ハニー、こっちにおいで。
スマートフォンのアラームが鳴って、一成は目を覚ます。ゆっくりまぶたを開けば、隣で眠る天馬の姿や、すっかり見慣れた部屋の様子が目に入る。
最初は何だか気恥ずかしかったけれど、何度もともに朝を迎える内に、いつもの光景になった。その事実をくすぐったく感じながら、一成の意識はゆっくりと覚醒する。
昨日は結局、ベッドに入ったあとも話が続いて、寝入ったのはずいぶん遅い時刻だ。もっとも、今日は二人とも特に予定がない。慌てて起きる必要はなかった。
手探りでアラームを止めた一成は、布団の中でまどろんだ。もう少し寝ててもいいかも、なんて思って。
ただ、隣で寝ていた天馬が身じろぎする気配に、再び目を開ける。視線を向けると、天馬のまぶたがぱちりと開いた。紫色の瞳は、目覚めた直後でも力強い輝きを宿す。
きれいだな、と思いながら声を掛けようと口を開く。しかしその前に、天馬は隣の一成に気づいたらしい。「は⁉」とすっとんきょうな声を上げて飛び起きる。
天馬のことだ。一度起床してしまえば、二度寝するなんて選択肢はない。よくわかっている一成は上体を起こした。一つあくびをしてから、軽やかに言う。
「おはよん、テンテン」
「ああ、おはよう――じゃなくて、待て、なんで一成と寝てるんだ」
一成を見つめる天馬は、心底意味がわからない、という表情を浮かべている。その様子に一成は理解する。
――ああ、テンテン、ちゃんと催眠術解けたっぽい。
一晩経てば解けるのではないか、という見立ては間違っていなかったのだろう。そして、事前の予想通り、催眠術にかかっている間のことはすっかり忘れている。
無事に催眠術が解けてよかったな、と一成は思う。ただ、ちょっとばかりもったいないな、という気持ちがあることも事実だった。思ったことをそのまま口にする天馬は、本当にかわいかったので。
でも、テンテンが覚えてない分は、オレが覚えてればいいもんね、と一成は思っている。だから、ここはあくまで事態の説明だけに努めよう、と今朝に至るまでの経緯を伝えた。
しかし、天馬は一成の話を半信半疑で聞いていた。普段、天馬にあることないこと吹き込んでいる弊害である。一成は「日頃の行いって大事~」と思うしかない。
とはいえ、実際に記憶が途中から失われているのは事実だ。天馬はいぶかしみつつも、話を聞く姿勢は見せていた。一成は、苦笑を浮かべて尋ねる。
「どこまで覚えてる感じ?」
「――テレビ局から車に乗って、家へ向かったところまでは覚えてる」
一成の問いかけに、天馬は記憶を探って答えた。車中で突然、井川に向かって感謝の言葉を口にし始めた、という言葉とも合致するので、そこが催眠術の始まりだったことは違いないのだろう。
「うん、そっからテンテンずっと、催眠術かかってたんだよね。一応、オレ以外からの説明はLIMEに残ってるはずだから、確認してみてねん!」
明るく言えば、天馬は枕元に置いてあった、自身のスマートフォンを手に取る。
LIMEには、井川といづみ、それぞれから詳細な説明メッセージが送られているはずだ。
朝になって天馬の催眠術が解けていた場合、一成の言葉だけだと信ぴょう性が低い、と判断して二人にも説明を頼んでいた。いづみも井川も、天馬を積極的にかつぐような人間ではないし、事実だと判断する可能性は高い。
案の定、一通りメッセージを読み終えた天馬は、重々しい声でつぶやく。
「本当に催眠術にかかってたのか……」
「だからマジだって言ったじゃん!」
「お前は普段の言動を思い起こせ」
ぴしゃりと言われて、一成は楽しそうに笑った。ああ、本当に普段のテンテンだな、という気持ちで、弾んだ声で「それな~!」と答える。
思ったことを素直に言ってくれるテンテンも、いつものテンテンも大好きだな、と思いながら。
「てか、テンテン催眠術ちゃんとかかんだね⁉ オレの催眠術はかかってくれなかったのに!」
「相手はプロだぞ」
