Fall for you
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井川の運転する車に揺られる天馬は、今日の撮影を思い出している。
恋愛もののドラマで、天馬は主人公である女子高生の先輩を演じていた。今回の撮影では、主人公に興味を持った天馬演じる先輩が、強引に唇を奪うシーンが中心だった。
相手役のアイドル女優がキスはNGだったため、フリでの撮影ではあったけれど、何通りものパターンでキスする瞬間を撮影したのだ。
カメラが回っている間は、ただ作品のことしか頭にない。どの角度からどんな風に顔を近づけるか、手の位置は、目線は、とあらゆるパターンを試して納得のいく画を撮ることにだけ集中している。
だから、キスについてあれこれと考え始めたのは、撮影を終えて帰宅するという段階になってだ。しかも、反省点を探るという意味で演技を思い出すのではなく、純粋にキスという行為について益体もなく考えてしまう。理由はわかっていた。
(ちゅーできるかどうかとかかなぁ?)
この前、一成とクレープを食べている時にそんな話をしていたことが原因に違いなかった。あのあと、一成は「したいかしたくないか」って考えてみるねん、と笑っていたのだけれど。つまりは、告白された相手とキスをしたいかどうかを真剣に考える宣言だった。一体一成はどんな結論を出したのか、と天馬は思う。
大体、キスしたいかどうかって何を考えるんだ。具体的にその相手とキスをしてる場面を思い浮かべるということなのか。それは何かすごくこう複雑な気持ちがするけどこれはたぶん友達のキスシーンを想像してしまった後ろめたさとかそういうもので、と天馬は誰にともなく言い訳をしていた。
(――キスしたいかしたくないか)
ぼんやりと考える天馬の頭には、唇についたクリームを舐め取る一成の姿が思い浮かぶ。
どんな顔で、キスするんだろうな、と思う。明るく騒がしいやつだけれど、意外と真面目なところもある。いざそういう場面になったら結構真剣な顔をするのかもしれない。それとも、実は照れたりするんだろうか。そんな顔あんまり見たことないな。
そこまで思ったところで、天馬は我に返る。今オレは何を考えていた!?と顔を真っ赤にして、ぶんぶんと首を振る。友達のキスシーンなんて想像してどうする。
思った天馬は、険しい顔つきになり、窓の外へと視線を向けた。余計なことを考えないよう、車窓の景色へ集中しようと思ったからだ。
しかし、思考は結局流れに流れて今日の撮影やらキスシーンへと辿り着いてしまう。結局、天馬は赤くなったり難しい顔をしたりとしきりに百面相をしていたので、運転席の井川に密かに心配されていた。
「それでは、明日は七時に迎えに来ますので。せっかくの休日にお仕事お疲れ様でした」
MANKAI寮に到着すると、井川がそう言う。今日は学校も休みだったけれど結局夕方まで撮影だったので、いつもの帰宅時間とあまり変わらなかった。まあ、夜にならなかっただけマシだな、と思いながら玄関の扉を開けた天馬は面食らう。
見慣れた玄関には、知らない顔が並んでいたからだ。人数は五・六人、中々奇抜な格好をした人間も混じっているし、妙な威圧感がある。
「あ、テンテン、おかえり~! めんご、今ちょっと色々大学に運ぶものがあって、大学の友達に来てもらってるとこ!」
玄関先で固まっていると、聞き慣れた声がして集団から一成が顔を出す。天馬のところまで歩いてくると、両手を合わせて謝罪のポーズを取った。
心底申し訳なさそうな様子に、天馬はようやく声を取り戻す。どうにか「ただいま」と答えてから、「ちょっとびっくりした」と続ける。一成は、へにゃりと眉を下げた。
「マジごめピコ~! すぐ倉庫のほう行くから――」
「え、本物の皇天馬じゃん!?」
一成の言葉を遮ったのは、集団の内の一人だ。呼応するように「すげえ、本当に一緒の寮なんだ!」「本物めっちゃ顔ちっちゃい!」「イケメン!」といった声が上がっていく。天馬は思わずたじろいだ。
「そうだよん、テンテンめっちゃカッコイイっしょ!? でも、テンテンはお仕事行ってお疲れ中だからねん」
言いながら、天馬に視線で「本当ごめん」と一成が訴える。大丈夫だ、という意味で首を振ると同時に、今度は別の声が響いた。
「寮の方に迷惑を掛けないよう、カズ先輩にも言われてたじゃないですか。約束守れないなら帰りますよ」
