青に送る
―2-
埋まっていく着信履歴と、留守番電話のメッセージに観念した俺は、再びスカイギャラリーを訪れた。
東雲くんから話を聞きました、という一言が大きかった。青海さんは恐らく、全てのことを理解しているのだろう。一体何を言われるのかわからなかったけど、どこかでほっとしている気持ちもあった。
少なくとも、俺はもう嘘を吐き続けなくていいのだと思えたから。何も知らない顔をし続けるより、自分の罪を認めてしまったほうがきっと楽になれる。
そんな気持ちでスカイギャラリーを訪れると、普段と変わらない様子の青海さんに出迎えられた。今はまだ店を開けていませんから、と言う通り、ギャラリーに客の姿はない。がらんとした部屋には、整然と絵が並んでいる。
こんな風に、絵に囲まれるのは久しぶりだった。部屋にある画材道具一式は押し入れに仕舞いこんだし、時間だけはあったけど美術館にだって行っていない。もともと、スカイギャラリーは辞めるつもりだった。次の就職先のために履歴書でも書けばよかったのだろうけど、何もする気が起きなかった。絵を描かない生活をするんだ、と決めた通りに、確かに俺は絵も描かずに毎日を過ごしていた。
青海さんは何かを言おうとしたけど、その前に受付の電話が鳴る。思わず反応しそうになるものの、俺はもうスカイギャラリーの人間じゃない。青海さんが「すみません」と言って電話のほうへ向かっていくから、俺はぼんやりそれを見送った。
それから視線が向かうのは、ギャラリーの奥に立てかけられた絵だ。イーゼルに置かれた大きな絵。青い空を背景に描かれる、想像の風景画。明るい空へと羽ばたいていくのは、無数の白い鳥たち。絵を諦めるために描き上げた俺の絵であり、東雲の個展に、東雲の作品として偽った絵だった。
◆
東雲の名前で絵を出そう、とはじめから思っていたわけじゃない。この絵は、あくまでも俺が絵を諦めるために描いたものだからだ。
だけど、東雲が締め切りを守ると思えなかったのは事実だし、高確率でメインの絵が完成しないだろうことは予想がついていた。高校時代からそういうやつだったし、再び顔を合わせた今もその性質は変わっていなかったから、たぶん間違いなくそうなるだろうとは思っていた。
だから、俺は途中から――青海さんに絵を見てもらいたいという望みを自覚してから、意図的に東雲の作風に寄せた絵を描いていた。絵が完成したとして、どうやってこの絵を見てもらえばいいのか、とはずっと考えていたのだ。その答えがこれだった。
普通に考えれば、素直に「俺の絵を見てください」と言えばいいとわかっていた。青海さんのことだ、俺が絵を描く人間だということに驚きこそすれ、それだけだろう。青海さんは新しい作品に出会うのが好きだから、喜んで見てくれると思う。
わかっていたけど、俺はそれを選びたくなかった。だって、俺が絵を見せたら、青海さんは俺に向かって「素敵な絵だね」と言う。色遣いだとか構図だとかを褒めて、心からどれだけ俺の絵が素晴らしいかと言ってくれるだろう。そしたら俺は、絵を諦められなくなってしまうと思った。みっともなくしがみついて、もしかして俺は、絵を描いてもいいんじゃないかなんて幻想を見てしまうと思った。
ギャラリーで働くうちに、俺はいやというほど思い知ったのだ。この世界には、画家になるために選ばれたような人間がいて、誰からも望まれている。俺にはとうてい手に入らないものを持っている人たちが、驚くほどたくさんいる。画家になれるのはそういう人たちであって、俺じゃない。誰からも望まれることのない俺は、絵を描いて生きていくことなんかできない。わかっていたから、俺は絵を諦めたかった。
そのためには、青海さんに俺の絵だと知られることは避けたかった。俺の絵だとは知らないままで、それでも俺の絵を見て、認めてもらいたい。無茶な願いだとはわかっていたけど、俺はそれを叶える選択肢を知っていた。