以前、本を頼りに催眠術を試した時のことを言えば、天馬はあっさり答える。素人の一成ではなく、専門家相手なのだから催眠術にかかるのはおかしくない、ということだろう。まあそれもそうだ、と一成は納得する。
「しかし、本当に何も覚えてないな……。外出中じゃなかったことは幸いだが、変なことはしてないよな?」
記憶のない間の自分の行動が、さっぱりわからないからだろう。確かめるような調子で、一成に尋ねた。
詳細は説明されているので、自分がやたらと素直になっていた、ということは天馬もわかっている。一成がずっと一緒にいてくれた、ということもメッセージから理解したので、質問するには最適な相手だと踏んだのだろう。
「大丈夫だよん! ちゃんと服も着てるし!」
冗談めかして、一成は答える。とたんに天馬が言葉に詰まったのは、恋人同士、二人きりで夜を過ごしたという事実を認識したからだろう。状況として、肌を重ねる可能性はゼロではないのだ。
もっとも、二人ともちゃんと服は着ているし、さすがに事後かどうかは天馬もわかる。一成の言葉は事実である、と受け取ったようだ。一成はにこにこ言葉を続ける。
「テンテンはずっとやさしかったし、変なことなんて何もしてないよ」
それどころか、心からの愛情を形にしてくれた。大事なのだと、大切なのだと、普段は表に出さない心を降るように伝えてくれた。たとえ天馬が忘れてしまっても、何一つなかったことにはならない。一成が覚えている限り、天馬からそそがれた愛情は、いきいきと輝き続けているのだ。
「素直なテンテンかわいかったし、オレ的にはすごく楽しかったし。テンテンが気にすることなんか、何もないから安心してねん」
記憶がないことで、不安になるのもうなずける話だ。知らない間にとんでもないことをやらかしてしまったのでは、という可能性が拭えないのだから。
まあ、天馬からすればある意味で、いろいろやらかしているとも言えるけれど。全ては幸せな記憶だから問題ないだろう、と一成は判断した。
「だから、全然気にしなくてオッケーだからね、ダーリン?」
あふれだすような笑みで、一成は告げた。天馬が覚えていないとしても、一成の心に昨晩の記憶は鮮明に残っている。弾むような気持ちのまま、冗談めかして言う。ほんの少し、昨日の記憶をにじませて。
ただ、一成が「ダーリン」なんて言うのはいつものことだ。呆れたように「そうだな」なんて笑って、スルーされるだろうな、と思っていたのに、天馬の反応は違った。
驚いたように目を瞬かせて、一成を見つめたのだ。
初めて聞いた呼びかけでもないだろうに、一体どうしたのか、と一成は首をかしげる。不思議な気持ちで、「テンテン?」と名前を呼ぼうとしたところで、天馬の唇から声がこぼれる。
「……ハニー……?」
落ちた言葉に、今度は一成が目を瞬かせる。普段の天馬なら、恐らく受け流している場面だ。ねだれば応えてくれただろうけれど、今の一成は取り立ててそんなことはしていない。
いつも通りの呼び名が返ってくるのが当然で、催眠術が解けた今では、とうてい聞くことがない言葉のはずだったのに。天馬は確かに、「ハニー」とつぶやいた。
え、なんで?と混乱のまま見つめ返せば、天馬は呆然とした表情で、同じように一成へ視線を返す。お互い固まったまま沈黙が流れる。
ただ、このままでいるわけにもいかないと、一成は口を開きかける。しかし、その前に天馬の顔色が見る間に変わっていく。それはもうきれいに、真っ赤に染まったのだ。
天馬は何かを言おうとしたものの、上手く言葉にならなかったらしい。ぱくぱくと口を開閉させて、一成を見つめている。耳はおろか首まで真っ赤だ。目も潤んで、羞恥に襲われていることはよくわかる。
その様子に、一成は「もしかして」と思う。どうしてなのか、理由なんて一つもわからない。ただ、天馬の反応から考えて、導き出される答えはある。もしかして、これ、思い出したんじゃね?
