シュガームーン・ララバイ
玄関の扉を開けると、紅潮した頬の一成に出迎えられる。
唇には静かな微笑をたたえて、やけに落ち着いた声で「おかえり、天馬くん」と言うので。酔ってるな、と天馬は察した。
「――ただいま。飲み会はいいのか」
「大丈夫だよ。もう終わったんだ」
靴を脱ぎながら問いかければ、一成は静かに答える。「明日が早いメンバーもいるからね。あまり遅くならない内に解散したんだ」というのは、Webデザイナーが集まって行われたオンライン飲み会のことだった。
一成の交友関係はやたらと広い。デザイナーの知り合いも多いし、親交を深めるために飲み会が行われることになった。ただ、遠方に住んでいるメンバーもいることから、オンラインでの開催である。Webツールを使って頻繁に連絡を取り合っているので、自然な流れと言えるだろう。
一成はあれこれと張り切って、酒やらつまみやらを嬉々として用意していたのは、天馬も知っている。ただ、酔うと口調が変わることは自覚しているので、酔わないようアルコール度数の低いものばかりを選んでいたはずだった。
「珍しく酔ってるんだな。そんなに飲んだのか」
「飲み会ではそこまで飲んでいないよ。ただ、終わってから何だか名残惜しくて。冷蔵庫にあったお酒を飲ませてもらったんだけど――だめだったかな?」
「いや、大丈夫だ。好きにしていい」
不安げに問われて、天馬は首を振る。
冷蔵庫に入っているものは、基本的にどちらが口にしてもいいことになっている。どうしてもという場合は名前を書くように、というのは二人で暮らし始めた時に決めた、いくつかのルールの内の一つだ。
「でも、酒なんてあったか? オレは最近買ってないと思うんだが」
「ああ。以前、東さんがくれたお酒だよ。パッケージが洗練されていてすてきだったな」
唇をほころばせて、一成が答える。洗面所へ向かっていた天馬は、「あれか」とうなずいた。
久しぶりに顔を合わせた東が「旅行へ行ってきたんだ」と言って、外国のアルコール缶を贈ってくれたのだ。パッケージにも異国情緒があふれていて、一成はテンションが高かった。
見た目は華やかで、どちらかというとジュースのような雰囲気だった。ただ、表示をよく見るとアルコール度数が案外高かったのだ。それを一缶飲んでいるとしたら、酔ってもおかしくないな、と天馬は納得する。
ただ、オンライン飲み会のあとになって、飲み足りないと追加で開けたようなので、飲み会自体はいつもの調子で終えたのかもしれない。
酔うと口調が変わる、ということを一成はあまり積極的に見せたがらない。だから、恐らく飲み会では上手くセーブしたのだろう、と天馬は思っていた。
いつもと違う一成の姿は、ギャップが強くて印象的だ。あまり人に見せたくないので、内心でほっと安堵する。カンパニーメンバーならともかく、それ以外の人間の目に魅力的に映るのでは、と思うとやきもきしてしまうのだ。
恋人同士として長く付き合い、こうして同じ家で暮らしているにもかかわらず、独占欲というものは未だに発揮され続けているらしい。その事実に、天馬は内心で苦笑を浮かべる。
「そういえば、何か用事があるんじゃないのか」
一通り手洗いとうがいを終えた天馬は、手を拭きながら問いかけた。
一成は、天馬が帰宅すると玄関まで出迎えてくれる。ただ、そのあとは洗面所へ向かう天馬と別れて、リビングへ向かうのが常だった。しかし、今日の一成は洗面所まで一緒についてきている。
「どうした?」
もしかして、一刻も早く報告したいことがあるとか、そういうことだろうか。
純粋な疑問で尋ねると、一成は笑みを浮かべた。いつもの明るさではなく、静謐さを宿す微笑。それでいて、確かな熱を奥底に宿らせて、おだやかな声音で言った。
「そうじゃないんだ。ただ、天馬くんと離れたくなくて」
予想外の言葉に、天馬は目を瞬かせる。そんなことを言われるとは、かけらも思っていなかった。
戸惑ってしまうけれど、嫌なわけがない。普段からスキンシップの多い人間だし、好意は隠さず伝えてくれるから、意外な言葉でもないけれど。「離れたくない」なんて、何度言われたって嬉しいのだ。
「――そうか」
答える声が、思わず弾んだ。一成は、天馬の声の響きを敏感に察知して、やわらかく表情を輝かせる。天馬は浮き立つような気持ちのまま、洗面所を出る。自室で部屋着に着替えるつもりだった。
