青に送る




―3-

 俺は再びスカイギャラリーで働き始めた。辞めたつもりではあったけど、青海さんはそう思っていなかったようで、すんなりと再開が決まった。
 バイトという形態も業務内容もあまり変わらないものの、仕事中に絵の勉強をする時間をもらえるようになった。今の俺は、スカイギャラリーのバイトとして働きながら、絵の勉強をしているという立場だった。
 青海さんは言葉通りあれこれサポートしてくれて、伝手を使って絵画教室の講習に参加させてくれたり、外部向けの美大講義の情報を教えてくれたりするので、とてもありがたかった。
 再び顔を合わせた東雲は「戻って来てよかった~!」なんて無邪気に笑っていた。東雲の名前で俺の絵を出したことを謝ったら、「別に気にしてないし!」とあっさりしていた。ただ、悪いことをしたのは事実だったから、何かお詫びをさせてほしいと食い下がった。そしたら「また一緒に絵を描いてくれたらいいよ」と言われたので、共にスケッチをすることになったけど。結局俺も楽しんでしまったから、果たしてあれがお詫びになったのかはわからない。
 東雲とはその一件以降、一緒に絵を描く機会が増えた。俺の勉強にもなるからありがたいのは事実だ。ただ、気づいたらスカイギャラリー関係者の学生組という縁で、桜田が参加するようになり、そのつながりで萌黄と山吹まで顔を合わせることになるとは思わなかった。
 当初はだいぶ身構えていたのだ。俺以外は全員美大生という境遇で、思うことがいろいろとある俺は何となく距離を取っていたから溝を感じていた。だけど、たぶんそれは俺だけだった。桜田は相変わらず我が子についてしか見えてないし、萌黄と山吹もときどき妙なネガティブを発揮しつつ、お互いを褒める言葉だけはやたらと豊富だった。東雲は言わずもがなだし、最終的に馬鹿らしくなって気にすることを止めた。おかげで、今ではだいぶ打ち解けたと思う。
 その成果なのか、最近ではこのメンバーでグループ展を開こうかなんて話が出てきている。青海さんにその話をすれば、やたらと乗り気だった。「白戸くんの勉強になるから、企画の立ち上げから参加してみるといいと思いますよ」と言われたので、あれこれとアイディアを出しているところだ。
(――そろそろ、青海さんが帰ってくるな)
 ぼんやりと、今日にいたるまでのことを考えていた俺は、はっと我に返る。
 展示会は開催していないから、来客がなければギャラリーは比較的暇だった。そんなときは絵を描いていいと言われているからスケッチをしていたけど、スケッチブックを閉じる。出かけていた青海さんが帰ってくる時間だと気づいたからだ。
 飛行機の時間と、空港からここまでの所要時間を考えれば、誤差はほとんどなく予想できる。案の定、ほどなくして青海さんが帰ってきた。
「ただいま戻りました」
「お疲れ様です」
 おだやかな雰囲気の青海さんを出迎えて、とりあえず緊急の要件はないことを伝える。多少ゆっくりしても問題はない、ということは言っておきたかった。
「お客さんも……桜田が来たくらいですけど、青海さんっていうより俺に用があったみたいなんで」
「白戸くんにですか」
「はい。今度のグループ展についてです」
 主に桜田の我が子に関する主張ではある。最初こそ相当引いてたものの、今はもう慣れたので普通に聞いている。青海さんは俺の言葉に、嬉しそうに笑った。緑色の目は楽し気な色を宿していた。
「なるほど。桜田くんたちと仲良くなっているみたいで、僕も嬉しいです」
「仲良くっていうんですかね……」
 全員個性が強烈すぎて、果たしてあれを仲良くと呼ぶのかと言えば謎だった。だけど、青海さんは俺の言葉にいっそう弾んだ声で答えるだけだ。
「全員絵を描く人たちですからね。共に過ごすだけでもいい刺激になると思いますし、切磋琢磨できるでしょう。白戸くんの絵も、きっともっと良くなります」
