Sweet heart night



 ほどよく栄えた駅前の広場から、少し離れた一角。夜遅くまで開いているのは、全国チェーンのドーナツショップだった。
 通りがかった一成が、吸い寄せられるように店の扉を開く。天馬は少しだけ考えてから、あとに続いた。
 明日の予定は、新幹線で天鵞絨町に帰るだけだ。舞台があるわけでもないし、少しくらいの夜更かしは問題ないだろうと思った。
 それに、地方公演を無事に終えて、天馬も気持ちが浮き立っているのかもしれない。一成と一緒に、知らない街を歩いているという事実も含めて。

「テンテン、どれがいい?」

 トングとトレイを持った一成が、きらきらと目を輝かせて尋ねる。
 店内に駅前ほどのにぎわいはなく、落ち着いた空気が流れている。閉店までまだ時間があるとはいえ、ずいぶん夜も深まっている。客はまばらで、陳列されたドーナツの数も少ない。
 どこか寂しげな雰囲気さえ感じそうにもなるけれど、一成の笑みは何よりもまばゆくて、店の雰囲気さえ塗り替えるようだった。

「そうだな……。夜も遅いし、シンプルなのがいい」
「そだねん。絶対アザミンに怒られるもんね!」

 カンパニーのメイク担当を指して、一成はからから笑った。怒られることはわかっていても、「食べない」という選択肢はないのだ。
 もっとも、それは天馬も同じだった。もしもここで咎めるなら、そもそも店に入ることを止めている。せっかくの夜だ。二人で過ごすなら、こんな風に甘いものを食べるのもいいだろう、と思っている。
 天馬はハニーグレーズ、一成はシュガードーナツを選び、二人ともセットでオレンジジュースをつけた。
 夜遅いのでカフェインは避けた方がいいだろう、という判断が一つ。もう一つは、一成が「テンテンのオレンジだし、おそろにしよ!」と言ったからだ。断る理由はないし、その言葉が嬉しくて、天馬はこくりとうなずいた。
 トレイを持って、二人は片隅の席に座る。周囲に人はおらず、店員の視界にも入りにくい位置だ。他とは切り取られた、二人だけの空間のようだった。

「そんじゃ、千秋楽の成功おめでと~!」

 小声ながらも明るい声で言って、一成が小さく手を叩く。天馬はふっと唇をゆるめて、「ああ。上手く行ってよかった」と答えた。
 地方公演の千秋楽は、大盛況で終わった。MANKAI劇場とは違って、地方ならではの雰囲気が漂う観客に、どうすれば夏組のコメディが届くのか。
 実際の空気を感じながら、試行錯誤した結果は大いに実を結んだのだ。弾けるような笑い声や、輝く表情が並んだ客席は、夏組全員の胸に強く残っている。
 ホテルに帰ってから、軽い打ち上げが始まったのは自然な流れだろう。騒ぎすぎないようにね、とやわらかく言った監督は、嬉しそうに夏組の様子を見守っていた。
 そうして夜が深まっていたところに、一成が「ちょっと夜の散歩行きたくね?」と言い出した。千秋楽の雰囲気がそう思わせたのか、この夜が終わってしまうのが惜しいと思ったのか。
 わくわくした調子の一成に誘われるようにして、天馬は一成とともにホテルを出たのだ。
 他の夏組がいないのは、用事があるからだとか、ホテルにいたいだとか言って、ついてこなかったからだ。ただ、実際に用があるというより、気を遣われたからだということは二人とも察している。
 天馬と一成が恋人として付き合っていることを、夏組と監督は知っている。区切りという意味も含めて、きちんと報告したからだ。
 ただ、普段は夏組として過ごしていることがほとんどなので、取り立てて恋人らしいことをしているわけではない。それがわかっているから、今回誰もついてはこなかったのだろう。
 二人で過ごす時間を用意したい、という気遣いの結果であることは充分承知していた。
 天馬も一成も、ありがたくその好意を受け取った。夏組みんなと一緒の時間も大好きだけれど、恋人と二人きりになれることも嬉しかったのだ。

「あんまり遅くならないようにね、だって」

 スマートフォンを操作していた一成が、明るい声で言った。少し寄り道する旨を監督に告げれば、了解のメッセージが返ってきたらしい。
 天馬はこくりとうなずいた。夜の散歩はあくまでイレギュラーな事態だし、そこまで遅くなるつもりはなかった。
 一成はスマートフォンをポケットにしまうと、いたずらっぽい笑みを浮かべて口を開く。