もともと、モチーフはよくかぶっていたし、高校時代に何度か作品を間違えられたこともあったから、恐らくバレないだろうと思っていた。それに、青海さんに違和感なく東雲の絵だと思わせられたら、俺の実力を試すこともできる。
そう思った俺は、さらに集中力に磨きをかけた。青海さんに俺の絵を認めてもらいたい、自分の力を試したい。その気持ちが、それまで以上に筆に力を与えたのだろう。自分でも一番の絵が描けたと思った。作風は東雲に寄せているとはいっても、テーマやモチーフは俺自身の描きたいものだ。間違いなく俺が描いた、俺の一番の絵だ。これなら、きっと認めてもらえる。悔いなくこの道を諦められる。
一つの仕事をやり遂げた、という気持ちで罪悪感を打ち消して、俺は完成した絵をギャラリーへ送る手配をした。宅急便の受け取りは俺の仕事だ。作品を一枚くらい紛れ込ませることは造作もない。
宛先を書くとき、日時指定欄に数秒考え込んだ。だけど、すぐにペンを動かして記入した日付は、東雲の個展初日だ。物を送るにあたっては、常識的な範囲と言っていい日付だ。ものすごく先というわけでもないし、妥当だから誰も不思議には思わない。だけど、俺はこの日付が意味することを理解している。東雲の個展初日。間に合うかどうかわからないメインの絵。個展が始まるより少し前の時間を指定した。東雲が無事に作品を持ってくるなら、この絵は他の絵とまとめて倉庫に置いておけばいい。青海さんに絵を見てもらう方法はまた別に考えよう。
そう思っていたのは確かだけど、俺はほとんどこの事態の結末を予想していた。
案の定、当日までに東雲は絵を持ってこなかった。やっぱり、という気持ちと、これで俺の絵を見てもらえる、という高揚感のようなものと、あらためて東雲の作品として偽るという事実への恐怖がないまぜになり、俺はどんな顔をしていたのか自分でもわからなかった。
こくこくとギャラリーの開く時間が迫っていた。東雲が慌てて絵を持ってくるかもしれない。宅急便は予定通りに来るだろうか。そんなことを考えては、時間ばかりを気にしていた。もしも何かの歯車がずれていたら、俺の計画は成功しない。それでもいい、そうあってくれ、という気持ちもあったし、同じくらいにこのチャンスを逃したくないとも思っていた。
どっちつかずの気持ちのまま、東雲の個展が開始される、という時間になる。メインの絵を飾る壁は空白のままで、宅急便もまだ来ない。結局俺の計画は達成できないのだろうと思った。果たしてこれは、賭けに勝ったのか負けたのか。思っていると、ギャラリーの裏口に宅急便がやってきて心臓が跳ねた。
いつもの顔で受け取った俺は、梱包や宛名の字から、俺が送った自分の絵であることを確認する。
俺の絵が届いた。東雲の絵はない。この事実が意味することは、一つだけだ。もうすぐギャラリーは開くだろう。東雲が絵を持ってこないのはほぼ確定だ。今なら俺の絵を出せる。俺の名前じゃなくても、俺の絵を見てもらえる。
飛び出しそうな心臓を抱えながら、俺は青海さんのもとへ向かった。もう戻れないとわかっている。東雲の名前を騙って別人の作品を出すなんて、許されるはずのない行為だ。わかっていても、俺は俺の絵を諦めるためにこうするしかなかった。
絵を描いていたかった。だけど、俺はそうやって生きていくことを許されはしなかった。俺の絵は誰にも評価されなかったし、環境も境遇も俺が絵を描くことを認めなかった。周囲の人間は、俺が絵の道を進むことを断念すればほっとしたように笑っていた。俺は絵を描いて生きてはいけない。わかっていたから、諦めるための手段が必要だ。それがこれだった。
集まっているお客さんへ、説明をしようとしている青海さんのもとへ駆け寄る。喉がからからに乾いて、上手く声が出せているのかわからない。いつも通りの顔をしているだろうか。声は震えていないだろうか。思いながら、俺は東雲の絵が到着したと告げた。もう戻れない。終わりに向かうための一歩だ。