 告げられた言葉が真っ直ぐと俺に届く。青海さんが嬉しそうなのは、たぶん俺の絵のことを考えてくれたからだ、と思う。そんな風に見守っていてくれることも、俺の絵が良くなると思われていることも、何だか嬉しくてくすぐったかった。
 青海さんが荷物を片づける間に、コーヒーを淹れに行った。すぐに戻ると、青海さんはギャラリーの椅子に座っていた。パソコンを出しているけど、まだ起動していない。仕事を始める前にと、俺はコーヒーを渡すついでに不在時の出来事を報告する。
 絵を見てほしいというアポの詳細、来月の個展のチケットデザインについて、フライヤーの新規配布先のリスト。青海さんの役に立つ、という意味でもギャラリーの仕事にやりがいはあったけど、絵を描く以外の立場で絵について知ることは結構勉強になる。だから積極的に仕事に取り組んでいるつもりだ。
「なるほど、ありがとうございます。白戸くんがいるおかげで、仕事がはかどるのでありがたいですね」
 美味しいコーヒーも飲めますし、と笑う青海さんの言葉に俺は首を振る。積極的に仕事をしているといっても、ようやく仕事を覚え始めたところなのだ。大して役に立っているとは思えなかった。
「本当に助かっているんですよ。白戸くんがいるから、ギャラリーを空けて遠出もできますし」
 そう言った青海さんは、しみじみとした雰囲気を漂わせている。実感がこもっているのは、今まさしく帰ってきたところだからだろう。俺は青海さんが行ってきた場所を思い浮かべて尋ねた。
「沖縄でしたよね」
「そうです。ネットでやり取りをしていた[[rb:方 > かた]]だったんですが、直接お会いしたいという話だったので……。気になる[[rb:方 > かた]]と会えるようになったのは、ありがたいです」
 一人でギャラリーを切り盛りしていたときは、何泊もかかるような遠出なんてできなかった、と青海さんは言う。来客があっても対応できないし、ギャラリーを拠点にしているからには、誰もいない状態を長く続けるわけにもいかない。だから、店番代わりに俺みたいなバイトを置いておけるようになって、ようやく遠出ができるようになったのだ。
 そういうわけで、青海さんはときどきギャラリーを離れることがあった。店番だけとはいえ、青海さんのいない間はギャラリーに何もないよう常に気を配っているから、なかなか責任重大だと思う。
「ああ、そうだ。今日はお土産があるんですよ」
 ゆっくりコーヒーを飲んでいた青海さんが、思い出したように言うと机の上に置いてあったビニール袋を探った。何かと思えばお土産だったのか、という気持ちで俺は思わず声をこぼす。
「青海さん、お土産買う発想あったんすね」
 別に青海さんに常識がないとは思ってないから、お土産を買ってきてもおかしくはないはずだけど。何となく、そういうものに興味がなさそうだったから意外に思った。お土産を選ぶ時間があるなら、現地の美術館とかに行くほうを選んでいそうな気がする。
「白戸くんの話をしたらお土産を持たされまして」
 苦笑とともに吐きだされた言葉に、俺は納得する。やっぱり、青海さん本人はそこまでお土産を買うタイプではないんだろう。あくまで、相手が用意したから受け取ったという感じだ。
「口にあえばいいのですが……。いろいろ種類はあるみたいですね」
 そう言って青海さんが差し出したのは、黒糖を使ったお菓子だった。聞いたことがあるようなないような商品名に、青い空と海、それからハイビスカスのイラストが描かれている。受け取った俺は、いかにも沖縄らしいデザインのパッケージだな、とじっと見つめる。
「華やかなデザインですね。白戸くんなら、このモチーフをどんな風に描きますか」
