そしてライカと夢を見る



 天馬の自宅には、多種多様の酒がそろっている。ちょっとしたバーを開けそうな品揃えだけれど、天馬自身はそこまで酒をたしなむ性質ではない。
 夏組やらカンパニーのメンバーやら、客が多いことと、その客が大体酒を持参しては天馬の家に置いていくからである。

「この辺はガイさんで、これは臣さんだな。こっちのは幸とシトロンだ」

 上等な酒のうち、特に最近もらったものを持ってきた天馬は、机の上にボトルを並べる。日本酒にリキュール、ブランデーやウォッカなど、それぞれに軽い説明を加えた。
 ガイや臣が持参した酒は評判のいい醸造所のもので、食事にもよく合う。幸とシトロンの酒は、どちらかといえばデザインで選ばれているので一成が好きそうだと思ったのだ。
 案の定、「ボトル自体インテリアになりそうだし、ラベルも凝っててカッコイイよねん」としげしげボトルを眺めている。
 ひとまず、リキュールのソーダ割りを渡してやると一成は両手でグラスを受け取った。ありがと、と言って口をつけるものの、その動作は緩慢だ。

 素面で話せる気がしない、と一成は言っていたけれど。あれは恐らく事実ではないのだと天馬は思っている。
 一成自身、酒に強いわけではない。すぐに酔ってしまうし、酔うとどうなるかは天馬もよく知っている。やたらと静かで落ち着いて、真面目な口調で話し始めるので最初に見た時は何事かと思ったものだ。
 あの状態で説明を行えるとは思えなかったので、酔うほど飲むつもりはないはずだと天馬は考えている。だから、ソーダ割りもリキュールの割合はだいぶ低い。
 さっきの一成の言葉は、ひどく遠回りな天馬への懇願だ。思いとどまって考え直してほしいと。天馬が酒を選ばなければ何もかもなかったことにしよう、という提案だった。
 そのためのアイテムがアルコールだっただけで、本格的に深酒をするつもりは最初からなかったのだろう。
 ただ、結局天馬は全てを聞くことを選んだので、二人の前にはアルコールのグラスが並んでいる。

 しばらくの間、二人はほとんど無言でグラスを傾けていた。どちらかが何かを言い出すこともなく、酒の量だけが減っていく。
 静かな時間が流れていたものの、一成のグラスがあらかた空になったところを見計らって、天馬が口を開いた。

「――それで、さっきの話はどういうことなんだよ」

 このまま放っておいても、一成は何も口にしないような気がした。積極的に説明を拒んでいるというより、話し始めること自体をためらっているような気がしたからだ。
 一成は、ぱちりと一つまばたきをしたあと、小さく笑った。

「遠慮なく突っ込んでくんね~」
「突っ込まないと先に進まないだろ、お前」

 きっぱり告げると、困ったように眉を下げて笑う。「そだねん」と言う声にいつもの軽やかさはなかった。空になったグラスを、ことりとローテーブルに置く。

「って言っても、どっから話すべきなのかな~。オレもよくわかんないんだけど」

 何かを誤魔化す素振りではなく、本当にわからない、という表情で一成がつぶやく。戸惑いの濃い表情は、一成にしては珍しい類のものだ。
 助け船を出してやるべきだと思った天馬は、何か話の接ぎ穂になるようなものを、と頭を探る。さっき聞いた言葉を思い出した。

「『これが恋ならよかったのに』って言ってただろ、お前。あれはどういう意味なんだ」

 心からの切望が形になったような、そんな言葉だった。三角に対する気持ちは、恋ではないと一成は言う。だけれど、恋であればよかったと一成は望んでいた。
 あの声の切実さは、ただごとではないように思えた。
 一成は、天馬の言葉に小さく息を呑んだ。若草色の目を丸くして、じっと視線を注ぐ。驚いているはずなのに、何だか無表情にさえ見える顔だった。まるで、驚きの表情を貼りつけた人形のような。
 そんな反応をされるとは思わなくて、天馬はぎくりと体を強張らせる。何かマズイことを言ってしまったのだろうか。純粋な疑問を口にしたつもりが、一成の何かを傷つけてしまったのだろうか。
 混乱しながら見返すと、一成が息を吐いた。途端に表情がゆるんで溶けていく。人形のような顔ではなく、生気が宿って見慣れた顔に戻っていく。
 天馬がほっと安堵すると、一成は顔をくしゃりとゆがめて言った。唇を引き上げて、目を細めて、笑顔と呼ばれる表情で、それなのに今にも泣き出しそうに。
 そっか、テンテンに聞こえてたんだね、と言ってから続けた。小さな声で、それでもやけに耳に残る、透き通った声で。あのね、テンテン。