「夜遊びしてると、テンテンのスキャンダルになっちゃうかもだし?」
「まあ、ドーナツ屋だから、そんな心配しなくて平気だろうけどな」

 肩をすくめて天馬は答える。夜遅いとはいっても、非常識な時間でもない。場所だって、全国チェーンのドーナツショップだ。相手は夏組の一成だし、たとえ写真を撮られたとしても、ほほえましい話題として提供されるくらいだろう。
 アルコールを提供する店でもないし、傍から見れば仲のいい友人と、夜遅くドーナツを食べている光景だとしか映らないのだから。
 恋人だとは思われない、ということがもどかしいのも事実だけれど。二人で堂々と出かけることができるのは、夏組として過ごした年月のおかげでもあった。

「そだねん。てか、まさかテンテンがいるとは思われてない感じだし、そっくりさん扱いっぽいよねん」

 面白そうに一成が言うのは、ドーナツを会計する際、店員が示した反応のことだ。
 天馬はいつもの通り、サングラスと帽子で変装している。とはいえ、目立つ人間なので、レジを担当した店員は「あれ」といった雰囲気を漂わせていた。何だか皇天馬に似ているな、とでも思ったような。
 しかし、すぐに普通の態度でレジ対応を進めた。まさかこんなところに、皇天馬がいるわけはないだろう、という顔で。天馬の活動場所は基本的に都内だし、地方に現れる可能性は念頭にないのかもしれない。
 たとえ天馬が素顔だったとしても、「そっくりさんだろう」と思われるんじゃないかな、と一成は考えていた。

「それはそれで面白いってか、そっくりさん扱いされるテンテンも見てみたいよねん」

 楽しそうに言う一成は、皿の上のドーナツへ手を伸ばす。唇に笑みを浮かべたまま、砂糖のまぶされたドーナツへかぶりついた。シンプルな生地に、砂糖の甘さがちょうどいいと、根強い人気を誇るドーナツだ。
 嬉しそうにもぐもぐと口を動かす様子に、つられるように天馬もドーナツをかじった。
 天馬が選んだのは、はちみつシロップをコーティングした、ハニーグレーズだ。はちみつが染み込んだ生地は甘すぎることもなく、素朴な味わいだった。

「がっつりチョコレートとか、ホイップとかのも美味しいけど、こういうのもいいよねん」
「まあな。シンプルで美味い」

 オレンジジュースを飲みながら一成が言って、天馬も同意を示す。普段は比較的、もっとボリュームのあるドーナツを食べることが多いけれど、シンプルなものも悪くないな、と思ったのだ。

「前さ、ホイップとカスタードの当てっことかしたよねん。テンテン、覚えてる?」

 ドーナツを皿に置いた一成が、目を細めて問いかける。何の話か、なんて少しも思わなかった。天馬も食べる手を止めると、真っ直ぐ一成を見つめて、「覚えてるに決まってるだろ」と答えた。

「たくさん箱抱えて帰ってきて、何かと思ったぞ」
「にゃはは、友達が困ってたからさ~。それに、おやつにもいいじゃん?」

 ある日一成は、いくつも箱を抱えて、寮へ帰ってきた。中身は大量のドーナツで、一成の友人のアルバイト先のものだった。手違いが重なって、だいぶ余らせてしまったらしい。
 家族や友人に配ってもまだある、ということで「それなら」と一成がもらってきた。カンパニーなら人数も多いし、軽食にちょうどいいと思ったのだ。

「あと、ついでにゲームしたら面白いんじゃね⁉って思って!」
「面白いからって、わざわざ手を加えるところも、一成らしいなと思った」

 当時のことを思い出して、天馬はしみじみと言う。
 一成が持ち帰ってきた大量のドーナツは、ホイップクリーム入りとカスタードクリーム入りの二種類だった。よく見ればクリームがはみ出ているので、どちらかの判別はつくのだけれど。
 せっかくだから!と一成は言って、はみ出た部分をチョコペンでコーティングして、隠してしまったのだ。団員たちが手分けして作業したおかげで、食べるまではどちらのクリームなのかわからないドーナツが出来上がった。