 俺の視線に気づいたからだろうか。青海さんは課題でも出すような雰囲気でそんなことを言う。再びスカイギャラリーで働き始めてから、青海さんはときどきこんな話をする。暮れていく空を示してどんな風に色を乗せるかとか、もらいもののメロンを渡しながら静物画デッサンするならどんな構図でどの方向に光を当てるかとか。いたって当たり前みたいに口される話題は、俺が絵を描くことを前提としたものだ。それを噛みしめるたび、俺はいっそ泣きたいような気持になる。
 だけど、泣いている場合じゃないし、俺は今の自分にできることは何だってやりたかった。だから、青海さんの言葉に真剣に答える。
「そうですね……。俺はあんまり、力強い花は描いたことがないので、新しい雰囲気を試してみたいです」
 いかにも南国といったデザインのパッケージを見つめながら、そう返す。漂う雰囲気は開放的でバカンスめいた空気があるのだ。ハイビスカスという花の持つ力強さや明るさ、エネルギーにあふれる様子は、あまり俺の絵にあるものではない。
 青海さんは俺の言葉に「なるほど」とうなずいた。俺の絵の雰囲気ならよく知っているからだろう。
「ハイビスカスの持つイメージに、白戸くんが近づける方向ですね。白戸くんの新しい一面が見られそうで楽しみです」
 ニコニコと、心底嬉しそうに青海さんは言う。新しい作品と出会うことが好きな人だからこその反応で、そんな風に俺の絵を見てくれる人がいるという事実は、今でも何だか夢のようだとさえ思う。
「上手くいくかはわかりませんけど……。俺の絵の雰囲気に引っ張られるかもしれないし。そしたら、ちぐはぐな感じになるかも」
 ハイビスカスのエネルギッシュさと俺の作風は、相性が良くないのではないかと思うから、そこは心配だった。花だけが浮いてしまうような、そんな絵を描くつもりはないけど、結果としてどうなるかはわからない。青海さんは俺の言葉に、数度まばたきをするとやわらかく笑った。
「白戸くんの雰囲気にも、ちゃんと沿うと思いますよ。ハイビスカスは確かに色味が力強いですけど、墓に供える花でもありますから。弔いの花と白戸くんの絵の静謐な雰囲気は、相性は悪くないはずです」
 青海さんの言葉に、俺は意外な気持ちになる。ハイビスカスと言えば南国のバカンス、というイメージしかなかったからだ。青海さんは、俺が思っていることを察したのだろう。落ち着いた口調で、沖縄でハイビスカスは、死者の安らかな眠りを祈る花なのだと教えてくれる。
「厳密に言うと、ハイビスカスの原種のブッソウゲに由来するのかもしれませんね。でも、墓に供える花であり、死者を思って手向けられる花であることは変わりませんから」
 さらりと告げられた言葉だった。こういうとき、俺は青海さんの博識さに感心するし、同じくらい自分が物を知らないことが恥ずかしくなる。きっと、俺と青海さんでは見ているものがまるで違っていて、青海さんの見ているものを見ることすら俺にはできないんだろうと思う。知らないことばかりの、視野の狭い俺では。
 思わず顔を曇らせると、青海さんはそれを察したらしい。俺の心を見透かしたみたいなことを言う。
「白戸くんは、これからいろんなことを知っていってくださいね。たくさんのことを知って、いろんな視点で物を見て、視野を広げていきましょう。そしたら白戸くんの絵はもっと良くなります」
 当たり前の事実を語るみたいな口調だ。これから先に広がる未来を、一つだって疑っていないような。俺が絵を描き続ける未来を、今よりもっといい絵を描く俺を、心から信じているような。これは間違いなく青海さんから俺への信頼で、俺はそれに応えたい。俺は俺の持てる全てで、今日よりも明日、明日よりも明後日、毎日もっといい絵を描き続けたい。
 だから、真っ直ぐ青海さんを見つめて「はい」とうなずいたら、青海さんが嬉しそうに笑った。きらきらとした輝きを放つ、子どもみたいな表情で。
「今よりもっと力をつけた白戸くんの絵を見るのが楽しみです」