梱包をといた絵を、空白だった壁に飾った。俺の部屋の一室に置いていたときとは見違えるような姿で、せめて最後にここへ飾ることができてよかったな、と思う。それから俺は、斜め前に立つ青海さんへ視線を向けた。
東雲の新作だと信じて疑っていないだろう。真っ直ぐと注がれる視線の先には、俺の絵がある。青い空を背景に描かれる、想像の風景画。明るい空へと羽ばたいていくのは、無数の白い鳥たち。一筆ずつ、丹念に、俺の持てる全ての力を注いで描き上げた。
青海さんは目の前の絵をじっと見つめる。心臓の音がうるさい。さっきまでとは少し違う理由で、鼓動が跳ねまわる。俺は動揺を悟られないよう、眉根をぎゅっと寄せて唇を結ぶ。
「いいね」
青海さんの唇からこぼれた声。やわらかで、明るい響きをしていた。弾んだ心を形にしたような、何かとても大事な言葉を口にするような声だった。握った拳に力を込める。そっと青海さんの表情をうかがった。
青海さんは、唇に小さな笑みを浮かべて絵を見つめていた。澄んだ緑色の目で、俺の絵を真っ直ぐ見ている。他の誰でもない、俺が描いた絵を。
その瞳に宿る色があんまりきれいで、あんまりやさしくて、俺はただ握った拳に力を入れるしかできなかった。そうしなければ、立っていられないような気がした。だって、何だかとても愛おしそうに、この上もなく大切なものを見つめるような、そんなまなざしを俺の絵に向けていてくれるから。
やわらかく抱きしめるような。大切な誰かをそっと包み込んでいようとするような。何かとても美しいものを守ろうとするような。あふれる愛おしさが形になったみたいな。そんな表情に、もういいか、と思った。
青海さんが、心の底から俺の絵を「いいね」と思ってくれたことはわかっていた。青海さんという人が、お世辞やごまかしを言う人ではないと知っていたこともある。いつだって真剣に、目の前の絵と向き合ってくれる人だと、今までの経験が教えていたこともある。
何よりも、俺の絵を見つめる表情が嬉しそうだった。心からの喜びをたたえた顔をしていた。宝物を見つめるみたいな目をしていた。青海さんは、心の全てで俺の絵を受け取ってくれたのだと確信するには充分だった。
だからもういいか、と思ったのだ。
本当に、心の底からこの絵を認めてくれたのかなら。青海さんにとって価値あるものだと思ってくれたなら。いつだって、真剣に絵と向き合ってくれる人がそう言ってくれるなら。――俺はもう、全てを手放していいじゃないか。
俺は一つ、大きく息を吐き出した。心臓の鼓動はうるさいけど、さっきよりは落ち着きを取り戻したらしい。
俺の絵を見つめる青海さんの姿に、俺は静かに思っていた。これで全部終わりだ。最後の絵は完成した。青海さんに見てもらえた。あんな風にほほえんで、やさしい目で俺の絵を見ていた。俺の絵を価値あるものだと思ってくれた。だから、これで何もかも終わりにしよう。
絵を描くことは諦めるのだ。許されていないのに、願い続けるのは苦しい。手に入らなかった未来を、見続けるのは辛い。絵を描いていたいなんて、叶わない望みを持ち続けるのは、もう終わりだ。俺はこれから、絵を描かない人生を選ぶのだ。願ったことも望んだ未来も、全てを今ここで終わらせるのだ。
◆
「お待たせしてしまってすみません」
声を掛けられて、はっと我に返る。青海さんが電話を終えて戻ってきていた。あの、最後の日を思い出してぼうっとしていた。全てを終わらせたあの日のことを。
あのとき、ここで何もかもが終わったはずなのに、またこうしてこの絵の前に立っているなんて不思議な気持ちだ。だけど、これは後始末なのだから、最後にこれくらいの義務を果たす必要はあるのだろう。
