでこうして、二人そろって何でもない時間を過ごしているのが、ちょっとしたイレギュラーと言っていい。
だからこそ、一成は言う。明るい声で、楽しそうな響きで、やわらかな空気を漂わせて。
「ねね、テンテン。ちょっと休憩しね? 庭とかめっちゃいい感じだったし、庭出て息抜きしよ」
にこにこと笑顔を浮かべて告げられた言葉。その意味を、天馬は正しく理解していた。今までの忙しさはようやく落ち着いてきた、とは言っても、そこは皇天馬である。一般的には全く落ち着いていないし、日々目の回るような忙しさだ。
今日は染井監督に、家を案内してもらうという前提があったからこそ、比較的ゆっくりとした時間を過ごせているけれど。一度仕事が始まってしまえば、こんな時間を取ることはできない。
だから、一成は今この時にほんの少しだけ、リラックスする時間を提案した。天馬の体と心が安らぐように。たとえささやかな時間だとしても、天馬にとっての安寧となるように。
「――そうだな」
静かに天馬は答えた。一成の言葉を、気持ちを、全部受け取ったのだとわかるような、真摯な響きで。お前がいるならそれだけで充分だけどな、という気持ちもあったけれど、一成の心遣いが嬉しかったので素直にうなずくことにしたのだ。
一成は天馬の答えに、ぱっと顔を輝かせる。いつもの笑顔に似て、ほんの少しやわらかな表情で口を開く。
「日向ぼっこしたら気持ちよさそうだし、いい感じのデザインアイデアとか出てきそうな気がする!」
「ああ。都内とは思えない雰囲気だし、絵になりそうな庭だよな」
「そそ。あのヤマモモもいい感じじゃん? デザインにも使えそうって思って!」
ささやかな話をしながら、二人はメインベッドルームをあとにする。行き先は当然、先ほど染井監督に案内された庭だ。
特に何かをするわけでもない。ヤマモモの木を見上げて、きっと何でもない話をするのだろう。ふわふわと軽やかな、明日には忘れてしまいそうな他愛ない話を。
光のあふれる場所で、風のそよぐ庭先で、二人そろってささやかな時間を過ごす。それは名前もつかない、日常の些細な一瞬でしかないけれど。そんな時間を積み重ねていくことの特別さを、二人はよく知っている。