 そう言う青海さんは、クリスマスプレゼントを心待ちにするような雰囲気をしている。こういうときの青海さんは、俺より年下に見えるから何だか面白い。
「いずれ、白戸くんの絵がほしいと望む人が出てくるでしょうね。ああ、でも、そのときは白戸くんの一人目のお客様に、きちんとお知らせしないと」
 後半はただの独り言のようだったけど、俺はどきりとする。一人目のお客様、と言って思い当たる相手は一人しかない。具体的にどんな人物なのか、俺はかけらも知らないけど。東雲の個展に、東雲の絵として偽った俺の絵を買ってくれた人がいたのだ。
 結局青海さんは、手違いによって他人の絵を展示してしまったギャラリーのミスだと説明して、売買契約は白紙に戻ったと聞く。迷惑をかけてしまった青海さんにも申し訳ないと思ったけど、一番は絵を買ってくれたというその人を騙してしまったという罪悪感だ。ただ、思っていることもあった。
「……でも、あれは東雲の名前だったから買い手がついただけだと思います」
 買い手がついたとはいっても、あれは東雲の作品として展示されていたからだろう。もしも俺の名前で出されていたら、購入という選択はなかったと思う。素直な感想だったけど、青海さんは俺の言葉に苦笑を浮かべる。
「白戸くんはまず、自分の絵に自信を持つところからはじめないといけませんね」
 少しだけ困ったように言うから、何だか悪いことをしてしまったような気がする。でも、俺はまだ俺の絵にそこまでの価値があると思えていないのは事実だ。
 ただ、それだけで終わりにしたくないという気持ちもあった。青海さんを困らせたくないとか、そういうこともあるけど、何よりも俺の意志として。
「――いつか、今の俺の絵がほしいと思ってもらえる絵を描きます」
 顔も名前も知らない、俺の絵をほしいと言ってくれた誰か。あのときは、東雲の名前で出した絵だったけど、今度表に出すときはきちんと俺の名前で発表する。そのときに、他でもない俺の絵がほしいと、あの日の最初の一人に言ってもらいたい。そんな絵を描くのだ。
 青海さんは俺の言葉に、数秒黙ってから笑みを広げた。おだやかな微笑とも、子どもみたいな無邪気なものとも違う。じわじわと広がっていく、奥底からの喜びが瑞々しく放たれるような、何だかとてもまぶしい笑みだった。
「そのためのサポートをさせてくださいね。でも、あの絵に買い手がついたのは、絵の持つ力ですよ」
 弾むような声で言った青海さんは、さも当然といった顔をしている。まあ、青海さんは心からあの絵に力があると信じているから、そう言うのもうなずけるけど。思っていると、少しだけ声の雰囲気を変えて言葉を続けた。
「東雲くんの名前が果たし効果もあると思うけど、あれは白戸くんの力で、作品が心に働きかけたからだよ」
 真っ直ぐと、緑色の目で俺を見つめた青海さんが言う。いつもの口調より、少しだけ砕けた雰囲気。ギャラリーのオーナーというより、単なる青海七海の感想みたいな、そんな言葉。俺は思わず、吸い寄せられるように眼鏡の奥のきれいな目を見つめる。
「そういえば、あの絵はもう表には出さないんですか。今度のグループ展は、いい機会だと思いますけど」
 思い出した、といった顔で言った青海さんの雰囲気はいつものものに戻っている。あの絵、というのは最後の一枚のつもりで描いた絵だ。今は俺の自宅で仕舞ってある。確かに、展示するには映えるし、出来栄えとしても問題はないことはわかっている。ただ、俺の答えは決まっていた。
「どこかに発表する予定はないです。今度のグループ展には、新しい絵を描くつもりなので」
 俺は圧倒的に、他のメンバーに比べて完成させた作品数が少ない。だからこそ、グループ展では全て新作を描き上げるつもりだった。だけど、あの絵を出さないのはそれだけが理由じゃない。
 絵を諦めるための、最後の一枚。全ての力を込めて描き上げた、俺の絵。あの絵が持つ意味を、誰より俺は知っている。だからこそ、表に出すことはしないと決めている。