その声は、集団の一人から発せられた。見れば、シンプルな装いをした黒髪の青年だった。大人しそうな雰囲気だけれど、凛とした口調をしていた。どうやらこの集団では後輩らしい。ただ、言うことは言う人間として認識されているようだ。
「カズ先輩にも迷惑になるんですから控えてください。さっさと仕事しますよ」
「お前、ほんとにカズのこと好きだよな~」
一成の友達の一人がそう言った。その瞬間、黒髪の青年が何かを言おうとしてこらえるような、そういう表情を浮かべたのを、天馬は見逃さなかった。同時に、ほとんど直感で理解した。
この人だ。一個下の男の子。大人しく見えて意外と芯が強い。言うことはちゃんと言う。一成の話をよく聞いてくれた。一成に告白したのは、この人だ。
何の根拠もないけれどそう思った天馬は、青年へ視線を向ける。淡々と落ち着いた顔をして一成とも接している。返事はすでにしたのだろうか。彼と一成の関係は、未だ友人なのかそれとも。思わず横顔を注視しようとしたところで一成の声が響いて、天馬は我に返った。
「あんまり遅くなると、学校で待ってるみんなも心配しちゃうしねん。ちゃっちゃと持ってっちゃお!」
明るい笑顔で一成が集団に声をかければ、めいめい「そうだな」「やるか~」と声を上げる。しかし、その前に、といった調子で天馬へと向き直た。
「あ、迷惑かけてすみませんでした」
「テンション上がっちゃって……」
「ごめんなさい、今後気をつけます」
「でも、マジで本物の皇天馬すげえイケメンで感動しました!」
口々にそう言われるので、天馬は戸惑いながらも答えを返した。何だかんだで一成の友人だ、謝罪はきちんとできるタイプだった。
黒髪の青年も同じように頭を下げてから、「ほらどいてくださいよ。玄関俺たちがふさいでるから皇さんが上がれないでしょ」と先輩たちを移動させていた。容赦がない。
「テンテン、マジでごめんね!」
「ああ、まあ大したことじゃない」
もう一度謝罪を送った一成に返事をして、天馬は玄関を上がる。それを確認すると、一成は表情を切り替えて集まった集団へ声をかけていた。
「それじゃ、倉庫あっちだから……」
「あ、待て、カズ。運ぶ前に確認したいんだけど、搬入先って学科棟の一階でいいんだっけ?」
「えっとね、一つはそっちでおけまる~。でも、二つ目のほうは絵画棟かな!」
スマホを取り出して操作すると、玄関の集団へ画面を掲げながら何やら説明をしている。ほうぼうからの質問にも的確に答えていて、その顔は専門家のそれだった。応じる玄関の彼らも天馬にはわからない用語を口にしながら、一成とやり取りをしている。
その様子を視界の端に映しながら、天馬は自室への道を辿る。歩きながら、大学で一成はああいう顔をしているんだな、と思う。
自分にはわからない話をして、専門的なやり取りを交わす姿。大学では当たり前の光景だろう。ただ、カンパニーでは見かけることのない顔だった。天馬の知らない顔で、天馬の知らない人たちと一緒にいる。
一成にはMANKAIカンパニー以外での活動もあるのだからそれも当然なのに、天馬の胸には苦いものが広がっていくような気がした。これは一体、と思っていると、不意に前方から声をかけられる。
「今日はわりと早い上がりだったんだな」
廊下の向こうからやって来たのは、段ボールを持った万里だった。撮影のために出かけたことを知っていったのだろう。二言三言会話を交わすと、万里は「うちの大学のやつ見なかったか」と言うので、「玄関にいた」と答えた。
「一成が色々説明してたぞ。倉庫のほうに行くって」
「中々来ねぇから俺が持ってきてんだけど。まあ、まだ運ぶもんは色々あるから別にいーけどな」
肩をすくめる万里に、一体何をしているのかと天馬は尋ねる。玄関先ではあまり詳しく聞ける雰囲気ではなかったので、よくわからなかったのだ。
「ああ。大学のイベントで、今までの歴代作品が色々必要になったんだよな。で、一成がわりと関わってるやつだったから、一成の作品持ってこようつったら、寮の倉庫に置いてある、とか言うから持ってくとこ」
ついでに、前々から貸し出しを希望していた備品がいくつかあるので、ついでに大学まで運搬するらしい。それなりに大きい絵や重いものもあるので、何人か志願者を募ってやって来ているという。
「ちょっと騒がしいかもしんねぇけど、悪いな」