「えーと、テンテン?」
「――待て、何も言うな。わかってる。思い出した」
湯気でも出そうな赤い顔を手のひらで覆い、天馬が答える。混乱を示すように声は上ずっているし、突然思い出した記憶に翻弄されているらしい。まあ、昨日のテンテンいろいろ全開だったもんね、と一成は思う。
昨晩の出来事は、相当インパクトがある。普段の天馬とは、あまりにもギャップがありすぎるのだ。天馬が動揺するのも、恥ずかしさで頭を抱えたくなる気持ちも、わからなくはない。
なので一成は、とりあえず混乱が落ち着くまで待っていよう、と黙って天馬を見守っていた。
しばらくの間、天馬は意味もなくうめいて手のひらに顔を埋めていた。ただ、ある程度時間が経ったことで、自分の中でどうにかケリをつけたのだろう。
大きく息を吐き出すと、そっと手のひらを外す。一成へ顔を向けて、意を決したように言った。
「いろいろと……それはもういろいろと、お前に言ったしやった記憶があるんだが」
真面目な顔で尋ねる天馬の顔は、あざやかな赤に染まっている。まったく熱は引かないらしい。
普段の天馬なら、十中八九やらないことである。それを実行した記憶が、頭によみがえっているのだから混乱するのも、恥ずかしがるのも無理はない。
しみじみ思いつつ、嘘を吐いても仕方ないので、一成はこくりとうなずいた。
「ずっとくっついてたし、めっちゃかわいいとか言ってくれたし、甘やかしたいって料理準備して『あーん』とかやってドライヤーもかけてくれたし、ハニーって呼んでくれたよね」
「具体的に言わなくていい!」
勢いよく、天馬が叫んだ。赤い顔で、若干涙目になりつつ、明らかな羞恥を宿して。
もしかしたら鮮明な夢かもしれない、と思っていたのかもしれないけれど。一成の言葉に思い当たる節はばっちりあるようで、肯定されてしまえば全ては事実だったと認めざるを得ない。ただ、具体的な行為について言及されることは避けたいらしい。
あまりにも、普段とはかけ離れた言動である。恥ずかしすぎて直視できないんだろうな、と一成は察するし、同時に思ってもいた。もしかしてこれは、なかったことにした方がいいのだろうか、と。
昨日の天馬の言葉は、全て真実だとわかっている。何一つ嘘や偽りはなかったし、心からの思いを告げてくれた。
とはいえ、言うつもりのなかったことを聞いてしまった、と言うこともできる。
全てが一成にとっては大切な宝物だから、忘れるつもりはない。それでも、何もかもをなかったことにして、そういう顔でこれから過ごすことを天馬が望むなら、叶えることは、やぶさかではなかった。
もともと、天馬は忘れてしまうはずの記憶なのだ。どういうわけか思い出しただけで、今朝目覚めた時は、何も覚えていなかった。そのまま日常に紛れて、昨晩のことは一成の胸にだけしまわれるはずだった。
だから、今の事態がイレギュラーで、本来は恋人同士の甘い時間はなかったことにする方が正しいのではないか、と思った。共有できなくても、一成がきちんと覚えているなら、それで充分だった。
「何もなかったってことにしようか?」
天馬の瞳を真っ直ぐ見つめて、一成は言う。顔にのぼる朱と紫色の瞳がきれいだな、と思いながら。テンテンの望んだ結末が一番だよね、という気持ちで。
「昨日のことは、全部忘れたってことにしようか」
天馬に負担をかけることは、一成の本意ではない。だから、純粋に心から思っての提案だった。
天馬が忘れても、一成がちゃんと覚えている。天馬は一成ならそうしてくれると信じて、思いを伝えてくれたのだ。なかった顔をしたって、消えてなくなるわけではないとわかっているから、問題はないと思った。
「テンテン的には事故みたいなもんだし! 昨日は恋人じゃなくて、友達として過ごしてたんだ、ってことにしとこっか」