青海さんは、落ち着いた口調で「東雲くんに、高校時代の白戸くんの絵を見せてもらいました」と言う。そこから、東雲の絵といって偽って出品された絵が、俺の作品ではないかと推測した、と続けた。
違います、と言うことはできた。本格的な調査をすれば別だけど、これは単なる青海さんの推理だから、強く否定すればそれでうやむやになると思う。俺じゃありません、知りません、と言えば深く問うことはしないような気がした。だけど。
「――描いたのは、俺です」
少しだけ考えて、俺は素直に答えた。このまま誤魔化すことはできただろう。だけど、ずっと黙ったまま、嘘を吐き続けて過ごすほうが辛いことを、俺は今日までの日々で理解していた。俺は罪を抱えたままで、普段通りに過ごせるほどの強さは持っていなかったらしい。
それに、何よりも、スカイギャラリーを訪れた俺は思ってしまった。この場所で、どんな嘘偽りもなく作品を見つめていた青海さんを前にしたら。あのとき、俺の絵をあんなに大切そうに見つめてくれた青海さんを前にしたら。せめて最後くらい、嘘を吐きたくないなと思った。
だから俺は、一つ深呼吸をしてから言葉を続けた。どうしてこんなことをしたのか。その理由を、きちんと言おうと思ったのだ。
「青海さんに俺の絵を認めてほしかったからです」
告げた俺は、なるべく落ち着いた調子で自分の心を取り出していく。本当は美大に進学したかったこと。断念するしかなかったこと。東雲に対する嫉妬と苛立ち。環境や境遇への不満。青海さんへ思っていたこと。
信用していなかったことを告げるのは気が引けたけど、それすら含めて嘘は吐きたくなかった。だから、青海さんをどう思っていたのかもちゃんと伝えた。そこから、俺の考えが変わっていったことも含めて、俺は言う。青海さんに絵を見てもらいたいと思ったこと。俺の絵をどんな風に評価するのかと思ったこと。認めてもらえるか試したいと思ったこと。
「もし、認めてもらえたら悔いなく絵の道を諦められると思った」
もともと、絵を諦めるつもりだった。青海さんに認めてもらえなくても、この決断は変わらない。ただ、もしも認めてもらえたら、この決意にも意味を与えられるような気がしていたのだ。
事実として、俺はあのときに全てを終わりにしたのだ。もう絵は描いていない。俺は絵を描かない人生を選ぶのだ。
青海さんは、俺の言葉に数秒黙ったあとゆっくり口を開いた。何を言うんだろう。非難の言葉か、それとも断罪されるだろうか。絵を大事にする人だから、他人の名前で絵を出したなんて、許せないかもしれない。
「白戸くんの作品は、きちんと白戸くんの作品として世に出さないといけないよ。ウソは誰の心にも届かない」
俺の予想に反して、青海さんは相変わらずのおだやかな調子で言うから、俺はどんな表情を浮かべればいいかわからない。口汚く罵られるとは思っていなかった。だけど、もっと責められてもおかしくはないと思ったのに。こんな風に、諭すように言うなんて、青海さんはやっぱり青海さんなんだな、と思う。おだやかで、やさしくて、いつだって心に寄り添おうとする。
いっそ感慨深いような気持ちで、目の前の青海さんを見ていた。すると、青海さんは言葉を続けた。だけど、声の響きが違っていた。やわらかで、やさしくて、何かを決意したような、強い声。
「本当の白戸くんの作品を見せてください」
はっきりと告げられた言葉に、俺は目をまたたかせる。本当の俺の絵。何を言ってるんだろう。俺はもう絵を描かないのに。俺は絵を諦めたのに。俺の作品なんて、誰からも望まれていないのに。本当の俺の作品なんて、どうして青海さんが望むのかわからない。
俺の疑問を読み取ったのだろうか。青海さんは、わずかに目を細めると言葉を継ぐ。眼鏡の奥の緑色の瞳をきらきらとまたたかせて。新しい作品に出会ったときのような、子どもみたいな表情で。本当の俺の絵を見せてほしい。どうしてか。