「いや、それは大丈夫だ。ただ、色々忙しそうだな。あんまり無理しないでくれ」
「はは、天馬に言われるとはな。ま、気をつけるわ」
そう言って、万里はひらひら手を振って玄関のほうへ歩いていった。それを見送った天馬は、ゆっくりと自分の部屋へと戻る。
201号室には誰もいなかった。幸は今日出かけているのか、それとも他の部屋に行っているのかもしれない。もしも部屋にいたら「また辛気臭い顔をしている」と言われたことだろう。それくらいの自覚は、天馬にもあった。
部屋着に着替えながら思い出すのは、玄関先での光景だ。自分の知らない顔をして、自分の知らない人たちと過ごす姿を目の当たりにした。常識と理性は、一成の人間関係全てを把握しているわけではないのだから、それは当然の光景だと言う。それなのに、天馬の胸には苦いものが広がっていった。
(まるで、嫉妬みたいな)
反射的にそう思った天馬は、ぶんぶん首を振る。嫉妬。一体どうして、誰が誰に。思うけれど、答えなんて簡単に出てしまう。自分の知らない顔を知っている、一成の大学の友人に対してだ。
(一成は、オレたち以外にも友達がいて当然なんだよな)
天馬にとって、今現在友達と呼べるのは夏組をはじめとしたMANKAIカンパニーのメンバーだ。以前と比べてクラスメイトとコミュニケーションは取れるようになったと思うけれど、友達と呼べるのかはわからない。
だけれど、一成は違う。MANKAIカンパニーの外にだって、たくさんの友達がいる人間なのだ。その中でも、カンパニーひいては夏組の自分たちとのつながりは特に強く、特別なものだと自負はしている。それでも、一成に大勢の友達がいる事実は変わらない。
だから嫉妬なんてしてしまうのだ、と天馬は思う。特別な夏組の、その中でも初めて友達だと言ってくれた一成。そんな彼には、自分以外の友達が大勢いるのだという事実を突きつけられたような気がして、苦々しく思ってしまうのだろう。
そう結論づけた天馬は、ガシガシと自分の頭をかいた。子どもじゃあるまいし、そんなことを思っているなんてバレたくはない。
落ち着かなくては、と自分自身に言い聞かせる。一成に友達がいるのは当然だし、それに嫉妬する必要なんかない。夏組として、一成と特別な時間を過ごしてきたのは事実だし、それを信じていいはずだ。
頭ではわかっていた。心のほうも「確かにそうだ」とうなずいているし、一成を疑っているわけではない。だから、納得する気持ちも嘘ではない。それなのに、広がる苦味とモヤモヤがどうしても去らない。
(――ああ、くそ、何なんだよ)
イライラしながら、それでもどうにか意識を他に向けようと、天馬は机の上に置いていた台本を手に取った。読み合わせ前の確認をしようと思ったのだ。芝居ほど天馬が意識の全てを向かわせることができるものはないから、最適な判断と言えるだろう。
実際、ソファに座って台本を開いてしまえばその世界に没入することができた。ここはどういう心情か、バックボーンは、演技プランは、など考えながら読み進めている間は、去らないモヤモヤのことも忘れてしまえるような気がした。
しかし、幸か不幸か天馬の出演作には恋愛ものが多い。つまりキスシーンへの遭遇率も高いし、ついでに言うなればキスシーンは自動的に本日の撮影現場に結びついて、そのまま思考は飛んでしまうのだ。帰りの車と同じように。
天馬は、ぱたん、と台本を閉じた。
キスシーンの辺りから思考が完全に乱れてしまった。モヤモヤは胸にわだかまっているし頭は友達のキスについて考え始めるし、この状態では台本も意味がない。大きなため息を吐いた天馬は、何か飲み物でも飲むか、と思う。気分転換も兼ねて談話室に行こう、と部屋を出た。
階段をくだり、そのまま談話室へ向かおうとした天馬は何の気なしに視線を中庭へ向けた。緑も多いし団員たちの憩いの場でもあるので、何となく落ち着く光景という認識があるからかもしれない。
すると、木のそばに立つ人影が視界に飛び込む。一成と、一成の大学の後輩だという黒髪の青年だ。
二人は一成が持つスマホを何やらのぞきこんでは、言葉を交わしている。一成が楽しそうに何かを言って、黒髪の青年が小さな微笑を浮かべて答える。その距離は近く、親密な関係であることがうかがえた。
(オレが答えを出せないのはさ、嫌いじゃないっていうかむしろ好きだからなんだよねん)
(友達と恋人の違いってなんだろね?)