「――オレ、恋ってよくわかんないんだ」

 告げられた言葉に、天馬の動きが止まる。まじまじと一成を見つめてしまったのは仕方ないだろうと思う。
 何せ一成だ。初めて会った時から、誰相手でもコミュニケーション能力の高さを発揮して仲良くなり、しょっちゅう合コンに出掛けていて、モテテクやら何やらを聞いてもいないのに教えてくる。
 恋愛ドラマにはしょっちゅう出ているし、ラジオでは恋の相談に答えるコーナーを持っていることも知っている。
 そんな一成に「恋がわからない」と言われた天馬は、どんな言葉を返せばいいかわからない。

「テンテン、絶対ピンと来てないっしょ。まあ、それもそだよねん。オレ、めっちゃくちゃ恋愛慣れてそうって言われるし」

 明るい笑顔で一成は言う。実際、交際経験がないわけではないし恋人としてのあれこれは一通り経験しているらしい。
 それなら、と天馬は思うけれど、一成の言葉がどんな冗談でもないことだけはわかっていた。
 天馬は聞かなくてもいいのだと、遠回しに告げてまでこんな冗談を言うわけがない。何より、笑顔の奥に潜むのはどこまでも真剣なまなざしなのだ。
 天馬は、真っ直ぐと一成へ視線を向ける。どういうことなのかわからない。だけれど、きちんと話を聞くと決めたのだから。一成は天馬の決意を受け取ったのだろう。笑顔の欠片を残しながら言葉を続ける。

「元々オレ、初恋とか特になかったんだよねん。まあでも、友達いなかったし関わる人もいなかったからそんなものかなって思ってて。高校デビューした時は、恋バナめっちゃたくさんしたけど!」

 所属したコミュニティゆえか、それとも高校生という年齢か。
 高校時代は、それこそ彼氏やら彼女やらの話はしょっちゅう飛び交っていて、誰と誰が付き合っているだとか、失恋しただとか片思いしているだとか、そんな話には事欠かなかった。
 一成もその流れで、いわゆるお付き合いに発展した相手もいて人生で初めて恋人というものができたのだ。

「気の合う子だったし、一緒にいて楽しかったんだけどねん。全然喧嘩とかしなかったし、オレは上手くやれてると思ったんだけど、相手の子はそうでもなかった感じかな~」

 あっけらかんと言う一成曰く、付き合いは長く続かなかったらしい。その後も、交際に発展した相手はいたらしいけれど、やはりすぐに別れることになった。

「友達としては楽しいけど、彼氏としては物足りないって言われちゃうんだよねん」

 軽い調子で告げる一成は、概ね理由を察しているらしい。困ったような笑顔を浮かべて、「まあ、それもそうだよね」と言う。

「だってオレも、友達と恋人の違いがわからなかったもん」

 一番仲の良い異性、ということで二人の関係に恋人という名前を上書きした。だけれど、一成にとってそれはどこまでも友情の延長線上でしかなかったのだ。
 恋人ならやるべきことは知識として知っていた。
 イベントが大好きなのも事実だから、記念日の類はそれこそ全力で祝った。傍から見れば仲睦まじい恋人同士だと思われていただろうけれど、当人たちはどこかでずっと違和感を覚えていた。
 一成だってずっと不思議に思っていたのだ。友達から恋人へと関係が変わった。だけれど、気持ちの上では何一つ変わってなんかいなかった。恋人だからと芽生える感情なんて、衝動なんて、一つもなかった。

「――キスしたいとか触りたいとか、独占したいとか会いたくてたまらないとか、そういうの全然なかったんだよねん」

 軽い言葉だ。冗談の雰囲気で紡がれた言葉だ。だけれど、天馬の耳に届いた声にはどうしようもない罪悪感が宿っていた。
 一成は笑顔を浮かべているけれど、きっとずっと申し訳なさを抱えていたのだろう。翳りのある笑みでそっと言葉は続く。

「マジで悪いことしちゃった。今ならちゃんと友達でいよって言えるんだけど、あの時はそういうの全然わかってなかったから、付き合ってる内に恋人っぽい感情が出てくるかな~って思っちゃったんだよねん」

 高校時代の経験は、一成に強い違和感を残していた。恋人同士であれば起こるであろう感情、欲求。そういうものが全く湧かないという事実に、一成は気づいたのだ。
 だけれど、それも経験が浅いゆえだと一成は思った。人とあまり関わらない子ども時代を送ってきたから、いざ高校デビューした段階ではまだまだ戸惑いが残っていたのだろう。
 それに付き合わせてしまって悪いことをしたな、と思いながら一成は大学へ入学する。

「大学ってすごいよねん。色んなところに出会いがあって、彼氏とか彼女とか、そういう話めちゃくちゃ出てくるし、合コンしょっちゅうやってたもん。オレ結構、片思いしてる同士とか見つけるの上手いんだよねん」