一成は当然のように一緒についてきた。二人の寝室へ入った天馬は、クローゼットからハンガーを取り出す。
今日は撮影だけではなく会議などもあったので、スーツを着ていた。ハンガーにかけて、適度にブラッシングをしている様子を一成はおだやかに見つめる。
いつもなら、帰宅後は一人でこなすルーティンだ。しかし今日は、ベッドに腰掛けた一成が、何が楽しいのかにこにこと笑みを浮かべて、天馬に視線を向けている。
「ふふ。天馬くんは、何をしていても絵になるね」
じっと天馬の様子を見つめていた一成は、心からといった調子で言う。スーツに向かってブラシをかけているだけの、何でもない行動だ。日常のワンシーンでしかないのに、一成はやわらかな微笑を浮かべて言うのだ。
天馬は何だか照れくさくて、「そうか」とだけ答えた。
いつもの一成だって、こんな風に些細な場面を拾い上げて「テンテン、めっちゃかっこいい!」なんて言ってくれる。だから、意外な発言というわけではないのだけれど、こんな風に静かに言われると勝手が違ってどぎまぎしてしまう。慣れていないということもあるし、やけにしおらしく感じてしまうのだ。
「ネクタイをほどく仕草も様になっているし、何だかドキドキするね」
丁寧な調子で言われて、天馬の心臓は大きく跳ねた。ブラシをかける手が止まる。
一成自身、好意を表に出すことはためらいがないので、似たようなことは言われたことがある。「テンテンのスーツ姿、マジやばたん!」やら、「ネクタイほどくとこ、きゅんとする!」やらテンション高く言っていた。
ただ、それはどれもが明るい調子で、冗談の響きを宿していた。もちろん、一成が心から言ってくれたことはわかっていた。それでも、あくまでも軽やかなやり取りだったから、天馬も笑って受け止めたのだ。
しかし、今の一成は違う。楚々とした雰囲気も感じられるからだろうか。告げられる言葉は、やけに重々しく響いて動揺を誘った。
「ああ、あんまり見てると着替えにくいかな。ごめんね」
天馬の沈黙をどう受け取ったのか、一成がはっとした表情で言った。
天馬は慌てて「別にそんなことはない」と言って、作業の続きに戻る。否定しなければ、一成が部屋を出ていってしまうような気がして、慌てた響きになってしまった。しかし、一成は気にすることなく「それならよかった」と微笑を浮かべた。天馬はほっと息を吐く。
「でも、見てても面白くないだろ」
スーツの手入れを終えて、部屋着に着替えつつそう尋ねる。離れたくない、と言って部屋についてきて、ささやかなワンシーンを「絵になる」なんて言ってくれたけれど。ただ着替えてるだけの場面なんて退屈だろう、と思っての言葉だ。
一成は天馬の言葉に一つまばたきをする。それから、「そんなことないよ」と答えた。
「さっきも言ったけど、天馬くんは何をしてても絵になるし――ドキドキしてしまうから、むしろ見ていられることが嬉しいよ」
そう告げる一成は、照れくさそうな雰囲気を漂わせる。
染まる頬は、アルコールによるものだけではないのだろう。いつもと違う雰囲気で、普段はあまり見せない笑みを浮かべて、よく知る熱を頬に宿す。あざやかな赤を真正面から受け取った天馬の胸は、千々に乱れた。
真っ直ぐと向けられる好意が嬉しい。天馬のささやかな一場面すら大事なことのように思ってくれて、確かに胸を高鳴らせてくれているという事実が嬉しい。
あふれ出す思いのまま一成に手を伸ばしかけて、天馬は理性で押し止めた。
別に一成が嫌がるとは思っていない。むしろ、喜んで受け入れてくれるだろうと思ったけれど、状況が状況である。
寝室に二人きり。ベッドに腰掛けているから、今ここで手を伸ばして、抱きしめてそのまま押し倒すことだって簡単だ。というか、今手を出すと、ほぼ自動的にそういうコースになりそうだったので、天馬は意志の力で自分を制御した。
一成に気づかれないよう、何度か深呼吸をして自分を落ち着かせる。そして「そう言われると嬉しい。ありがとな」と返した。一成は静かな笑みで受け止めてくれて、天馬は息を吐く。
それから、何でもない調子で寝室から出て、リビングへ向かった。これ以上ここにいると、状況的にまずい気がしたのだ。一成は当然あとからついてくる。