「ゲームっぽくて面白かったっしょ。どっちに当たるかわかんないし、予想が当たるかどうかで勝負できるから、めっちゃ盛り上がってたし」

 軽やかな声の一成の言う通り。カンパニーメンバーは、ささやかなことだって、すぐに楽しい遊びにしてしまう。だから、ドーナツを選んだあとは、どちらのクリームなのか、予想内容を宣言してから食べる、という流れができていた。
 最終的に、一対一で当たり外れを競う形になり、外れた人間は当たった人間に対して何らかの願いを叶える、というゲームへと発展していたのだ。
 もっとも、願い自体は、ちょっとしたお菓子を買ってくるだとか、風呂掃除を代わるだとか、ささやかな内容ばかりだったけれど。

「ただドーナツを食べるってだけじゃなくて、そういう風に面白くしようって思って実際行動へ移せるのは、一成のすごいところだなって思う」

 何だって楽しいイベントにしてしまうのが目の前の人間であることを、天馬はよく知っている。ささやかな出来事だって、一成の手にかかれば魔法みたいに姿を変える。それは何だって楽しくして、笑顔にしてしまおうという、一成の限りない強さの証だ。
 心からの尊敬を込めて、天馬は告げる。ただ、当の一成は驚いたように目を瞬かせる。そんな風に言われることではない、と思っているのだろう。すぐに笑みを広げると、明るく言った。

「オレが楽しいからやってるだけだよん!」

 その言葉は間違っていないだろう、と天馬は思った。
 たいそうな決意というより、純粋にわくわくした気持ちで起こした行動であることは、わかっている。
 しかし、天馬はあえて言いたかったのだ。
 一成がそうやって、笑顔でいてくれることの意味を知っている。いつだって、へらへらしているだけの人間だと思った。だけれど、それは違うのだと、今の天馬は痛いほどに理解しているからこそ。

「それはわかってるが――お前が、そうやって何でも楽しもうとしてくれるから、楽しい思い出が増える。ありがたいって思ってる」

 悪ふざけに巻き込まれることも多々あるし、本気で遊ばれることもしばしばだ。それでも、一成の思いつきで、知らないことを知っていったことも事実だった。
 心をくすぐる楽しさも、弾けるような喜びも、一成に手を引かれるようにして、初めての感情と何度も出会っていった。
 一成は天馬の言葉に、少しだけ沈黙を流す。それから、やわやわと光をこぼして笑った。いつもの明るいものより、もっとやわらかくてやさしい。

「テンテンを笑顔にできたなら、めっちゃ嬉しい」

 そっと抱きしめるような、温かい声をしていた。
 一成の発案に巻き込まれるようにして、結果として天馬が笑ってくれたなら。楽しい思い出なのだと、きらきらと輝くような記憶になっているのなら。それは一成にとってもこの上もない喜びなのだと、嬉しそうに告げる。
 心から言ってくれていることがわかるから、天馬はくすぐったい気持ちで口を開く。一成と過ごした時間が楽しいのだと、ただその事実を伝えるだけでこんなに喜んでくれるなら、いくらだって言いたいと思ったのだ。

「あの時も、一成が中身当てたんだよな。それで、行きたいところがあるから付き合ってほしいって言われて、あんみつ食べに行っただろ。美味かったし、雰囲気も良くて楽しかった」

 ドーナツの中身を当てるゲームで、一成は天馬を捕まえて勝負を挑んだのだ。受けて立った天馬ではあったものの、一成の勝利という結果になった。果たしてどんな願いが出てくるのかと思えば、「一緒にあんみつ食べに行こ!」と来たのだ。
 一成は天馬の言葉を聞いて、唇に笑みを刻んだ。
 天馬とともに訪れた甘味処はあんみつが有名な店で、かねがね訪れたいと思っていた。店構えも和風だし、比較的客の年齢層も高いため、雰囲気も落ち着いている。天馬もきっとリラックスできるだろう、と思ってのチョイスだ。
 狙いは正しかったようで、天馬にとって甘味処での出来事はちゃんと楽しい記憶になっていた。その事実が嬉しくて、一成の声は弾む。