(ちゅーできるかどうかとかかなぁ?)
この前の一成の言葉が頭によみがえって、天馬は思わず足を止めた。
その後、一成からは何も話を聞いていない。だから、一成がどんな答えを返したのかを天馬は知らなかった。一成のことだから、何らかの結論が出たら教えてくれるだろうか。
一成の性格から考えれば、少なくとも天馬にはこっそり教えてくれるかもしれない。友達で、相談に乗ってくれた相手ならば。「付き合うことになったよん」なんて、イタズラっぽく笑うかもしれない。だから、何も言われていないということは、きっとまだ結論は出ていないのだと天馬は思う。
それならば。キスに関しては、「したいかしたくないか」って考えてみるねん、と笑っていた一成は、まだ自分の心を確かめていないのだろうか。
モヤモヤとそんなことを考えて立ち止まっている天馬に、一成も後輩の青年も気づいていないようだった。二人は変わらずスマホを見ながら何かを話している。ただ、その顔は真剣なものに変わっていた。
さっきまでの朗らかな雰囲気ではなく、真面目な調子で会話をしている。とりわけ、黒髪の青年は真っ直ぐと一成を見つめて何かを言っている。その様子に、天馬の胸がざわりと騒ぐ。
真剣な表情で一成を見つめるその瞳、雰囲気。相対する一成が戸惑っているように思えるのは気のせいだろうか。いつもの明るい空気ではなく、別の種類の雰囲気が漂っているのは気のせいだろうか。天馬の足がとっさに動く。談話室ではなく、中庭へ向けて一歩踏み出した。
キスをしたいか、したくないかを考えると一成は言っていた。一成はその上で結論を出すだろうけれど、考えるまでもなく自身の欲求を知っている人間はいる。
一成に告白した相手なら、一成に恋をして、恋人になってほしいと望んだ相手なら、考えるまでもなく彼とキスがしたいと思っているはずだ。触れたいと、その唇に自分の唇を重ねたいと。
「っ、一成」
二人の前に立つと、天馬は強い声で名前を呼んだ。一成は驚いたような顔で「テンテン」と言う。黒髪の青年は、ぱちぱちと目をまたたかせている。天馬は深呼吸をした。
思い違いかもしれない。勝手な想像で、失礼なことを思っている。だけれど、もしかしたら、と思ってしまったのだ。
一成が答えを出せないでいるなら、「したいかしたくないか」さえ中々結論が出せないなら。ひとまずは、実際にキスをしてみたらどうかなんて話になるかもしれないじゃないか。
昔に比べて自分の意見を言えるようになったとは言え、一成は未だに拒否することが苦手なままだ。加えて、長く返事を保留しているような状況は、ますますノーの答えを返しにくい。だから、もしかしたら二人がキスをするかもしれない、なんて思ってしまったら止まれなかった。
「その、今ちょっといいか。少し聞きたいことがあるんだ」
「え、うん、平気だけど、どしたの?」
「悪い、ちょっとこいつ借りる」
詳しいことは答えず、黒髪の青年にそれだけ言う。青年が「わかりました」と答えるのとほとんど同時に、天馬は一成の手をつかんだ。スマホを持っていない左手を強く握ると、自分の部屋へ向かって歩き出す。
◆
201号室は人気のないままだった。幸が戻っていないことに安堵した天馬は、そこで一成の手をずっと握ったままだったことに気づいた。ぱっと離して、もごもごとつぶやく。
「わ、悪い」
「全然! でも、どしたの? 何かあったん?」
いきなり部屋まで連れてこられたのだ、きっと何か緊急の用事でもあったのだろう、という顔で一成が尋ねる。もっともな質問だけれど、天馬はバツが悪そうな表情を浮かべるしかない。
「――用事があったわけじゃない。その、お前が困ってるんじゃないかと思ってつい」