天馬が望むなら、という気持ちで言った。天馬のことなので、一成が無理をしてそう言ったわけではないことも、心からの言葉であることも理解してくれるはずだ。
だから、気兼ねなくうなずいてくれてよかった。羞恥心で死にそうになっているし、不本意な事態であることは違いないのだから。
茹だったように真っ赤な顔は、未だそのままだ。よっぽど恥ずかしかったのだろうし、きっと天馬は一成の提案を受け入れるだろうと思ったのだけれど。
一成の言葉に、天馬は迷うことなく言った。
「いや、いい」
思いの外きっぱりとした口調だった。潤んだ瞳に真っ赤な顔をしていても、力強い響きをしていた。
一成は思わず目を瞬かせた。それから、予想外の返事に戸惑いを含んだ表情を浮かべる。気づいた天馬は、さらに言葉を続ける。
「なかったことにしなくていい」
「え、でも、テンテン――」
「恥ずかしいし、正直叫びたくなるし、忘れてたら楽だったかもしれないと思いもするが、言ったこともしたことも、後悔してるわけじゃない」
湯気が出そうな真っ赤な顔には、明らかな羞恥が浮かんでいるけれど、強い口調だった。揺るぎのない光を宿して、真っ直ぐ一成を見つめて、言葉を重ねる。
「忘れなくていい。覚えててくれ。あれは全部、オレの本心だから」
予想外の事態で、言うはずのないことを口にした。だけれど、一つだって嘘はないことを、天馬は理解している。
思い出した記憶は、一成に告げた言葉や取った行動は、何もかも全ては、間違いなく天馬の本心だ。一成を大切にしたいことも、甘やかしたいことも、ずっと前から抱えていた、天馬の揺るぎない望みだ。
一成は、天馬のためを思って、なかったことにしようかと言ってくれたけれど。そんなことをする必要なんてなかったし、天馬の答えは最初から決まっていた。
天馬は深呼吸をすると、熱を宿した熱い息で言った。
「お前がオレのために言ってくれたことはわかってる。だけど、なかったことにしなくていい。ちゃんと全部覚えててくれ」
一成の瞳を見つめて、天馬は言う。思い出したことで羞恥に襲われても、のたうち回って叫び出したくなっても、伝える言葉は一つしかない。
昨晩の天馬の言葉や行動は、全てがただの事実だ。訂正することもないし、忘れてもらう必要もない。それに、何よりも。
思い出した記憶で、天馬は一成に望みを伝えていた。ずっと心に抱いていた。あふれる愛おしさで、誓うように口にした言葉は、何度でも告げたかった。だからこそ、潤んだ瞳で、天馬は声を重ねる。
「大事にしたいってことも、守りたいってことも。力になって、いつだって助けに行ってやりたいって思ってることも、覚えててほしい」
恥ずかしそうに、照れくさそうに、顔中を真っ赤に染めて、それなのにどこまでも力強く。天馬は、真っ直ぐ一成に向かって言う。
ずっと思っていたこと。願っていたこと。心からの、決して色褪せない気持ち。昨晩と同じ思いを抱いた天馬は、「それで」と言って続ける。
心を丸ごと取り出して、一成へ手渡すように。何度でも告げたい愛の言葉を、再び口にする。
「たまには、一成のことを甘やかさせてくれ」
はにかんだ笑みで言われて、一成の胸はぎゅっと詰まった。昨日の夜、告げられた言葉を思い出す。
天馬の望み。思っていたこと。大事にしたくてたまらないと、何度だって言われた。あれは一晩だけの魔法なんかじゃなかった。今日の朝にも続く、確かな現実だった。
「うん――大好き、ダーリン!」
胸がいっぱいになって、心があふれるように告げる。すると、天馬は少しだけ沈黙を流したあと、それはもう恥ずかしそうに「わかってる、ハニー」と小さな声で返してくれるので。一成は渾身の力で、天馬に抱きついた。
END