 そんな二人のための舞台を用意するという意味でも合コンは有用だった。それに、純粋に一成はたくさんの人と出会うことが好きだったし、合コンの雰囲気そのものも好ましく思っていたのだ。

「恋バナって、結構どこでも必須っていうか外さない話題だからねん。誰相手でも話してくれるから、結構重宝してたっていうのもあるかな~。オレが聞くの好きってこともあるけど!」

 当時のことを思い出しながら一成は語る。
 大学時代、一成はしょっちゅう合コンに行っていたし、恋愛話はよく聞いていた。
 聞き上手ということもあるし、一成自身他人の恋愛話を聞くこと自体は新鮮で面白かったのだ。何一つ、自分自身には起こらない感情だからこそ。
 加えて、話の潤滑油としても恋バナというのは学生生活において重要な位置を占めていた。
 そういうわけで、一成は積極的に恋愛の話にも首を突っ込むし、自分から話題を振ることも欠かさなかった。一成持ち前のサービス精神と、気遣いゆえに為されたことだろう。
 ただ、それを続ければ続けるほど一成は理解する。
 至って当たり前みたいに交わされる会話。友情とは違って、誰かを特別に思うこと。特定の相手に向けられる願い、欲求、衝動。
 誰もが持っていて当然のような会話を聞く度、一成は自分の中にそれらが存在しないことを突きつけられる。
 天馬は一成の言葉に、どんな答えを返せばいいのかと思う。
 大学時代の一成は、それこそ恋愛の話題が豊富でそれはもう様々な経験があるのだろうと思っていた。だけれど、あの時の一成は一つだって恋をしていなかった。

「――でも、一成、お前、監督がいただろ」

 どうにか絞り出したのはそんな言葉で、同時によみがえるのはMANKAIカンパニーで劇団員たちをまとめ上げていた監督の姿だ。
 新生MANKAIカンパニーを立ち上げて、各組を見守り背中を押して、千秋楽までを共に駆け抜けた。彼女がいなければ、自分たちはここにいない。はっきりと言えるくらい、大事で大切な、特別な女性。
 一成にとってもそれは同じはずだから恋をする相手として監督ほど相応しい相手はいないと思ったのだ。一成は、天馬の言葉に「うん」とうなずいた。

「きっとカントクちゃんに恋するんだなって思ったよ」

 実際、一成にとって監督は特別な女性だ。いつだって近くで見守っていてくれて、一成を真っ直ぐと信じてくれた。戸惑いや恐怖を抱えても、監督の言葉は魔法のように全てを溶かしてくれる。
 彼女の存在に何度も助けられて、背中を押されて未来へと進んできた。大切な女性だからこそ、きっと恋をするのだと思った。彼女の特別になりたいと、他の誰とも違う感情を抱くだろうと。

「カントクちゃんのことは大切だし、絶対守りたいって思う。それは一つも嘘じゃないし、今も変わらない。カントクちゃんがオレのこと特別扱いしてくれるとちょっと嬉しいし、カントクちゃんのこと好きなのも本当」

 だからきっとこれが恋なのだと、初めて恋を知ったのだと思ったのだけれど。一成はそっと目を伏せて告げる。
 カントクちゃんのことが大事で特別だよ。大好きだし、守りたいって思う。だけどね。

「カントクちゃんが結婚するって聞いた時、オレめちゃくちゃ嬉しかった。隣にいたいとか、カントクちゃんの手を取るのはオレがいいとか、全然思わなかった」

 彼女を自分だけのものにしたいとか、一番になりたいだとか。そんな気持ちは一切なく、ただ純粋な喜びが胸を満たして一成は気づく。
 きっとこれは、彼女への思いは、家族に向けるものと同じ場所からやって来ている。

「――カントクちゃんのこと抱きしめたいとかキスしたいとか、思ったことなかったもんな~っていうのもあるけどねん」

 イタズラっぽく笑った一成は、自身の心を天馬に説明する。
 当たり前みたいにこの世界にあふれる恋の物語。きらきらとして、だけれど時々どうしようもなく苦しくて、思いが通じ合えば世界は薔薇色に輝く。
 そんな恋物語は、一成にとってずっと想像のものでしかなくて、それは今も変わらない。

「たぶん、オレは恋の回路がないんだよ」

 ゆっくりと一成は告げた。監督へ抱く気持ちが恋ではないのだと悟った時、一成はようやく理解した。
 いつか恋をすると思っていた。今はまだタイミングではないだけで、いつかきっと自分にも恋は訪れるのだと。そんな日は来るのだと。
 だけれどきっと違うのだ。最初から自分には、恋につながる回路が存在していないのだ。