「そうですか。それは楽しみです」
 青海さんは俺の言葉に、心から嬉しそうに答えた。新しい作品との出会いを、何よりの喜びとしている青海さんらしい、幸せに満ちた表情だった。










 いくらかの世間話をしたあと、青海さんは「絵を描いてきていいですよ」と言った。
 青海さんの不在時は、あまり仕事を詰め込んでないし、展示会を開いているわけでもない。今日この時間までの人の少なさを考えれば、これからどっと来客が増えるとも思えなかった。
 そういう風に時間があるときは、絵を描いていていいと青海さんには言われていた。ギャラリーの裏手にある倉庫を一つ、制作場所として開放してくれたのだ。おかで、俺は時間を見つけては絵を描くことができている。そうでなければ、グループ展で全て新作を用意するなんて無理な話だ。
 長旅からの帰りで疲れてるんじゃないか、と思ったけど、青海さんは「人手が足りなくなったら声をかけますから」と言う。確かに、倉庫にいればすぐにヘルプには行けるから、人がいない間ならいいか、と思う。絵が描けるのはありがたかったし。
 俺はお礼を言って、そのまま倉庫へと向かった。広々としたギャラリーから、給湯室のある事務スペースを通って裏手にある倉庫へ歩いているうちに、思考回路が切り替わっていく。スカイギャラリーのバイトではなく、絵描きとしての俺になっていくのを感じている。
 今描いている絵を完成させたら、次はどんな絵を描こう。あれこれとモチーフについて考えていると、ずっと持ったままだった手の中のお菓子に気づく。青海さんにもらったお土産。空と海、それからハイビスカスのパッケージ。
 どんな絵を描くか、という思考回路とパッケージが結びつく。ハイビスカス。どんな風に描くか、と尋ねられた。あのときの言葉のように、今までと違う作風に挑戦してみるのもいいかもしれない。
 それとも、ハイビスカスの持つ意味を重ねて、俺らしい絵に仕上げてみようか。単なるバカンスめいた花だと思っていたけど、違う側面を持っているのだと知った。この花は、死者のためのものだ。墓に供えて、安らかな眠りを祈る。俺はその気持ちを知っている。この世界から消えていく。死にゆく人へ送る気持ちを知っている。引っ張られるように思い浮かぶのは、俺の絵だ。
 絵を諦めるための一枚。俺の最後の絵。明確に意識していたわけじゃない。だけど、今ならはっきりとわかる。あれは、俺の遺書だった。絵を描く俺が消えたあと、最後に残るたった一枚。全てを終わりにして、白戸色波はあそこで死ぬはずだったんだ。
 その事実を握りしめるような気持ちで歩いていると、倉庫に到着した。ドアノブを引いて中に入る。途端に、慣れ親しんだ油絵具の匂いと、描きかけの絵が俺を出迎える。
 俺は持っていたお土産のお菓子を、手近にあった棚に置く。あとで持って帰るのもいいし、小腹が空いたとき用に置いておくのもいいかもしれない。そんなことを思いながら、俺はイーゼルに立てかけたキャンバスの前に立つ。まだ着色の途中だけど、確かに俺の絵が広がっている。
 じっと絵を見つめる俺は、不思議な気持ちになっている。最後の一枚を思い出す。俺は本当に、絵を諦めるつもりだった。あの絵を完成させたら、絵を描く俺は死ぬはずだったのに。終わらずに日々は続いて、今も俺は生きている。
 だけど、あの絵を描き上げたとき、一度俺は死んだのだと思う。青い空を背景に描いた、想像の風景画。明るい空へと羽ばたいていく鳥たち。あれは遺書であると同時に、俺自身の弔いだった。死にゆく俺に送る手向けで、最後の別れのはずだった。それなのに今もここで俺が生きているのは、もう一度生まれ直したからだ。