半分本当だけれど、半分は嘘だった。しかし、一成は天馬の気持ちを肯定的にとらえてくれたようで、純粋に心配してここまで自分を連れだしたのだ、と理解したらしい。視線にわずかな陰りを含ませて、一成が笑った。
「そか。ありがとねん、テンテン」
天馬の心臓が、どっと一際高く音を立てる。いつもの一成とは違う、少しはかなげな雰囲気。どうしてそんな表情をしているのか、天馬は理解しているし、だからこそ胸が騒ぐ。
一成はきっと天馬が気づいたことだって気づいた。あの黒髪の青年が一成に告白した相手であること。そして、二人きりになることを避けたいのではないか、と天馬が思ったことも。だからこうして、ここまで連れてきたことも。きっと一成は気づいただろう。
「ほんと、テンテンってするどいよねん。人のことよく見てるなぁ」
「それはお前だろ」
困ったように笑って言うので、天馬はぼそりと返す。一成のほうがよっぽど、周囲をよく見て人と接することができる。しかし、一成の言葉が本心からのものであることくらい、天馬もよくわかっている。
「……その、大丈夫なのか。告白されたって話は」
ぼそぼそと天馬は尋ねた。ここまで来たら、気になることはちゃんと聞いておきたいと思ったし、ここで何も言わないのも不自然な気がしたからだ。一成は当然その質問は想定していたようで、特に驚くこともなくさらりと答えた。
「うん。それはちゃんと断ったよん」
「断ったのか」
思わず、といった調子で天馬は言葉を落とした。一成は比較的明るい口調で「あとでテンテンには言おうと思ってたんだけどね~」と笑ってから続けた。
「まあ、お試しで付き合ってみる?っていうのもアリかなとは思ったんだけど」
さらりと言われた言葉に、天馬は一成を凝視した。
いや、確かにそれくらいやりかねないというか、「よくわからないからとりあえず恋人同士になってみよっか」とか言い出しそうな人間ではある。
同性相手に対して一切の偏見がないからこそ、「お試し」として付き合ってみて、無理でなければそのまま付き合いを続行するくらいの柔軟性を持っていることは、天馬もよくわかっている。
一成は、天馬の反応に苦笑を浮かべた。しかし、すぐに何かを思い出すような表情になると、落ち着いた口調で言う。
「――でも、キスしたいかどうかで考えると、違うな~って思ったんだよねん。できるかって言ったらまあできるんだけど、オレがキスしたいかっていうと、全然そんな感じしなくてさ。こういう気持ちで恋人になっても、我慢させちゃうだけだし誠実じゃないかなって思って」
いずれキスしたいと思うようになる可能性もないわけではないだろう。ただ、少なくとも今の一成は相手と「キスしたい」とは思わなかったらしい。できるかできないか、ではなく。一成自身が、相手に触れたいか、恋人としてキスをしたいかどうか考えた時、一成の心は否と答えた。
「そういうわけで、ちゃんとお断りしました! ありがとねん、テンテンのおかげだよ!」
明るく笑った一成はそう言って、両手を合わせるポーズを取る。拝むような仕草だけれど、天馬としては首を振るしかない。別に大したアドバイスをしたつもりはないし、実際そんなに役に立つようなことを言ったとも思えなかった。しかし、一成は穏やかに「テンテンのおかげだって」と続けた。
「ちゃんと自分の気持ちで答えられたからさ。できるかできないかっていうのも、オレの考えなんだけど、それよりもっと自分がどうしたいかって思っていいんだ~って」
一成は落ち着いた調子で言う。可能か不可能かの判断だって、当然それは一成の意志が介在する。だけれど、したいかしたくないかという欲求は、それよりもっと強く一成の心を反映させる。一成の望みがどんな形をしているかの問いかけは、一成の心の有りようをはっきりと、鮮明に描き出したのだ。
「だから、ちゃんとオレ自分の心で答えられたかなって思ってさ。ありがとねん、テンテン」