「あんずあんみつ、美味しかったよねん! あそこ、あんずパフェもあったから、今度はそっちも食べたいかも」

 落ち着いた店内で、天馬と二人で向かい合った。お茶を飲みながらメニューを眺めて、あれがいいだとかこれがいいだとか、ささやかな話をした。
 何でもない時間さえ、二人で過ごすならそれだけで特別なものになるように思えて、一成にとっても大切な思い出だ。丁寧に記憶にしまって、時々そっと取り出したくなるような、そんな時間だった。

「ね、テンテン。またあのお店行きたいって言ったら、一緒に行ってくれる?」

 少し声を潜めて、一成は尋ねた。
 当時はあくまで友達として、一成のお願いに天馬が付き合う形だった。しかし、今の二人は関係性が変わっている。恋人同士という自分たちであの店に行きたいけれど、天馬はどうだろうか、と一成は思ったのだ。
 そっとうかがうような様子に、天馬は苦笑を浮かべる。
 恋人になったのだから、二人きりで出かけるのは当然だ、と一成は思わない。そういう気遣いがいじらしいと思うけれど、もっと自信を持ってほしい、とも思う。ただ、そういうところが好きなんだよな、という自覚もあった。

「断るわけないだろ。美味かったし、いい店だったし……それに、一成と出かけるのは、オレだって好きだからな」

 素直に伝えようと思ったものの、気恥ずかしくなって声は少し小さくなってしまうけれど。店内は静かだったし、一成は天馬の声を聞き漏らすことなんてしないのだ。嬉しそうに顔を輝かせて、「うん!」とうなずいた。
 その反応にほっとしつつ、天馬は一つ咳払いをして、口を開く。きちんと伝えたいことがあったのだ。

「お前の頼みは極力断らないから、普通に誘ってくれ。大体、最初に誘った時はもっと気軽な感じだっただろ。まあ、あれはあくまで友達だからってことだろうが」

 友人と出かけるのに、たいそうな決意は要らないということなのだろう、と天馬は思った。つまり、今ためらいがちに誘ったのは、恋人としての自分を特別だと思っているということの表れなのだろう、と。
 一成は天馬の言葉に目を瞬かせたあと、さらりと答えた。

「あれは、普通に見えるようにって、めっちゃ頑張ってたからねん。ガチっぽくしたら、引かれるかなって思って!」

 あくまでゲームの代償として、お願いを聞いてもらう形だ。友人との戯れの延長線上なのだ、という顔をしていなければ、と思った一成は、ただの友人という立場を取り繕うことに腐心していた。

「テンテンに片思いしてたかんね。バレないようにしなくちゃ~って、気をつけてたんだよねん」

 苦笑を浮かべて告げられた言葉に、天馬は思わず一成を見つめた。あの時の一成は、いつもとまるで変わらないように思えた。天馬への恋心なんて、一切感じさせることはなかったのだ。
 一成への気持ちを自覚したあと、天馬は比較的すぐに思いを告げた。
 その時一成は、戸惑いながらも、前から天馬のことが好きだったと伝えてくれたので、天馬が思うよりもっと早くから、特別な気持ちを抱いてくれていたことは知っていた。
 ただ、それがいつからだったのかなんてことは、聞いたことがなかった。
 だから、「あの時はすでに片思いされていたのか」と今になって知るのは不思議で、同じくらいに心地よかった。

「――そうなのか」

 ぽつりと漏らした言葉は、照れる雰囲気がにじんでいた。思うよりもずっと前から、特別な気持ちを向けられていた、という事実は天馬の胸を甘くくすぐるのだ。
 その雰囲気を、一成は感じ取ったのだろう。天馬が嬉しいと思っている、ということを察して「うん、そうなんだよねん」とうなずく。

「バレてなかったってことは、オレの演技力も結構すごいんじゃね⁉」

 冗談めかした響きで言うけれど、実感がこもっている。天馬はしみじみと、「まあ、確かに全然気づかなかったな」と答えた。
 一成はそうやって、自分の気持ちを隠すのが天才的に上手いのだ。もしかしたら、自分が「好きだ」と言わなければ、永遠に想いは閉じ込めたままだったのかもしれない。
 その可能性に思い至ると、天馬はあらためて、きちんと思いを告げた自分を褒めてやりたいと思う。
 そうしなければ、きっとこの時間も訪れなかった。知らない街で夜の中、チェーン店で二人きり、同じ気持ちを抱きながら向かいあうなんて。