広いリビングへ入ると、ダイニングテーブルや大きなテレビ、ローテーブルとソファのセットに出迎えられる。カーテンを開けたままの窓からは、夜景がよく見えた。
数歩進んだ天馬は、ローテーブルで視線を止めた。ここで一成は晩酌していたのだろう。件のアルコール缶と、空になったグラスが置かれていた。
近づいて確認すれば、全て飲み干されている。アルコール度数も、記憶にある通りなかなかの数値だ。道理ですっかり酔っているわけだ、と天馬は納得する。一成はそんな天馬の行動に、どこかふわふわした調子で尋ねる。
「天馬くんも何か飲むかな。お酒の用意をしようか」
「それもいいけどな――今は水が飲みたい」
一成の言葉に、天馬はゆるやかに首を振る。
天馬とてアルコールが嫌いなわけではない。むしろ一成と一緒に酌み交わすことは好きだ。
純粋に楽しい時間を過ごせるということもあるし、テンション高くグラスを傾ける様子も、次第に酔いが回って静かになり、落ち着いた口調へと変わっていく様子を見ているのも、一成が心を許してくれているという事実を実感できて、胸がくすぐったくなる。
ただ、今日は酒を飲まない、と天馬は決めていた。しおらしく「離れたくない」なんて言う一成を前にして酒なんて飲んだら、理性が持つか心配だったからだ。
なので、ひとまず水を飲んで落ち着くことにした。ついでに、空になったグラスと缶も一緒に持って、キッチンへ向かう。
キッチンはリビングと一続きになっているので、部屋を縦断して歩いていくと、一成が後ろをついてくる。とことこと、そうすることがさも当然みたいな様子で歩く姿に、天馬は思う。かわいい。
テンション高く騒ぎ立てるわけでもなく、ただ静かに天馬のあとを追いかける。一生懸命、離れまいとしての行動だ。何だかそれは、親のあとをついて歩くカルガモのヒナみたいにも思える。
普段の一成は、どちらかといえば天馬を子供扱いしてくることが多い。確かに年上ではあるけれど、大した差ではないと天馬は思っているので、不本意だと表明はしている。ただ、一成はいつも軽やかに流してしまうし、あくまで自分は年長者であろうとしていることは察していた。
だから、何だか子供みたいに自分を追いかける、という姿が新鮮だった。さらに、その理由が「天馬と離れたくない」なのだ。こんなのかわいいに決まってるだろ、と思いながら天馬は缶とグラスを片付けた。
それから、冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターを取り出す。コップにそそいで、一気に水をあおった。冷えた液体が体中に染み込んで、天馬は一つ息を吐く。一成はそんな天馬を、静かな微笑で見つめている。
それに気づいた天馬は、「一成も水飲むか?」と尋ねた。アルコールを飲んだあとなら、喉の渇きを覚えていてもおかしくないと思ったからだ。
一成は天馬の問いに、「飲みたいな」と落ち着いた笑みで答える。天馬はうなずくと、持っていたグラスに再び水をそそぎ、一成に差し出した。
すると、一成はぱちりと目を瞬かせたあと、大きな目でじっとグラスを見つめている。こぼれそうだな、なんて天馬が思っていると、両手でそっとグラスを受け取った。
大事な宝物を手にするみたいな慎重な手つき。それから、ゆっくり自分の方へ引き寄せると、静かに言った。アルコールのせいだけではない赤い頬で、はにかむ唇で。
「間接キスだね」
告げる言葉は落ち着いた響きをしていて、天馬の心臓がドキリと高鳴る。
同じグラスを使っていることは、単なる事実だ。それを一成が間接キスだと指摘するのは、予想の範囲内と言えた。だけれど、それはあくまで明るい響きの、冗談に乗せた言葉だ。
こんな風に、しんとした調子で。たおやかな雰囲気で口に出されるなんて、天馬は思いもしなかった。
だから、何だか無性にドキドキとしてしまう。間接キス、という言葉が妙になまめかしく聞こえて、ことさら意識してしまうのだ。
一成はといえば、両手で持ったグラスをゆっくりと傾けている。落ち着いた様子で水を飲む姿に、動揺してるのはオレだけなんだろう、と天馬は思ったのだけれど。
じっと見つめる視線の先、こくこくと水を飲む一成の耳がほんのり赤く染まっているので。天馬はうなるような気持ちで、かわいいな、と思っていた。