からりとした明るい笑顔ではなく、じんわりとにじみ出すような微笑で一成はそう言う。心からのものであることくらい、天馬だってわかる。だから、ただ小さな声「ああ」と答えるしかできなかった。やわらかな一成の心を、そのまま渡されたような気がして。
「マジでテンテンのおかげだからさ、お礼に今度おにーさんがどこか遊びに連れてってあげるよん!」
がらりと空気を一変させると、一成が楽しそうに言った。本気ではあるのだろうけれど、完全に面白がるようなその様子に、天馬は顔をしかめて答えた。
「年上ぶるな」
「年上っしょ!」
ちゃんと年上だし! と言ってからから笑う。冗談の響きに、天馬が肩をすくめて「普段の落ち着きのなさを考えろよ」と言えば、「テンテン、年上判定きびし~」と軽い言葉が返ってくる。そうして何てことのないやり取りを交わしていたのだけれど。
「あ、それじゃオレ、もうちょい仕事あるから行くねん」
スマホに目を向けた一成が天馬に告げる。仕事の途中で連れ出してしまったのは事実だし、まだやるべきことがあるのだろう。天馬がこくりとうなずけば、一成は201号室の扉を開けて廊下へ出て行った。当然そのまま扉が閉じられるかと思えば、一成が思い出したように振り返る。
「でも、マジで感謝してるよん。 お礼にほしいもの、何がいいか考えといてねん!」
ぱっと花咲くような笑みでそれだけ言うと、「じゃあね~」という言葉とともに扉が閉まった。
天馬はその姿をただ無言で見送ったのだけれど。数十秒その場に立ち尽くしたあと、「お礼……」とつぶやいた。
礼をされるようなことをしたつもりはない。だからそんなものは要らないと言ってもよかったけれど、一成はきっと理由をつけて何かをしようとするだろう。相談に乗った、という事実がある手前そうすることが当然だと思うことは予想できた。だからそれなら、どんなお礼がいいのか伝えたほうがいい、とも思う。
だけれど天馬は、難しい顔をするしかなかった。
何がほしいのか、思いつかなくて困っているわけではなかった。一成に望むこと、天馬がほしいもの。はっきりと思い浮かんではいるけれど、素直に伝えられるわけがなかったからだ。
最後に見た、一成の笑顔を思い出す。目を細めて、照れたようにわずかに頬を染めて笑う様子は、驚くほどにあざやかで、光と色にあふれていた。きらきらとまばゆい光が散って、周囲に花が咲いたようだった。あまりにも綺麗で、何も言えずに見つめていることしかできなかった。
一成の笑顔は、いつも明るくて気持ちがいい。いっぱいの光で見る者を照らし出すような心地よさを持っている。知っていたけれど、今見た笑顔みたいに、花が咲くみたいだなんて思ったことはなかった。あざやかに、胸の奥まで色づかせてしまうようだなんて思ったのは初めてだった。
どうしてそんな風に思ったのか、天馬は理解してしまった。
「――うそだろ……」
天馬のつぶやきが誰もいない部屋に落ちる。天馬は立ち尽くしたまま、たった今この部屋で交わされた会話を思い出している。
告白はどうなったのか聞いて、「断った」と言われた時。「試しに付き合ってみる」という選択肢があったことを聞いた時。
自分の心がどんな風に動いたのか、天馬ははっきりと自覚した。
告白を断ったと聞いた時、「良かった」と思った。安心したし嬉しかった。「試しに付き合ってみる」という選択肢があったと聞いた時、「危なかった」と思った。そうならなくてよかった。
自分自身の心の動きを理解するのと同時に、天馬の頭に思い浮かんだのはクレープを食べながら一成と話していた時のことだ。公園のキッチンカーのクレープを、ベンチに並んで一成と食べていた。あの時していた話。
(友達と恋人の違いってなんだろね?)