「今は恋をしないって決意してるとか、ひどい経験をしたから恋なんかできない、とかじゃなくて。オレは元々、恋をしないようにできてるんだと思う」

 しんとしたまなざしで、静かな声で一成は告げる。
 ただの事実を述べるような無機質さで、しかしどこかに悲哀を忍ばせながら。恋をしない事実を、まるで罪の告白のように。
 けれどそれも一瞬で、一成はすぐに雰囲気を塗り替えると明るく言った。

「でも、恋バナはいっぱい聞いたし、物語の恋愛ならたくさん知ってるからねん! どんな風に恋をするのかっていうのは、ちゃんと想像できてるよん! オレ意外とその辺上手いっしょ?」

 天馬に向けられた言葉は、一成が恋愛ドラマで披露している演技についてだということはわかった。
 確かに、一成の演技はきちんと恋に揺れる感情を表現していたし、いい芝居をしていることは知っていた。本人が恋をしたことがないなんて、誰にもわからないくらい。
 恐らくそれは、今までの一成の演技の積み重ねと、一成自身が誰かの心に寄り添うことが得意だからだ。
 たとえ己が経験したことがなくても、自分のことのように感じるのが一成という人間だ。だから、たとえ自分の人生には存在しない恋であろうと、わが身に引き寄せて演じることができるのだ。
 天馬は一成の言葉に「そうだな」とうなずいた。「お前らしい、いい演技だと思う」と続ければ、心底嬉しそうに一成が笑った。

「テンテンに褒められるとやっぱすげー嬉しいし、安心するかも! ちゃんと恋してるように見えてたなって」

 一成は実際の恋を知らない。だからこそ、不安にも思っていたのだろう。そこに天馬のお墨付きが与えられてほっとしているらしい。心底安堵したといった表情に、天馬は思わず言葉をこぼす。

「もっと早く言えばいいだろ。アドバイスならいくらでもできるし、必要なら練習にだって付き合ってやる」

 ちゃんと演技ができているか心配だったと言うのなら、もっと早くに言えばよかっただろうと天馬は思う。
 一成が恋愛ドラマに出演するのは何もここ最近だけの話ではない。ずいぶん前からそういうドラマにはよく出ていたのだから、アドバイスなり何なり求めればいいのだ。
 一成は天馬の言葉に、一瞬黙った。それからすぐに笑みを浮かべると「そだね」と言った。いつもの笑みに似て、だけれど翳りを潜ませたほほえみ。わずかに目を伏せて、一成は続けた。

「テンテンはきっと、『恋がわからない』とか言われたらびっくりするよねん。でも、ちゃんとアドバイスしてくれると思う。わかってるんだけど、言えなかった」

 申し訳なさそうな顔で、一成は言う。
 テンテンはきっとオレの言葉をきちんと受け取ってくれる。冗談扱いもしないで、真剣に聞いてくれると思う。だけど、どうしても言えなかった。

「だって、テンテンはちゃんと恋ができる人だから」

 視線を上げた一成が、真っ直ぐと天馬を見つめて言う。
 天馬は一成と恋愛の話なんてほとんどしたことがない。演技論としての話ならいざしらず、実際のプライベートでの交際については世間話程度だ。
 それでも、ゼロではなかったし天馬とて確かに、いくつかの恋は経験している。一成はその辺りにも聡いので、言っていないのに天馬の恋愛事情を察している節はあった。
 だから一成は知っている。
 天馬は恋ができる。最近は仕事に専念したいということで、特別誰かと交際してはいないけれど、それは恋を知らないわけではない。天馬はちゃんと恋ができる人間だと一成は知っている。

「これはオレの気持ちの問題だから、テンテンは全然悪くないんだけどねん! でも、恋を知ってるテンテンに話すとさ、ああやっぱりオレとテンテンは違うんだな~って思い知っちゃうっしょ。それはちょっと嫌だな~って」

 だから話さなかっただけで、テンテンのせいじゃないよん、と明るい笑顔を浮かべた一成が言う。見慣れた笑みはあまりにもいつも通りで、却って天馬の胸をざわつかせる。
 だってその言葉は、決して笑顔で話す内容じゃない。抱えた傷と痛みの話を、一成はこうやって笑顔で口にすることに長けている。ずいぶんとそれは和らいできたけれど、肝心なところは相変わらずだ。

「――お前な。こういう時は、笑顔じゃなくて悲しい顔しろよ」
「ええ~。湿っぽくなるじゃん」
「無理に笑ってるほうが湿っぽくなるだろ。お前が悲しい思いをしたんなら、悲しい顔してろ」

 茶化すように告げられた言葉を、真剣な顔で打ち返す。
 一成はさっきまでの笑みを浮かべたまま数秒黙っていたけれど、次第に笑顔から力が失われていくので、天馬は内心で「ほら見ろ」と思う。
 無理をしているとさえ思わないくらい、いつもの笑みが一成の標準装備だということはわかっている。だけれど、少なくとも夏組やカンパニーの前では素の顔に戻ればいいのだ。