「そしてその作品の力を、白戸くんにも知ってほしい」
俺は思わず、青海さんを見つめた。作品の力を知ってほしい。それは、青海さんがギャラリーとともに受け継いだものであり、矜持であり揺るぎない意志だ。青海さんはいつだって、作品の持つ力を信じている。だからこそ真剣に画家たちと向き合うし、多くの人に作品を届けたいと奔走している。わかっている。知っていた。だけど、それはギャラリーに訪れる人たちの話だ。
あふれるほどの才能を持ち、絵を描く環境も用意されて、周囲の人間からの協力もある。美大に進学して、充分に学ぶこともできる。絵を描くことを許された、描く絵を望まれている人たち。画家になるのだと最初から決まっているような、そんな人たちの作品であれば確かに力を持っているだろう。
だけど、俺は違う。俺の絵は誰にも望まれなかった。環境は俺が絵を描くことを許さなかった。そんな俺が描く絵には、どんな力もあるはずがないし、意味だって持っていない。だから俺は、絵を描くことなんてそもそも望んじゃいけなかった。それなのに、青海さんはどうして、そんなことを。
理解できなくて、呆然としたように青海さんを見つめるしかできない。すると、青海さんがゆっくりとした足取りで俺のほうへ歩いてきた。目の前に立つ。眼鏡の奥の緑色の目が真っ直ぐ俺を見つめていた。きれいだと思った。こんな色をどうしたら出せるだろうか、と上手く回らない頭で思っていた。
青海さんは、揺らがない視線で俺を見て、唇に笑みを浮かべた。おだやかで、やわらかな、いつもの笑みに似てるけど違った。凛として揺るぎない。静かな情熱と、意志の強さを宿した唇で、それと同じ声で青海さんは言った。
「白戸くんの作品には力があります。観る人の心に訴えかける力が」
きっぱりとした、宣誓のような響きだった。同時に指先にあたたかいものが触れて、青海さんが俺の手を握っていることに気づく。いつも大切に作品に触れる指先が、俺の手を包み込む。力強く、何かを掴もうとするみたいに。その強さに混乱しながら、俺は青海さんの言葉を思い返す。
俺の作品には力がある、と青海さんは言う。まるで、ギャラリーを訪れる他の画家たちのように? 誰からも望まれることもない、絵を描くことも許されない俺の絵に?
そんなわけがないと思う。だって、俺の絵は俺だけしか望まなかった。それでもいいとずっと思ってきた。俺だけが望んでいれば、俺の衝動が、俺の意志が全てでいいと思っていた。だけど、誰にも応援もされず、見向きもされず、ただ積み上がっていくだけの作品を前にすれば、いやでもわかる。これから先も絵を描いていきたいと口にした希望がなかったことにされて、断念すれば安堵の表情を浮かべる周囲の人間に、いやでも悟る。俺の絵は、誰にも望まれなかった。俺は絵を描くこと選んじゃいけなかった。俺は絵を描くことを許されていなかったんだ。
そう思っていたのに、青海さんは言う。俺の作品には力があると。まるで、俺の絵に意味があるみたいに。まるで、俺は絵を描いてもいいみたいに。
「境遇も関係なく、それは白戸くん自身の力です」
やさしい声で、青海さんが言った。俺の絵を見つめていたあのまなざしみたいな声だと思った。やわらかく抱きしめるみたいな、大事なものを守ろうとするみたいな、そういう響きで青海さんは言う。誰からも望まれなかった俺の絵を示して、絵を描くことを歓迎もされなかった俺に向かって。何かとても大事なものを告げるように。
「だから、作り続けてください」
そう言うと、青海さんはそっと手を離した。触れていた熱が遠ざかる。名残惜しいような気持ちになりながら、俺は青海さんの言葉を繰り返す。
作り続けてください。青海さんはそう言った。それが意味するものは、絵を諦めると言った俺に作り続けてください、と告げる言葉の意味は。