遠くを見つめながら言った一成に、自分はなんと答えたか。天馬ははっきり覚えている。
独占欲。恋人ができたら嫌だとか、恋人は自分じゃないと嫌だとか、そういうものじゃないかと自分は言った。
ああ、そうだ、と天馬は思う。
友達だから、相談してほしいのにしてくれないとか、そういう気持ちは確かにあったに違いない。だけれど、ずっと感じていたモヤモヤは、胸の奥に腹の底によどんでいたものは。
告白をされたと聞いてからずっと落ち着かなかったのは、一成に恋人ができるなんて嫌だったからだ。告白を断ったと聞いた時に、心底安堵して思い知らされた。一成が誰かのものになるなんて、この人がオレの特別な人だと言う相手が自分じゃないなんて嫌だ、と。
続けて自分は言った。手をつなぎたいと思うかどうか。
頭に浮かぶ言葉とともに、天馬は自分の手を見つめた。
一成を部屋まで連れてくるため、その手を握って歩いてきた。あの時、本当は手を握る必要なんかなかった。手首だろうと腕だろうとどこでもよかったし、何なら触れている必要さえ本当はなかった。「来てくれ」と言えば、きっと一成はついてきてくれるから。だけれど、それでも、その手を取ってあまつさえ強く握りしめた理由なんて一つしかなかった。
――オレが、手を握りたかったからだ。
手首でも腕でもなく、ただ純粋に一成の手に触れて握りしめたかった。その手に触れて強く握って、自分自身のもとからどこへも行かないように、握りしめていたかった。
天馬はうめく。この思考の行きつく先なんて、もうとっくに知っている。だけれど、走り出した感情は止まらない。ようやく出口が見つかったのだと暴れ回るように、ほとばしる感情のまま天馬は思考を辿る。
あの時――並んでベンチに腰かけてクレープを食べていた時、一成は天馬の言葉に言ったのだ。友達と恋人の違いとして「ちゅーできるかどうかとかかなぁ?」なんて。
天馬はそれに「したいかしたくないかだろ」と答えた。可能か不可能の選択ではなく、欲求の有無。自身の望み。実際、一成は自分自身の望みを心に問いかけて答えを出した。それと同じように、自分の心に問いかければどんな答えが返ってくるかなんて、天馬はとっくに理解している。
中庭で二人を見た時、もしかしてキスをするんじゃないかと思った。どうしてそんな考えに至ったのかと言えば、もしも天馬がその立場なら、きっとそうしたいと思うからだ。
あの時天馬は思っていた。中庭には他に誰もおらず二人きりで。同じスマホをのぞきこんで、近い距離で一成が笑ってくれるなら。楽しそうに嬉しそうに、一番近くで笑ってくれるなら。
そしたらきっと、手を伸ばす。あの時天馬は、一成に触れたかった。抱きしめて、体温を感じて――そうして、キスをしたいと思ったのだ。
思うのと同時に、天馬の顔に急速に熱が集まっていく。鏡なんて見なくてもわかるくらい、天馬の顔は真っ赤に染まっていた。
全てのピースがきれいにつながっていく。
心配をかけないための笑顔なんて自分の前ではしなくていいと思った。告白された相手を「好き」だと明言する一成にドキリとした。唇のクリームを舐め取る一成から目を離せなかった。つい一成のキスシーンを思い浮かべてしまって、それで複雑な気持ちになっていた。自分の知らない顔を見せる相手に嫉妬した。二人きりにさせたくなくて、あの場所から連れ去った。全部全部、一つの意味に集約されていく。
天馬はうめきながら、その場にしゃがみこんだ。真っ赤な顔で頭を抱える。こんなの、答えなんて一つしかない。
一成に望むこと、天馬がほしいもの、そんなの簡単だ。オレを好きになってほしい。友達じゃなくて、独占欲を持って、手をつなぎたいと思ってほしいし、オレとキスがしたいと思ってほしい。
これが、と天馬は思う。真っ赤な顔で、自分の心を握りしめながら。
(これが恋じゃなくて、何だって言うんだ)
胸の内に、ぽつりと言葉が落ちた瞬間。一成の顔が頭に浮かんで天馬の胸は不思議な感覚で満たされる。
ふわふわとした浮遊感、どこか苦くて痛いのにひどくまぶしくて、不安定でぐらぐらするのに、どうしようもない多幸感が満ちている。
一体いつからなのかわからない。それでも気づいた時には、もうとっくに始まっていた。この感情に名前をつけるなら、きっとそれは恋と言うのだ。
遠い世界にある、作りものめいた存在ではない。確かにここに、天馬の胸の内にあるもの。オレだけを見てほしい。好きになってほしい。触れたい。オレだけしか知らない顔が見たい。衝動と、願望と、焼きつくような焦燥と、どこまでも強く真っ直ぐ向かう感情。
それら全部を抱えながら、天馬は去り際の一成を思い出す。花咲くみたいにあざやかで、光の花束みたいに綺麗だった。そんな彼は「ほしいものは何か」と言っていた。答えなんてすぐに出る。
その心がほしい。同じ気持ちを返してほしい。オレの心を受け取ってほしい。
望みならいくらでもあるけれど、さすがにそれをすぐに伝えられないことは天馬もわかっている。だからとりあえず今は。どこかへ一緒に出かける約束を取りつけよう、と天馬は固く心に決めた。
END
2021年てんかずの日
天馬が自覚するまでの過程を書けて楽しかったです。同時期に「終演までは、どうかワルツを。」番外編書いてたので「落差!!!」って思ってました