 馬鹿みたいな話だけど、俺は本当にそう思っていた。なぜなら、あのときの自分と、今の自分は同じ体を持っていても、すっかり違う人間だ。だって今、俺の目に映る世界は、それまでの俺が見ていたものとまるで違っている。
 俺の絵は誰にも望まれていないと思っていた。俺は絵を描いていくことが許されないんだと信じていた。あの、全てが閉塞感に覆われた世界。何もかもが閉ざされた場所で生きていた頃、俺の目にはいろんなものが見えていたはずなのに、俺の目は何も映してはいなかった。
 だけど、俺の絵には力があると。俺の絵には意味があって、これから先の未来まで、絵を描いて生きてもいいのだと、降るように理解した瞬間、世界の全てが生まれ変わった。
 周囲を覆っていた閉塞感はひび割れて、光が差し込んでいく。閉ざされた世界は壊れて、代わりに広がるのは、晴れ渡る空だ。澄み切った、どこまでも続く青空だ。俺の描いた白い鳥が羽ばたいていく先みたいな。高く、果てのない青空が俺の頭上に広がって、どこにだって行ける、どこまでだって飛べると思えた。
 あの瞬間、さあっと視界が開かれていくようだった。何も見えていなかった俺の目は、ようやく光をとらえたのだ。青空から降り注ぐ光が全てを撫でて、目に映る何もかが色彩を帯びていく。きらきらと輝いて、美しく躍動して、震える心で理解する。
 見えていたはずなのに、何も見てはいなかった俺はもういない。新しく生まれ直した俺の目は、宿した美しさをちゃんと見つけられる。あの空から降る光が教えてくれる。俺の周りを取り巻く全ては、俺が生きるこの世界は、こんなにもあざやかな色彩に満ちている。
 全身の全てでそれを感じ取った俺は、突き動かされるように思った。絵を描こう。明るく澄んだ青も、朝焼けの淡い赤も。冴えた緑も、あざやかなオレンジも、やわらかな桜色も。夕暮れの紫も、星を籠めた黒も、まばゆいほどの白も。この世界に満ちている彩りを全て描いていこう。
 あのときの、震えるような決意を思い出す俺は、一つ息を吐いた。定位置に置いてあるエプロンを身に着け、筆と絵具の用意をした。絵を描くためにここへ来たのだ。自分のなすべきことをしようと思った。
 向き直ったキャンバスには、春の海と空が描かれている。四季の風景を描こうと思ったとき、春といって真っ先に浮かんだのが海と空だった。おだやかで、やわらかく、何もかもを抱きしめるような。光を含んだ青い景色だ。
 じっとキャンバスを見つめてから、絵筆を手に取る。捨ててしまうはずだった、慣れ親しんだ道具だ。その感触を確かめた俺は、深呼吸をしてから絵と向き合う。
 絵を描くことが好きだった。ずっと絵を描いていきたいと思っていた。だけど、それだけで進み続けることは難しくて、何もかもを終わりにしてしまおうと思った。絵を描く。簡単なようでいてときどきやけに難しくて、だけどきっと本当はとてもシンプルなことなのだ。
 絵を描くと決めた。だから俺は今日もキャンバスと向き合って、絵筆を握っている。今日も明日も明後日も、絵を描くと決めたのだ。
 楽しいことばかりでも、幸せなときばかりでもないだろう。辛いことも苦しいことも、きっと山ほどあるのだろう。それでも、俺は絵を描くのだ。果てしなく広がる、高い空に手を伸ばすみたいに。あの日、白い鳥が羽ばたいていった青空を掴むように。世界の全てをあざやかに塗り替えた、光降らす空へ返す答えのように。
 俺はパレットから色を取り、丁寧にキャンバスへ乗せていく。空白だった世界は、少しずつあざやかに色づいていく。
 こんな風に、俺は絵を描くのだ。今まで感じていた苦しくてたまらない気持ちも、胸を焼くような焦燥も、何もかもを終わらせようとしたあの感情も。この道を歩く決意も、何があっても手放せないものも、これから俺を待ち受ける全ても。みんな、みんな絵筆に込めるのだ。
 だって俺は、絵を描く生き物だ。白戸色波は、そういう風に生きていく。











END

白戸色波の呪いと祝福