青海さんの、やさしくて強い声がこだまするような気がした。青海さんは言うのだ。諦めるのではなく、これからも、絵を描き続けてください、と。
これは青海さんの心からの言葉だとわかっていた。だって今まで、青海さんを見てきたのだ。いつだって真剣に作品と向き合う人だから、俺の絵を前にしたって心の全てを傾けてくれた。その上で告げる言葉は、同じくらいに心からのものだとわかっていた。どれほど真摯に、真っ直ぐと、誠実であろうとしていたか。わかっているから、疑い一つなかった。青海さんは心から言っている。嘘でも偽りでもお世辞でも誤魔化しでもなく。
俺が絵を描き続けることを望んでいる。
その事実を飲み込むのと同時に、心臓が大きく跳ねた。だってそれは、その言葉は。さっき青海さんがくれた言葉を思い出す。俺の絵には力があると言ってくれた。それは間違いなく俺自身の力だと。
誰からも望まれなかった。俺は絵を描くことを選んじゃいけなかったんだと思った。だけど、もしも俺の絵にも確かな力があるなら。俺自身の持つ力で、観る人の心に訴えかけることできなら。それなら、俺が絵を描くことに意味はあるだろうか。俺は絵を描いてもいいのだろうか。
「美大に進まなくても、画家になる道はあります」
黙り込んだ俺に向かって、青海さんが言う。弾かれたように顔を上げた俺は、絵のそばにたたずむ青海さんを見つめた。青海さんは俺の絵の隣に立っている。全ての力を込めて描き上げた。何もかもを終わりにするための、最後の一枚。絵を描いて生きていく俺を終わりにするための絵。
その隣に立つ青海さんは、真っ直ぐと俺を見つめて言った。やさしくて、やわらかで、おだやかで。奥底に、強い響きと確かな熱を携えて。
「僕はその手伝いがしたい。そのためにこの仕事をしています」
告げられた言葉が、青海さんの矜持で揺るぎない信念だと知っている。ギャラリーと共に受け継いだもので、青海さんが大事にしてきた。それが真っ直ぐと俺に向かっているのだと理解していた。
青海さんは、笑顔を浮かべて俺を見ていた。緑色の目を細めて、きらきらと嬉しそうに。確かな決意を抱えて、力強く。言葉ではなくその瞳が何よりも言うのだ。画家になるための道はある。その道を俺が歩くと言ったなら、青海さんは力の全てでサポートするのだと。
俺は何一つ、その言葉を疑わない。いつだって、真っ直ぐ作品と向き合って、画家のためにと奔走する。心の全てで寄り添って、揺るぎない信念を胸に歩いていく。青海七海はそういう人だ。今までずっと、近くで見てきたからこそわかっている。
「青海さん……ありがとうございます」
つぶやきとともに、体の力が抜けて膝をついた。視界がにじむ。だって、それは、その言葉は。
青海さんは、当たり前みたいに画家への道があると示した。俺がそれを選ぶのは自然なことだという口調で。青海さんは、俺が絵を描く人間だと疑っていない。その事実が、胸に迫ってどうしようもなかった。
この人にとって俺は当たり前に絵を描く存在で、これから先も絵を描く人間でいいのだと思い知る。その事実を噛みしめる俺の胸は、どうしようもなく震えた。だってずっと、望まれないと思ってきた。俺が絵を描くことは、誰からも許されないんだと思っていた。だけど、青海さんは当たり前のように言う。当たり前みたいに信じた。俺の絵には力があると、俺には画家になる道があるのだと、真っ直ぐと伝えてくれた。それは俺にとって、たった一つの事実を告げる。
俺は、絵を描いていいのだ。俺は、これから先も絵を描いていい。望んだ未来に手を伸ばしていい。願いを叶えていい。俺は、絵を描いて生きていてもいいのだ。
視線を上げる。俺の描いた絵と、その隣に立つ青海さんを目に映す。にじんだ視界には、描いた絵の青が広がって青海さんを包んでいるような気がした。それを見つめる俺は、俺が描いた無数の鳥たちが、空へ羽ばたいていく音を聞いた。